それでも地方は変わり続ける

優等生に祀り上げられた篠山市

 NEWSポストセブンに寄稿した”平成終了とともに改名 大合併の優等生だった篠山市の事情”では、1999年に誕生した兵庫県篠山市の軌跡をたどった。

 平成の市町村合併は、3000以上もの市町村が約1700にまで集約された。平成の大合併は、2000年前後に市町村関係者から”大義なき市町村合併”などと言われていたが、政府・総務省にしてみれば大成功だった。それもこれも、アメとムチを使い、上からの押しつけを強行させたからにほかならない。

 明治の大合併も昭和の大合併も、上からの押しつけによって合併が進められた。平成の市町村合併では、旧自治省は「あくまでも合併は、市町村の自主性に委ねる」としながらも、矢継ぎ早に合併したらお得な特典、合併しなかったら損をするという条件を提示していった。それが、結果として奏功した。

 合併したらお得な特典――それは、地方交付税の10年間維持というものがある。小泉純一郎総理大臣が構造改革が全面的に打ち出すと、地方交付税は悪しき旧習として削減対象の槍玉になった。税収の少ない地方の市町村にとって、地方交付税は命綱そのもの。ここを死守しければ、行政経営はできない。

 政府・総務省が触れた「合併した市町村は、地方交付税を10年間維持する」という言葉を裏返せば、「合併しない市町村は、地方交付税を削減する」ということでもある。政府や総務省からしてみれば、「『地方交付税を削減する』とは言っていない」と強弁しそうだが、そこは空気を読め、言葉の裏を勘ぐれ、忖度しろということだろう。

 地方交付税の削減をちらつかされて、自主財源に乏しい地方の市町村は次々と軍門に下った。なかには、福島県矢祭町のように最後まで抵抗した市町村はある。しかし、多くの市町村は抵抗を試みたものの、合併特例債の発行や在任特例といった優遇策をこれでもかと繰り出されて、懐柔された。

 そして、きわめつけが兵庫県篠山市の誕生だった。篠山市は1999年に周辺4町が合併して誕生。4町の中心的な自治体だった篠山町をそのまま新市名とした。篠山は江戸時代から城下町としてにぎわい、遊女・阿部定も篠山の遊郭にいたという歴史がある。それだけに、篠山は観光地としても知られ、ブランド力のある名前だった。

 市町村合併というと、どうしてもA市とB町、もしくはA市とB市といったように2つの自治体間のような話と思われがちだが、5町村6町村による合併なんてのもザラにある。政府・総務省としては一度に5~6町村がまとめて合併してくれた方がありがたいし、手っ取り早い。 だから、4町というそれなりの規模で、早々と合併を果たした篠山市は政府にとってありがたい存在だった。

 こうして、“丹波の黒豆”で知られる篠山は篠山市となり、平成の市町村合併の優等生として祀り上げられていく。当時、全国市長会でも市町村合併をどうするのか?が最大の関心事だったから、篠山市の一挙手一投足はかなり注目されていた。行政関係者の篠山市への視察も多かったと聞く。

人口争奪戦に負けた地方都市が陥った負のスパイラル 

 寵児となった篠山市の絶頂期は、長くは続かない。篠山市は合併によって発行が可能になった合併特例債を活用し、市の中心となる篠山町以外の3町が衰退しないように大型公共施設を建てまくった。大型公共施設をつくれば、そこに人が集まり、にぎわいが創出され、そしてほかの自治体からも人口が流入して市全体が発展すると考えていたのだろう。

 だが、現実は逆に動いた。

 新生・篠山市の人口は増加するどころか減少。それも、通常のスピードよりも速く減少していった。政府も日本の人口が減少することは予測していたし、地方の市町村も人口減への危機感を募らせていた。しかし、実際の減少スピードはそれらをはるかに上回っていた。人口減少による街の衰退は、さらにそれ以上だった。

 人口減少は出生数から死亡者数を単純に引き算した自然減と、転入者から転出者を引き算した社会減のふたつがある。少子化による人口減少は自然減。当初、政府も地方自治体も自然減による人口減少を想定し、社会減はそれほど大きくならないと踏んでいた。

 バブル崩壊後の長い不況は、地方都市を衰退させるには十分だった。不況とはいえ、東京圏・大阪圏は開発が進み、企業の集積が進んだ。そのため、東京・大阪といった大都市を軸に人が吸い寄せられていく。過密化過疎化が同時進行し、都市は二極化していく。人口は増えない。だから奪うしかない。

 人口争奪戦は、平成の市町村合併前から始まっていたが、平成の市町村合併が本格化する頃には、自治体もなりふり構わない態度に変質していた。まさに”仁義なき、人口争奪戦”だった。大規模工場など雇用がない市町村、そして買い物する商業施設や病院の少ない市町村は若年層から見限られて、人口争奪戦から脱落していく。そして、残念ながら地方都市ほど、若年層の取り込みに失敗していた。

 自然減と社会減のダブルパンチを見舞われ、予想を上回るスピードで人口を減少させた地方都市は、企業の移転、商業施設にも歯止めがかけられなかった。雇用がないから若者が流出してしまう。若者が流出するから、街から活気が失われていく。そして活気がないから人口減少が加速する。負のスパイラルに陥った地方都市に打開策はなかった。

地方に光を当てた宮崎と大阪

 「篠山市に行ってみないか?」という打診を受けたのは、2016年の暮れが差し迫った頃だった。国政について語れる政治記者は多いものの、地方自治について詳しい記者は数えるほどしかいない。なぜなら、新聞・テレビにおける政治報道は永田町がすべてだったからだ。時折、地方で有名なタレントや国家議員が話題になることはあっても一時的な現象に過ぎない。

 それは地方分権一括法が施行されて、国と地方が名目上は対等になっても変わらなかった。政治関係を取材している記者にも、見えない階層が存在した。国政を取材している記者は上、地方は下。口には出さなくても、そんな意識や空気は少なからずあった。

 新聞にしろテレビにしろ、マスとされる報道機関は不特定多数を相手にしなければ商売が成り立たない。だから、一部の地域を取り上げても関心を呼ばないし、部数や視聴率に反映されない。報道といっても、ビジネス要素なしではあり得ないのだから、行き着くところは多数が関心を示す分野やコンテンツを取り上げるしかない。

 こうなると、民放各局はなんのためにニュースネットワークなる系列をつくっているのか?という疑問も湧いてくるが、それはともかくとして、市場原理からしても地方の政治はおざなりにされてしまうのが常だった。

 地方に光が当たる最初の転機になったは、宮崎県知事選の東国原英夫さんだろう。保守地盤の強い宮崎県で、保守分裂選挙になった知事選は、政治不信・官僚不信の追い風もあって東国原英夫さんが当選を果たした。当初、知事選で東国原英夫さんは泡沫候補のような扱いだったから、大金星だったと言えるだろう。当選後、タレントという経歴もあって、話題が殺到。宮崎県兆には東京キー局が取材陣を投入し、にぎやかになった。これには、宮崎県庁職員も目を丸くしていた。

 東国原ブームの渦中、私も宮崎県まで取材に行った。しかし、その熱気とは裏腹に県政的なトピックはあまり聞こえてこなかった。在京キー局から派遣された取材スタッフは、東国原英夫知事にタレントとしての振る舞いを求め、それを取り上げるばかりだった。まぁ、首都圏のテレビ番組としては宮崎県政を取り上げてもあまり意味がないから、それも仕方のない面はあるかもしれない。

 地方に光があたることになる、次なるターニングポイントは2011年の大阪W選だった。大阪府知事だった橋下徹さんが、一般的には格下とされる大阪市市長選に出るというのだから、新聞やテレビは飛びついた。なぜ、県知事が市長に? 地方のことを知らなければ、政令指定都市の市長の役割も、そもそも政令指定都市がどのぐらいの権限を有しているのかもわからんあい。まして、地方分権一括法といった言葉も知らないだろう。

 また、橋下徹さんが掲げていた大阪都構想についても、都とはなんなのか? 東京都がどういう経緯をたどって都になったのか?もわからなかったことだだろう。大阪都を掲げて市長選に出馬した橋下さんは、とにかくホットな人物。数字になる。だから、追いかける。そのぐらいの意識だったと思う。

 ただ、この時点では地方自治の仕組みがからない人が多かったのは事実だろう。大阪都構想が、いわゆる遷都、つまり東京から大阪に首都を移す――といったレベルで受け止めるマスコミ人は少なくなかった。私にも出版社からの原稿依頼やテレビ・ラジオ局のコメント依頼があり、「大阪都になったら、首都が大阪になるってことですか?」などと真顔で質問されたりもした。さすがに、最近はそんな明後日の質問をされることはなくなったが……。

篠山市弾丸取材

 東京都知事選を除けば、地方政治は関心を示してもらえるコンテンツになりつつあった。しかし、それも芸能人が出る選挙、そして舵取りを担う自治体に限定される。東京五輪などの挙国一致的なテーマならともかく、無電柱化とか花粉症ゼロなどの政策テーマが論じられることはまずない。無電柱化も花粉症ゼロも、衆院選のマニフェストに掲げられていて、全国的なテーマになりかけたにも関わらず、だ。

 まして、東京から遠く離れた地方都市を取り上げるなんてことは専門誌でなければあり得ない話だった。それが、「篠山市に行ってみないか?」と声をかけられたのだから、ふたつ返事で引き受けた。

 経費の問題で宿泊費は出せないとのことだったが、新幹線代もレンタカー代も出してもらえた。2016年の暮れも押し迫った日、私は東京駅始発の新幹線に飛び乗り、京都駅を目指した。そして、京都から兵庫県篠山市へとレンタカーを飛ばした。篠山市では、事前に調べておいた合併特例債で整備したハコモノや、市庁舎などの目立つハコモノを撮るというミッションがあった。もちろん、写真を撮るだけではなく、ハコモノを巡って、どのような使われ方をしているのか? 市のどんな場所に立地しているのか?を探ることも重要だ。

 ナビを頼りに車を走らせたが、4町が合併しただけあって篠山市は大きかった。走っても、なかな到着しない。慣れない道なので、いろいろ間違えたり、駐車場探しに手間取ったりした。時間的なロスは私を焦らせた。

 なにより、12月である。日が暮れるのは早い。うかうかしていたら、すぐに陽が落ちて撮影ができなくなってしまう。じっくり見て回りたい気持ちを抑え、私はハコモノ探訪で走り回った。最後の物件を撮り終える頃、すでに周囲は闇に包まれていた。再び京都までレンタカーで戻ったが、心なしか往路より復路の方が距離が短く感じた。

これから地方はもっと重要になる

 2013年に沖縄県へ行ったことで、私は47都道府県すべてを踏破した。全都道府県に足を踏み入れただけではなく、すべてで一泊以上を経験している。自分では特段に凄いことだとは思っていなかったのだけど、そのことを話すと、とても驚かれるので、わりと珍しい経験なのだろう。

 全都道府県を制覇して以降も、一度は行ったことがある地でも繰り返し足を運ぶようにしている。一度行ったことがある地でも、時間をおいて訪れてみると変化が起きていたり、以前は気にならなかったモノが見えたりするからだ。

 都会は変化ぎ激しいという。対して、田舎は変化がないという。この田舎を地方と言い換えても、話は通じるだろう。しかし、それは変化していないと思ってるに過ぎない。地方もまた、都会と同じように絶えず変化を続けている。変化は目に見えるモノだけとは限らない。なにより、都会で変化が生じれば、その関係で地方も変化を余儀なくされる。

「地方の時代」という言葉を使って一世を風靡したのは1975年に神奈川県知事に就任し、5期を務めた長洲一二だった。長州が神奈川県知事を退任したのは1995年。それから20年以上が経過している。「まだ、地方の時代はきていないのか?」それとも「もう、地方の時代はきているのか?」

 その判別はつかないが、地方が今後も重要になっていくことは間違いないだろう。




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