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春日武彦『無意味とスカシカシパン』(青土社、2021年)

 本に埋もれる時間を満喫するためにある場所に行ったら、春日武彦さんの『無意味とスカシカシパン』が目についたので、手に取ってみました。
 春日さんは、精神科医です。この方が書いた『援助者必携 はじめての精神科〔第3版〕』(医学書院、2020年)はオススメです。まあそれは後に書くとして、こちらのスカシカシパンはエッセイ集ですね。

 スカシカシパンとは、「【すかしかしぱん】 Astriclypeus manni ウニの一種であるが、形が平たい円盤状で、とげが短くて密生しており、ビスケットに似ているところからカシパンの名、さらに円盤の5ヵ所に透かし穴があるので、この名がつけられた。全体が黄かっ色(ただし死骸では白色)で、円盤の直径は12cmくらいになる。本州中部から九州までの浅い砂地の海に住む。日本の特産で、6月ころに卵をうむ。形が奇妙なので人の注意をひくが、とくに利用の道はない。 ――『世界大百科事典 第12巻』」だそうです。
 スカシカシパンのように無意味なものを採り上げて綴ったエッセイを集めた本ということのようです。

 でも、私は、無意味なものよりも、「世界の断片としてのエッセイ」という項に書き込まれた次の文に惹きつけられました。

 要するに、わたしにとってこれらのエッセイは、まぎれもなく「世界の断片」なのであった。断片だからといって、それは不完全さとか取り返しのつかない状態を意味したりはしない。全体を想像するに十分な想像力を与えてくれる存在としての断片であり、そのすべてをいっぺんに目に収め把握できるという点では、むしろ全体であることよりもリアルなものとしての断片である。
 しかもこれらの断片をもとにもう一度世界を想像してみるとき、それは下世話でうんざりするほど日常的であると同時に、わたしのささやかな理想や願いを紛れ込ませて組み立て直せそうな、そんな救いを微妙に感じさせてくれる。

春日武彦『無意味とスカシカシパン』(青土社、2021年)24頁

 弁護士のしごとのひとつとして、人の語りを聞く/聴く機会がたくさんあります。こうした語りの一編一編は「世界の断片」に過ぎません。それでもその一欠片から「全体を想像するに十分な想像力を与え」られるところにおもしろさを感じています。春日さんの言葉はそのおもしろさの手触りを表現してくれたような気がしました。
 推し研(推している研究者)のおひとり岸政彦さんの次の一節とも、私の中で共鳴し合っています。

 これらの語りは、「普遍的な物語」です。ここにあるは[ママ]、特に起承転結も教訓めいた話もない、断片としての人生の、断片的な語りですが、だからこそその普遍的な価値がより際立つのだと思います。本書は、外国人のゲイであること、生まれた性別が自分の性別と違うこと、どうしても素直に人と接する事ができずに一人きりの下宿で大量に食べ物を吐くこと、こうしたさまざまな問題に勇敢に取り組み、闘い、壮絶な人生を生き抜いてきた人びとの、「普通の人生」の断片なのです。
 私たちは、自分の人生をイチから選ぶことができません。自分の性が生まれと異なること、ゲイであること、摂食障害になったことは、選んだ結果ではありません。風俗嬢は選んでなるものですが、そこに至る人生の必然的な過程というものがあります。ホームレスに至る過程も、そもそも選ぶとか選ばないといったありきたりな解釈を受け付けないような、複雑なものです。私たちはあらかじめ決められた状況に閉じ込められ、その範囲のなかで、必死に最良の選択肢を選んで、ひとりで生きるしかないのです。ここにあるのは、私たちと同じ普通の人びとが、たったひとりでさまざまな問題に取り組んだ、普通の、しかし偉大な物語なのです。
(中略)
 ここに収められた断片的な人生の断片的な語りは、それがそのままの形で、私たちの人生そのもののひとつの表現になっているのです。「私」というものは、必ず断片的なものです。私たちは私から出ることができないので、つねに特定の誰かである私から世界を見て、経験し、人生を生きるしかないのです。私たちに与えられているのは、あまりにも断片的な世界です。そしてまた、その生活史の語りも、それぞれの長い人生からみれば、きわめて短い、断片的なものです。
(中略)
 ここに収められた物語は、わずかの時間で急ぎ足に語られたもので、とてもそのひとの人生全体がそれであるということはできません。しかし、人生全体からすれば断片的なものですが、それでもそれぞれが非常に生き生きとした、ひとつの完結した、とても刺激的で示唆的な物語です。本書の物語はそれぞれが断片でありながら、世界そのものと同じ意味と重みとひろがりを持っていると思います。

岸政彦『街の人生』(勁草書房、2014年)まえがきⅳ〜ⅴ頁

https://www.keisoshobo.co.jp/book/b177177.html

 先日、学生の方々を対象に刑事弁護の面会(接見)についてお話しする場をいただきました。岸さん、石岡丈昇さん、丸山里美さんが著した『質的社会調査の方法ー他者の合理性理解社会学』(有斐閣、2016年)にオマージュして、「他者の合理性を理解する面会」と銘打ってお話しをしました。
 自分の閉じた枠組みからはみ出したものを不自然・非合理と簡単に切って捨てないで、被疑者・被告人の方々の話に耳を傾けて、物語の断片を集め、異質な「他者」の合理性を理解する営みの魅力がそれこそ断片的にでも伝わっていたらいいなあと想っています。

 『スカシカシパン』には、他にもこんな一節がありました。「自己愛社会の力学」という項の中に書かれています。

 自己愛がなければ、人は自分自身を支えられない。しかし自己愛はしばしば暴走する。おしなべて自己愛は劇薬に近い。少量では薬として有用だけれども、過剰になれば毒として作用しかねない。にもかかわらず量の調整は難しく、それどころか依存性すらある。
 わたし自身の臨床経験に鑑みると、どうやら人の心にはアキレス腱とでも称すべき三つの弱点が存在しているように思われる。それは、プライド・こだわり・被害者意識であり、これらのひとつないし複数に抵触すると、人々は心穏やかではいられなくなる。健常者からパーソナリティー障害、神経症患者や(躁)うつ病患者、統合失調症患者に至るまで、すべてにおいて三つの弱点は共通している。
 わたしたちはプライドを傷つけられたり踏みにじられれば、怒りや悔しさで理性を失う。何かにこだわればこだわるほど精神的視野は狭められ、客観性を失い、社会的文脈から逸脱してしまう。だが固執や執着は、それが単純明快な事象であるがために人を惹きつけ、結果的に自縄自縛と化す。被害者意識は自己正当化のもっともイージーな形であり、だから人は被害者意識に苦しみつつもそれを手放したがらない。
 三つの弱点に共通しているのは、まさに自己愛である。プライドと自己愛とが不可分に結びついているのは明白だ。こだわりや被害者意識もまた、自己愛を守るための(いささか不健全な)機制といえるだろう。
 これら三つを念頭に置けば、厄介な人たちの対応は格段に楽になる。

春日武彦『無意味とスカシカシパン』(青土社、2021年)108〜109頁

 「被害者」という属性は魔性のカードです。一旦それを手に入れると、いろんな場面でその手札を切りたくなります。この切札を手放さない人に出逢うと、疲弊しますが、毅然とやり過ごすしかないのでしょうね。淡々と。

 これ以外にも、「感謝されてこその精神科医療、といった図式が成立しない難儀さについて」の項は、日々の仕事で顧客満足度や感謝を求めて疲弊している方が読むと、少し救われるのではないでしょうか。
 依頼者から感謝されれば、嬉しい感情が湧くことが多いでしょう。でも、それを基準にすべきかどうかは別の話です。独り善がりになってはいけないので、バランスが難しいところですが、たとえ感謝されなくとも、依頼者利益の実現ができたと思えるしごとがしたいと考えています。

 さらに、春日さんが自らの子ども時代の経験に基づいて、「純粋な/裏表のない子ども」という虚像について書き綴った第Ⅲ章「わかりやすさの断章」や、両親とりわけ母親との確執を遺産を使い切ったリノベーションで克服する「自己救済としての家作り」を読むと、消化できない自分の中のドロドロをここまで開示できるのかと感心します。
 春日さんのような繊細さがあると、苦しいこともたくさんあるものの、援助者としての細やかさにつながることがわかります。
 何かに役立てようと考えて読み始めた本ではありませんでしたが、結果的に対人援助にかかわる方の参考にはなりそうです。

 ちなみに、春日さんの長年の臨床経験に基づいた『援助者必携 はじめての精神科〔第3版〕』(医学書院、2020年)は、精神障害やパーソナリティ障害またはその傾向をお持ちの方と接する機会がある職業の方々にとっては、技術的に参考になる知恵があれこれ鏤められています。書名から受ける中身のイメージと違って、精神疾患そのものを勉強するには物足りない本ですが……。
 一時期、弁護士の一部に流行った岡田裕子『難しい依頼者と出会った法律家へ パーソナリティ障害の理解と支援』(日本加除出版、2018年)と併せて読むと良いかもしれません。

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