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人間と自然(後編)

今年のはじめに、人新世や気候変動を巡る前編を書いてから、思いもよらない形で世界は大きく変わり、ずいぶん間が空いてしまった。このパンデミック自体が気候変動を遠因とするものだとも言われたり、これこそまさに「人類が地球に影響を及ぼすだけでなく、その地球が人類に影響を及ぼし始めている」人新世を象徴するものだと言われることもある。一方で、世界中で行われている行動制限によって人々の移動や経済活動は停滞し、結果としてCO2排出量が大幅に減っているという状況も、半年前にはほとんど誰も予想できなかったことだろう。

ただ、思わぬ形でCO2排出量が減っているとはいっても、前回取り上げた「火新世」や「ホットハウスアース」と呼ばれるように温暖化が加速しつつあると言われる中、その削減効果がすぐに出てくるほど世の中甘くはないようである。今年の夏、日本でも記録的な猛暑はもとより、太平洋の海面水温も例年より高い状態が続いており、これによって今後台風や前線などの勢力が強まることも懸念されている。

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気象を操作したいと願った人間の歴史

さて、このような地球規模での気象の把握や気候変動の予測を可能にしているのが、人工衛星による観測技術やスーパーコンピュータを使ったシミュレーション技術である。もちろん、地球規模での気象や気候変動は非常に複雑な現象で、バタフライ効果と言われるように、与えるモデルやパラメータが少し変わるだけでその予測は大きく変わってしまう。厳密に科学的な手続きを踏もうとすれば、地球に関わる森羅万象あらゆる要素を計算に入れなければならず、それは地球の完全なコピーをつくることと同じで現実には不可能だ。

しかし、世界中の科学者たちがその不完全さを踏まえながらも、人類が今持ち合わせている、できる限りの過去からの観測データと、できる限りの要素を盛り込んだ地球のシミュレーションモデルと、できる限り高性能なコンピュータを用いて、この先の地球の未来を予測しようと試行錯誤を続けてきた。実際、最近ではきめ細かな天気予報や雨雲の動きの予測などもスマートフォンで見ることができたり、短期的な予測の精度はかなり向上していると言えるが、では気候変動のような長期的な未来予測はどこまで可能なのだろうか?例えば『シミュレート・ジ・アース―未来を予測する地球科学』を読むと、気候変動予測の専門家である著者によるその具体的な試行錯誤の一端を知ることができる。

気候変動は地球規模の大きな課題であり、その予測は解決の糸口として重要である一方で、『ニュー・ダーク・エイジ』や『気象を操作したいと願った人間の歴史』でも語られているように、人間が技術によって気候変動を完全に予測したり、自在に気象をコントロールできると考えてきたことは幻想であったということも同時に真摯に受け止めるべきだろう。

人間と自然

ここでもう少し俯瞰した視点で、人間と自然の関係を見てみたい。「自立と依存」でも触れたように、わたしたちは資源やエネルギーだけでなく、水にせよ食料にせよ、何かしらの形で自然に依存しなければ生きていけない。人間は常にそこから自由になろうとしてきたが、資源やエネルギーには限りがあるし、災害やパンデミックなど、いろいろな形で常にその自由は制限され、手に入れた自由を失う怖れも常につきまとってきた。

農耕を始め、風車のように自然の力をそのまま利用する素朴な道具の時代から、地中に眠る化石燃料を使いはじめた機械の時代、原子力の時代、飛躍的に進化するコンピュータの時代と、人間は常に自然から資源やエネルギーを得ようとし、その力によって自然を自在にコントロールしようとしてきた。言い換えれば、人間の歴史は常に自由になるための力を得ようとしてきた歴史とも言えるのかもしれない。

自由の相互承認

人間の歴史は自由になるための力を自然から得ようとしてきただけでなく、同時に人間同士でも自由になるための力を奪い合ってきた歴史でもある。自分だけが自由に生きたいように生きようとすれば、それは自然からその力を奪うだけでは事足りず、いずれどこかで誰かの自由とぶつかりあい、人間同士の力の奪い合いが起きてしまう。みんながみんな自由に生きたいように生きることは出来ないというこの矛盾に人間はどう向き合ってきたのだろうか?

哲学者で教育学者の苫野一徳さんによれば、人類が戦争や侵略や迫害といった奪い合いの歴史を経て辿り着いた答えの一つが「自由の相互承認」であるという。

二百数十年前、ついにその答えが、まさに激しい戦争のただ中にあったヨーロッパの哲学者たちによって見出されることになりました。なぜ人類はお互いに争い合うことをやめられないのか?

それは人間だけが、〈自由〉に、つまり「生きたいように生きたい」という欲望を持っているからだ。彼らはそう考えました。

富を奪われたら奪い返し、傷つけられたら傷つけ返す。戦いに敗れて奴隷にされても、いつかは必ず反乱を起こそうと機会を狙う。すべて、私たちが〈自由〉への欲望を持っているからです。動物だったら、勝敗が決まればそこで戦いは終わったことでしょう。

そんな〈自由〉への欲望を持った人間たちが、互いに争い合うことなく、自由で平和な社会を築くにはどうすればよいのだろうか?

長い思考のリレーを通して、哲学者たちは考えました。そしてついに、〈自由の相互承認〉という原理を見つけ出したのです。

<自由>と<自由の相互承認>とは』より

お互いがお互いの自由を認め合うことをルールとした社会を作ること。それが、現代の民主主義を支える根本原理であり、人類が1万年以上におよぶ戦争を経て、わずか二百数十年前にようやく辿り着いた考え方なのだと苫野さんは言う。

わたしたちは今、お互いにお互いの自由を認め合おうという「自由の相互承認」という原理をいちいち意識しないでも当たり前のもののように受け入れている。だが、言われてみればそれは決して当たり前のものではないのだ。もちろん、Black Lives Matterに象徴されるように、今も「自由の相互承認」は完全には実現されてはいないし、実現することは不可能なのかもしれない。ただ、争いや奪い合いを繰り返してきた人間の歴史を振り返れば、少なくとも今、あらゆる人に生きたいように生きることを目指す権利があること(つまり基本的な人権)を根本から表立って否定する人はほぼいないというのはすごいことで、わたしたちはようやくそこまで辿り着いているとも言えるのだ。

もし、地球上のすべての人間がそれぞれ争いや奪い合いをすることなく自由に生きたいように生きられるほど、自然から無限に資源やエネルギーを得たり、自然を自在にコントロールすることが出来るなら、もしかしたらそれほど自由のぶつかり合いも起きず、相互承認の必要性を意識することもないかもしれない。ただ現実はそうではない。資源やエネルギーは有限だし、テクノロジーは何でも可能にする万能な魔法ではないのだ。そのことが改めてわかってきた今こそ、人間同士の「自由の相互承認」の原理が決して当たり前なものではなく人間が長い歴史の中で辿り着いた尊い一つの答えであることを認識し、どうすればよりその理想に近づけるのかを考え続ける必要があるのではないだろうか。

脱人間中心主義

「自由の相互承認」の原理は、よい社会のあり方の根本原理として、今こそ見過ごしてはいけないものである。ただ一方で、相互承認されるべき自由はこれまで誰のものだったかと言えば、それはあらゆる人々、つまりあくまで「人間」が対象とされてきたとも言える。人間同士の「自由の相互承認」もままならない中で今、わたしたちがさらに直面しつつあるのは、人間社会のことだけを考えていてはこれから先立ち行かないのかもしれないという気付きだろう。

サピエンス全史」でユヴァル・ノア・ハラリがたどり着く視点も「人類至上主義」の行き詰まりであり、「自然なきエコロジー」などで知られる環境哲学者ティモシー・モートンが指摘するのも、例えばコペルニクスによって人間が実は宇宙の中心にいるのではないことが明らかにされたり、ダーウィンによって生物学的にも人間も他の動物と同じ進化のチェーンの中にいて決して特別な存在ではないことが明らかにされてきたような、言ってみれば人間中心の考え方が崩れてきた歴史である。

こうした脱人間中心主義とも言われる考え方は、思想や哲学や科学だけなく、新しい世界の見方を提示するアートの世界や、ドナルド・ノーマン以来のユーザー中心設計やデザイン思考といった人間中心を指向してきたデザインの世界でも、例えば「ヒューマン・センタード・デザインからプラネット・センタード・デザインへ」と言われたりするように、近年ますます注目されつつある考え方である。

中心のない世界

そもそもこうした人間中心の考え方、もっと言えば〇〇中心という考え方自体が、とても西洋的な考え方だという指摘もある。

東洋的とか西洋的とか、日本的とか仏教的とか、あまり単純化して語るべきではないのかもしれないが、確かに言われてみると、少なくとも日本語で思考し、日本で育ってきた身として、例えば「やおよろず」「一即全」「色即是空」「諸行無常」「主客合一」「中空構造」などといった言葉を(それぞれの真髄をきちんと語れるほど理解しているかといえば自信がないものの)耳にした事があったり、素朴な肌感覚として、中心があまりない世界観の方が何となくしっくり来る。人間が世界の中心にいる特別な存在であるという感覚はそもそもあまり強くはなく、正直なところ、脱人間中心主義と言われても、どこかで「まあそうだよね。。」という感じがしなくもないのだ。

人間以外との「自由の相互承認」

とはいえ、である。人間都合のいいもので、人間が世界の中心にいる特別な存在だとはそこまで思っていないとしても、じゃあ、人間以外の存在にも人間と完全に同じように自由や権利を認めたり、そのために人間の自由を制限したり、極端な話、人間が滅びてもAIが地球を継いでくれればいいと思えるかというとさすがに躊躇してしまう。個人的には肉も食べるし、エコロジカルな生活も、意識はしていてもなかなかそこまでストイックには出来ていないのが正直なところだ。

つまり、脱人間中心主義が問おうとしているのは、「自由の相互承認」を人間以外にも拡張できるか?という問いとも言えるのではないだろうか。それを当たり前のように認めるには、それこそブッダのように悟りを開くレベルのマインドシフトが必要ではないかとも思う。

サピエンス全史」で、ハラリはホモ・サピエンスの最大の特徴は認知革命、すなわち言語によりフィクションを創造し共有できることであり、貨幣や国家や宗教や科学などもある意味今のところわたしたちが信じて疑わないフィクションに過ぎないといい、人類至上主義というフィクションからのアップデートの必要性を説く。ちなみに、ブッダとは「目覚めた人」という意味だそうだが、ハラリは毎朝2時間と毎年2ヶ月間の瞑想を行っているらしく、もはやブッダというか、それこそ目覚めた人という感じがするが、なかなかその域まで到達することは難しいのではないだろうか。ただ、そのような問いを立ててみることで、自分が信じて疑わないフィクションの外側に別のフィクションが存在するかもしれない可能性に目を向けること、想像力を働かせて違う世界の見方を垣間見ることには、それだけでも大きな意味があるように思う。

未来の人間との「自由の相互承認」

最後に、わたしも含めて、そうは言っても脱人間中心主義はなかなかハードルが高いなと感じる人のために、もう少し現実的に受け入れやすいかもしれない視点を提示してみたい。

「サステナブル(持続可能な)」という言葉は、今やあらゆるところで目にする言葉になったが、「Sustainable Development(持続可能な開発)」という用語が最初に使われ、SDGsの源流とも言われる1987年の「Our Common Future」というレポートによると、「サステナブル」とは、

meets the needs of the present without compromising the ability of future generations to meet their own needs.
将来の世代が彼らのニーズを満たす能力を損なうことなく、現在のニーズを満たす

こととされている。そこでフォーカスされているのは「人間以外の存在」ではなく、あくまで「未来の人間」だ。

人種や出生や能力に関わらずあらゆる人間が生きたいように生きる権利を認めようとするところまで辿り着いた現代の人間社会の根本原理が「自由の相互承認」であるなら、脱人間中心主義は「自由の相互承認」の種を超えた拡張であり、サステナビリティは「自由の相互承認」の時間軸を超えた拡張だと言えるのかもしれない。個人的には、人間中心主義を改めることや、地球のために、と考えることは倫理的には理解できてもなかなか日々の行動原理とすることはハードルが高い。それよりも、あくまで人間社会という枠の中に「未来の人間」も含めようという考え方の方が現実的だと感じる。

サステナブルとは、子どもたちやその先の孫たちの自由を奪わないこと。

回り回って、なんだか当たり前すぎる結論に辿り着いただけという気がしないでもないが、脱人間中心主義のように思考の枠を広げることと同時に、様々な議論や思想に振り回され過ぎず、これなら素直に行動原理に取り入れられるという基本的すぎるくらい基本的なことに改めて立ち帰ってみることも大事なことかもしれない。

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