【毎週月曜日更新】「ちがい」を見つけることができるから、ひとにやさしくなれる。
生物学の考えかたのひとつに「環世界」というのがあります。
ユクスウェルというひとが最初に言ったらしいのですが、おおざっぱに言ってしまうと、
《それぞれの生きものが「世界」というものを認識するとき、生きものによってその認識のしかたがそれぞれある。》
という話です。
つまり、ひとや犬、猫、ノミのような小さな生きものからクジラやゾウまで、それぞれの「認識」で世界は存在していて、そこでそれぞれが見ている世界はまったく異なっているということ。
こういう話を聞いて、少しおそろしくなりつつも、
「じゃあ人間どうしで、その認識ってやつがちがうこともありえるよな」というようなことを考えていた。
私たちが「もともと特別なオンリーワン」であることはもうじゅうぶんにわかっているのですが、見ている世界までちがうとなればそれは大変なことです。
考えがまったく合わないというひと、はっきり言うと「嫌いなひと」がいるとする。
なんでそんなことを言えるのか、そんなに失礼な態度をとったり、いやなことができたりするのかと思ったりもします。
今までだったらまよわず「触らぬ神に祟りなし」にならってきましたが、
そもそもの話、「世界」がちがうのであれば、考えがまったく合わないなんてことはあたり前です。
もし本当にそんなことがあるのであれば、まずあなたの見ている世界が知りたくなる。
あなたの世界にとっては、ごく普通の行動をとってるだけなのかもしれない。
それはもう、「嫌いなところ」がいつの間にか「興味のあるところ」になってしまうくらいの大発見です。
おおげさに書いてしまいましたが、じっさいに私たちがまったく同じ世界を見てるということはないでしょう。
一緒にいるふたりが同時に、新しくできたお店の前をこれから通るとします。
ふたちのうち片方はそのお店の存在をすでに知っていて、もう片方は知りません。
すると、ふたりが前を通ったとき、お店のことを知ってるほうと知らないほうでは、「いつもの道」という世界と、「新しくお店ができてる道」とで、見ている世界はちがってきます。
私たちがそれぞれ見ている世界は、あなたと私でさえ、全くちがう景色なのかもしれません。
なんでも知りたがりの私は、自分と相手の「ちがい」を見つけることで、やさしくなれるような気がします。
「みんながちがうから、みんないい」は案外的を得ている言葉なのかもしれません。
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