やあやあ我こそは多作家(駄作家)ここにあり

縁があって文章を書くことになりました。そしてここでは、自分の音楽活動について説明をしたいと思います。以降、読みやすさを優先して「ですます調」を止めるのでご容赦頂きたい。(エッヘン!)

なぜ音楽を作るのか?それはやりたいから、である。勿論、やらなくても死なない。この点、切実な事情を抱える方には申し訳ないが、敢えてはっきり言えば、である。(でも多くの人にとってそうだと思う。)

そして、やらないといけないと思うから、である。こちらの方がより正確な表現かも知れない。それはなぜか。やらないと後悔するから、そしてその後悔をしたくないからである。

恥ずかしながら、なんとなく生を受けて、なんとなく学校に行って、なんとなく就職して、なんとなく生活してきた。学生のときには音楽で生活できたらと漠然と思っていた。

でも、漠然、とである。実際そう思っても「将来の夢」を聞かれても「ミュージシャン」と答えたことはない。要はそれくらいの甘い、また淡い気持ちだったのだ。

そんな自分がなぜ今音楽をまたやっているか、についてはまた別の場所で記すとして、昔の自分から比べたら「音楽をやっています」と言えるのは自分として評価できる点である。

それはなぜか。上手くなったから、ではない。ある意味で、覚悟ができたから、である。恥をかこうが、見苦しかろうが、自分として今やらなければ後悔するからやっている。

かつて言えなかったのは、そのための努力もしていないことに対する引け目もあったし、何よりも馬鹿にされるのが怖かったのだと思う。「オマエごときが何言ってんの?」と言われるに決まっているからだ。

恐らく自分という箱を開けるのが怖かったのだろうとも思う。自分に向き合った挙句「自分には才能がない」と知ったらさぞ絶望するだろう。しかし今はそうは思わないのだ。

自分という箱に何も入っていなかったとして、だからと言ってそれを開けない、というのはあまりにも覚悟がなさすぎる。そのままでは、あまりにも勿体無いとは言えまいか。

(余談だが、これは非常に良くありがちな話だ。仮に半々の確率で入っている/入っていない、として、あなたは開けるだろうか?それとも「入っている可能性」のままにしておくだろうか?)

そしてそもそも「自分という箱が空っぽなんてことはない」と確信したからだ。幼稚な頃は、つい「才能がある」「才能がない」という二元論で捉えたがる。でも、私に限らずそんなことがあるはずはないのだ。

だから、自分という箱を開ける覚悟をしたのだ。「実は才能がまるでなかった」なんてことはあり得ず、そんな確定したものであるはずがないからである。

自分の未来は自分が作るものである。未来を見るのを恐れて、何もしないでこそこそと、ひっそりと、終わりを迎えるのは勿体ないと思ったのだ。(ただしそういう人を否定はしない。)

評論家を気取りたくなる気持ちは分かる。自分は参画せず、行く末についてあれこれ自由に予測だけしていれば、気楽だし良いだろう。ただし予測とは未知の成長の可能性を基にし得るものではない。

可能性を知らないと勿体ないと思うのだ。これも「可能性がある」「可能性がない」の二元論ではない。自分の可能性を追求もせずに終わるのは、箱を開けないのと一緒だ。

仮に私がこの世から去るときまでに音楽で生計を立てられることを実現できなかったからと言って、私の人生が失敗だったとは思わない。

少なくとも私が生きている間に自分の可能性を追求したと胸を張って言える限り、そもそも失敗であるわけがないのだ。

一番後悔するだろうことがあるとしたら、それは体面を気にして、失敗を恐れて、その他言い訳はいくらでもあるが、やりもしなかったこと。

そして、それを世に問うこともしなかったこと。世に問う、も色々ある。しかし、今の世の中、会ったこともない人が感想をくれるなんて本当に有難い。

私は多作家ゆえ駄作をどんどん作るから、垂れ流しを正当化しているように聞こえるかも知れないけど、自分の可能性を底の底まで追求しつくさずに死んでたまるか、って思ってる。

自分が生を与えてもらったこの世で生まれてきた理由や役割に到達できないかも知れないけど最善は尽くしたい。

自分では音楽ではないかという気がしている。実際にはそうでないのかも知れない。いや、そこに正解なんてあるわけがない。

でも自分でそんな気がするのに、なにもせずに終わるなんてとてもできない。ご飯を食べて寝て起きて適当に暇つぶししてそこそこ楽しく暮らせる有難い世の中だけど。

そして、今日の自分が自分の最大のポテンシャルだとは思わない。そうであるはずがない。やることやっていれば明日はもっと理想の自分になっている。

自分が生きている間にまだ可能性があるはずだと思うから、その可能性を最後に後悔しないように追及するし何とバカにされても気にしない。

週に1曲はできてしまうし、大して作りこむことなくそれを平気で出すけど、未熟なので当然仕方ない。ただ自分としてはどんどん上手くなっている実感はある。自分だけの実感なのも理解している。

無理やり作ってはいない。そう感じたら少し休もうと思っている。(実際曲自体は仕上げていないものも含めればもっと作っている)無理やり作っていないのにできるのは自分の可能性だと思っている。

勿論そうやってできた曲を聴いて楽しんで頂ければ、そしてその人数が多ければ、と願う。

ただ、今日作った曲をもっと聴いてもらうことを頑張るより(勿論やれることはやる)明日もっと聴いてもらえる曲を作れるのではないかという根拠のない可能性を無謀にも感じているのだ。

明日もっといい曲を作れる自分になるには、今日曲を作って仕上げる、ことの先にあるはずと思うのだ。(明日自分が見えている世界が、既に今日全て見えるのなら話は別だが。)

過去となった昨日をいつまでも悔やまない。まだ終わってもいない今日を絶望しない。そして自分が変えることのできる自分の明日は自分で作る。人に何と言われても、そのためのことをやるだけだ。

多作家(駄作家)、ここにあり。

#創作檄文

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