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1回100万円の点滴

これは感情の外部記憶装置。
何を考え、何を思ったのか。良いことも悪いことも素直に書くこと。


昨年8月に脳梗塞で母が倒れた。
幸か不幸か命に別条はなかったが、身体には麻痺が残り、年末リハビリ病棟から退院はしたものの車椅子での生活を余儀なくされ、だいぶ参っているようだった。

「幹細胞点滴という再生医療が脳梗塞の後遺症に効いているらしい」

そんなLINEと共に母からURLが送られてきたのは入院して1ヶ月ほどの頃だった。溺れるものは藁をも掴む、とはよく言ったものだがいまはスマホで色々な情報にアクセスすることができる。
突然、半身が動かなくなってしまった彼女はきっと毎日毎日色々な回復方法を検索していたのだろう。その中でたどり着いたのが再生医療。費用は1回100万円。

URLの先には点滴を受けて劇的に回復した男性の話が書かれていた。
「どうみても怪しいんだけど…」
本当は「お前は脳梗塞をやってただのバカになったのか?」と口元まで出かかっていたのだが我慢した。「それでも私はもう一度自分の足で歩きたいの」そう言って母はスマホの画面を眺めていた。

そんなわけで年始から再生医療とやらのところへ話を聞きに行ってきた。
色々な話を聞く中で母の中から溢れた言葉。
どこの病院にいってももう元には戻らないってみんな言うんです。簡単に言うんです。諦めて今の生活の中でできることをしましょう、って言うんです。私はそれが悔しくて悔しくて…。この苦しみはなった人にしかわからないと思うんです。私はもう一度自分の足で歩きたい

母の気持ちはよくわかる。
というのも私も二十歳から不治っぽい病を抱えて生きてきた。それこそ色々なことを試したし、一本5万円の注射を月に2回打ったりもした。だからこそ、こうなってしまった自分を受け入れられず、もがき苦しみなんとかしたいという気持ちになるのはわかる。

また、彼女がいま本当に望んでいる言葉もわかる。
「母さん大丈夫だよ、また歩けるようになるよ。安心してよ。私たちがついているんだからきっとよくなるよ」
これだ。きっとこの言葉を言い続けることが大切なのだと思う。

だけど私がこの手の言葉を投げかけることはない。母が嫌いなわけではない。私は家族をとても愛しているし、もちろん簡単な励ましはしている。だが真摯に母の気持ちを受け止めて絶対によくなるよ!!という言葉を投げかける気にならないのだ。心底自分が嫌になる瞬間である。

これは私の人生観によるところが大きいのかもしれない。
自分が病を抱えた当初は「どうして私だけ」「誰もわかってくれない」「人ごとだと思って」と世界を呪った。
そうして世界を呪い続けて10年。私の元に神様がやってきたことはないし、なにをしても、どんなにお金をかけても劇的に症状がよくなることもなかった。つまるところどうにもならないのだ。これに気がついたとき世界が色を失うと共に、自らの呪詛から解放され楽になった気がした。

私の根底には常に「この世界はどうにもならないんだ」というある種の諦めが漂っている。もちろん仕事であれば目の前の案件をどうにかすることに心血を注ぐ。それはクライアントがいるからであり、自分の身に降りかかるほとんどのことは「どうにもならない」で片付けてしまっている。
そもそも世界を10年呪い続けたら、だいぶ前になにがどうでもよくなってきてしまった。

自分の考え方が基本的に「どうにもならない」だからなのか、他者に対しても基本的には「知らんよ、どうにもならんよ」のスタンスで生きている。それが肉親であったとしても今回ばかりはどうにもならない、と思っているのだろう。別に悲観をしているわけではない。私の目からみても入院時より身体は動くようになっているし、言語障害もない。日々リハビリを続けていけば今よりもっとよくなるイメージがある。一歩一歩やっていくしかないのだ。そしてそれをサポートすることは厭わないつもりでいる。

それでも母はいますぐかつての自分を取り戻したい、と願っている。
願うことは悪いことではないし、再生医療でもなんでも自分の気が済むまでやればよい。ただ、もう年齢も60をすぎているわけだし、いままでのように動けるようになるとは到底思えない。そのイメージはまだ湧いていない。
混乱の最中にいる人間を間近で見ているとすーっと心が覚めていく。
この世界はどうにもならないのだから、それを受け入れた上で新たな一歩を踏み出せる気持ちになってもらえれば良いのだけれど。

正直なところ鬱々としている母を見ていると辛い。それは可哀想とか、そういう感情での辛い、ではなくうだうだ言っててもよくなることはないから早く全部諦めて気持ち切り替えてくれないかな、っていう部類の辛いである。
「私の中ではこの治療を受ければよくなる気がする」と言っているので、考え方によっては100万円を投げてそれで全てを諦め、前を向いてくれるのであれば感情のソリューションとしては格安なのではないか、と思わなくもない。ただ、それは素直に諦められた場合である。
※諦めろ、諦めろと言っているが、これは「いますぐに以前のような生活を取り戻そうなんて思うな、諦めろ。いますぐではなく、段階を踏んで以前の生活に向かっていけるようにすることが大切なのだから、一つ一つクリアしていこうよ」という意味の諦めろである。

死の受容5段階という有名なものがあるけれど、これは死だけではなく、すべての困難な事柄に組み入れることができると思う。

「否認」→「怒り」→「取引」→「抑うつ」→「受容」
この5段階の中で母は「取引」の段階に入った。
入院当初はもちろん否認。
なんせ気分が悪いと病院へ行って寝て覚めたら半身動かなくなっていたのだから否認したくもなるだろう。

年末帰宅をしてからは一時的に「怒り」も発現していた。
昔歩いた道を通るたびに嗚咽混じりに泣くし、もうこんな身体いらない!と私たちがそばにいても気持ちを乱すこともあった。
そして「取引」である。
これは死に向かっているわけではないので、その先に一時的な「もう私は以前のような生活はできないのだ」という「抑うつ」が来るにしても、そこで気持ちの区切りがついて「受容」、すなわち半身が動かない自分を受け入れ、その上で新たな生活へ取り組んでいけるのだろうか。

この先にどんな結末が待っているのか、母がどのような過程を経て自らの気持ちを落ち着けていくのかはわからない。
わからないけれど、家族として引き続き見守っていきます。

アディオス

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