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戦争反対

2022年2月24日、ロシアがウクライナに軍事侵攻した。
私はその日からずっと気分が上がらない。
そして、モヤモヤしている。

言うまでもなく、私は戦争反対だ。
今まさに安全を脅かされているウクライナの人々が気の毒でならない。
Twitterを開くとバンタン一色だったTLにウクライナ情報や戦争反対のツイートが流れている。
どこかの国の軍事行動に対し、「普通の人々」がこんなに興味関心を持ったことが今まであっただろうか。

私はハッシュタグをつけて行動を起こすことは意味があると思うし、そういったことに冷ややかな視線を送るタイプの人間ではない。草の根でもみんなで動けば何か変わると希望的に思っている。だから戦争反対という表明は寧ろ各人がしなければならないことだと思う。

ただ、私がおかしいのかもしれないけど、少しだけ喉に何か引っかかったような感情に襲われる。

私の喉に引っかかるものとは、つまり、アメリカのイラク侵攻の時はどうだったのか、イスラエルのガザ地区空爆の時はどうだったのか…という過去を引き摺った感情。あの時、私たちはどんな反応をしていたんだっけ、とどうしても考えてしまう。今回は軍事侵攻したのがロシアだったからなのかな、なんて思ってしまう。

どこかの国が軍事行動に出る時に、常に、今のように人々がハッシュタグをつけて戦争反対を声高に叫べる世の中になってほしい。
いや、寧ろ、どんな時も末端の人々の感情はまさにそれであるはずだ。戦争を喜ぶ人など武器商人や一部の政治家や投資家を除きどこにいるというのか。多分憲法9条を改正したいと言っている人の中にも戦争に反対する人はいるのだろうから。

話は変わるが、ここ最近、私はTwitterに辟易していた。
アミ同士の言い争い。
くら寿司の件やコンビニでのグッズ争奪戦の件とか、そういう「明確におかしなこと」への批判ならまだ良い。
どっちにも言い分がありそうな、第三者にとっては瑣末なことに関する言い争いに辟易していた。

たとえある意見が私とほぼ同意見で正論であったとしても、私はそれが誰か(しかも同じ「アミ」であろう人)に向けられた批判であればあまり見たくない。どちらが正しいかなんて、140字に収まる情報で判断できるはずもなく、もっと長い文章を画像として添付したところで同じだと思うのだ。
「アミ」という共通項を持った人に「元気出して」「嫌なことは忘れてバンタンでも見よう」と寄り添うことはできるけど、どっちが正しいのか、どっちが間違っているかなんて話は私はしたくないし見たくない。

でも、大体そういうツイートにはいいねが沢山ついていたりする(だから私のTLにまでやってくる)。そして、ある種「数の論理」でいいねの数が多ければ正解と感じられるような傾向がある。

そういう時、私はモヤモヤする。

プーチンはウクライナへの軍事侵攻は自衛のためだと語った。
ああ、いつもの、ではないか。
このやり口に正面切って非難することができる国がどれだけあるだろうか。

それでも、私はこれに真正面から「間違っている!」と言える未来が欲しい。
「自衛のため」に軍事行動を起こすのがロシアであろうがアメリカであろうが日本であろうが、それに「ダメ!」と言える未来が欲しい。

だから、たとえ喉に何か引っかかってても「戦争反対」は言った方が良いんだね。

誰が悪い、背景には〇〇がある、〇〇は〇〇するべきだ、とか細かな議論はなかなか決着がつかないけど、人を殺してはいけない、人を危険に晒す行動を取ってはいけないという普遍的根本的な原則と同種であるはずの「戦争はダメ!」は馬鹿の一つ覚えみたいでも良いから言いまくっていいと思う。だって「戦争反対」に反対できる人ってどんな人だよ一体。「戦争反対」に揚げ足取る人ってどんだけひねくれ者なんだよ一体。
私は、木を見て森を見ず、にはなりたくない。

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