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タイミングと縁と自由とか

今週は療育が二つ詰まっていて、ぎゅっとしていた。今日の分も今日中に園の先生方にお手紙にしないとすぐ忘れちゃう。
#キャンディみたい


昔からタイミング、みたいなものをすごく敏感に捉えるタイプの子どもだった。
誰にならうわけでもなく、「今、この瞬間じゃないと、意味ないのーーー」みたいなことを小さい頃から、というか小さい頃は本能でわかっていた気がする。父はわたしのことをわがままだとよく言っていた。

最初は並走していたはずの電車が、スピードや、すすむ角度が一度ずれるだけで全然違う方向に行っちゃうんだって話から、
「同じスピード感で成長しないとずっと一緒にはいられない」とか「向き合うんじゃなくて、同じ方向を向いて進むことが大切」ということよく言うけれど、そういうの含めて、今、このタイミングで一緒になる、出会う、から縁は面白い。奇跡。たいせつ。でも執着しない。

西野さんの新作絵本「みにくいマルコ」がとってもすきなやつだった。
西野さんは過去に、本当は一緒にいたかった人、というのが何人かいたんじゃないかなと思う。一緒にいたいというのは感情。でも西野さんは表現者。こうでしか生きられないけれど、だからこそ空を見上げれば遠く離れた場所からでも届けることがかなう場所に立ち続けること・挑戦、表現し続けることで、メッセージを送り続けてるんだろうな。西野さんのそういうロマンチストなところがすき。

自分の性格というか、タチみたいなものは曲げるもんじゃないなぁと思うし、そういう部分は相手にも合わせてほしいとは思わない。
そのままの個性を輝かすことで、それを必要とする人や場所がパチンとはまってくる。いかに素直になるかだけ…それに、いつかまた流れが同じになるんだよな。長いお付き合いはいつもそう。
(とはいえ、やっぱりいつの間にか合わせてしまう癖は気をつけないと出る)

さんたにもそういう事を伝えればいいのだとわかった。ほっとした。



西野さん、いつも舞台裏まで明かしてくれるの最高なのだけれど、どこまでいってもエンターテイナーとしての仮面は脱がなくて、もはや仮面なんてないのかもしれないけれど、そこが一流だなって思う。「尊敬」や「憧れ」と「同情」は両立しない。このSNS全盛時代に、SNSをせず共感とかキャラを売らなかった安室ちゃんもだけど、やっぱりそういう表現者はカッコいいな。
そういう人の作品や言葉は強烈な引力がある。だめな自分も見せて共感で巻き込んでいく流れがあるけれど、好みは、潔い、「こうでしか生きられないんです」な生き様に惹かれるのです。出すのと、出ちゃうのはちがう。本物のビリビリするものがすき。




さて、次の読書会のテーマ「自由」もなかなかおもしろくって、読書会以前のそれぞれのやりとりが、またたのしい。あらためて考えるわたしの「自由」とは。逆に制限とか不自由さに気づける力とそれを突破していける力。だとおもった。いまのとこ。

枠のなか制限のなかで生きてるようにみえても本人が気づかないのならそれはそれで自由で幸せ。逆に自由にどうぞと真っ白なキャンバス渡されたほうが本人には不自由なのかもしれない。

不自由を感じ、なんかやだな…苦しいな…って思った時に、その不自由を選択しているのは自分で、本当は仕事やめたっていいし、離婚したっていいんだと気づけたら、また次の扉がひらいて一つ上の層の自由にでていく、というイメージ。

でもそれは、日本という環境あっての話なのか。いやそうとも限らないのか。自由の定義ってなかなかだな。ホリエモンも獄中でも色々やってたもんな。
わたし目線でいえば、あれこれ言ってるうちはそれが自分にとっての今の自由なんだなということ。

本日は、昨日ののこりで焼きカレー。ご飯しいて、カレーかけて真ん中くぼませたとこに卵落として、とろけるチーズとパン粉ふって、こんがり焼いたら完成。
焼きカレーたべるためにカレーをつくるくらい最高。

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