展示『ICC 坂本龍一トリビュート展 音楽/アート/メディア』

2024.03.09観測。

オガワの本命は、真鍋大度。

インスタレーション作品で、観客が操作できるコントローラーがあり、10段階程度の周波数に合わせて流れる映像が変わる。
また、もうひとつの作品にAI生成技術によるインスタレーションがあり、ピアノを弾いている坂本龍一の背景を観客が入れた言葉によって生成された画像で構成することができた。
試しに「パンダ」と入れたらどデカいパンダの画像で坂本龍一の背景を覆ってしまい、失笑を買った。
時間が短く感じたが、他の参加者も何かしら入れていてなかなか良かった。
面白かった。
タニグチが「光」を入れていた。綺麗だった。
AIと人間の共通認識に対するセンスがいい。


別のプロジェクトで、これは確か坂本龍一本人が企画したものだと思うが、
坂本の知り合いのアーティストに協力してもらい、各人の住む土地で「この土地といえば」という音を録音してレコードにする企画だった。

これがなかなか興味深かった。

音は一部しか聞けないのだが、写真家、詩人、音楽家、キュレーター、大学の先生など、アーティストの職業によって解説文というか、制作に寄せて書かれた文章の役割が違う。
つまりは書き手の想像する文に対する役割が違うのである。

おそらく坂本が「土地の音」と「それにつける文」くらいの指定しかしていないのであろう。
なんとも適当な話である。
すきだ。
「天才の"それ"以外のできなさ」が感じられる。

さて、「音楽家」は大体、この音を録るに至った経緯は書かず、音を録った環境を書く。そして最後に坂本への謝辞。
「キュレーター」は展示の中で1番長い。主に企画全体の裏話と企画の解説。音への言及はほぼ無い。
「写真家」は自分がどうしてこの音を録ったかという「思考回路」の流れを書く。オガワのような観客が読みたいのはこのあたり。
「先生」は詩を書いていた。日頃ロジカルに話さなければならないので、嬉しくなったのかもな…。

各々が作品をどういう経緯で手放すかが分かる文だった。
手放すというか、「これで食っていく」と決めた人々の、作品の売り込み方が垣間見える。

「音楽家」は今回の企画の意図が割とすぐに分かるらしい。だから、思考回路は書かない。
それより録音環境の方が「観客は気になるだろう」と思っている。

「写真家」は企画の意図を掴むまでに音楽家より時間がかかる。
また、写真家はよく「なぜこの写真を撮ったのですか?」と聞かれる。これは買い手に聞かれる。
音楽家はこのような価値の売買はしない。
先にチケットを買って、どんな音楽が流れるかはコンサートに行ってからのお楽しみで、全部聞いてから「これはどのような意図で作曲しましたか?」などと聞かれたタイミングで、まだ客が金を払っていないなどということはあまり無い。
というわけで、写真家はうっかり「なぜこれを録ったのか」を書いている。これは写真家(または画家)が作品を売り込むときの癖だ。

それで言うと、音楽家は客に「どうやって作ったか」を買う前に問われる時が多いのかもしれない。
どちらも大変だと思う。
でもオガワは個人的に画家と写真家の方が可哀想だと思う。
言語化できないから絵や写真を作っているのに、なぜ作ったかを言語化しないと作品が売れないので。
しかして音楽家は恐らく観客から「怒り」を買うことが多いだろうと思う。もうお金を払ってしまったのに下手くそだったら怒るだろう。
そういう、後発的な評価の中に身を投じるのも大変だと思う。映画監督もこの類。
やはりどちらも大変だと思う。
オガワは言語化できないことを言語化しろと言われパニックになったことがあるので、画家や写真家に感情移入しやすいだけである。

さて、「キュレーター」はまた特殊で、芸術を歴史的に理解し、素人に分かりやすく解説し、また現代に肯定的に提案するような感じの役割を持っている仕事だ。
今回の展示のこの人は、実は企画の意図をあまり理解していない。
というか、自分が音楽で表現する側に回ることの最低限の責任を理解していない。
しかし、仕事柄、観客がある意味で満足するものが何かは分かっている。
故に自分の録った音より、この企画の裏話などを書き連ねてお茶を濁している。
分からなかったことを「分からなかった」と書けず、仕方ないので、自分以外の話をしている。
音を自分で録るのだから、自分と音の関係を書くべきだった、ということを、作品を沢山作っていくと理解する。
作品を持つものがどう売り込むかの話をしたが、キュレーターは作品を持たない。
この人は今回初めてに近い状態で「自分の作品」を手にしたのだろう。売り込み方が分からず、ちょっと困っている。かわいいと思う。
「初めて」に挑戦する人間を見れたな、とほくほくしている。

他方、「学校の先生」は詩を書いているあたり、この企画の穴を突いていると言っていい。
そう、今回の企画の責任者は坂本なので、実は作品を寄せる参加者は自分と音楽の関係性を売り込まなくてもいいのだ。
実際先生は作品を売り込むにはあまりにも力の弱い、「詩」を選択している。
ただ、芸術家が「音につける文章を」と言われて言語化すると、売り文句の様相を帯びてしまうだけの話。
その意味で、別の立ち位置から作品に寄せる文を示した先生は「いかにも先生らしい」といったところである。意図していたかは分からないが。
そこも含めて先生らしい。