【毎日投稿】世界イチ頭の悪い『シン・エヴァ』感想【3分記事】
こんにちは!
私とエヴァンゲリオンの出会いは、1996年頃に友達の家で読んだコミックスでした。当時のエヴァは賛否両論、そもそもエヴァに気付いている人間が少ない中、90年代の僕は兵庫県の片田舎で友人と「俺たちだけがこの作品の”異様さ”に気付いている」という全能感に包まれながら中二病的な思考でエヴァを消費していたのを覚えています。
しかし、時は流れ2000年代、エヴァンゲリオンは知る人ぞ知る名作ではなく、ファッションサブカルオタクの一般教養のような扱いになりつつありました。エヴァに気付いているというアイデンティは失われ、主題歌である「残酷な天使のテーゼ」が地上波のアニソンランキングで毎回1位になるのを目撃するたびに、「もう(俺たちにとっての)エヴァは終わったな」という気分になったのが本音です。かつての”異様さ”は失われ、大衆エンターテイメントへの迎合が始まるのが想像に容易かったからです。
これは俺たちのエヴァの葬式だ
「ヱヴァンゲリヲン新劇場版:序」が公開された2007年、古くからのファンの間では「これは俺たちのエヴァの葬式だ」とささやかれました。実際、映画館の周りを見渡すと、明らかに自分とは違う”陽キャラ”な人種。「明らかにエヴァンゲリオンなんか観る類ではない」客層の増加に、エヴァの大衆化を身をもって感じたものです。我々オタクの両手からエヴァが離れ、ワンピース化していく、その心情をエヴァの葬式と比喩したのです。
「序、破、Q」の観た直後の感想については、大衆化したエヴァの2次創作が始まったという特定界隈からの意見に、私自身もほぼ同意でした。「取り敢えず公開されたから観た」まさにそんな感じで、動物的かつ無機質な作業が3回あっただけだったと記憶しています。
歯に挟まった小骨を取るように
正直なところ私自身、エヴァに対する熱は冷めているわけでもなく、熱しているわけでもなく、常温という感じでした。むしろ、スターウォーズシリーズの繁栄と失速、マーベルシネマティックユニバースの隆盛、この25年はエヴァの外側でいろいろなことがありすぎたので、エヴァについては「最近、よく広告に使われてるなー」ぐらいにしか思っていませんでした。とはいえそれでも、「シン・エヴァンゲリオン」公開初日(3/8)に池袋の映画館に足を運んだ私ではありました。体が勝手に動いたのです。
いま思い返せば「歯に挟まった小骨を抜きたい」ぐらいの気持ちで劇場に向かったのかもしれません。何かつっかえた違和感を拭いたい、その欲求があった気がします。
そして本題へ、シン・エヴァ感想(※ここからはネタバレを含みます)
序盤
終盤
上映後
上映中は大体、こんな感じでした。
率直な感想としては「なんてマイルドな味わいなんだ」でした。上映後しばらくは『ひぐらしのなく頃』~『ひぐらしのなく頃解』を25年間かけて見せられたらこんな感じなんだろうなーと少し他人事のような気分でした。しかし、徐々に自分の中でも整理がついてきたので4つのポイントを書いていきます。
1:集合知で作ったエヴァ
庵野秀明監督は今回のエヴァに多くの制作者を関わらせて、とにかく意見を出させたと聞きました。絵コンテも鶴巻和哉監督と中山勝一監督に任せたようです。つまり、集合知による多数決で作ったエヴァといえるでしょう。結果的にとてもマイルドで大衆が満足しそうな作品になっていました。
これは邪推ですが、庵野秀明監督は「自分だけでエヴァを作っても、また旧劇場版みたいになる」と察したのかもしれません。だからみんなで作ろう。と
2:シンジからゲンドウへ
庵野秀明監督は自分の身体を要素分解して、作品中の登場人物に投影させる監督であるのは有名な話です。シンエヴァで、ゲンドウの心理描写の比重が高まったのは、25年経ったことにより庵野秀明監督自身がシンジよりもゲンドウに感情移入しやすくなったことなのかなと思いました。この辺の庵野監督のライフステージの移り変わりとの紐付き方は、庵野ファンに向けたサービス展開だった気がします。
3:マリという異物
新キャラのマリをどう処理してくるか?が、シンエヴァの1つの焦点だったと思います。このマリというキャラ、ファンの間では「破」公開当時から「キャラ自体はコミックスには登場しているものの、言動がエヴァっぽくない」と悪口を言われていました。当時の私はそこまで批判的では無いものの「なんか西尾維新っぽいなー、マーケティング的にこういうキャラがウケると思ったのかな」ぐらいにしか考えていませんでした。
シンエヴァを観た後の今の気持ちとしては、エヴァを違う世界線につれていくという観点では、劇薬であったマリの投入はまんまとハマったと思いました。これも邪推ですが、庵野秀明監督は旧劇場版と同じ過ちを繰り返さないために、何かのイレギュラーを投入する必要があると判断したのかもしれません。若い力でエヴァを再構築するという「序」からの制作方針と組み合わさり、自分でも制御しきれるか分からないキャラクターを登場させて、制作陣のみんなに2次創作的にマリを処理させる。ここまでの下準備を行って、やっとエヴァは地に足つけた結末を迎えられたのだと思います。(※今となっては”胸が大きい”という蛇足に思えるワードすらも、過去のエヴァヒロインに対するカウンターだったとも考えると味わい深いです)
4:恋愛は一途じゃなくても良い
これはマリとシンジがくっつくという物議を醸しそうなエンドにも関連する話ですが。(前提として、原作のマリは庵野秀明監督の奥さん、安野モヨコさんが元ネタとされているのは有名な話なので記しておきます。そう考えるとカップリングに違和感はないかも。)シンエヴァでは、アスカとケンケンがくっついたり、キャラ同士のカップリングがシャッフルされています。シンジもレイでもアスカでもない、第三の選択肢としてマリと仲良くなりました。
これは明らかに、ゲンドウとシンジの対比といえます。
ユイに固執していたゲンドウと、一途じゃなくても良いと気付いたシンジ。この対比をより印象的に魅せる上でも、中盤の田舎でのジブリっぽいポストアポカリプスの農村シーンや、衝撃的なマリENDは必要な要素であったと、個人的には納得しました。(レイENDでもアスカENDでも賛否別れそうなので、第三者のマリENDは軟着陸させるという観点ではベストな着陸位置だったと思います。)
さいごに
旧劇場版ラストのファンを突き放すメッセージや、シン・エヴァの終盤(原画や小道具やプロジェクターで旧作が映し出されるシーン)からラスト(実写と混ざっていく部分)については、庵野秀明監督からの「いつまでもエヴァなんか観てないで、大人になって現実を生きろ」というメッセージだという考察はよく目にしますが、個人的にはその庵野秀明監督からのメッセ―ジについては、時代を経るごとのにあまり意味を成さなくなっている気がしてきているので、今回は深くは言及しません。
何故ならこの25年でエヴァを含めたアニメの地位が上がってしまい、ビジネス的に多くの大人が関わり、多くの興行を生んでしまっていることで、そのメッセージにメタ的な説得力が無くなってきているからです。今となっては、あのラストには(旧劇場版の時と同様に)”エヴァファンを突き放すほどの批評性がある”という主張には無理があるというか、むしろ昔の庵野監督のメッセージを引き合いにだすことで、今作のメッセージがしょぼく見えると思ったからです。その点から、シン・エヴァのラストに関しては単純に「庵野秀明監督の出生地である、宇部新川駅が出てきた」ぐらいのテンションで捉えました。
最後まで読んでいただきありがとうございました。詳しい考察は他の方に敵わないので、私からは、エヴァンゲリオンという”現象”と浅く長く付き合ってきた古参ファンから本心からの感想をお届けしました。同じような心境の方に届くと嬉しいです。ちなみに今作で「エヴァを完全に終わらせた」と話す人が多いですが、むしろ「何回も作り直せる形にした」ように思いました。これは庵野監督のエヴァが終わっただけで、庵野監督は若いクリエイターの為に、エヴァをガンダムのように何度も作られる状態にフォーマット化したと思いました。自分以外の誰かがエヴァを作ることを庵野監督が望んでいるかはわかりませんが、少なくとも庵野監督は「絶対にエヴァが作られない状態」にまで仕立て上げる権利は自分には無いと判断したのかもしれません。
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