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秋の虫が呼び込むもの

 秋になって虫が鳴き始める。
 そう聞いて、少し涼しげな、心細げな秋の夜を感じるのはなぜだろう。

 先日、我が家に一匹のコオロギがやってきた。
 小学校の授業で、子供が捕まえてきたのだ。虫を捕まえて、家で飼ってみましょう、という授業だったらしい。無茶振りにも程がある。

 突然コオロギ様にやってこられても、何をお食べになるのやら。とりあえず、透明な惣菜パックに入ってご帰宅されたコオロギ様を、押入れにしまっていた虫かごに入れなおした。一緒に持ち帰った土も入れ、ネットを斜め読みしつつ、大根の皮で隠れる場所を作り、少量の鰹節を大根の上からパラパラとふりかけた。

 その晩、コオロギ様は、リリリリリと数回、綺麗な音色を披露して、子供たちを喜ばせた。


 夜も白み始めたころに、それは突然始まった。

 「リリリリリ」ではない、濁音一歩手前の連続音が、最大音量で家の中に響き渡る。目覚まし時計ではない。コオロギの鳴き声である。扉一枚隔てたくらいでは無視することなど出来ない凄まじい音の圧力。熟睡していた子供たちも目を覚まし始めた。昨晩の慎ましやかな音色は何だったのか。

 仕方なしに布団から這い出て、扉三枚隔てた洗面台の前に虫かごを移動させた。次の日からコオロギの寝床は洗面台の前になった。
 まったく、コオロギ様には恐れ入る。子供たちも苦笑いだ。

 秋になって虫が鳴き始める。そう聞けば、涼しげな、儚げな想いがたち上がる。とはいえ、少なくとも、至近距離で聴く虫の鳴き声は、繁殖への意欲みなぎる、生命の叫び声であった。つがいで飼えなくて、本当に申し訳ない。

 原野において、いっせいに鳴くさまざまな虫の声は、まさに天地を圧し、耳を聾するばかりである。そのような虫の音の交響楽は、とてもわびしいとか、悲しいなどと感じいるようなものではない。(平安京という)人工的に造られた都市空間のなかの、これまた人工的に自然を模した前栽とか坪と呼ばれた庭に、細々とこおろぎや鈴虫が鳴いて、そこにはじめて秋の夜のわびしさが感じ取られたのであろう。
笠井昌昭『日本を知る 虫と日本文化』(大巧社)
( )内の記述は引用者

 どうやら秋の虫への情緒は、平安京という、人工的な都市のなかだけで暮らす人々が定着させたようだ。それ以前の奈良時代では、本貫地などの都市の外から、都市の中へと通う人々が多かったという。

 原野を知らず、土に依らない新しい平安京の生活が、秋の虫に新しい価値を見つけ、人々の間で共有することを促した。一方で、令和のコオロギ様は、一匹の鳴き声でもって我が家を圧し、家の中に「原野」を甦らせた。以前の我が家は、「都市」だけだったのだ。そう考えると、早朝の浅い眠りも致し方なし、と少し諦めがつく。何の知識も経験もない自分には、手のひらサイズの原野とて、制御するなど烏滸がましいことなのだ。

 そういえば、小学生の頃、夏祭りの前後だったと思うが、どこからか、父が鈴虫を四、五匹買ってきた。いい声で鳴くだろう、と自慢気に虫かごを玄関の棚の上に置いた。母がきゅうりなどを与えるのを家族で眺め、数匹が涼しそうにリンリンと鳴き声を重ねた。

 数日して、父は鈴虫を庭に放した。庭で鳴く方が趣が出るのだと、鳴き声のする方を見ながら、呟くように言った。

 鈴虫を飼っていた数日、もしかすると、我が家の玄関は、生命溢れる「原野」になっていたのかもしれない。昔のことなので覚えているか分からないが、今度、父に尋ねてみようと思う。

(*1) このnoteは、リレーマガジン「Feature FUTURE」に参加しています。