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その投げた石は、未来の自分に当たるかも

SNSを見ていると、結構な数の批判や誹謗中傷を目にしたりする。そして、時にタイムラインに流れてくる誰かの発言に対して、自分でも「それは違うのでは?」とか「それはダメだよね」と言いたくなったりする。

でも、SNSがない時代でも、似たような問題はあったんだと思う。

マウンティングしかり、陰口しかり、今まで週刊誌がバカ売れしてワイドショーがめっちゃ視聴率をとっていたのは、きっとそういう娯楽が根本的に大好きだってことなんだろう。

そして、そんな大好きな娯楽が、SNSでもっとバラまかれて可視化されたってだけの事なのかもしれない。

今までは居酒屋でくだを巻きつつ「あの週刊誌のアレ、俺ならこうする!」って言っていたことを、ネットに垂れ流しているだけだ。やっていることは変わらない。

SNSに絶望して離れていく人をみるのは残念な気持ちになるけれど、同時にそれはちょっと他人に期待しすぎじゃない?とも思ってしまう冷めた自分がいる。


失敗しない人間はいない

過剰な期待...という意味では、2種類ある。

一つは、人の足を引っ張ったり失敗を喜んだりする人間の本性について。それに対して性善説で、話せばわかる、誰もが平和を望んでいる、と思ってしまう期待。

もう一つは、誰もが頑張ってちゃんと報われるはずだ...という他人の努力に対する期待。

どちらの期待も過剰になれば、突然の誹謗中傷を投げつけてくる相手とも分かり合えると思い込んでしまうし、もっとがんばれるハズの他人の努力不足を糾弾してしまったりする。


本当に、そうなのだろうか?

僕の中にも嫉妬はあるし、汚い感情はたくさんある。

がんばれない日だってあるし、怠惰な暮らしに溺れたいときもある。

失敗や弱音を許容したり、悪に染まってしまう時もある、ということをもっと心に刻んでおいたほうがいいのかもしれない。


その投げた石は未来の自分に当たるかも?

また、僕はつねづね誰かに何かを言いたくなった時には、それは自分ならできるのか?自分が同じ状況だったらもっと良くできるのか?ということは考えてから発言したいと思っている。

誰かを糾弾するときは、その失敗を自分はしなかっただろうか?と考える。

20代の人と一緒に動いていてその人が何かをミスった時、20代の自分だったらどうだったろうか?今の36歳の経験を積んだ自分は危険予測もできる。それは失敗をしてきたからだ。

例えば、後輩が寝坊したとして、僕はそれを責められない。僕も寝坊して遅刻したことはあるからだ。

がんばって欲しいとは思うけれど、おきてしまったことは仕方ないな...と思ってしまう。

親はもっと育児に向き合うべき!と思う時もあるけれど、その言葉の刃はパラレルワールドの育児を選択しなかった自分に突き刺さるだろう。育児を放棄してもっと仕事をがんばりたい気持ちの裏返しなのかもしれないし。

結婚しなかった未来、子供のいなかった未来だってありえたのだから、いまの自分の状況だけで言葉を振り回すのは乱暴だよね。


こういうのを想像力とかリテラシー、というのだとしたら、僕はたまたま色々な条件が重なっていまはこうして考えられている...だけのことだ。

もちろん、無駄に傷つけ合わない想像力をみんなが持てたらいいなぁ、とは思うけれど。それすらも、安全地帯を手に入れたから言えることなのかもしれない。

でもね、誰かに何かを言いたい時に、もしかしたらその相手は過去の自分や未来の自分かもしれない...という想像力を持つだけで、少しだけ世の中は良くなるように思うんだよね。

相手の立場を想像する...って難しい。
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