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私の中の乙女

BTSのファン、すなわちARMYである私はnoteで妄想小説を書いている。

思い起こせば、そもそもの発端は2021年2月18日、私の推しのセンイルである。アミになって初めて迎えた推しの誕生日。平均的女子よりかなりクールなタイプと自己評価し人と群れるのがあまり好きではない私は、センイルイベント的なものには参加せず、自分の住む街で予定されているセンイル広告を見に行く予定も立てず、カプホとやらにも全く興味を示さず、普通にセンイル記念の動画を2つ作成して普段作らないケーキを作ってみたりした。(すなわち内向的なだけで十分に冷静さを失っている)

推しのセンイルは、想像以上に幸せなイベントだった。まず、私は自分の推しが誕生日のカウントダウンを絶対にしてくれる自信があったのだが、彼は私の期待にちゃんと答えてくれた。また、生配信中、推しが私の送った質問に答えるという奇跡が起きた。私が「明日のセンイルの予定は?」みたいなことを書いたら、まさにそれを彼がスマホで確認したくらいのタイミングで「ん〜、明日の予定は家族と…」と答えてくれたのである。私の中の冷静な自分は「似たような質問は世界中から山ほど届いているんだよ」と耳元で囁いたが、センイルハイテンションモードだった私は「ついに推しと繋がった…」と感極まり、身震いさえした。センイル当日はTwitterのTLが推しへのメッセージだらけで幸せ気分に拍車がかかったし、子供のためにケーキもクッキーも焼かない自分が推しのためにカラフルなカップケーキを焼いたりした(ちなみに失敗した)。子供が幼稚園や小学校に行って家にいない間、私は久々に少女の頃のトキメキを思い出して、なんだかものすごく幸せだった。

こうして私は推しのセンイルを満喫し、センイル翌日の夜辺りから、案の定、所謂「ロス」な状態となった。ちょっと気分が上がりすぎたのである。まさしく宴のあと状態。頭はセンイルを終えたことを理解しているのに、心がまだセンイルに残っていてそこから離れたがらないような、そんな感覚。私は心ここに在らずな状態で、無意識下でもがき苦しんだ。

センイル2日後、私はTwitterで「私のことが好き」というタグで妄想を披露した。それは自分の推し(主にグループ)が全員自分のことを好きな世界線を妄想する、みたいなタグで、当時ヲタク界隈でちょっと流行っていたのである。前述したように私は「センイルロス」で頭が少々おかしくなっていて、無理に自分を元いた場所=センイル気分に戻したかったのだと思う。そして「これを小説にしてほしい」とのリプを見て脳内一面お花畑だった私は「やってみよ」と思った。

私は生まれて初めて小説っぽいものを書いた。しかも、7人の男たちが全員自分を好きという、恥ずかしさでいたたまれなくなるような夢物語を。そしてこれを書き終えた時、私は恐るべき事実、というか過去の記憶が蘇り戦慄した。

それは中1の頃。国語の授業で「図書館で1時間好きな本読んでていいよ」というボーナスステージみたいな日があった。クラスの半数以上の女子が同じ本棚でキャッキャキャッキャとしているので私が「それなにー?」みたいな感じで見に行くと皆ピンクの背表紙に少女マンガ風イラスト表紙の本を持っている。それはティーンズハートと呼ばれる少女マンガが文字になったみたいなジャンルの文庫であった。そして、私は本当にそれらを全く知らなかった。だって私は彼女たちがそれを読み出した小学校高学年の頃は怪盗ルパンシリーズとか乱歩の少年探偵シリーズが好きだったし、確かその頃はスティーブンキングばっかり読んでいたのだ(ああ、そう書きながらそんな自分が悲しく思えてきた)。

同級生たちは「まさか読んだことないなんて!」とティーンズハートバージンな私を温かく歓迎し、「読まなきゃダメだよ!」と全員で意見を出し合い厳選の2冊を私に差し出した。折原みとの「桜の下で逢いましょう」と作家名もタイトルも忘れたが、真面目な女の子がライブに行ったらそのボーカルに好かれちゃう、みたいな話(そういう話よくあるよね)だった。

もはや宿題みたいに渡された2冊を家に帰って一瞬で読んだ。そして結構びっくりした。

「みんな、こんなの読んでんだ…」って。

私は小さい頃から洋画が大好きで、ティーンズハートの中にある少女のトキメキ時代をすっ飛ばして大人の世界(許されぬ恋とか裏切りとか不条理な世界とかドラッグ中毒とかそういった幼い自分に理解できるはずのない世界)ばかり背伸びして鑑賞していた。だから、本当に失礼極まりないのだが、同級生に推薦された2冊の本の中のお花畑な世界を鼻で笑った。

それから約30年後、まさかまさかで私はティーンズハートなお花畑世界を自らが書いたのである。あの日、陰で同級生に対し大人ぶった自分に伝えに行きたいくらいだ。

「おい自分、今小っ恥ずかしい、青臭いと思ったそんな小説を30年後に自分自身が書くんだよ…しかもただの趣味でね…」

「私のことが好き」小説版を書き終えた時にTwitterのフォロワーさんが「あなたは乙ゲーの開発者ですか?」みたいなコメントをくれて、己れの中の、自分も全く気付いていなかった乙女な部分が噴き出していたことに赤面した。自分の中にこんな乙女が住んでいたという事実。本当の本当に、私は40になるまでそのことに気付いていなかった。

Twitterなどで「おばさんアミ増えて嫌だ」「おばさんアミの妄想きもい」とか、まあ、怖いこと恥ずかしいことが年々減っていくお年頃でもチクっと胸が痛む言葉を見かけることがある。でもまあね、気持ちはわかる。自分も10代で古くからバンタン応援してたらそんな風に思うかもしれない。

ただね、乙女心というのは加齢と共に減る女性ホルモンと同義ではなくて、永遠になくならないものだと思うし、私のように若い頃大して持ち合わせてなくても歳を取ってから突然その存在に気付いたりするものなんじゃないかと思うのだ。私はまだその域に達していないから実感としては知り得ないけど、氷川きよしを推してるおばあちゃんたちだってステキな乙女心を持っていそうじゃないか。それに、乙女心って幸せホルモンを生み出す天然の薬だ。おばさんがウフフしてるのは若い子から見て多少気持ち悪いのかもしれないが、イライラしてるのを見るよりはマシでしょ?

振り返ってみれば、若い時って何故だか色々なことに縛られていた気がする。アラサーなのに彼氏も作らずどうするの、とか、合コンもデートも行かずいつも野球観に行ってばかりでどうするの、とか、年下のアイドルをカッコいい〜♡って思ってる自分ヤバいな、とか。(全て私の話。ちなみに年下のアイドルとは東方神起のこと。ユノ、今調べたら6歳しか下じゃなかった…あの頃好きで申し訳ないとばかり思ってたけど全然余裕だったね、と今なら思う)

少しだけ冷静でいるために、自分をちょっとでも客観視するために「私ったら◯◯なのに」と自己を卑下するのは、私はいいと思う。というか、そういう人、私は嫌いじゃない。でも、40代の私から30代以下の人に伝えたいのは、あんまり自分で自分を縛らない方がいいよ、ということ。もう10年経ったら、10年前の自分はなんて可愛かったんだろうと思うはず。◯歳だからxxするのは良くない、独身なのにyyは恥ずかしい、子供もいるおばさんのくせにzzするなんてみっともない、とか、そういうのは人生を生きづらくする枷にしかならない、とこの歳になってつくづく思う。

それに、私だって年がら年中妄想している訳ではなく、毎日を真面目に生きている。妄想の対象である推しから沢山のことを学んでいる。こうして推しのセンイルをきっかけに長い文章を書くことの楽しさを知ったり、できるだけ若く美しくいようと心がけたり、子供の成長を昔より大らかに見守れたり。韓国語をもっと勉強しようとか、日韓の歴史を学び直そうとか、ナムジュンが読んでた本読もうとか、テテがお勧めするジャズ聞いてみようとか、釣りをやってみたいなとか、推しを推すという行為は確実に「学び」とセットだ。もはや恋愛をする必要のない我々既婚者にとっては意義の大きすぎる存在。独身者にとっても、はっきり言って不毛な合コン行くよりずっと身のためになる。なあなあの関係の男と付き合い続けるよりずっと幸せで美しくなれる。

って、なんか、私、何を書きたいんだろう…笑。ちょっと迷路に迷い込んでしまった。ただ、とにかく思っているのは、40過ぎて、子供もどんどん成長して、最近私は「なーんだ。人生ってシンプルだな!」と思うのだ。いや、50になったら、60になったら、90になったら、また見える世界も変わって考えも変わるかもしれないけど、今41歳の私は、背伸びして大人になった気でいた10代の頃の自分も、己れに枷つけまくってひとり悩んだりしていた20〜30代の頃の自分も、「いい歳して」アイドルの一挙一動に反応し友とキャッキャと恋バナするかのごとく乙女心全開な現在の自分も、全部まるごと愛しんでいる。そして、あの頃の私とちょっと似ている若い世代を見ると「その時抱く感情がその時の正解だけど、それは決して一生を通しての正解じゃないからね。だからケセラセラ、なんくるないさー、クムシラコ!」と伝えたくなる。

んー、てな訳で、なんでしょうねこのエッセイ。まとまりがなさすぎる。まあ要約するのなら、

「推しを推す全ての乙女に幸あれ」

そして、

「推しのセンイルは危険だから気をつけろ」

の二点かな。以上!

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