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いつかは、必ず死ぬのです。
お目通しくださり光栄です、移動する安心の家 西陣の拝み屋です。
本日8/24(水)は神奈川出張営業初日、相模大野ナルコカフェさんにて営業します。
神奈川営業中も、一部オンライン対応可能です。
お問い合わせはこちら

半年ぶりの神奈川定宿での朝を迎えています。
遠隔介護による医療移管で大阪から神奈川へ
移管した親の通院。
移管後の外来に立ち会うため始まった神奈川
通い、どうせ帰るなら皆さまのお顔を見てくる。
そんな思いで決めた神奈川営業の再開、今回も
いつも通り相模大野ナルコカフェさんを拠点に
一日半の対面受付をしています。
(ナルコカフェオーナー、いつもありがとう
 ございます)
この春から大阪の外来に立ち会い、半年間関西の
医療機関と交渉してきました。
そして、今回は移管した先の神奈川の医療機関へ。
白い巨塔の前に立つと、12年前の医療過誤訴訟の
日々を思い出し、体に力が入ります。
あの5年半は大学病院相手にカルテの保全をしたり
市民病院(大学病院から市民病院に医師が派遣され
医療過誤が起きたケースだったので厄介でした)を
相手に訴訟までの事前交渉をしたりと、まあまあ
なかなかハードでした。
家には受験生もいましたし、婚家の姑も事故に遭い
途中からW介護状態に。
そう考えると頑張ってたやんな、わたし笑

この訴訟のきっかけは、10年に0.001%の発症率と
される白内障術後眼内炎で父が片目を失明。
その後、半うつ状態に陥った中「親の余生の過ごし
方」をテーマに靈氣療法家としての自分が試される
かの如く提訴する決断をしたのです。
当時まだ30代、弁護士探しをゼロからやりながら
司法について学びを得た時期でした。
医療というものの位置付けと、患者というものの
スタンス、そして補完医療である靈氣療法家の
立ち位置を明確に身体で覚えた気がしたあのころ。
振り返ればあのときも「勝てるか否かではない、
死ぬとき父が後悔しないように、本人が気が済む
まで戦わせる」という一念からがはじまり。
結果5年を過ぎたころ家裁から和解提示があり
結審、しかし市民病院から和解金が支払われると
いうことの大変さを知るのはこの後で。
NHK全国ニュースになるような訴訟だったと
知ったときには、軽い衝撃が走りました。

さて、今回久々関東の病院。
初めまして、のドクターからにこやかにこう
言われました。
「僕の方針は、85歳で内視鏡は卒業だから」
なんかね、軽く衝撃だった笑
なぜなら両親に残された時間があと2年くらい
だったから。
ドクター曰く内視鏡検査に脳がついていかない
ときのリスク回避とのお話、まあ母はすでに
認知症ですからね。
ここで、むくむくと靈氣療法家としての意識が
起きてくる。
検査しません=西洋医学ではなにもしない
=代替医療分野が担当になる、ということ。
晩年の看取りについて、新たな学びをせよ、
という命が出たのだな、と思うわけです。

人が人らしく逝去する、魂の尊厳を保ち
逝去する、それってどんなことやろう。
それを学んでいる気がする今回の遠隔介護、
この半年で親の意識は確実にネガティブな
死からポジティブな死へとシフトしました。
「長生きしなければできないこと」という
フレーズが聞かれるようになり、「死ぬ間際に
つまらないのは嫌だから、あの家で死にたい」と
口にするように。
最も、家で看取れ、ではなく。
動けなくなるまでここでいつも通り暮らして
いたい、と願うようになったらしいのです。
故人の通訳をしてきて、完璧な看取りなど
ありはしないと知っています。
尽くした人ほど見送ったあとの悔いが大きい、
反対に放置された人ほど御霊が「違う還方を
したかった」と言われる傾向が高い。
結局は、命の使い方なんやと思うのです。

父方の祖母は「悔いはない」と言いながら逝き、
母方の祖父は「まだ死にたくない」と言いながら、
逝ったそうです。
母の憧れは父方の祖母のような逝き方だそう、
命の使い方を学んでいるなあ、と思います。
それは同時に見送る側の命の使い方も問われて
いることを意味する。
しっかりせねば、と、思うわけでして。
いやー、人間なにごとも学びだなあ、と
思います。
昔のCMに「バファリンの半分は優しさで
できている」というのがありました。
えみこの半分は、なにでできているんやろう、
優しさならいいな、と思うけど。
本当に優しさだけで半分を構成するには、
まだまだ至らない、と強く思う8月の終わり。

雨予報なはずの神奈川は、今日も快晴です。
西の女修造、現在っ!笑。

日本に数えるほどしかいない故人の通訳。イタコでも口寄せでもなく三者面談風にお筆書きという自動書記を使い故人と遺された人をつなぎ明日を照らす活動をしています。サポートくださると嬉しいです。よろしくお願いいたします。