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ストレイシープのつぶやき #教養のエチュード賞

ここ数年、美意識という概念が気になっている。これほど個人差があり曖昧で、実態がつかめないのにハッキリとした価値を生み出せる存在はそうそうないだろう。

美しいということは、その存在だけで価値となる。

一種の状態でもあり、一種の形態でもあり、時に相対的で、時に絶対的で、それら全てが漠然とした個人的なもので時代でうつろいつつ、1000年たっても普遍的でもある。

多くの矛盾をはらみながらも人を魅了してやまない「美」というものにこそ、見方や感じかたにその人の教養が宿るのではないだろうか?


美しさとは、生贄の羊

美とは何なのだろうか?

古く、その言葉の成り立ちを調べると、神に捧げられた生贄の羊に辿り着いた。

諸説あるものの、美という文字は大きなヒツジを表しているらしい。

このヒツジは神に捧げる生贄であり、大きなヒツジこそ神様への供物として価値が高かったことから、大きい羊=価値のあるもの=美という価値観の形成につながっていったと言われている。

この成り立ちは非常に興味深く僕の脳裏に焼き付いた。

仕事の打ち合わせへ向かうJR中央線の中でスマホで調べて見つけた数行の話が、ずっとモヤモヤと悩んできた美意識の話に大きな気づきを与えてくれたのだ。

そう、つまり美とは贄(ニエ)である。


美とは、贄となり挑戦する者の姿

美という文字の成り立ちが生贄の羊であるならば、美=より良い理想を追い求め、美を作り出すことに挑戦する者こそ、現代のストレイシープなのではないか?

つまり「美とは、みずからが生贄となるべく挑戦する者」の姿そのものだ。

それは、新しい価値観をもたらそうと奮闘する姿であり、突き抜けた切磋琢磨の先に辿り着く極地であり、あらゆる代償を支払って身につく狂気じみた雰囲気なのかもしれない。

私たちの多くが美に憧れ美を欲しながら、しかし美しさとは程遠い振る舞いや怠惰な暮らしに溺れてしまう。

憧れは遠いからこそ成立するように、美もまた手に入らない遠い高みであればこそ感じることのできる幻想なのかもしれない。


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美しくあるということ

美とは、みずからが生贄となるべく挑戦する者だとすれば、美しさとは、美しくあろうとする事そのものでもある。

これがいわゆる「粋」と言われる振る舞いであり、喜捨であり、慈善活動を行える心の状態こそ実は美の根源的なところなのではないか?

美しさとは見た目だけの問題ではない、なんてことは掃いて捨てるほど言われてきた。

それは本質とは何か?という話でもあり、文章にしても整っていても美しくない文章もあり、拙くても美しい文章もある。

鍵になるのは何なのだろう?

おそらく、一つはそこに挑む姿勢であり、心の持ちようだ。

SNSによって他人の生きる過程そのものを見える化したことにより、顕著にその姿勢も見えるようになった。

これによって、お金持ち=意地汚くがめつい守銭奴、成功者=生まれ持った才能と、恵まれた環境と、不断の努力。これらが3つ揃った奇跡的な存在、という一種のステレオタイプな幻想が打ち砕かれた。

もちろん努力はあるだろうが、個人差はあれど正直で率直でひたむきに進んできた人が成功していて、そういう人の生き方に一種の美しさが宿っているという現実をたくさん見せつけられることになった。


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完全な美と不完全な美

物事には完成された美しさがあるように、不完全な美しさや、完成に向かうからこその美しさもある。

両腕が欠けている姿でもその芸術性が認められているミロのヴィーナス。頭部と両腕を失っていても神秘的な荘厳さを漂わせているサモトラケのニケ。

歴史的な美術品や建造物の中にはこのように何かを失っている状態ですらも「美」として認められているものが多々ある。

これらは必ずしも完全=美ということではない、という証明だ。


得てして、創作にたずさわるものは己の中にはるか彼方の理想像を持っており、しかし頭の中のイメージと実現できるモノとのギャップに悩まされるものだろう。

ここで思い出して欲しいのが先にも述べた「美とは、贄となり挑戦する者の姿」ということだ。

理想を捨ててはいけないが、かといって完成形にたどり着けばいいというものでもなく、人々の価値観や既成概念をアップデートし続けることにこそ美は宿るのだろう。


刻まれた皺に美を見いだせるか?

価値観もまた時代によって移り変わり、また1人の中の価値観も状況や経験によって常に揺れ動いている。自分の中での価値観や基準に絶対的な自信をもてる人はほとんどいない。

既成概念をアップデートする、という意味では、美しさほど曖昧でありながらその人の価値観や思い込みが強く反映されるものはない。

強く、若く、健康的であることが美しいとされてきたのも、生物の持つ繁殖という本能に基づいたバイアスがかかっている。同じように豪華で貴重なものは美しいというのもまた、思い込みが潜んでいるだろう。

本当に美しいと感じているのか、それとも美しいとされているからそうなのだと思い込もうとしているのか...

ともすれば古びたゴミのような道具にも美を見出せばアンティークになるように、老人に深く刻まれた皺に美を見出したり、当たり前に見過ごされている日常の景色の中に自分なりの美意識を発見し切り取ることこそが美しくあるということなのではないだろうか?


創作にたずさわる者よ、孤独を恐れるな。

既成概念を疑い、自らの中に芽生えている疑問に向き合おう。

誰かの作った美しさというモノサシではなく、自分の目と感覚を信じよう。

ほんの小さな気づきのともし火を、消えないように大切に守ろう。

美しいとされている美しいものをつくるのではなく、誰もが見過ごしている美しさに気づきを与え、既成概念をアップデートしよう。


美とは、みずからが新しい価値を生み出すために挑戦することだ。

挑戦こそ前進であり、あらゆる失敗は発見である。

今日よりも明日がより良い世界になるように、前に進む全ての創作者にエールを送ろう。

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