日の名残

dewey delta 2nd 「Jasminized Sequence」に収めた「日の名残」には、英題も邦題も、カズオ・イシグロ著『日の名残り(The Remains of the Day)』を楽曲の題号として転用した。
傑作の誉れ高い本作を、自分は結局未だに読了しておらず、当然その映画作品も視聴していない。

芸術作品との出会いは運命であり、運命とは時制である。
早すぎる出会いというものはなく、受け手側のコンディションに応じてその運命は最大化する。
思春期に手を出してまるで歯が立たなかった作品が、数十年を経て、まるで託宣のように現在の自分を定めし尽くすことがある。
運命は、着弾したその瞬間に炸裂しない。受け手を菌床とし、その生育に沿ってゆっくりと根茎を張り巡らせるのだ。
俗に言う「刺さる」とは、市場浸透の成功例を短期的な消費スパンで切り取った単なるマーケティングワードでもあり、
人が人の営為/創意を咀嚼できたときに感じ得る、揺るぎない感動を示す美しい言葉でもある。

運命が最大化していること、その何かが己に刺さっていることは、決して自覚的に先取りできない。
もし、「これはきっと自分に刺さるはずだ」と思って手に取ったその本が、見事に心根を揺さぶった場合。
その震撼は手に取った対象それ自体に誘発されたものではなく、その本を手に取ろうとした自分のこれまでに流れていた、全ての時制の蓄積において誘発されている。
「感動しよう」と思って感動はできない。感動とは主格ではなく、常に与格からのギフトとしてやってくるものだ。

読了すらできていない小説のタイトルを、自分の楽曲名にしようと思った経緯や契機は言語化できない。
とにかく静かな曲を。ただし調性の薄いAmbientalな曲ではなく、きちんと抑揚と展開がある、静かな曲を作ろうと思って和音を探り、
最初のコードを弾いた時に「これは日の名残だな」と思えたことを覚えている。おそらく、何らかのギフトが在ったのだろう。

歌詞については、自分が抱く情緒のクセのようなモチーフである「遺された者、もう居ない何かを護る者」を本作も敷いている。
提唱録 弐に収録した幻想譚組曲の最終楽曲「Ballad for the Little King」と根は同じだ。


技術的なニッチ話では、リリース直前でピアノの音色を差し替えた。
愛用していたKEYSCAPE Cinematic Grandは、ピアノ一本の鳴りを担わせる場合に幾分豪奢すぎるのだ。
結果、出来上がりはまだまだ理想とは程遠いが、差し替え前よりも多少は良くなったと思う(思いたい)。

(taira)

#deweydelta

#JasminizedSequence


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