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元カレとはグランジである

俺のツイッターで、この話題を続けるとフォロワーが激減するというトピックは2つある。
 
1つはアニメ「空手バカ一代」だ。

これはわかる。ムサ苦しいキャラクター、突然入ってくるJFKの暗殺フィルムみたいな質感の実写パート、軍歌みたいなオープニングとエンディング曲…

仕事や家事の合間のひと休憩中に、せっかく開いたツイッターから「ちぇすとー!」などと言われたら、そりゃフォローを外すのも理解出来る。

そして2つ目は今回話したい「元カレ(顔)」のツイートである。

これがなぜか評判が悪く、1ツイートにつき毎度5 人位減っていくのだ(空手バカ一代は一気に10人くらい減ってくが)。

そんなにフォロワー数に命をかけているわけではないが、ガンガン減っていくのを見ると、さすがに凹む。だが「元カレ」はなぜか俺にはツボな存在なのか、ここで俺の思いの丈を書き殴りたいと思う。


■元カレさ、とは何か

さて、元カレと言っても色々いるわけである。文字だけで言えば聖徳太子だってマッカーサーだって、元カレといえば元カレになりうるわけなのだが、俺の中の”元カレ”はなんと行っても若い頃のTHE BOOMのボーカル、宮沢和史さんである。

もしくは、若い頃の筒井道隆さんだ。

もちろん俺は、彼ら2人の性格などを全く知らないので、勝手にメディアで作られた過去イメージだけで語っている。もちろん今は違うハズである。

ここで若い頃の2人に共通するのは

・BEAMS着てそう
・玄関に、なんか茶色の変なラテン語書いた地球儀置いてそう
・優しそう
・奥ゆかしそう

である。

BEAMSとか地球儀はどうでもいいとして、言いたいのは後半2つだ。


これは言い換えれば「別れてもまだ、彼女を忘れられずに思い続ける一途さ」である。美しく言えば、だ。

■エレカシの宮本さん

似たような世代で、かつ同じ宮がつく、例えばエレカシのボーカルの宮本浩次さんはどうだろうか。ここでいう元カレの要素はあるだろうか。

否。彼は俺の思う元カレさ、はない。

例えばだ。元カノが来る結婚式の二次・三次会があったとしよう。

おそらく宮本さんは来ない。「ふざけんなー!あんなやつと一緒の空気吸えるかクソがー!」とわめきながら、街路樹に血が出るまでパンチを繰り出している姿は容易に想像できるだろう。たとえ彼女に未練があってもだ。

そう考えると聖徳太子もマッカーサーも二次会には来ない。聖徳太子はBEAMS着てなさそうだし、元カノが来ると聞いて街路樹にパンチはしないと思う(マッカーサーはしそうだが)とはいえ、結局2人ともちょっとでも嫌なことがあったら来ないと思う。


一方、宮沢さんは来る。絶対来る。しかも多分メガネをJinsで買って新しいやつで。筒井さんも来る。多分シーブリーズの匂いを漂わせながらだ。

そして2人とも遠くで、元カノの笑っている姿を切なく見つめる。

もちろん、元カノのツレの面倒くさそうな女が、「あ、宮沢くん!久しぶりー」と空気を読まない余計なことをして、元カノの近くに彼を呼ぶ。彼は近くで彼女をまた、さらに切ない目で見つめる(BGMはDEENのティーンエイジドリーム)のが、凄まじい解像度でみんなの脳内に映像化できるであろう。


■恋しさと愛しさと図々しさと

なにが言いたいかと言うとだ。

奥ゆかしくて優しそう…一途…しかしながらそれは表裏一体で、あわよくばヨリを…的な図々しさを持って現れ、しかもそれが叶わないであろう間抜けさ

その共存さこそが”元カレ”であり、そこに俺は惹かれるわけである。

そしてそれを「いかにもやりそう」というのが重要で、単なる女々しく「捨てないでくれよう」と言ってしまう輩や「おい!俺はまだ愛しているぜ!」と口に出してしまうマッチョな輩な雰囲気ではダメなのだ。若い頃の宮沢さんも筒井さんも、そこはグッと堪えている感が大変素晴らしい。

そう、彼らの姿で思い起こされる感情は、ミルフィーユのように多層なのだ。


■元カレとはグランジである

さて、突然話は変わって、俺の好きな音楽のジャンルに「グランジ」というのがある。90年代くらいに流行り、今はほぼ死滅してしまったとみなされているジャンルだ。

90年代当時はブリットポップvsグランジみたいな構図が実はあって、英国では(2度言うが英国だけな)やっぱ今考えるとブリットポップが勝利したんや!と今ではレトロ・ネタにされるジャンルでもある。

グランジの定義は、ファッションが絡んできたりすると(ファッション用語でもあるらしい)ややこしいのだが、俺の定義でいうと

笑いながら怒ったり泣いたりする音楽」

である。言い換えると、「怒りや絶望が頂点に達し、笑ってしまっている音楽」だ。ただ単に怒るのはパンクだし、ただ泣くのはサンタナ(ちょっと違うが)とかなのだが、グランジはカッコいい爆音ロックに(自虐的な)笑いが入った、それはそれは素晴らしい音楽である。これは下の2つのビデオでだいたいわかると思う。

ときどき俺が「そのバンドはグランジちゃう!ただのハードロックや!」と怒っているときは、だいたい笑いが入っていないやつだ。あと、「イェー!」をかっこよく叫んでしまえるバンドだ。

根本は激しい音楽でありつつも、エヘヘと笑いながら怒ったり嘆いたりしているというのはとても俺に衝撃的で、なんてカッコいいのだ!と思ったのだが、それは俺の中の”元カレさ”にも通じるものがある。

笑いと怒りが共存した音楽と、一途さと図々しさとマヌケさが共存したキャラクター。方向性は違うが、どちらも「なにをやってんだお前は」という、どうしようも無さが、俺には大変心地よいのだ。


■俺たちの元カレ

このへんのどうしようも無さというか、苦味というかは、もしかしたら「侘び寂び」とか「ヴィンテージ」というジャンルの中にいい言葉があるのかもしれない。俳句に漂うなにかの気もするが、いいボキャブラリーが俺には今はない。もしかしたら外国語にいい言葉があるのかもしれない。

長々と書いたが、”元カレ”という言葉には、そういう人生の苦さが含まれていて、俺はしみじみとするこの感情を、ついツイッターに熱くぶつけてしまうのである。

いい元カレさを見出した時、例えば骨董屋がイイ品を見つけたときなんか騒ぐとおもうのだが、あれに似た感情がある。これはいいヒビ具合だ!みたいな。

だから、俺がツイッターで元カレの話をしてたら、許して欲しい。その時の俺は、大変幸せな時だと思うので。

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