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興行化したeスポーツは”美徳”を維持できるのか

サブカルチャー
ポップカルチャー
ハイカルチャー

かつてゲームはサブカルチャーだった。そして、ゲームはeスポーツという名前を手に入れポップカルチャーになりつつある。ポップカルチャーになると、大衆向けのコンテンツと肩を並べることになる。

大衆向けになると、大多数に刺さるように表面的な訴求ポイントを攻めることになる。大衆向けコンテンツの売り文句のほとんどが、イケメン、美女、派手な演出、賞金額に傾倒していく。人は難解なルールやテクニックよりも「ぱっと見の、わかりやすさ」に惹かれる。宮台真司の意味から強度へを象徴している。

この記事では、ゲームとeスポーツ興行化と大衆化について、3つのカルチャー(サブカルチャー、ポップカルチャー、ハイカルチャー)の関係性に置き換えて整理していく。

1:サブカルチャー→ポップカルチャー

”eスポーツ”はゲームをサブカルチャーからポップカルチャーへと変質させるための装置といえる。一般的に、サブカルチャーからポップカルチャーへの移行は多くの摩擦を生む。トッププレイヤーのテクニカルなプレイよりも、選手の外見や演出、カリスマ性、選手同士の関係性が優先される。当然、従来のファンからすると価値の本質がシフトしているので違和感を持つ。これはハイコンテクストな魅力をローコンテクストに落とし込んだ結果といえる。

2:サブカルチャー→ハイカルチャー

一方、サブカルチャーからハイカルチャーへの変質はスムーズだ。コンテクストの高さは維持されつつ、ブランディングによって高尚なコンテンツへと昇華する。価値の本質はシフトしていないので違和感は抱きにくい。なおかつビジネス面でも機能している。美術品が良い例で、少数精鋭のコミュニティの中で、ハイコンテクストな魅力がハイコンテクストに処理され「あれは良いモノだ悪いモノだ」と品評されつつ数億円の値段ついていたりする。必ずしも、大衆向けにしないと価値が出ないわけでは無い。

疑問

ここで気になったのは、どうして何もかもがポップカルチャーに移行してしまうのかだ。10年、20年程度の短い歴史のコンテンツをハイカルチャーに昇華させるノウハウが無いからなのだろうか。ポップカルチャーに経済合理性があり過ぎて立う向かうことが出来ないからなのだろうか。

また、eスポーツがゲームをサブカルチャーからポップカルチャーへと変質させたのであれば、ゲームをサブカルチャーからハイカルチャーへと変質させるのは何が担うのだろうか。以前、「ポップカルチャーは”企業”が生み出し」「ハイカルチャーは”協会”が生み出す」と友人に指摘され納得感があった。

最後に

他業界の仕事仲間に「eスポーツって新しいことやってるように見えるけど、マーケティングは昔の方法使ってるよね」と指摘されたことがある。そのとおりだと思う。僕自身、eスポーツ仕事に携わっていると”既視感”がある。1930年代のフィジカルスポーツ×オールドメディアの焼き回しをやっている気がしてならない。時代の最先端に立っている感覚が日に日に薄れていく。新時代のコンテンツだと胸を張って名乗るために、僕はeスポーツ側からフィジカルスポーツ側へ新しいノウハウを伝授するぐらいの気概を見せたいと思っている。

僕は、初音ミクが大人達が一切関与できない場所で巨大なコンテンツに成長していく興奮を今でも覚えている。僕は、サブカルチャーの力で世界を変えてくれる信じていたニコニコ動画がテレビと癒着し崩壊した時の悔しさを一生忘れない。ゲームにはそうなって欲しくない。

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