賢治2

高瀬露さん(1)ー宮沢賢治に恋した女性


37年の人生を独身で過ごし、女性関係では浮いた話もほとんどなかった宮沢賢治さんですが。精神的な意味での恋愛は幾つか体験しています。その中の一つ。これは、賢治さんにぞっこんに恋した女性のお話です。

賢治、30歳の決断

賢治さんは大学卒業後、家業見習い、家出などを経て(笑)、今でいう農業高校の教師に就きました。やがてそこも数年で退職。30歳で一人暮らしを始めます。そして自分でも農業をし、自給自足の生活に入りました。農家の子供である生徒たちを通し、農家の苦労を目の当たりにしたことがその理由です。また、自分では生徒たちに「学校を卒業したら農業を頑張りなさい」と教えながら教師という安定した職に就いている事への疑問もあったようです。
そんな葛藤を経て、高校教師という当時としては相当なエリート職を捨てて農家の生活向上に人生をささげる決意をしたのです。
自給自足の生活をしながら、農民を中心に結成した楽団や劇団を作り、農村の生活を豊かにしようと考えました。また、周囲の農家の肥料相談に無料で乗るなどの活動を始めます。

その「農民を中心に結成した楽団」のメンバーの一人が高瀬露さんという女性でした。小学校教師をしていた女性で、賢治さんの5歳下。講習会で面識が出来たそうです。その後、賢治さんとその親友の音楽教師が定期的に主催していた、音楽鑑賞会の常連にもなったそうです。賢治さんはクラシック音楽のファンで、レコードマニアでもありました。芸術方面への理解と関心も非常に高かったようです。

(下の写真はイメージ。実際には賢治自身は畑は耕しても、稲作はしていません。しかし、稲作の肥料指導には大きな力を入れています。)

初めは良い「仲間」だったけれど・・・

この露さん、初めは賢治さんも非常に大きな好感をもって「仲間」として迎え入れます。周囲にしっかりした人だと話し、農民劇団のメンバーにしようかとも思ったようです。

賢治さん側からすれば、それは仲間意識でしかなかったのでしょう。長年禁欲生活をしてきた賢治さんからみたら、結婚適齢期の女性の心情は推し量れなかったようです。露さん、この時期20代半ば。結婚適齢期でした。
男性の一人暮らしの賢治さん、家事にはなかなか手が回りません。農業・肥料設計のボランティア・そして家事・・・何かと不自由な日々を見かねて露さんは家事などを手伝うようになってゆきます。同性としては、妙齢の女性が男性の身の回りの世話をしだしたら、そりゃもう、恋心が燃え上がるのは当然だと思いますけれど(笑)天才の誉れ高い宮沢賢治も、どうやら女性心理に限っては疎かったようですね。

(写真は賢治さんが一人暮らしをしていた家。祖父が立てた実家の別邸でした。明治時代に建てられてニ階建てなのですから、宮沢家がどれだけ資産家だったかが伺えます。)

支えたい女性と一人を選んだ男性・・・そして「嘘」

露さんがいつごろから賢治さんに恋愛感情を抱いたかは不明です。賢治さんが独居生活を始める前からだったのか、気を利かせて身の回りの世話をしているうちに、恋心が燃え上がったのか。ともかく、家事などをやっているうちに少しずつ露さんの想いはエスカレートしてゆき、そしてそれは賢治さんをためらわせていったようです。

露さんからしてみれば、想い人は、農民のためにボランティア活動を始めた高い志を持つ男性。そして自分には小学校教師という安定した職がある。
となれば、「私がこの人を支えてあげたい」となったのではないかと。私が賢治さんの友人なら、もう嫁に貰っちゃえよって言いますけどね(笑)

もともとこの時期の賢治さんは独身主義でもありました。また、一人暮らしの男の家に女性が頻繁に通うとなるとどんな噂が立つかすぐに想像がつきます。頭の良い賢治さんの事ですから、噂というのは一度立つとどんどんと独り歩きしてゆく事を理解していました。そこを危惧してもいたようです。写真にある通り、広い家での一人暮らしでした。そしてそこには近隣の農業青年や賢治さんを慕う人が頻繁に出入りしていました。賢治さんとしては、出来る限り二人きりにならないよう、だんだんと気を付けるようになったそうです。

宮沢賢治がついた「嘘」

この時期、賢治さんは思いあまって露さんにある嘘をついたという証言があります。それは『自分はレプラだ』というもの。レプラとは、現代で言うハンゼン病やらい病と呼ばれるもの。この病気は感染性のものですが、当時は遺伝的要因が強いと誤解されていました。この病気は潜伏期間は長いけれど、発病するとだんだんと体がマヒしてゆきます。おまけに皮膚がただれたようになり人相も変化する怖い病気。当時は治療薬もなく、発病した人は社会から忌み嫌われる存在でした。しかし賢治さん、凄い嘘をつくな。最も、このころは「女性から好意を示されたら、レプラだと言えば逃げてゆく」と周囲に話していたそうです。聖人みたいに言われることの多い宮沢賢治にも、こういう面があったんですね(笑)

一途な想いに生きた女性

この露さんという女性、本当に一途な恋をする方だったようです。このレプラという嘘を聞いて、逆に「この人を看取るのは私しかいない」と。想いを深めたのだとか。いい女ですよね。賢治さん、何で振ったんだろ。個人的には、こういう自立した女性と一緒になれば、賢治さんの理想の農村活動は遣りやすかったかと思います。でも、根は詩人だった賢治さん。こういう現実的なしっかり者よりも、もっと儚げな女性が好みだったようです。(この辺りは、のちに述べますが)レプラという嘘も通じない露さんは、賢治さんにだんだんと冷たい態度をとられるようになってゆきます。自分が愛されないと悟った露さんは、賢治さんの前から一時消えたようです。しかしその数年後、また賢治さんに手紙を出しました。どうもその時期に縁談が持ち上がったようです。賢治さんの返事の下書きが残っていますが。そこには露さんが「好きな人と結婚出来ないのなら、一生独身でいようかと思う」と考えていた事が伺えます。

(写真は賢治さんが一人で暮らした家の一階部分。ここで農民音楽会や肥料勉強会などをしていたのだそうです。露さんも、交じっていた事でしょう。)

大正から昭和初期という時代の空気の中で・・・

自由恋愛の価値観になれている私などの目から見ると、この露さんは一途に恋する素敵な女性だと思いますが。当時は男女が二人きりでいてもあらぬ噂が流れるようでした。結婚もお見合いが普通で、それこそ結婚式当日に初めて相手にお会いするというケースも珍しくなかったようです。そういう意味では、露さんは「新しい価値観」に生きた女性でもあったように思います。

もっともそういう賢治さんだって、露さんからの想いを拒絶した一年半後に出会った女性に想いを抱き、その後数年に渡って思い続けたのですから似た者同士だった気もしますが(笑)。繰り返しますが、単に賢治さんの好みではなかったのでしょう。あともう一つ、やっぱり男は追いかけたり尽したりしてはいけないな、と。それは現代でも変わりませんね(笑)『恋愛において、男はハンターだ』というのはかの宮沢賢治も同じだったともいえるかもしれません。

賢治さんに向けられた悲しい『嫉妬』

頑なに露さんを受け入れなかった賢治さん。その一つには、賢治さんのこの農業活動が一部の農民から「金持ちのお坊ちゃんの道楽だ」と悪意を持って取られていた事があげられるかと思います。賢治さんとしては、一番助けたい人達にそういう目で見られているのは苦しかった事でしょう。そこに、女性が出入りしてしまったらさらに「ほら、結局女連れ込んでいるよ」と言われかねません。好みでなかった、独身主義だったという理由のほかに、そういった問題もあった気もしています。上記の写真を見ても分かる通り、一人暮らししようと思えば家賃無しで大きな家に住める。当時は高級品だったリヤカーを買える。自力で荒地を開墾したとはいえ、それは実家名義の土地で、当時農民たちを苦しめていた小作料も必要ない・・・善意での行動とはいえ嫉妬を向けられるだけの要素があったのですね。悲しい話ですが。

次回は、この露さんがモデルだと言われる詩を検証してみようと思います。


参考文献 ・宮沢賢治の肖像(森荘己池・津軽書房) ・宮沢賢治の愛(境忠一・主婦の友社) ・校本宮沢賢治全集13巻、14巻(筑摩書房) ・検証 ハンセン病史・熊本日日新聞社編) ・文豪の家(高橋敏夫・田村恵子・エスクナレッジ)



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