歩道橋。タイムカプセルの中の隠し部屋
出身の小学校の校庭に久しぶりに入ってみたら、想像よりもずうっと小さかった。子供と一緒に歩いている時、花に止まる虫によく気が付くのは子供の方。そういった現象は多くの人が感じたことがあるものだと思う。
これは、子供の身体・視点と大人のそれが異なることにより生まれるギャップである。こういった空間的広がり、及び地形や街並みなどの捉え方がその人の状態に大きく依存することに名前がついていて、これを「感覚地理」というらしい。教職の授業で習った言葉であるが、先ほど「感覚地理」で軽く検索をかけてみたものの、それらしき言葉はヒットしなかった。ちょっと用語として不安があるが、ひとまず今回はこの言葉を使おうと思う。
「歩道橋はいいですよ!東京はビルのせいで空が狭いけど、歩道橋にのぼれば空が広くなるんです!建物よりも上を目指せばいいんですよ!」
都会は空が狭いと嘆いていた時、こんな助言を貰った。なるほど、たしかに。建物よりも上に行けば、自分より高い建物はなくなって空が広くなる。
本当に至極当たり前のことなのだが、これは僕にとって結構な衝撃だった。
今までは「視界が開けたところ、障害物がないところ」へ向かい続けていた。それは例えば田園風景であり、山の中の湖であり、湘南の海である。
都会は障害物ばかりなのだから、言われてみるまでその中で空を見ようなどと考えたことはなかったのである。
加えて歩道橋。そもそも地元にはない。仮にあったとしても、敢えて階段を登らなくても別の箇所に横断歩道がある。仮に登ったとしても、そこから見える景色などに注意を向けることはしなかったと思う。何気ない交通手段の一つに過ぎないのだから。
だから、今まで意識をしたことがなかった。僕の意識は、生まれてから今まで、道路の上を歩き続けていた。
だから、この助言を受けてからは、頭の片隅で「どこかで歩道橋に登ろう」と思いながら生きていたわけだ。
そうしてチャンスがやってきた。今日は天気が良かった。実家から最寄り駅まで1時間ほどのんびり歩いて、1時間おきに来る電車を乗り継いで、のんびりとした旅をしようと思ったのである。
田舎町というのはタイムカプセルだと思う。
1年たっても、5年たっても、10年たっても、景色に変化はほとんどない。どれだけ世界が進化しようと、どれだけ情勢が変わろうと、どれだけ人々がバーチャル世界に行こうと、田舎町というのは本当に変化しない。タイムカプセルに閉じ込められ続けているのではないかと思うくらい。コンビニが1件立つだけで、仲間たちの中ではちょっとした事件になるくらいだ。
だから、普段歩く道というのは、記憶の中に完全に保存されている。歩き慣れた道。自転車で何度も通った道。車で何度も通った道。物心ついた時からほとんど変わらない道。だから、僕が知らない場所など無いはずだ。
だから駅の手前数百メートルにあるちょっと広い道。そこに自転車のスロープもついていないような、古びた歩道橋が一つあることも当然知っていた。
自転車で通るときは横断歩道が1個減ったようなもの。こんなところに大きな歩道橋なんて作らなくても、道路に白黒の縞々模様をちょちょっと引けば済むことじゃないか。そう思いながら、自転車で通るのを避けていた交差点。
普段だったら当然素通り。だけど、今日の僕はちょっと違った。建物が地平線になる感覚を楽しんでみたくて、ちょっとだけ遠回りをして、歩道橋に登ってみた。
直後の感想は
「あれ?」
の一言だった。
僕が知らない場所だった。
「こんなところに電線あった?」
「こんなにいっぱい街灯あった?」
「この道こんなに長かった?」
「屋根の高さってこんなに揃ってるの?」
「家の向こうに山が見えるの?」
挙げてみればきりがない。まっすぐに伸びた道の交通量を全部見渡せるし、どの建物にも遮られずに太陽はこっちを向いてるし、電線が思ったよりも多くあったし。
周りに誰もいなかったから、ぽそりと「知らない場所だ......」とつぶやいてしまった。幼いころから20年間ずーーーっと見てきた場所だからこそ、その見え方の違いに驚愕した。
狭い狭いタイムカプセルの中を歩き続けていたら、思いもよらぬところに隠し部屋があった。そんな気持ちである。
これも感覚地理というものであろう。小さいころと比べ、背が伸びた。そのために校庭が狭くなり、背の低い植物が見えにくくなった。そのことと何ら変わらない。
何も考えずに道路の上を歩いているのなら、僕たちはまだまだ子供なのかもしれない。
バカと煙は高いところを好むとは言うが、こういうバカなら悪くないな。
そんなことを思いながら僕は歩道橋を降り、駅へと向かった。
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