8/29日記

夕方に

 lowpopltd.が、もうほとんど聴けなくなったことが今更苦しくてどうしようもない。lowpopltd. が、あたしの一番間近にある死の実感。
 たくさんの音楽が途絶えたけれど、もう触れられないと心の底から思うのはこの人の曲だけかもしれない。
 ブログはもう読めない。新しい曲はもう聴けない。昔の曲もリンク切れで聴けない。CDも出ていないからあとはbandcampだけ。いつのまにか全てのジャケが消えていた。
 繰り返し同じ曲を聴いて、口づさんで、写して、なぞり続ける。死んだものは、過去も未来も可能性がなくなるのだから、新しい曲や未発表の曲を聴きたいとどうしても願ってしまうけど、もう出来得ないだけ。自分に言い聞かせ続ける作業のやるせなさを、だれかは泣いたり言葉で納得させたりしながら実感しているのかもしれない。弔いのない終わりはあまりにも静かで空しい。
 聴くほどに、こんなに美しい歌詞の続き、アルバムの中身を一生見ることができないと実感する。呼吸がつまる。苦しいまま、聴き続ける。孤独に喘いで、ほんの一部のデータに縋って、聴き続ける。この曲がまた聴けなくなったら寂しい。だから聴き続ける。残さない。残す気はないのだろうから。あたしだけの寂しさを背負う。あたしの感じる喪失に、失くしたもの自体はもはや関係しない、だから一人で聴き続ける、歌い続ける、思い出し続ける。

夜に

 生活のどこを切り取って、感情のどこを切り取ってことばにすればいいのだろう。いつも話したりなくて携帯に打ち込んでいたのに、いつのまにか世界は均一になってしまった。
 セミが鳴いている。言葉を選ぶときに、クリシェの癖やひとの言葉選びにつまずいて、打ち込む手が止まる。さいきんの、吃音っぽい喉のつっかえに似ている。話したいことがままならない。他人にかけるはずだったものを飲み込んで、それが文章になるはずだった。つたなくて信じ切っていたあたしだけの完全。感情をそこに閉じ込めていれば特別になれた。いつかちいさな檻は壊され、わたしは世界を少しだけ知り、そして打ちのめされた。わたしはもう自分ですら満足させることができない。
 言葉になるまえに思考はただの砂埃になって、目の前の視界を搔き消していく、直前に話したこともそばにいる人の表情も一緒にみる景色も全部。だから写真を撮ることが多くなった。わたしの覚えられないことを代わりに写真が記録する。外では携帯を、音楽を聴くときと地図や時計を見る時ぐらいしか開かなかったから、新鮮にたのしい。ダンスを習うようになって、自信がなくて恥ずかしくなって何度もやめようと思ったけれど、音楽を流しながら目を閉じておどるのだってたのしい。
 ダンサーと飲みながら話していて、たくさんたくさん傷ついているのだな、という当たり前のことに安心してしまった。わたしの先生はうつくしく気高くて、そして立ち止まった。傷つき怒り、愛されて祝福されている。やさしい声で近況をはなしてくれて、わたしが救われていた。
 職場の亡くなった元同僚を思い出す。数回しか顔を合わせていない、でも酒とコーヒーが好きなのは知ってる。じっと見つめる癖のあった、不器用で熱心な男の子。たぶん自分から飛び降りたのだろうと。いわれただけ。お母さんが店まできて話してくれた。
 踏切の轟音が鳴っている。電車に途切れる顔に目を凝らす。でも、わたしは取り残される。もう行ってしまうひとたちに。踏切の向こうをしるひとはきっとひとりきりなのだろう。わたしもきっと誰かの踏切の反対側にいる。

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