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追われる夢と、踏み絵

おとといみた夢のはなし。とか。
(ノリノリで綴りましたが 多分べつだん“楽しい”話ではないです✌)


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私は中学生になっていて、帰りの会の終わりごろ。隣の席には 当時仲のよかったAちゃんがいて、「なみ乗りちゃん、やっぱり入らないの?」と小声で問いながら 黄色い紙を見せてきた。
紙には印刷された文字で 何かのお知らせ、お誘い?が書いてある。詳しくは思い出せないけれど、要項の2段目くらいに“キリスト教以外の〜”と書かれていて、“キリスト教”のところには下線まで引いてある。要約すると、それは学校ぐるみで推奨している集まりで、まだわかい新興宗教のお誘いらしい。先ほどの 要項2段目に書かれていたのは、特にキリスト教を排除する気の強いらしいことだった。
私は特定の宗教を信仰する気がない(現実でも、夢の中でも)ので、やけに排他的だし 私はいいやとAちゃんに言った。Aちゃんは 戸惑いがちに「そっか…」と答えた。

帰りの会が終わって 下校しようとしたとき、クラスメイトに「Aちゃんがどこにいるか知ってる?」と訊かれた。いつの間にかいなくなっていたらしく、私たちはなんとなく嫌な予感がして、「もしかしたら (黄色い紙の)集会に連れて行かれたのかも」と思い、 多目的ホールに走った。走りながら、学校推奨のものの割に 得体のしれない感じをおぼえる生徒もいるのだなと思った。

多目的ホールに着くと、そこは赤黒い雰囲気?照明?に包まれていて、たくさんの生徒(ほぼ女生徒だった)と数人の教師がいた。Aちゃんはいなかったけれど、ひとりの女生徒(以下B子)が槍玉にあげられて孤立している感じがして、ちょっとした隙に その子のとなりの席に座った。
教師はまわりの生徒たちに B子についての処遇を問うていて、どうやら「B子は教義に従いたくないらしいわ、愚かしいことです、“いじめ”にあっても仕方ないわね、“いじめ”たらこの子も分かるかもしれないわね」という話をしている(ここでの“いじめ”とは ある種の制裁の儀式らしい。)。私はB子の肩を抱きながら 「あなたはあなたの信じたいものを信じなさい、無理しなくていいんだよ」と言って、教師にも「先生がなんてことを言うんですか」とつい反抗した。なにかあったらスマホで録音なり録画なりしたろ‼と意気込んだ。

けれど、肝心のB子は 立ち上がって「教義に従い、信仰します」という旨の発言をした。真意は読み取れず、まったくの偽りや無理をしている風ではなし、ただ諦めと似たような、そうでもないような、虚無さはあって、ともかく すこし意外だったけれど、本人がそれでいいならいいか、と思った。
次の矛先は私に向けられ、あなたは“いじめ”てあげなくちゃいけないわね、そうだそうだと嫌な笑顔に囲まれる。髪を切り刻んで、それから…とかいうやばめの算段が聞こえる。手には文具用ではなく 散髪用のシャキシャキしたハサミを持っていらっしゃるのが妙に律儀。ぜったい怪我させられるな…と危険を感じたとき、自分の手にも同じハサミがあることに気がついた。応戦するやつか〜〜……。


隙をみてその場から逃げ出して、外で待っていたクラスメイトに 逃げて!!!と叫んでひたすら走った。散り散りに逃げたので彼らがどうなったかはわからないけれど、たぶん狙われたのは 直接反抗した私だけだと思う。
校舎から出て、外に向かった。高台にある学校だけど、夢なので崖を跳んで降りるトンデモショートカットで 大きな道路まで出た(この一瞬だけ“夢だからできる”という意識があった)。
ホールにいたたくさんの生徒たちが追ってくる気配があり、この時点で私は急激に疲れて、タクシーのような車に乗って 「(自宅がある)〇〇まで」とお願いした。夢の中では その場から自宅までは車で一時間半ほど距離があって、きっと逃げ切れるし、家に帰れば安心だと思った。……のに、走り出した車の運転手さんも 追手のグルだと知った。車は学校とは違う方向へ走るものの、これはだめだと車を降りて 見知らぬ街をひた走った。

すこしでも車に乗ったぶん 距離は離せたはずなのに、追手はなぜかすぐ後ろに迫っている。必死に逃げながら、物陰に隠れながらやり過ごすけれど、ずっとこうしてはいられない、どうしよう……と思ったとき、教会に行こうと思いついた。彼らが相容れぬとしているものの聖域ならば、隠れるにはうってつけだし、事情を話して 匿ってもらえるかもしれないと思った。迷惑をかけてしまうかもしれないと考える余裕はなかった。
知らない地域だったので、たまたま出会った欧米風の若い夫婦に このあたりに教会はありませんかと尋ねた。彼らは、あるけれど 少し遠いよ、そこの角を曲がって…と道を教えてくれた、その時、夫のかたがうしろから追手に攻撃されてしまった。私は 「ごめんなさい」と呟きながら逃げた。とても申し訳なかった、でも本来狙われているのは私だけなので、その場から離れなければ 夫婦の身も自分の身も守れなかった。


追手がこんなに近くにいて、しかも 道もわからなくなるほど行き当たりばったりに走って、教会に向かうことはできなくなってしまった。小さな店が並ぶ小路(ビル商店街?)に迷い込み、夜から開くお店の、 準備中の札がかかったドアを開けて暗い店内に身をひそめたりした。(学校を出てからあまり時間は経っていなくて、夕方4時くらいの感じ。早い下校時刻だったんだな。)
それからまた逃げて逃げて、気づくとどこかから「あいつだ!あいつのおかけでひどい目にあった!」と聞こえ、さっきの夫婦の夫のかたが私を指差して叫んでいた。あいつのせいで、一時間くらいお腹がくだって大変だったんだ!と聞こえて、ああたいへん申し訳なかった、しかしクレヨンしんちゃんの映画にあるようなノリ(…わかります…?)だったので、おそらくは命に別状のあるかんじではなかったっぽくて…それだけはよかったです…。

その後、やはり準備中の札がかかったケーキ屋さん(休業日だったかも)に転がり込んで、仕込みをしていたお店の方に、すみません、すこし匿ってください…と訴えてうずくまった。
すると いくらもしないうちに、近くの高架鉄道から、「〇〇という者はお尋ね者です、見つけたらご連絡を。セーラー服で…」と私を探す広報が聞こえた。ケーキ屋さんの方たちは、えっ…この子……という空気を醸し出し、攻撃的ではないものの、出ていかざるを得なかった。
広報を聞いた街の人々は、教義に反する愚か者だ、と私を追い立てたり、遠巻きに眺めたりしていた。学校の中だけで過激化していると思っていた信仰は、街のなかでも一定の支持があるようだと分かってきた。でも、ケーキ屋さんのように(そして道を教えてくれた夫婦のように)、胸のうちは見えずとも 静かに暮らす(ことにしている)人々もいた。追われる恐ろしさよりも 疲弊や悲しみが上回るなかで、事を荒らげたくない人々が 私を見逃したり、見ないふり、知らないふりをしてくれるだけでも 有難かった。

それでもついに追手に追いつかれて、まだ、まだ逃げること、時間を稼ぐ術はあったのだけれど、もう、どうしようもなく疲れてしまった。逃げ続けることはとても苦しい。いつ終わるのかがわからない。もう、捕まってしまったほうが楽になれるのかもしれないと思った。


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というところで目がさめました。いろんな意味でつらい夢だね(ハート) 
崖を跳ぶような高スキルが 後半ぜんぜん発動できなかった…できたのかもしれないけどそんな発想にならず ひたすら地道に走り続けたので、勿体なかった…。

なんだか、私は夢のなかでもおせっかいでしたね。B子ちゃんに対するやつです。現実でおなじような状況にあっても、おなじことができるかな…できたらきっといいのですが。夢のなかでは へんに度胸があったりしますからね。でも 眠っていても起きているときとおなじ思想というか思考というか志であることに ちょっと感動しちゃいました。

こういう夢をみたのは、先日、距離をおいている宗教さん関係の方が急に来訪されたことがあったからかな〜(ほかの用事があったこともあって面会しませんでしたが)、と思うけれど、まぁ たまたまかな〜という気もしますし。だいぶお気楽に人生過ごせるようになったかなと思ってるけども いつまでもなにかにつけてダメージ負ってるのは 実際傷が深いんでは? 自分のことだからてきとうにほっといてますが 客観的にみると可哀想。



それはさておき、私はこの夢からさめたときに しばらくジッとしながら反芻したのですが(オモシロイ夢は 思い返して楽しみたいし、あわよくば文章に書き出したい)、これはなかなか有意義な夢だったかもしれないと思いました。

(いつもこういう話をするたびに、たぶんどうしてもトゲがあったりかたよった話になってしまうので 本当に本当に申し訳ない気持ちになるのですが、宗教や信仰というものにたいして 悪いイメージを書き出したいわけではないのです。どの口が?みたいなあれかもしれませんが…。)(こういうおことわりというか 弁明というか、は きっといつでもしてしまう。信仰の光も闇もどちらも忘れたくないので。)


夢のなかでのさいご、「ああもういっそ捕まってしまいたい」と思った、そしてその先にある感情、思い、あれって、日本のキリスト教禁教時代の踏み絵等に関して 少し通じるものがあるかもしれないとおもったのです。

私は、もしも自分が踏み絵を前にした信仰者だったなら、踏むだけで生き延びることができるならば踏むかもしれないと思っていました(踏むだけで、ということのあまりにむごいことは理解します。表向きがどうあっても 心のなかに真実を抱いてさえいれば、と思えるのであれば、あるいは 信仰をすてても生き延びたいという気持ちを強く持つことができるならば、それはひとつの道で、選択だと思えます、という意味です)。
けれどね、きのうの夢をみて、目覚めてから おちついて考えてみたときに、追手に捕まったとして、それからおそらくはひどい仕打ちを受けるかもしれない、それでもしも、もしも彼らから「おまえがおまえの信条を捨て、我々のやり方を認め従えば、おまえを許して解放する」と言われたら、私はその通りにするのだろうか?

苦しみから逃れるために、言われたとおりにするかもしれない。こういうことに、正解も間違いもない、とおもう。人間の歩みのひとつとして、彼らのようなやり方が 主流になるということもあるかもしれない。
でも、夢から逃れて 安心した頭では、私は「絶対に嫌」と思った。
他者を迫害して、追い立てて、傷つけて、おどかして、歩み寄ることをせず支配するばかりの人たちと同じになるのは嫌。そこまでして、そういうあり方でまで生きたいとは思わない。ていうかまたわたし信仰の自由が奪われかけてる…無理…。
(※彼らの信仰、それを信仰するということそのものは否定したくありません。欠片しか知り得ませんでしたし。)(信仰は否定しないと言いながら、あり方ややり方に文句を言うことの矛盾や傲慢さにまだうまく向き合えていません…。他者を踏みにじったり巻き込んだりするのは良くなくない…?という ぽやっとしたことしか言えない…。)(でも ひとりひとり、その人にしかわからない 信仰する理由とかがあるし、信仰は人生であり世界であり命であるのよ。)

私は 人間のなにかひどい仕打を見たり知ったりしたときに、“あんな(ひどいことをする)人と同じになりたくない”という思考になりがちで、それはまあまあ自然なことであるかもしれないし、偏った見方であるかもしれなくて、まあ、程よく気をつけたいとは思うのですが。
なんというか、つまり、踏み絵を、踏まなかった、踏めなかった人の気持ちというのがね、キリスト教や神様への信仰心と、それとはまた別に、↑みたいなものももしかしたらあったのかなぁ ということを 思ったのでした。

当時の日本のキリシタンの人々は、政治的な思惑をもっていた人というのはほんの一握りで、多くはただ自分の、人間の生き方、こころのあり方、拠り所としていだいていた信仰を、なぜ踏みにじられなければならないのか、誰にも迷惑をかけません、なぜそれを選んだというだけでこんなにも罰せられるのか、ゆるされないのか、純粋にわからない人もあったでしょうし、自分たちを非人道的に罰する側にゆるされるということは、自分もそちらの側に立つもおなじで、それはとてもおそろしく悲しいことだと思った人もいたかも……しれないかも……と思うのです。


平凡な身のたよりない想像にすぎないし だからどうというか…どうすることも(でき)ないわけですが……。(あと “禁教時代のキリシタン”の方々に肩入れしがちというのもわかっている。いろんな側面もいろいろあるのですよね。)(元気があるときにもっと…いろんなことを…すこしずつ…勉強したいです…。)
やっぱり今回もうまく書ききれない。
でも、いろんな可能性をかんがえたり 想像をはたらかせること自体は どちらかというと怠らないほうがいいんじゃないかなと思う方で。妄想に過ぎたり 余計なことしいになるのは良くないですけど…。

せっかくの めくるめくスペクタクルドリームと そこからの物思い癖、こぼせるならこぼしてみないと損かな、という、もったいないとらんどでした。
“ボクは夢を描き泣く”。“ボクのわずかな期待が パレードの光みたいになったら”。
https://m.youtube.com/watch?v=7bFHzDa9U9w

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