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東京にも燻る基地問題と広大な基地跡地

東上線と基地

 東洋経済オンラインに寄稿した”東上線「朝霞」、地名の由来は「ゴルフの宮様」”では、東武東上線朝霞駅の明治から現在にいたるまでの歩みを追った。

 東上鉄道として出発した東上線は、川越志木といった明治期から舟運で栄えた街の海運業者たちが、いずれ鉄道の時代が来ると見越して、鉄道に投資し、そして建設に理解を示した。

 特に、志木の廻船問屋だった井下田慶十郎は、東上線の建設に力を惜しまなかった。戒名も交通院慶運東上居としているぐらいだから、東上線への思いれはハンパなものではない。

 朝霞駅一帯には、キャンプ・ドレイクと呼ばれる広大な米軍基地があった。それが返還され、現在は国有地となっている。暫定的に朝霞市が広場として利用している区域もあるが、国有地として立ち入りが禁止されている区域も残っている。

 朝霞の街を歩いていて、以前に取材で何度も訪れた立川を思い出した。戦前期、立川も軍都と化した。より厳密にいえば、立川は空都でもある。

基地とランカイ屋

 空軍を持たなかった大日本帝国では、陸軍・海軍双方に空軍力を持つ部隊があった。立川には陸軍が部隊を置き、民間の航空機工場も立川にあった。

 そして、立川の航空産業・軍事産業を支えたのが、昭島市だ。青梅線東中神駅の近くには、八清ロータリーと呼ばれる不思議な形状をしたロータリーが存在する。

 交通量が多いわけでもなく、駅前のような場所でもない。そんな不思議な場所にロータリーが設けられたのは、戦前期に立川の軍需工場に勤める人たちの集合住宅がこの一帯につくられたからだ。

 その集合住宅は八清住宅と呼ばれ、いまはもう面影も失われている。八清とは、集合住宅の建設や名古屋から立川まで工員の算段をつけた八日市屋清太郎の名前から取られている。

 八日市屋は苗字というより屋号だと思われるが、八日市屋は手配師を稼業としているわけではなく、ランカイ屋だった。博覧会屋を略して、ランカイ屋。

 今風の言葉に直せば、ランカイ屋とはイベント興行師もしくはイベントプロデューサーということになるだろうか。博覧会はブースの建設・設といったは職人から営業担当、コンパニオンを揃えなければならない。

 また、並べる農産品・工業製品の手配も必要になる。今なら、ネットで簡単に手配できてしまうような話だが、当時は顔の広さがモノを言う仕事だった。

 ランカイ屋は全国各地を渡り歩くから、そうした業者を全国に持っていなければならないし、時には東京の人間を名古屋、大阪と帯同させることになる。親分肌でなければ務まらない。

 まして、東京・立川の工場で働く従業員を名古屋から連れてくる。しかも住み込みならぬ移住で、というハードルの高い依頼を八清はこなした。おそらく、発注側も驚いたことだろう。

 また、名古屋から遠路はるばる昭島まで来るのだから、そうとうな信頼関係がなければ連れてこれない。下手なところに住まわせれば、脱走されてしまう。脱走されたら、八清のメンツは丸潰れになる。彼らの住環境を整えるために、八清が彼らの住戸や街に力を入れるのは自然流れだった。

 戦後、東中神の八清住宅はそのまま彼らの住戸として存続し、現在はその面影はないものの、八清ロータリーの名前は残り、それを後世に伝える。

基地跡地をどうするか?

 翻って、航空工場・軍事工場が並んだ立川駅一帯はアメリカ軍に接収されて、長らく駅前の開発が進まなかった。昭和40年代後半になり、ようやく返還が始まる。

 返還地の大半は国や東京都、立川市の所有となった。そのため、立川駅一帯には国の出先機関や公共施設が目立つ。また、国営昭和記念公園といった広大な公園もある。

 朝霞駅一帯の基地跡地も、大半は市役所や図書館といった公共施設になっている。残りは、咲にも触れた暫定的に広場となっていたり、フェンスに囲まれた国有地として塩漬けされたままになっている。

 沖縄県ではアメリカの基地問題が大きくクローズアップされているが、東京都もしくはその近郊にだって基地問題はある。

 東京には横田基地があるし、都心部には赤坂プレスセンターをはじめとするアメリカ軍がいまだに接収している土地がある。

 普天間辺野古といった沖縄の基地問題は、決して他人事ではない。

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小川裕夫
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