見られてないから書きやすい
ブログを再開して数日たった。いや、3日経った。
今までほぼ毎日していたことをパッタリ辞めると、数日関わっただけでもめっちゃ長く感じる。
そういう点では、ブログも仕事も同じかもしれない。1年半ぶりの会社は大変だ。なかなか疲れる。
ブログの話に戻すけど、これまでは毎記事少しずつではあるけれど、スキを押してもらえていた。
今はゼロだ。
けど、ブログは格段に書きやすくなった。
見られること、評価されること、何かに役立てようとすること。そういった外との関わりを断つと、本当の意味での趣味になる。
いや、どんな形でも本人が趣味と思えば趣味なんだけれど、どこまでも自分本位な活動のことを趣味と呼びたいと思っている。
ありがたくはあるけれど、今まで見られてしまっていたことで、カッコつけてしまっていたらしい。
こんなつもりはなくとも、人は自然と指向性のある行動をとるってことだ。
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同じような現象として、彼女が出来てから、格好良く振る舞うことがなくなった。
決して、気障ったらしい発言をしたり、男っぽい意地の張り方をしていた訳ではない。
今思い返すと、自然体じゃなかったな、と感じるだけ。
むしろ、男らしさや好かれようとする行動は避けていた。なんとなく嫌だったからだ。
恥ずかしかったのかもしれないけど、一定の態度で人と接したかったからだと推測している。
格好つける。
言い換えると、括弧つける。
言葉遊びではあるけど、それなりに芯をくってると思う。
自分自身を型にはめて、ある一定の印象を持たれるよう縛ることが、格好つけること。
人と関わる時は、括弧で分かりやすく囲むことで、コミュニケーションが円滑になる。
彼女ができたことで、他の人を気にすることがめっきり減った。良いことかどうかは、考えないことにする。
けれど、正直に言えば、自分に関与することがない人のことまで考えるのは、面倒だし、コスパが悪い。
どれだけ取り繕おうとも、じゃがいもや里芋が転がってるようなもの、と感じてしまっているのだから。
そう考えてしまうことに関して、芋に対しても、他人に対しても、多少の申し訳なさはあるけれど。
とにかく、楽になったのだ。
生活することが、生きることが。
本当に集中したい物事に集中できるのは、幸せの内の一つだと本気で思う。
余計なものは無駄ではないが、邪魔になるのは否めない。
そこまで来たら、好みの問題だ。
となると、この記事やこのブログ活動は、はたして余計なのか、余計じゃないのか。
どうなんだろうな。
答えを探すつもりは、今はない。
では。