リアリティの幻想
(※はじめに、この文章に特定の制作者や視聴者を攻撃する意図はなく、あくまでも報道を受けての、自戒を込めた個人的な見解と主張です。)
世の中には、恋愛リアリティショー(以下、恋リア)というエンタメに没入できる人と、そうでない人がいる。
私は昔から圧倒的後者だったので、いつも自分ごとのように恋リアで盛り上がれる人たちの感受性を羨ましいと思ったし、そうさせる演出サイドの手腕もすごいものだと思っていた。
しかし今回の一件を経て、何かに没入する・させるということは、度を超えて介入する・させる危険性をも秘めているのだと知った。
恋リアに没入できる人とできない人との境界線のひとつに、「リアリティ」という言葉の捉え方があると思う。
本来リアリティとは、あくまでも「リアルっぽい」もののことであって、決して「リアル」ではない。だから「リアリティショー」と言っている時点で、それは演出され作り上げられた世界であり、現実とは全くの別物である。
恋リアに没入しない人間は、このリアリティの大前提をわきまえ、あくまでもフィクションのショーとして見ている類の人たちなのだと思う。その上で面白がれるか、面白がれないかはそれぞれの好みの問題だ。
しかし恋リアに没入する人たちの多くは、このリアリティという言葉を、もうほとんどリアルと同義で捉えているのではないだろうか。決してそれが悪いということではなく、演出サイドも「台本はない」「家と車だけ」とリアル推しをしているのだから、とても素直で健全な視聴者の在り方だと思う。
でも本当は、選ばれた人たちがカメラの前で不特定多数の人にモニタリングされている時点でそれがリアルなわけはなく、ショーの外では絶対にリアリティとは全く別の、1人のリアルな人間が、生活が、人生がある。
そんなこと誰だって少し考えればわかるはずなのに、なぜかそれをひとたび忘れ没頭させてしまう引力のようなものが、「リアリティ」にはあると思う。本当はドラマや映画で役者が別の人格を演じていることと大差ないのに、「リアリティ」という仮面をかぶっているだけでそれが見えにくくなってしまう。いじめっ子を演じる役者には「あんなこと言っちゃダメだ」なんて言わない人も、恋リアのメンバーには「あの発言は良くなかった」とショーの延長線上で言ってしまう。
もちろん「これはリアリティであってリアルではありません」なんてスタンスを番組が提示したら、タネだらけのマジックだと言っているようなもので、恋リアの面白みがなくなる。しかしあまりにもリアルを装い平然と振る舞うのも、危険な手口である。リアリティという言葉は思いの外リアルと混ざりやすく、時にその混沌は人の命をも奪う。
このリアリティに関する問題は、恋リアに限った話ではない。例えばノンフィクションのドラマや映画、タレントの素顔をうつしたバラエティ、人物や事件を追うドキュメンタリー。人は「事実をもとにしている」「演出はない」「密着取材」などといったリアリティに惹かれやすく、ハマりやすい。いつだって「本当のことが知りたい」という欲望を心のどこかに秘めている。その欲望を満たすのが、あらゆるエンタメで重宝されるリアリティという概念だ。
映画を作っていても、ドラマに出演していても、「リアルだとこうだ」「もっとこうした方がリアルだ」などと、リアリティの追求は止まない。これは恋リアが本当の恋愛を装い演出されているのと、同じことだと思う。現実から一旦距離を置き、仮想現実で人々の感情を動かすのがエンタメの役割なのだから、現実らしきものを追求するのは当然のことである。それに対して「ヤラセをするな」「視聴者を騙すな」などと言うのは見当違いな話だ。
では、リアリティが追求されて然るべきエンタメの世界で、リアリティとどう向き合い、扱っていくべきなのか。
まずは作り手側が、エンタメにおいてリアリティを追求することの危険性を自覚することだと思う。これは恋リア番組を打ち切りにして解決するような話ではなく、ドラマにも映画にもバラエティにもドキュメンタリーにも、あらゆるエンタメに言えることだ。リアリティは面白い。リアリティは人を惹きつける。だからリアリティをもっと追求したい。しかしそれによって何か弊害があるならば、そこのケアまで怠らないことだ。私もいち作り手として、肝に銘じなければならない。
そしてもうひとつなくてはならないのが、見る側のリテラシーである。何度でも言うが、リアリティとはリアルらしきものでありリアルではない。恋リアもノンフィクションもドキュメンタリーも、全て作られた世界であり、嘘や演出があって当然である。リアリティを楽しむ・楽しまないは視聴者の自由だが、この前提だけは共通して認識しておくべきだと思う。リアリティとリアルを切り離して認識し、あくまでも娯楽の範疇で楽しむこと。動画配信やSNSで、よりリアル思考の高まる現代において、一人一人がこのスキルを持つことは必須である。
リアリティの幻想は、作り手と視聴者の共犯関係によって膨らんでいくものだ。どちらか一方が慎んだところで根本はなにも解決しない。娯楽として楽しむのも、肥大化して暴走するのも、こちらとあちら双方の努力次第だ。
最後に、今回の件で断たれたかけがえのないたったひとつの命に対して、心からお悔やみ申し上げます。
大切な人たちがいざという時に頼れるような優しい人になりたいと、私は切に願います。
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