伝えられないニッポン
退ける官邸
我が国の首相会見は、さまざまな場所で実施される。しかし、その多くは首相官邸という、千代田区永田町にある建物内で実施されるのが慣例になっている。
首相会見といっても、例えば自民党の党大会後に総裁として会見するケースもある。これは厳密には総裁会見だが、自民党総裁はほぼ首相と同義とみなされてきた。
そのため、自民党総裁会見は、そのまま首相会見という意味を帯びてくる。繰り返すが、自民党総裁会見と首相会見は待つ意味がまったく異なる。それを雑に、同一にしてしまったのは第二次安倍晋三内閣だった。
自民党総裁会見でも首相会見でも、同じ人物が会見で政権を述べるなら同じじゃないか?と思ってはいけない。同じ発言でも、立場により執行できる権限は異なるのだから。
そして、首相だけではなく、官房長官が官邸で会見するケースもある。これも官邸会見もいえるが、本稿では官邸で実施される首相会見に限定する。
まず、官邸に出入りできる人間は限られている。衆参国会議員、中央官庁の職員、そして民間人ながら有識者会議のメンバーに任命された人etc
そのほか、都道府県知事や市町村長、そして各所団体の親善大使なども首相官邸に出入りするだろう。また、近年なら五輪関係者、新型コロナウイルスへの対応をめぐる医療従事者なども官邸に出入りしている。
報道関係者は特権階級?
それ以外にも、官邸に出入りできる人たちがいる。それが報道関係者だ。報道関係者という区分だと大雑把になるが、要するに新聞社とテレビ局。もっと厳密に言えば、新聞協会の加盟社、そして民間放送連盟の加盟社、NHKということになる。
さらに、これらの社で組織する内閣記者会という、官邸に限定した記者クラブがある。内閣記者会は、社単位ではなく記者個人単位で所属する仕組みになっている。
新聞記者で例えるなら、まずX新聞が新聞協会に加盟していなければならず、そして内閣記者会にも加盟している必要がある。
そのうえで、X社の記者個人が内閣記者会に登録する。X社の社員というだけでは官邸には出入りできない。あくまでもX社の社員で、しかも内閣記者会に登録した記者のみにパスが支給される。
X社には記者のほかに、経理や法務といった記者とは別の社員もいるから当然といえば当然なのだが、仮にX社の記者であっても人事異動によって内閣記者会から別の省庁担当に配置換えになることもある。
そうなると、登録は抹消。官邸に出入りできるパスを返還しなければならない。新聞記者でも、全員が自由に官邸へ足を踏み込めるわけではないのだ。
報道関係者のパスを所有していれば、首相官邸へ自由に出入りできる。セキュリティに照らしてみれば、当然の話だろう。
ちなみに、内閣記者会のパスを持っている報道関係者でも庁舎内の受付で確認を受け、手荷物検査と身体への金属探知機によるボディチェックは必ず受けることになる。完全にスルーされているわけではない。
私はフリーランスという立場で取材しているので、庁舎内の受付での身分確認、金属探知機による手荷物検査およびボディチェックなどを受ける。
そのほか、庁舎に入る前、つまり玄関前の広場で立哨している警察官からも身分確認と出席登録の確認を受ける。
こうした幾重にもわたるチェックを受けて、ようやく会見室までたどりつく。これはフリーランスの記者に課せられたものだが、実は有識者会議に出席する民間人も扱いは同じのようだ。
以前、安倍晋三首相が新型コロナウイルスの感染拡大を受けて緊急事態宣言を発出することになり、その宣言のための会見が官邸で実施されることになった。
首相会見は直前までスケジュールが決まらない。首相の予定を調整するからなのだが、直前にならないと会見時間が決まらない。
首相会見に参加しようとするなら、以前から予定していたスケジュールをやり繰りしなければならなくなる。
前の用事があれば、早めに切り上げて駆けつけなければならないこともある。実際、会見が急に決まり、先約をキャンセルしたことは一度や二度ではない。
新型コロナウイルスの感染拡大を受けて緊急事態宣言を発出する際の首相会見のときも、私は前に用事があった。そのため、官邸には時間ギリギリに駆け込むことになったのだが、庁舎内の受付で新型インフルエンザ等対策有識者会議の座長を務める尾身茂さんが入館手続きを受けていた。
尾身座長は、官邸会見では首相の横に並び、医療の専門家として記者の質問に答える立場にある。いわば、感染症に関しては首相よりも知見を有している。コロナに対する政治・政策面は政治家が判断するわけだが、感染症については尾身座長の知見に頼らざるを得ない。
新型コロナウイルスの会見に限定して言えば、首相なしでも会見は成り立つ。しかし、尾身座長がいなければ成り立たない。
それほど重要な人物と言えるのだが、尾身座長も官邸へと入館するには手続きが必要になる。しかも尾身座長は入館手続きに不慣れなせいか、窓口担当者とのやりとりが覚束ない。
担当者から「名前は?」とか「所属は?」とか「用件は?」という質問が飛ぶのだが、名前はともかく、所属や用件は、例えば「NHKです」と答えれば済むし、用件なら「今日の会見に参加申し込みをした」で問題ない。
尾身座長は不慣れだから、答えにまごつく。また、尾身座長は生来からかすれ声なので、受付の職員が聞き取りづらいらしく、それゆえに何度も訊ね返す。そのため、どうしても対応が覚束なくなる。
後ろで一部始終を見ていた私は、尾身座長に同情的になった。しかし、それが警備という役割でもある。だから、受付の担当職員を責めるわけにもいかない。受付の警備職員は任務を忠実にこなしているだけでしかないのだ。
硬直化しているのは記者クラブだけじゃなく
これまでにも、「扉が開かない10年間」など、記者会見をはじめとする記者クラブの実態と問題は繰り返し書いてきた。記者クラブ制度に関して問題があることは否めない。
しかし、記者クラブの成り立ち、本来の役割、そして今も作用している力などを勘案すれば、私は記者クラブは少なからず必要だと考えている。
とはいえ、現状の記者クラブというシステムが本来の意義通りに機能しているとも思えない。歳月を経て変節してしまったという指摘もあるだろう。それも否定しない。
記者クラブというシステムが、時代とともに政治権力と一体化してしまった。それを本来の意義である権力の監視装置に戻していく必要はあるだろう。そうした記者クラブの問題と変革への展望、私見はひとまずおくとする。
他方、官邸で実施されている首相会見も少しずつ変化しながらも、時代に対応できていない面が多々あると感じる。これは内閣記者会ではなく、むしろ官邸報道室のスタンス、つまり政治家や中央官庁の官僚たちの姿勢に起因している問題もあるように思える。
その端的な例が、首相会見の多言語化の取り組みがまったく進んでいない点だろう。首相会見は、当然ながら日本語で実施されている。そして、現在は手話の同時通訳がつく。
手話の同時通訳がついた詳しい経緯は、2019年7月6日のエントリ「橋下徹と枝野幸男 彼らが変えた選挙風景」に書いた。詳しくは、こちらのエントリを読んでいただくとして、枝野官房長官が導入した手話通訳はその後も引き継がれている。
日本語だけでは足りない
手話の同時通訳が導入されたことは慶賀すべき話だが、言語を必要とするのは聴覚障害者だけではない。異国語を操り、日本語のコミュニケーションを不得意とする外国人も、政府の情報を必要とする。ゆえに、日本語の発信だけでは足りない。
官邸での首相会見は、外務省がスタッフを派遣して英語の同時通訳がなされている。これは、官邸会見に外国人特派員協会に所属する海外のプレスも出席しているからにほかならない。
海外のメディアでも、映像系はカメラマンなどは外国人で賄い、質問などをする記者は日本人だったりする。なんとか言語の壁をクリアしようと試行錯誤しているプレスもおる。
官邸会見に海外のプレスが参加できるという環境は喜ばしい。これが実現したのは民主党政権時代の2010年で、それまでは内閣記者会が会見を取り仕切っていた。
自民党政権もそれをよしとしていた。そして、その体質はいまだに続き、官邸会見の扉は堅く閉ざされたままになっている。当然ながら、海外のプレスも参加できなかった。
海外のプレスが官邸会見に出席できないという状況だったから、官邸側も首相の言葉を海外に伝える必要がないと判断するのは当然だろう。そうした意識は、海外のプレスが参加するようになってからも改善されているとは言い難い。
官邸における首相会見は、日本語のほか通常は英語が同時通訳として流される。しかし、今のご時世において英語だけで発信すればいいという時代ではない。EUは参加国がひとつ公用語を指定できる制度があり、これまではイギリスが加盟していたので英語もEUの数ある公用語として登録されていた。
イギリスがEUから離脱、EU加盟国には英語を公用語にしているアイルランドとマルタの2国も加盟しているが、アイルランドもマルタもEUに公用語として届け出ているのはそれぞれアイルランド語とゲール語。つまり、イギリスがEUから離脱したことで、英語はEUの公用語の資格を失う。
すぐに英語が使われなくなるわけではないだろうが、歳月とともにEU内における英語の地位が低下することは避けられない。必要ない言語を勉強する人は少ないのだから。
通常の首相会見は、日本語と英語の2か国だけ同時通訳
日本語の復権に向けて
本が世界第2の経済大国だった15年前、諸外国では第2外国語として日本語を習得しようとする機運が高かった。それは、日本とビジネスをするうえで必要だったからだ。
ビジネスで日本語を覚えるといっても、語学だけを学べばビジネスができるようになるわけではない。文化や習慣なども覚える必要性が生じる。文化といっても幅広いが、食・美術などをはじめとするコンテンツは、海外へと輸出され、新たなマーケットを拓く可能性が大きい。
実際、日本食に欠かせないしょうゆは、20年以上前ならフランス料理などで使われることはなかったが、今ではフランス料理でも珍しい存在ではなくなっている。
日本と親和性の高いイタリア料理などは言うに及ばず、いまだ縁遠いスペイン料理も和食より早く世界遺産となり、和食との融合も進む。日本の調味料であるしょうゆ・味噌などが使われるスペイン料理などが当たり前になるのも時間の問題かもしれない。
語学を学ぶことは、その国の文化を知るための一歩であり、文化を知ることでビジネスにもつながる。言うならば、多言語化は殖産興業の一策ともいえる。
マンガやアニメて海外市場を拓こうとするクールジャパン戦略は、海外でファンを増やすとともに日本語を学ぼうとする層を拡大させた。
しかし、いきなり日本語のマンガやアニメを与えられても諸外国のファンは飛びつかなかっただろう。
日本のアニメやマンガとはいえ、最初は母国語版を手に取ったはずなのだ。そこから、少しずつ本場の日本語版のアニメやマンガへと移行する。
多言語化を進めた小泉・安倍政権
2001年、小泉純一郎内閣が発足して構造改革の一環としてビザの緩和が進められた。2005年には外客誘致法が成立。それを受けて、2006年には第一次安倍政権が発足して外客誘致法の詳細が詰められることになる。
外客誘致法の内容は多岐にわたるが、公共交通機関や観光案内といった場面での多言語化が奨励された。それまで有名観光地でも外国語は英語のひとつしか表記されていなかったのが現状で、外客誘致法により多言語化が図られるようになる。
多言語化と一口に言っても、英語のほかにもたくさんの言語が存在する。どの言語をカバーすればいいのか? 観光地や公共交通機関は戸惑った。
第一次安倍政権では英語のほかに中国語の簡体字と繁体字、韓国語(つまりハングル)の4言語のどれかを付記するのが望ましいというガイドラインを策定した。
このガイドラインが作成されたことで、東京や大阪といった大都市の公共交通機関に韓国語や中国語が溢れるようになる。
これら中国語と韓国語が選ばれたのは隣国で日本への観光客が多いといった理由が挙げられるだろう。話者人口は中国語が圧倒的だが、公用語とする国の数で言えばフランス語、そしてスペイン語が多い。
それにもかかわらず、仏・西語がガイドラインから望ましいとされなかったのは、日本と縁遠いことが何よりも物語っている。
多言語化は来日・訪日する目的の外国人に向けた取り組みではあるが、日本を知ってもらうための取り組み、もっと長期的なスパンで考えれば親日国を増やそうという取り組みでもある。
日本を知ってもらうためにも、多言語化に取り組まなければならない。そして、政府が多言語化を率先して取り組むことで、民間にも影響を大きくする。
学校で子供たちに学んでもらうことも有効的な政策になるだろうが、やはり「隗より始めよ」で、政府が公共的な機関から始める方が効果は高いのだ。
内閣広報官の辞任・交代は多言語化へのチャンス
日本語と英語を基本とする官邸会見といえども、さすがにフランスの首脳が来日して共同会見を実施するとき、ドイツの首脳が来日して共同記者会見を実施するときは英語の同時通訳がなくなる。英語に替わって、それぞれフランス語、ドイツ語が同時通訳される。
日本の外務省にもドイツ語・フランス語をネイティブ並みに操れる人物が少なからずいるのだ。官邸は、こうした人材を積極的に登用して、もっと海外に日本の情報を発信していかなければならない、
それが、日本の存在感を高めることにもつながるし、縮む日本経済の新たなる活路にもなるだろう。
ドイツのメルケル首相が来日して共同会見した際は、同時通訳がドイツ語に切り替えられた
個人的には、英語のほか、フランス語・スペイン語・ドイツ語・中国語・アラビア語・ロシア語・韓国語の同時通訳を用意したいところだ。
同時通訳のチャンネル数は、現在のところ常時2つだが、常時5チャンネルは用意するぐらいでないと海外への発信は頼りない。
私は、今が官邸での首相会見を多言語化する最大のチャンスだと見ている。それは、官邸会見で司会進行役を務める内閣広報官が交代したからだ。
7年にわたって続いた第2次安倍政権では、首相と同じく長谷川栄一さんが7年間もの長きにわたって内閣広報官を務めた。
菅義偉首相が就任すると、元総務官僚だった山田真貴子さんが起用された。菅首相の息子との会食問題で、山田真貴子内閣広報官は失脚。後任に、小野日子さんが就任する。
現在の内閣広報官を務める小野日子さんは外務省出身。自身もインドネシアに駐在した経験がある。インドネシア駐在の経験があるので、本人にインドネシア語を話せるのか?と質問したが、「話せません」とのことだった。
その話しぶりからは謙遜しているのか本当に話せないのか判断がつきかねるが、少なくても外務省出身なので各国の言語を操れる職員を知っていることは間違いない。
小野内閣広報官の人脈をフル活用すれば、首相会見の多言語化は決して高いハードルではない。そして、それが世界で日本の存在感を高めることにもつながる。
予算の問題もあるだろうが、私は早急に検討してほしいとの要望を伝えた。小野内閣広報官ち、そこまでの権限があるのかは不明だが、とにかく要望を伝えなければ始まらない。
東京五輪という国際イベントを開催しても、その会期はオリンピック・パラリンピックを通じてもわずかしかない。そんな短期間の祭りで、国際的な地位が向上することはない。長い取り組みが必要になり、多言語化はその第一歩といえる。
難しい同時通訳
最近は、生粋の日本人でも英語以外の言語をネイティブ並みに操れる人材が増えている。それだけに、多言語化の下地は整いつつあるのだが、私には苦い経験もある。というか、言語を操れるということと同時通訳ができるというのは、また別の話なのだという体験をした。
2011年3月11日、東日本大震災が発生。津波が多くの地域を飲み込み、そして福島第一原発の事故を引き起こした。未曾有の原発事故は社会を大混乱させたが、当時、私も運営にちょっとだけ関わっていた自由報道協会では原発関連の会見を頻繁に実施していた。
そうした関係もあり、諸外国から来日する原発関係者からも日本で会見をしたいというリクエストが寄せられるようになる。そうした流れから、欧州放射線リスク委員会のクリス・バズビー氏を招くことになった。
クリスバズビー氏はイギリス出身の学者だが、原発といえばソ連で怒ったチェルノブイリ原発の事故が原子力災害史に大きく刻まれている。そのため、バズビー氏とともにロシアの関係者も一緒に会見することになった。
当然、ロシアの関係者の母語はロシア語。自由報道協会の会見に参加する人の中には外国人記者もいたが、多くは日本人。そして、ロシア語なんてちんぷんかんぷんだろう。
そこで、ロシアで取材をしているジャーナリストから、東京在住のロシア語が堪能だとお墨付きをもらった人を紹介してもらった。これで一安心と思ったのだが、会見が始まったら様子がおかしい。
自由報道協会による、クリス・バズビー氏(左)の会見
ロシア語が堪能という前評判のわりに、何度も聞き返したり、訳に窮したりする。クリスバズビー氏に同行していた関係者が、見かねて「その訳は…」と訂正を入れたりする。終始、会見はこんな調子だったこともあり、すっきりしないまま会見は終了した。
通訳を買って出てくれた人の名誉のために付言しておくと、その人のロシア語の能力が決して劣っていたわけではない。記者会見という、居並ぶ記者を前にして緊張が一線を超えてしまったのだろう。
また、原発という専門用語が飛び交う記者会見だったのも通訳者をパニックにしてしまった可能性も大きい。そして、日本語・ロシア語だけではなく、海外の記者から英語で質問されたり、イギリス出身のクリス・バズビー氏も英語を使っていたから、いろいろな言語が飛び交い、混乱してしまったのかもしれない。
そうした複雑な要因が同時通訳には絡み合う。同時通訳だけならまだしも、記者会見は言葉の応酬でもあるから、単に話している内容を伝えるだけではない。プラスアルファの要素もある。外国語に堪能というだけでは同時通訳は務まらず、また記者会見という特殊な雰囲気が包む場にも慣れる必要がある。
小野内閣広報官が外務省出身で、その縁から首相会見にも同時通訳を多言語化すべきだという私の考えは、あくまでも机上の空論かもしれない。簡単に実現できるものではないだろう。
それでも、どこかで踏み出さなければならないのも事実。このまま何もしなければ、どんどん日本は多言語化のチャンスを逸していく。政治の場でチャンスを逃せば、当然ながら日本は先進国から置いてきぼりを食い、経済後進国の道をたどることになるだろう。
かつてなら、アメリカの公用語である英語を習得すれば問題なかった。そして、国内でもとりえあえずは英語という空気だった。そんな環境も大きく変わりつつある。多言語化へのシフトは止められない世界的な潮流と言っていいだろう。
幸いにも、近年はグーグルなどの翻訳アプリの性能が向上。語学を習得する機械にも機会にも恵まれている。
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