今のところ、子供を体内で作る性別の人間の方が、コミュ力が高い

と、思う。

同じ社会的地位を持った男女の間で、コミュニケーション能力だけを比べた場合の話だ。
社長夫人とか分かりやすいかもしれない。
働いてないから年収は0だけど、平社員とは釣り合わないのは、社長のような有能な男性に気に入られるだけのコミュニケーション能力を持っているためである。という感じ。
ちなみにコミュニケーション能力には容姿も含まれる。
赤ちゃんが可愛いのもコミュニケーション能力の一部である。
同様に、営業の男性がツーブロックで明るい色のスーツを着るのもコミニュケーション能力の一部である。

人間、ちょっと他の生き物より赤子の身体構造が脆い。
あと、胎生であるにもかかわらず二足歩行に進化したために、妊娠・出産に関する母体の負担が他の生き物より大きい。
この生物的特徴はつまり、「他の動物より妊娠・出産・育児の期間は天敵が増大する」という食物連鎖上のデメリットを持つ。

で、人間の母親はこのデメリットを「群れ」という方式で補完していた。
コミュニケーション能力を上げ、その群れの中に馴染み、愛され、自分が母体として過ごさなければならない10〜15年ほどの期間、同じ群れの他の人間に助けてもらえるように。
生まれてからその日まで、地道にコミュニケーション能力を上げておけば、妊娠中に災害が起きても捨て置かれずに済み、仮に自分が病気になって死んでも、子孫たちは群れの中で育ててもらえた。

コミュニケーション能力は、母体になる側にとって、「生き残る能力」に等しかった。
コミュニケーション能力は、男性にとってみると女性の「生き残る能力」ほどの重要性は無い。
愛されなくてもある程度大きくなれば群れを出て、自分一人分の食料を確保できれば、子孫など女性を取り押さえて種を植えれば済む話である(法と倫理のない原始時代の考え方だが)。
つまり、男性のコミュニケーション能力は、子供の時に保護者に守ってもらえるくらいだけあれば、極論それ以上必要ないのだ。

結論として、人類の繁栄において、コミュニケーション能力の低い女性は、妊娠・出産・育児期に「周りに助けてもらえなくて」死んでいく。
生き残った個体は、コミュニケーション能力が高い個体であり、男性はその限りではない。ということになる。

旧人が20万年前、新人が4万年前に遡る人類史の中で、コミュニケーション能力が無くても子供を妊娠・出産でき、また生まれてきた子供が安全に育つレベルの社会福祉が整ったのは、恐らく江戸時代を越した頃だと認識している(狐憑きと呼ばれて座敷牢に隔離された障害児などが文献に現れだすが、物語の最後には「狐憑きが治った」となる)。

今からたったの200年前である。

人間は最低でも39800年間、爆発的な速度で「コミュニケーション能力の高いメス個体」だけを間引き続けてきたのだ。

しかし精神科医はたびたび「女性の脳機能障害者は鬱病になる割合が高く、鬱で受診された方が脳機能障害と診断される」ことを不思議そうに語る。
ちょっと考えれば当たり前だと思う。
たぶん、「群れの中で上手くコミュニケーションを取る」と「上手くコミュニケーションを取れないことはストレスになる」能力を持つ個体が生き残っているのだ。
で、女性の脳機能障害は先天的に前者の能力が低いので、後者の能力だけが先行して鬱になる。
後者は恐らく痛覚機能の役割に相当するのだろう。
心の痛覚機能だけが正常に働いた結果である。
『ブラック・ジャック』に痛覚神経麻痺の青年の回があるので読んでみてほしい。
痛覚は直接的に命を守る機能なのだ。
確かに、社会性が無くて妊娠時に群れから見捨てられるまで状況改善を試みないような個体には無さそうな機能だよなと思う。

男性の脳機能障害者はこの限りではなく、明らかに社会性がなくても鬱になっておらず、心配した母親が病院に連れて行くケースがある。
男性は一生のうちに「種の繁栄のために機能不全に陥る」という瞬間がないので、社会性も心の痛覚機能も無くても死なないのである。

女性の生態はだいたいこんな感じ。

さて、では男性は「何が足りないと繁栄できないのか」だが、おそらくこれも子孫を残す力で、多分メスより力が強い事ではないかと思う。
とにかくメスを取り押さえて種を植えられるだけの力があればいい。
あとは自分と孕ませたメスの分の食糧を確保できるだけの能力があれば大丈夫。
メスと子供が気に入らなければ見捨てて別の土地でまたメスを組み敷いて種を植えれば良い。
残されたメスのコミュニケーション能力が高ければ、群れの中で誰かが世話をしてくれる。
なのでオスの場合「間引かれている」要素としては、「全てのメスより弱い」と「全く繁殖能力が無い」あたり。

最近日本で男性の生きづらさなどが問題視されているのは、恐らく現代が科学技術の発展によるコミュ力至上主義だからだ。
上記の通り、男性と女性の能力値は測り方が違い、それぞれ生産性とコミュ力が基準ということになる。
生産性の高い男性はコミュ力の高い女性と結ばれる。
で、自由恋愛はコミュ力を主軸に考える営みなので、相対的に「男の人は気が利かない」になる。
また昔と違って飢饉などの自然災害が減り、女性は女性自身の生産性で十分生き残ることが可能になってしまった。
相対的に、男性の生産性という基準は日本が安全な国になってしまったせいで異様なまでにその最低値を底上げされてしまった。
日本はかくして、発展したために収縮していく。

他方、女性のコミュ力が下がって、生産性が上がることはないだろうか?と思う。
その時は男性のコミュ力が上がらなければならないが、人類の歴史を見るとどうも「妊娠」がキーワードになりそうだ。
海外で人口子宮による男性の妊娠がニュースになった記事を読んだことがある。ウソニュースかも分からんが。
まあ、手術自体は現代の医療技術できなくはないとは思う。
でも少なくとも4万年かけて間引いてきた生態をいきなり入れ替えるのはなかなか難しそうでもある。
4万年後の未来には変わっているのだろうか。そうなると性別もいよいよ本当に選択制であろう。
42024年に期待して死ぬ。