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なぜ劇場版SEEDは成功したのか?-「訓練されたファン」に捧げられた制作陣からの上納品-『機動戦士ガンダムSEED FREEDOM』(※全編無料)

『機動戦士ガンダムSEED FREEDOM』が興行的に大成功を納めており、個人的にも楽しめたので「本作は何なのか」「本作はなぜヒットしたのか」について記事を書くことにした。

随所でネタバレをするので作品鑑賞後の閲覧を推奨するが、本作そこまでネタバレするようなこともない(というネタバレ)ので最後まで読んでいただきたい。(※全編無料です)


「SEED Destiny」の続編というよりも「SEED ミーム」の続編(20年間育まれた)


『機動戦士ガンダムSEED FREEDOM』は『機動戦士ガンダムSEED DESTINY』(2004年)の続編であり、前作から1年後を舞台にしている。

20年後の制作・公開となった『機動戦士ガンダムSEED FREEDOM』だが、この歳月が『機動戦士ガンダムSEED FREEDOM』に与えた影響は大きい。明らかに『機動戦士ガンダムSEED FREEDOM』は『機動戦士ガンダムSEED DESTINY』の続編というよりも、20年間ファンによって醸成された「ガンダムSEED ミーム」の続編となっている。

劇中、登場人物たちが「性行為」のことしか考えておらず、「"愛"さえあれば大量破壊兵器を所持して武力制圧してよい」というロジックが展開され、主人公が「マネジメント能力を身につける」ためのお膳立てとして放たれる核兵器&犠牲になる数十万人の人々。

私も劇場で観賞していて「当時のSEEDってこんな作品だったけ?…うーん、なんかこんな作品だった気がしてきた」と多少の違和感を覚えつつも妙に納得して劇場を出た。

この違和感は『機動戦士ガンダムSEED FREEDOM』が『機動戦士ガンダムSEED DESTINY』の続編ではなく、ファンの2次創作やネットミームによって醸成された「ガンダムSEED ミーム」の続編であるということで説明がつく。

『機動戦士ガンダムSEED』シリーズの脚本家・両澤千晶氏の死去も影響しているかもしれないが、『機動戦士ガンダムSEED FREEDOM』に関しては、『機動戦士ガンダムSEED』が本来「描きたかったこと」を継承することよりも、ファンの脳内にある(20年の年月で醸造された)「SEEDのイメージ」を優先した続編になっている。

制作側にどのような意図があったかは分からないが、「きっと我々よりもファンのほうが詳しいから逆らってはダメだ」と制作側は考え、結果的に『機動戦士ガンダムSEED FREEDOM』は、訓練されたSEEDファンに向けて、制作側が上納したような作品となっている。

これは所謂、ファンムービーのような「ファンに媚びた」作品というよりも、「ファンに敬意を表して献上した」作品であるように感じた。

どちらかというとAV(アダルトビデオ)に近い?


これは他でも指摘されていることだが『機動戦士ガンダムSEED FREEDOM』という作品は、前半と後半でテイストが変わる。

前半と後半で脚本のメインライターが異なっていることが影響しているとのことだが、確かに前半は「倦怠期カップルを取り巻く恋愛ドラマ」&「悩める中間管理職のセラピーモノ」であり、後半は「IQ皆無のヒーローバトル」になっている。前半のストーリー部分は(多少冗長的に感じつつも)後半の戦いを面白く見せるためのお膳立てとなっている。

『機動戦士ガンダムSEED FREEDOM』で得られる視聴体験はロボットアニメというよりも、どちらかというとAV(アダルトビデオ)にイメージが近く、序盤から中盤までは予定調和的な物語を展開して、後半からクライマックスにかけては「様々な体位」でモビルスーツをカッコよく見せてくる。特に後半は所謂「ヌキどころ」となっており、映画を周回するファンはほぼこの後半部分が目的だろう(劇場版『鬼滅の刃』も同じようなことがいえる)。

(後半部分は)爆音で流れる懐メロ、演説、大量破壊、色恋沙汰、ヌーディストビーチ、『機動戦士ガンダムSEED FREEDOM』におけるメインコンテンツであるのは間違いなく、既に違法アップロードの切り抜きが世間には散乱している。プラモデルの販売促進も兼ねているのは言うまでもない。

『機動戦士ガンダムSEED FREEDOM』がファンムービー堕ちしたことを批判する声もあるが、ファンムービーを超えてもはやAVだったので、ここまで”右脳”に振り切ったのは立派な”進化”であり、『機動戦士ガンダムSEED 』でしかできない芸当の1つだといえる。ここまでの振り切り方は、他作品が手を出しても火傷するだけの「再現性のない」手法なのではないだろうか。

「仮面の男」の不在 / ”自由”を手にした「コズミック・イラ」


最後に『機動戦士ガンダムSEED FREEDOM』が従来の「ガンダム的な様式美」から解放されたことについても触れておきたい。

『機動戦士ガンダムSEED FREEDOM』には「仮面の男」が出てこない。これは『機動戦士ガンダムSEED』(ミームも含めた)のコンテンツ強度が従来のガンダム様式のコンテンツ力を凌駕して、「仮面の男」要素の締め出しに成功したということに他ならない。

今回の『機動戦士ガンダムSEED FREEDOM』の映画化で、最も「自由(フリーダム)」を手にしたのは「コズミック・イラ(C.E.)」という架空年代記なのかもしれない。ガンダムシリーズの呪縛から解き放たれ、独自の経済圏と固定ファンを携えた『機動戦士ガンダムSEED』は唯一無二のシリーズ作品となった。

次回作『機動戦士ガンダムSEED JUSTICE』が作られるのが楽しみである。

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