物の名しましょう 相田奈緒×睦月都三首競詠

※本記事は相田奈緒(短歌人)と睦月都(かばん)による2017年6月13日以降のLINE上の会話を基に再構成しています。

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睦月◆ 相田さん、わたし物の名やってみたい やりましょう?
相田▼ 物の名、、、?
睦月◆ 別名「隠し題」……お題の単語が与えられて、その単語をそれとはわからないように歌に詠み込むあそびです。
例えば「鶯(うぐひす)」がお題だとすると、
”心から花のしづくにそほちつつ憂く干ずとなみ鳥の鳴くらむ(藤原敏行/古今和歌集)”
この歌では「うぐひす」を「憂く干ず」として処理しています。
平安和歌で流行ったらしくて、古今集には多くページが割かれています。で、めっちゃ自由でおもしろかったんで前からやってみたいなーと思ってたんですけど、今日たまたま次の歌を知って。
題:荒船の御社(あらふねのみやしろ)
茎も葉もみな緑なる深芹は洗ふ根のみや白くみゆらむ(藤原輔相/拾遺和歌集)
この歌では「荒船の御社」という九音の長い題を、全体的には緑を帯びる深芹を、「洗ふ根のみや白」く、根を洗うと白い部分が見えてくると言って、上手く歌に昇華しています。
これを見て、やっぱ面白いなー、やりたいなー、って。
おたがいに題を出し合ってー( ´ ▽ ` )ノつくる
たの( ´ ▽ ` )ノしい
相田▼ やり(・∀・)たい
題ってなにも考えずに出していいのだろうか……。いまいちルールがわからない。 
睦月◆ ルール、歴史的にはもう少しいろいろあるかもしれないけど、ひとまず岩波文庫から出てる『古今和歌集』の説明によると「(題に)全然関係のない事をよむのが普通」、「仮名の清濁は問わない」くらいみたいです!
相田▼ なるほど!やってみましょー。じゃあまず、題を3つずつ出し合いますか。


【出題 相田→睦月】
・東京
・新宿
・荻窪

【出題 睦月→相田】
・梅雨の晴れ間
・紫陽花
・レインコート

相田▼ あっいきなり長いやつきた。
睦月◆ 短いやつもちゃんと混ぜておきましたよ(*^^*)
相田▼ わたしは遠慮してしまった…!

【※表記・音のルール】
・音の清濁は問わない(*1)
・名詞内の「は(ha)」音→助詞の「は(wa)」 に転移可能(*2)
 *助詞の「は」→名詞「わ」は不可
・音引き(長音符)は音引きのまま使用するか、または前の音の母音を引き継ぐ。
 ex.レインコート→れいんこーと/れいんこおと
・歴史的仮名遣いで作歌する場合には、出されたお題も歴史的仮名遣いで詠み込む。現代仮名遣いでは同じ音であっても、表記が異なるものは使用できない(*3)
 ex. 「東京」は(現)は「とうきょう」、(歴)は「とうきやう」。
 (歴)では、「京」の音で使えるものは「経(きやう)」や、キ+様、陽などに限る。今日(けふ)、用(よう)、葉(えふ)等は不可。

*1, *2 古今集の例に準拠した。
題:鶯(うぐひす)
心から花のしづくにそほちつつ憂く干ずとなみ鳥の鳴くらむ(藤原敏行)
題:きちかうの花
秋ちかう野はなりにけり 白露のおける草葉も色かはりゆく(紀友則)
*3 まちがうこともあるので、そのときはわらってゆるしてほしい。
なお、普段、相田は現代仮名遣いで、睦月は歴史的仮名遣いで作歌している。

【相田奈緒 三首】
梅雨の晴れ間 つゆのはれま
 ーーー
紫陽花 あじさい
 吹く風に逆らわないでそよぐ葦 最初に言った方が負けでも
レインコート れいんこーと/れいんこおと
 国道のTSUTAYAへ走れ インコ音もなくて目覚めて朝に散らばる

相田▼ 難しい!「梅雨の晴れ間」をやっていくうちにわかったんですけど、単に題が長いからというより、どうやら「の」「は」という「助詞になり得る文字の連続」が難しいのかも。どちらかを助詞のままにして、もう一方を名詞にするか、どちらも含まれる単語をみつけるか(……みつからなかった)。
ということで、時間切れでした。いきなりパスしてごめんなさい。
「紫陽花」は、アリア司祭とか、アジア仔細にとか、いろいろ考えられて楽しかったな。
「レインコート」は、すぐにインコが目について、そこから全く離れられなかったので、そのままがんばりました。うちの近くに野生化したインコの群れがいて、黄緑色でわりと大きくて、ちょっと怖いんです。そのインコ達を頭の中で飛ばしました。

睦月◆ うっ、すみません……。古今集の物の名見てて、ある程度長さがあったほうがまずアイテムが決まってやりやすそうだなーと思ったんですよ。いじわるじゃなくて!「助詞になり得る文字の連続」が難しい、というの、なるほどと思いました。今後の課題ですね。
「レインコート」の歌、朝10時までに返さないと延滞料金なのかな(笑)。「国道のTSUTAYA」がいいです。国道、っていう地理から、広々として、人が少なくて、規模感があってちょっと古くて安っぽい建物の連なり、それに空の広さが見える。国道のTSUTAYA、一階建てかせいぜい二階建てで大きくて駐車場が広いやつですね。それがさっと共有される。
続く「インコ音もなくて目覚めて朝に散らばる」はリズムが良くなくて、ちょっと無理に処理させてしまいましたかね……。インコの色やそれが散らばってる感じから焦燥感のようなものを描こうとしていたのかなと想像できるんだけど、動詞が次々に提示されるせいか、イメージがうまく再現できませんでした。
「紫陽花」の歌、これはすごくいい歌だと思いました。題の処理が上手いですし、歌そのものとして見ても完成度が高い。葦のそよぐ質感から、下句の想いへと、無理なく誘導されている。葦がそよぐ光景に「吹く風に逆らわないで」という形容を見つけ出してきた手柄がひとつあり、さらにそこから「最初に言った方が負けでも」という、自己と他者の関係性……これは相聞かな、その想いに自然と重ねられている。自然物の写生にみずからの想いを重ねる、というのはそれこそ和歌の時代から現代まで鉄板ですけど、「葦」というモチーフや「最初に言った方が負け」という感覚はへたなベタつきがなく、新鮮な感覚がします。
勝手な想像ですけど、相田さんの普段の歌から言うと「最初に言った方が負け」の感覚は出てきても「葦」のそよぎはなかなか出てこない気がするんです。ここに何か、作者・読者個人の想像力とは別のファクタの働きかけがあって、単純に言えばここが驚異になっている。こういう、人間個人の想像力以上のものが導かれてくるのって定型の大きな魅力だと思うんですけど、今回は定型に加えて「紫陽花」という物の名の処理によってこの語が出現したのかな、と思います。相田さんの持つ修辞力に、物の名という外部の力が加わったことによって新たな感覚の歌になった、その好例だと思う。
一方で、これは非常にわがままなことを言うんですけど、「紫陽花」の歌はやはり従来的な秀歌性で饒舌に説明できてしまうのに対して、「レインコート」の歌は次に何が起こるかわからないわくわく感が強いんです。予感、みたいなものが充満している。インコが音もなく目覚めて、散らばって、それが象徴する何かを自分の中に探しに行きたくなる。この下句ではその予感が言葉や韻律になかなかうまく結びついてないんだけど、胸がざわざわする。私が無意識に期待してしまうのはこういう方向性です。……といいつつ、「紫陽花」の歌も非常に完成度が高い良い歌で迷う……いや迷うとかの場じゃないんですけど。なんか……すみません。

【睦月都 三首】
東京 とうきやう
 戦闘機陽炎(やうえん)のなか揺れ来たるまぼろしあれば窓に手を掛く
新宿 しんじゆく
 祖母(おほはは)の真珠繰るこの夏窓にながるるばかり鳥も時間も
荻窪 をぎくぼ
 風を聞く鬼灯のただほほづきの色づくごとき駅のゆふくれ

睦月◆ お題が中央線の三駅だったので、同じ世界の連作を作ろうと思って。お題の4~5音から何かアイテムをひとつ見つけてきて、そのアイテムを中心に普段自分の中にある主題で歌をふくらませた感じです。
「東京」の「きやう」、単純にその音の語が少ないのでここがいちばん苦労しました。辞書を引きまくりました。。

相田▼ お題の意図をくんでもらってうれしいです!そうそう、中央線で移動してみてほしかったの。

「東京」は、窓越しに外を見ていたら戦闘機が迫ってくる白昼夢を見た、という歌。映像的だなと思って、迫る機体の正面からのカット、はっとして窓に手を掛ける人物の横からのカット、という短い映像のつながりをイメージした。
なんでかな、機体が揺れながら来るからかな。窓越しに機体を見るときの普通の人間の視点だと、揺れはそこまで見えない。見えていても、一番に言うことじゃない。飛行機が迫ってきていること自体が大変なことなわけだから。機体の揺れまでを見ている視力が、映像的だと感じさせるのかもしれません。
まあ、そもそも「まぼろし」なんだけど。
しかも、窓に手を掛ける前に「まぼろし」だと言ってしまっている。それによってこの主体の「まぼろし」に没入しない、ちょっと引いた感じ、でも確かに「まぼろし」を見ている、という立ち位置が見えて、それで一首になっているなと感じました。

「新宿」、おばあさんの真珠で手遊びしているの、いいですね。萩尾望都とか大島弓子とか、「花の24年組」的絵柄で再生されました。あ、この歌も窓ですね。窓好きなんですか。

「荻窪」では、夕暮れの景色の中に植物のホオヅキが出てくるんですが、お題の中の荻も一緒に見えている感じがして、おお、これが物名の力なのかも……となりました!



相田▼ 物名、面白いですね。 わたし最近、題詠が苦手になってしまって、物名も題詠みたいなものだもんなあ、ちょっと辛いかも……とか内心思っていたんですが、やってみたらちょっと違ったな。
作るとき、まずお題の処理の仕方を検討するところから始めますよね。
4文字なら、1・3か、2・2か、3・1か。
頭の中の単語をたくさん出してきてシャッフルして、うまい繋がりを見つけるわけだけど、そこで一回、偶然性みたいなものの働きを感じました。
かといってそれだけでもなく。
シャッフルでAって語とBって語をぶつけたらなんか良い感じ、っていうのだとつまらないだろうな、と私は思っていて。
お題の部分の処理が終わったら、その出来上がった固まりをどう歌にするか、という、自分の仕事の部分がちゃんとある。
そのバランスがちょっと面白かったです。

睦月◆ 私も題詠は苦手なほうで、それは”これを詠む”が先に、自分の体外で決まっているからなんですよね。歌のでき方は人によってずいぶん違うと思うんですが、私はイメージ……というか、イメージ以前の光の当たり方とかから生れてくるので、先にモチーフそのものが決まっていると、逆にイメージを制限されてしまう。
物の名で先に決まっているのは音だけなので、音の感じから光の強弱を感じ取って、音の連なりからイメージやモチーフを探して……ということができる。そのプロセスが私にはしっくりきた気がします。私も物の名、のびのびとやれてすごく楽しかった。
相田さんが、偶然性の妙、かつ、言葉先行の偶然性のつまらなさ、ということを言ってるけど、私もそこに常に違和感があるんです。
決められた音の中で自分の意識がどういうふうに泳ぐか、という選択が物の名には許されていて、そこに自分の普段の体感とは違う言葉も連れてこれるし、自分の普段の体感の主題を探し出すこともできる。その匙加減が作者に任されている。
短歌定型というのは制限でありかつ自由である、というのは大昔からあるレトリックですけど、物の名はそういった定型の制限と自由さにプラスして、音の制限によって自分の意識の制限を解放する自由さがある。そりゃ楽しいわ。超絶技巧派の平安歌人たちがはまったのもうなずきです。

相田▼  うん、楽しかった。またやりましょう! 
睦月◆  はい!またやりましょう!

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※一ヶ月後にまたやりました。次の記事はこちら

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