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書ける話、書けない話。


noteの更新は平日だけにしている。
月曜から水曜も、投稿しようとはしていた。
文章も書いていた。

だが、投稿はできていない。

理由は単純で、同じ記事を書いているからだ。
書く度に書き直して、結局3日間粘った上で、削除した。

なんでか知らないが、書けなかった。
書ききれなかった、の方が正しいけれど。



その記事が書けなかった理由を、自分なりに考えつつ、この文章を書いている。

削除した記事の内容は、別に書きたくないものではなかったし、どちらかと言えば書きたいと思っていた内容だった。

逆にこの記事は、書きたいとか書きたくないとか、そういう概念の外にある。
ただ、書いているだけだ。

まず一つの基準として、「想いがあると書けない」ということがあるのかもしれない。

あとは、消した記事は、会社の上司の言動を基に、自分なりの考えを書こうとしていた。この記事でも、自分の考えを書いている。
いや、考えている様子を書いている、に近いのか? 少し違う気もしてきた。

一つずつ考えていくと、違いなんて山ほどある気がしてきた。ガチで書き出してみたら、そこまで多くはないんだろうけれど。



自分にとって大きな違いを挙げるとするなら。

削除した記事は、「上司」の話であり、彼の物語。一方この記事は、傍観者の話であり、僕の物語。

すなわち、人の話は書けない、ということ。
この結論に至るまで、同じようなことが度々起きていたから、もう結論でいいやと思っている。

たぶん、側から見てるだけでは、余白が多すぎて、本題に入る前に疲れ切ってしまうんだろうと思う。自分ごとなら、掻い摘むだけでいいんだから。

あと、人の話でも文章にすることはできる。厳密に言えば。ただ、かなり短くなる。たぶん、400文字から800文字、原稿用紙2枚あれば事足りる。

自分が経験してないと、感情の遷移もなければ、定点観測になるので話の展開も生まれづらい。
時も、感情も、動いていないのだから、シンプルな結末を書くしかないわけだ。

長く書いたところで、内容が薄まるだけ。
味はなくなっていく。



自分らしくnoteを書こうと決めてから、日々のメモを軸に投稿内容を考えているけれど。

自分の話もあるが、結構人の話も多い。
そう思えば、人の話はその瞬間の思考で、自分の話は少なくとも過去があって今がある。

そう考えると、書けないというか、書きづらいのも当然かもしれない。


自分語りは嫌われがちだけど。

他人語りは自分語りより、つまらないのかもしれない。自分のネタじゃないと、すべらない話では受けないだろうな。

語れる自分であろう。

では。

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