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小説「自殺の理由としては十分過ぎる恥」

プロローグ



Yは、人から静かな人といわれるのが嫌いだった。彼女にとって静かであるという評は、惨めであると罵られているのと変わらないからである。ただYは、自分が抱えた不愉快な気持ちを表に出すことをしなかった。それで彼女の前を通り過ぎる人たちは、平気に彼女を静かな人と評価するのであった。

Yはそして地味な女だった。それにもかかわらず、その夫は小説を書くような男であった。彼は頽廃芸術家としての逮捕歴をもつ。

毎朝午前五時には起きるYは、そうして居間に行く。その日もその習慣にならうと、そこにはいつもの通り夫がいた。食卓で書きものをしている。彼は大抵夜中からそこにいて、じきに寝る。

普段は夫から声をかけられるまで台所で湯を沸かしたり食器棚を整理したりするのだが、この日はYの方から声をかけた。

「あの小説はどうしても必要なの?」

「え、もう?」夫はすぐに反応した。

この家には子供はいないから、夫婦の会話には飾りが付かない。夫が「あの小説」の必要性に答えずに逆に妻に問い返したのは、彼の脳が妻の質問について考えるより先に驚きの感情をつくったからである。夫がYに、自身の最新作の校正前の原稿を渡したのはわずか三日前である。

小説は、明らかに夫と分かる主人公が、明らかにYと分かる女や、明らかにあの女と分かる女と寝る話であった。性交はポルノ並みに描写されていた。

夫は「これはFとRへの復讐なんだよ」と言った。

Fとは夫のかつての愛人である。いわゆる、あの女である。Fも頽廃芸術家に認定されて逮捕された。ただ執行猶予が付いた夫に対し、Fは懲役二十年の刑が確定し現在も服役している。Rは夫を逮捕した警察官である。

夫は続けた。「俺がどれだけ苦しめられたか、惨めな思いをしたか、それを奴らに知らせることで、奴らに罪の意識を植え付けるんだ。小説家にしかできない復讐さね」

Yは、FもRも知っていた。夫の小説で影響を受けるような二人ではないと、Yは思った。でもこう言った。

「そう。じゃあ、死なないでね。それだけ。ずっと言っていることだけれど」

「死なないよ。それにもし自殺の方針を固めたら、必ず事前に相談する。自殺の相談ばかりは、事前にするよりないけどさ」と夫は自分の冗談に少し笑った。

「そう」Yはそう小さく答えて居間を出て行こうとした。

「シャワー?」と夫は尋ねた。

「うん」Yはそう言って消えた。

 Yはシャワーを浴びながら、浴室を出たら夫からベッドに誘われるだろうと予想した。

 

 

性交を終え、二人はティッシュでそれぞれの体液を処理した。そしてYは夫に、「私はあなたの味方だから」と言った。それでも足りないと感じ、「それは変わらないから」と加えた。

自分の性交が小説に描かれることはYにとって辛いことだった。それを承知しているから、夫はこう言う。「この小説は俺にとってはむしろ、君に贈る愛の詩だよ」

夫の理屈はよく分からなかったが、Yには理屈は必要なかった。

 

 

Yはある知人から、「あなたの夫は、あなたが御しやすいという理由だけであなたと一緒に暮らしているんだよ」と言われたことがある。「彼は本当はFが好きなんだよ」とも。

Yも同じ疑いを持っていた。「あなたは、本当はFを尊敬しているんでしょ。私を馬鹿にする一方で」と夫に言ったことがある。

 

 

Yが三十九歳、夫が四十歳という年齢の割には、二人の性行の頻度はあった。Yはそれをほとんど娯楽同然に楽しみにしていた。

Yはかつて、夫との婚姻申請が認可されたとき、願いが成就されて喜んだ。しかしすぐに「こんなにつまらない私は捨てられる」という恐怖に襲われた。

ストレスで円形脱毛症になった。ストレスの解消方法は二つしかなかった、夫と別れるか、恐怖を克服するか。

Yは恐怖を解消するため、夫を自分の位置まで引きずり下ろすことにした。例えば、夫とFの関係を知ったとき、性に対してだらしない夫の欠点を嬉しく思って放置した、といったように。

Yは「あの人の欠点をひとつ見つけると、自分の欠点がひとつ中和される」と考えたのである。

Yが夫に向かって「私を馬鹿にする一方で」と言ったとき、それはきつい言い方ではなかった。だから、夫が政府、警察官、T新聞社、政党友愛、労働組合から凌辱され、惨めな存在になり、それにより多大な損害を受けても、Yはそれでよかった。

「私は嬉しいの。これでようやくあなたは私の手の届くところに降りてきたのだから」と考えることができたのである。

夫の勾留期間中に、自宅で過激右派に強姦され、放火された自宅の炎を見ているときもそう思った。

 

 

Yの夫はWという。

 

 

Wは自分の二十五歳から三十三歳まで期間を、「糞ったれの九年間」と称していた。生まれた漁村から逃げるように地方都市に向かい、それでも足りず中央に到着したとき二十五歳だった。T新聞社に入って校閲の仕事に就き、政党友愛に入党して政治運動に与し、罪人に仕立てられ牢屋に入って釈放され、それからなんとか生活が安定し始めると、三十三歳になっていた。

糞ったれの九年が終了して、そこから七年が経過して四十歳になってWは考えた、「どうして俺は、政党と警察に、ああももてあそばれたのか」と。

それはWの油断のせいである。ではなぜそんな油断がWに生まれたのか。

父親の子育てが不十分だったから――それがWの回答である。

Wは、すべての災禍を中央で負った。つまり、生まれ故郷を離れなかったら被害は生じなかったのである。そしてWは中央に出たいと思って出てきたわけではない。Wが中央に移った理由はただ一つ、父から離れたかっただけだ。Wは父から嫌がらせを受けてきた。Wの母親も姉も早くに死んでいたから、幼いころのWを父から守る者はいなかった。

 

 

漁師の父はWが生まれたとき刑務所に入っていた。暴力事件を起こした。彼が出所したときWは五歳だった。それから間もなく母親が死んだ。Wの姉もしばらくして死んだ。いずれも病死だった。

Wは父のことを「知らないおじさん」と認識していた。父も、子犬を欲しがったのに成犬を与えられた愛犬家も同然であった。父は躾としてWを殴った。Wは敵意の目を父に向けた。父親が子供を殴る意味を、子供の言葉で翻訳できる人間が身近にいなかったからである。父の殴る力が強くなると、Wの中で「知らないおじさん」は「悪魔」に昇格した。

ただ漁村だから、その不幸を被った子供はWだけでなかった。漁師の子たちは反抗期を迎えることを許されなかった。船上で船長たる父親に逆らえば、双方の死につながるからである。だから漁師の子たちは陸で反乱を起こした。乱暴者になり、警察の厄介になり、進学は考えなくなり、普通の就職が難しくなり、結局跡を継いだ。

中学生のWは、自分の反抗は漁師にならないことであると決めた。勉強を始め、船の上でも単語帳を開いた。自分への当てこすりと感じた父は、Wの手から単語帳を引ったくって海に捨てた。しかしWは翌日も単語帳を携えて乗船した。父は二十回で海上投棄を諦めた。

Wの高校での成績は群を抜いていた。漁村の学校に大学進学を考える子弟は皆無といってよく、教師たちは久し振りに教えがいのある子供に喜んだ。教師たちはWに古い参考書を与えたり、大量の単語帳を提供したり、受験用の補修に応じたりして彼を支援した。

Wはその地域で最高位の国立大に合格した。Wは入学許可証を父の前に置き、「入学金と授業料と四年間の生活費を出してほしい」と言った。

密造酒で顔を赤くした父は「ふんっ」と言った。そして少しして「俺に得があるか?」と尋ねた。

「国立大に行かせてくれたら全費用の二倍を卒業後五年以内に返す」

「五倍だ。それならカネを出してやる」

父は一週間後、カネを用意した。沿岸漁業権の一部を売ってこしらえたという。そうして父はサインペンと紙をWに渡した。

「この五倍を卒業後七年間で返すと、そこに書け」

Wは絶縁状のつもりで借用書を書いた。父親は血判を要求した。Wは父親を睨みながら左手の親指の表面を齧って血を出して借用書に押しつけた。

Wは家を出ることを考えたが、そのカネではとても大学周辺の賃貸住宅を借りることはできなかった。やむを得ず大学入学後も自宅から通学した。バスで片道二時間かかったが、大学図書館で借りた本を集中して読むには都合がよかった。文学に親しむようになったのもこれがきっかけだった。

 

 

Mは漁村でのWの唯一人の親しい人間であった。Mの父親も漁師だったが、粗野な人間ではなった。Mの母親も静かで親切な人だった。Mの両親は、学校の成績が良かったWを好いてくれ、Wのいる前でMに「Wのようになりなさい」と言うこともあった。

Mの両親は、Mに学業を続けさせようとした。しかしWと同じ大学を受けたMは落ちた。翌年も挑戦したが失敗し、そのまま地元の製紙工場に就職した。

Wは大学生活に馴染めなかった。だからMとの交友は続いた。土曜や日曜にMが夜勤のときは、Wは製紙工場に入っていって、工員の控え室でMと密造酒を飲んだ。Mは、最も近い友人が国立大学に入ったことを誇りに感じていた。Mは工場の同僚に、Wがいかに優秀であるかを吹聴した。

Mには嫉妬心がなかった。向上心も少なかった。それがWには心地よかった。大学の同期たちと比較して、明らかに自分は劣っていると感じていた当時のWには。

 

 

二十歳で大学を卒業し、Wは隣の市の金属メーカーに就職した。その市は故郷の漁村よりは人口も多く開発も進み、大きな企業もあった。ようやく父と離れて一人暮しを始めたが、鉄鋼不況のあおりで給金は中央の高卒並みしかなかった。父に借りた金を毎月末に送金し、アパートの家賃を払うと、手元にはほとんど残らなかった。

Wが自宅を出て三年目に、父は腰を悪くして遠洋漁船に乗れなくなった。父は、返済金に幾らか上乗せしてくれないかと、手紙でWに依頼した。Wはそれを無視した。

Wは二十五のとき金属メーカーを退社し、高い給金だけを求めて中央に向かった。

 

二十五歳

 

10

 

Wが金属メーカーを辞めたのは二十五歳の冬であった。

 

11

 

かつて旅行で短期間訪れた中央と、住む場所として臨む今日の中央は、まったく別の顔をしていると、久し振りに新中央駅に降り立ったWはそう感じた。

かつての新中央駅のプラットフォームは、「君がほしいものはなんでもあるよ」と言ってくれた。しかしこの日の新中央駅は、「お前みたいな惨めな奴がなぜここにいる」と意地悪だった。

それでWは、新中央駅のプラットフォームからしばらく離れられなかった。それでもようやく駅の三階の待ち合い場に向かった。新中央駅の八本のプラットフォームは、待ち合い場のある塔を中心に、角度四五度間隔で放射線状に配置されていた。五千人を収容できる待ち合い場の壁は薄い青色の半透明の強化ガラスでできていて、ここから全プラットフォームが見渡せた。

この駅は、Pが大統領に就任してすぐに着工した国有の建築物だった。旧中央駅から三キロしか離れていない場所に無理やり八本もの線路を、しかもそこだけ秩序よく放射線状に引き込んだから、周辺の道路や新中央駅に入らない線路は迂回を強いられた。そのいびつな再開発は、今でも頻繁に重大な交通トラブルを発生させている。

Wもこの世紀の大失敗事業を知っていた。しかしいまは、つまり中央の中心に立ったいまは、自国のパワーを感じて誇らしく思った。平日の午後三時。待ち合い場はスーツを着たタバコを飲む男が多かった。外国人観光客もいた。Wは「彼らは帰国後、我が国の経済発展ぶりを吹聴せずにはいられないだろう」と思った。

朝、ビスケットを二枚食べただけなのに食欲はまったく沸いてこなかった。Wはやっと待ち合い場を出ることができた。ガイドブックを頼りに地下鉄を使い、モーテル街に向かった。

目的の地下鉄駅から地上に出た途端、すえた臭いがした。道端に捨てられたごみの中に空き瓶が多いのは、密造酒の容器に使ったからだろう。Wにそれが知れたのは、建物の壁に貼られた無数のチラシからである。チラシは二種類しかなく、売春婦の斡旋か密造酒のディーラーの連絡先だった。モーテルはどこも料金を表示していて、Wは一番安いところに入った。

カウンターの老人に一カ月分の部屋代を渡し、鍵をもらった。タバコを飲まないWは、部屋にこびりついたその臭いに咽た。水回りはことごとく水垢で茶色く硬くなっていた。

「ここは中央の毒が濃く滞留した吹き溜まりだな」Wはそう独り言をした。そして「とにかく職だ」と続け、興奮と憂鬱を懸命に押さえつけ、眠りにつこうとした。

 

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「給金がいいところ、ですかね」

職業案内所の女職員の質問に対し、Wはそう答えた。

女職員は「条件は給料の高さだけですか」とWに聞き返したその顔はとても不愉快そうだった。

Wは、次にここに来たときにこの女職員がまた自分を応対する確率は低いと思った。すると勇気が沸いてきた。

「求職者がどんな条件を持ち出そうと、あなたがそれをとやかく言う必要はないでしょう。私の学歴と職歴で就ける仕事のうち、給金の高い順から五社を目の前に並べてください」

「あなた、就職をなんだと考えているの」

女は激した。この女は、仕事にプライドを持っているわけでもないのに、自分の仕事についてとやかく言われることを嫌うタイプなのだと、Wは推量した。

「二つ言いたい。ひとつは、職種はまったく関係ないわけではない。五社並べてみて、一番適していると思った仕事を選ぶつもりだ。もうひとつは、公務員としてのあなたの仕事は、私に選択肢を示すことだ。あなたが私の希望を拒否できるのは、公序良俗に反していると認められる仕事を、私が求めたときだけだ。違いますか」

女は答えなかった。Wは続けた。

「ち・が・わ・な・い・ん・だ・よ。だから早く私の前に五枚の求人票を並べなさい」

女は座ったまま両手を腰に当てて、Wを睨み無言だった。そこに女の上司らしき男がやってきた。

「何かございましたか」男はにやにやしながらそう言った。

男のこの馬鹿丁寧な対応は、公務員汚職に対する世間の批判をこれ以上拡大させないための行動である。

女は腰から手を離し、「こちらのお客様のご要望が少し理解できなかったのですが、今は分かります。すぐに求人票をお出しして、見ていただきます」と上司に言った。

上司はため息をついたあと、早口で女に向かって言った。「ご要望が理解できなければ、なおいっそうお話を聞いて対応しなければならないじゃないか。――でも今はご要望を理解できたんだね。では任せるよ」そしてWを見て頭を下げながら「大変申し訳ありませんでした。もしまた何か行き届かないところがありましたら、次は直接私をお呼びください」と謝罪して自分の名前を言った。

上司が立ち去ると、女はパソコンを操作した。そうして一枚の紙を印刷して、Wに差し出した。

「五件というご要望ですが、私が知る中でここがお客様に一番合っていると思います。年収はこれまでの勤務先の二倍になります。しかも、ここは国立大学卒業者しか採用しません」

T新聞社だった。職種は校閲とある。Wはこれは女の仕返しだと思った。中央に来たての自分がT新聞社なんかに入れるはずがない。そう思ったWは女を忌々しく思った。Wはこれが中央のやり方なのだと理解した。Wは、敵に対してプライドを傷つける攻撃をすると、コンプレックスを擦る仕返しを受けることを知った。

「早い方がいいですよ。これからT新聞社に行けるのでしたら、この場で電話で面接の予約を入れますが」

Wはいったん出直したかった。しかし、既にスーツを着込んでおりモーテルに戻る理由はなかった。

Wが「ではお願いします」と答えると、女は最上の笑顔で「はい、承りました」と言って手元の電話機の受話器を取った。

 

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T新聞社の本社ビルの受付の女は、見た目に美しく、言葉遣いが綺麗だった。Wが来意を告げると、女は担当者を呼ぶからソファに座って待つよう指示した。

Wは高級を知らない。それでもこの空間が高級であることは分かった。だからここを行き来する人たちも高級に思えた。腰かけた位置からエレベーターの扉が見える。二基あるエレベーターの階数表示は絶えず異なるフロアの数字を示していた。

何度かエレベーターの扉が開いたり閉じたりした末に、スーツを着込んだ中年の女が、迷わずWの方に進んできた。Wは立ち上がった。顔が小さく手足が細く、均整が取れた女だった。女はWをエレベーターに乗せ応接室に連れて行った。

  

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「それで校閲の仕事ですが、役割は大きく分けて二つあります。一つは記事を紙面化される前に読み込んで、誤字脱字、事実誤認、計算違いなど、誰もが間違いと認める間違いを探す仕事です。こちらは慣れれば難しいことではありません。

二つ目の方が重要です。記事の内容が、社の綱領に合致しているかどうかのチェックです。そのためには、うちの新聞だけではなく、他紙も読み込んで、うちの記事の特色を把握する必要があります。政治スタンス、社会的な目線、うちがタブーとしている事項、これらは血肉も同然に理解しなければなりません。これを間違うと、上司から怒鳴られます。校閲職場ではいつでも怒号が飛び交っています。

もちろん、原稿を書く外勤記者が綱領を理解していれば大きな問題にはならないのですが、外勤記者は取材先に感情移入をしがちです。あえて社の方針を無視した記事を書く者もいます。校閲係は、実際に現場を見てもいないのに、外勤記者に間違いを指摘しなければなりません。だから校閲係に記者の称号を与えています。外勤記者と対等に戦ってもらうためです」

Wを面接しているのは二人の幹部社員だった。記者系の幹部はこのように校閲の仕事を説明した。

それまで一言も発しなかった事務系の幹部が、記者系幹部の話が尽きたころを見計らって口を開いた。「私たちからの質問は以上ですが、最後にあなたから質問はありませんか」

ほとんど難しいことを聞かれなかったWはかえって心配になっていた。

「あります。実は私、新聞業界について知りません。校閲という仕事も、こうして話を聞いたいまでもよく理解できません。社会に対する問題意識は持っているつもりですが、でも私程度の問題意識がこちらで通用するかどうか、今のお話を聞いていて怪しくなってきました。仮に入社が許されたとしてもこちらで働く力量があるかどうか不安です」

事務系幹部がこれに答えた。

「私は事務方の人間ですが、記者志望者や新人記者、ベテラン記者と長年接触してきました。その中で優秀だったり、優秀になりそうだと思える人って、やっぱり謙虚な人なんですね。『俺を採用しないと損だぞ』なんて言って入社した人は、すぐに駄目になります。駄目にならなくても、すぐに天井にぶつかって成長しません。それよりも、うちの会社で研鑽を重ねる中で、社会正義と弱者救済に目覚めていった人の方が確実に伸びますね。そうですよね」

記者系幹部は大きく頷いた。

  

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T新聞社の面接からモーテルに戻ったWは、興奮していた。T新聞社に入社して彼らの仲間になれたらどんなに素晴らしいだろう。俺は面接官の知性に酔った。この一次面接を通過すると、最終の二次面接は一週間後で、そのときは役員と話すことになる。その人物は今日の面接官たちより大物に違いない。

隣室のセックスのあえぎ声が届くこの部屋と、豪華な応接セットが配置されたT新聞社の一室は、Wにとってはどちらも中央の顔であった。モーテル的な中央の人になりたくなかった。豪華な応接室的な中央の人になりたかった。

「なんと残酷な選択肢だろうか。でもこんなに幸せなこともない」

Wは故郷の二人の男のことを考えた。父親と友人のMである。もしT新聞社の社員になれたら、帰省してやろう。二人に自分の成功を見せて嫉妬させるんだ。父に対する恨みは随分前からあった。しかしMに対する悪感情はこのとき湧いた。

「Mよ、お前を恨む義理は俺にはない。でもな、お前は国立大に落ちたからって、大学進学自体を諦める必要はなかったんだ。大学を出ていれば、中央に来られたんだ。何もあんな魚臭い田舎町の、溶解パルプの悪臭漂う製紙工場なんかに勤める必要はなかったんだ。お前はいつでも俺を受け入れてくれた。でもそれは、俺から刺激を受けたかったからだろ。じゃあ俺は。お前から刺激を受けられない俺に、友情の得はあるのか」

Wは、自分はいま興奮していないと思った。冷静に状況分析ができていると思っていた。しかし興奮していることは疑いがなかった。その証拠にWは酔っていた。快感物質が脳内と血管内に漂い、Wの精神をくすぐった。Wはくすぐられるままにしておいた。

 

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Wの自惚れは薄い。T新聞社の採用通知を受けたとき、自身の能力が評価されたとは思わなかった。あの華やかな業界の先頭集団にいる会社が自分を採用したのだから、校閲係というのはきっと退屈な仕事なのだろうと予想した。

住居はすぐに決まった。不動産屋は「T新聞の人がこんな集合住宅でいいの」と聞いた。スーツも三着買った。

 

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Wの移動手段は地下鉄だった。混雑はいかにも都会的で、それを通勤という実用で体感できるのは、田舎者のWにとって快感だった。人事部で入社手続きを済ますと、あとは校閲部長の指示に従えと言われた。

校閲部は二百の机が並ぶ広大な部屋だった。柱がない。午前九時半、席のおよそ半分が埋まり、彼らは黙々と原稿を読み込んでいた。

Wは一番近くで原稿を読んでいた男に、「校閲部長に会いたいのですが」と聞いた。男は何も言わず、左手で部屋の奥を指差した。指先の方角にはドアがあり、個室になっているようだった。

Wがドアをノックすると、返事はなかった。Wが入ると太った男が机の上に足を投げ出したまま、新聞を読んでいた。この部屋にも、入社面接を受けた応接室ほどではないが、値が張りそうな調度品が並んでいた。彼は新聞から目を離さず、「この記事だけ読んじまうから」と、体形同様に野太い声で言った。

Wは校閲部長から業務内容の説明を受けたが要領を得なかった。校閲部長は少し説明しては「まあこれは実際にやってみないとわからんな」で区切り、別の事項に移ってもすぐに「これも実際にやってみないとな」で片付けていった。要するにこの校閲部長は、新入社員に仕事を教えるのが嫌いな人物だった。

そしてとうとう、「俺さ、部長になって初めて校閲に来たから、よく分からんのだよ、実際のところ。俺、外勤が長かったんだ。だから、仕事の詳しい説明は、君の先生に預けてしまうわ」と言って、ようやく足を机の上から下ろした。校閲部長は立ち上がって部屋を出て、校閲の大部屋に向かって大声で、「f君はいるか。誰か、f君を呼んでくれ」と呼びかけた。

しばらくして校閲部長室に入ってきたfは、背が高い男だった。それが胸を張って歩いてくるものだから、よほどの大男のようにWには感じられた。fが着用している服は軽装なのだが、生地とデザインの良さは、衣類に興味が薄いWにも分かった。綺麗に切りそろえられた髭は、彼の童顔を引き締めるのに役立っていて、その人柄を厳格にも温厚にも見せた。

校閲部長が言った。

「f君は、君が一次校閲としてひとり立ちできるまで、付きっ切りで指導する。校閲は徒弟制度でね、初めて配属になる人は、ひとりの先生について学ぶんだ。まあ、記者経験がない人はひとり立ちまで三カ月かかるかな。

このf君はね、本当は校閲なんかにいる人間じゃないんだよ。俺が『校閲なんて』って言っちゃいけないけどさ。fは外勤記者として輝かしい戦歴を残している、いわば我が社の宝だ。彼と俺は、一般政治部と大統領府政治部で一緒だったんだ。彼がここに配属されているのは、まあ、校閲記者に記者魂を注入するための特別人事だ。

彼に学べることを、幸せなことだと思ってくれよ。三カ月も一緒にいて、校閲の仕事しか学べませんでした、では困るからね。これからの三カ月間は、奥さんよりお世話になる。君独身か。じゃあ、ガールフレンドとのデートよりfとの飲みを優先するように」

 

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「アメリカのロックを聞きながら、ウオトカを肉餃子で飲みたいんだけど、今日はそれでいいかな」

Wとfの二人は、通常のサラリーマンの帰宅時間より少し遅い時刻に地下鉄駅に向かった。fは新人を飲みに連れて行くと言って、残務を別の者に押し付けて会社を出たのだった。

Wにとって複雑極まりない地下鉄の乗換えを、fは少しの迷いもなくこなした。地上に出ると、そこは中央で三番目に大きい繁華街という。fは迷いなく歩き、そのまま低層の雑居ビルに入っていた。そこにはエレベーターがなく、2人は六階まで歩いて登った。

fが手をかけた黒いドアには「145センチ」と書かれたステッカーが貼られていた。それが店名である。ドアを開けると十三のカウンター席は既に残り二席になっていた。音楽はWが予期していた大音量ではなく、通常の会話はできそうだった。

店名はここの男主人の身長であることがすぐに分かった。彼は低い上に痩せていて、顎髭を伸ばしていた。五十代後半か六十代に見えた。外国人だった。

店主は「やあいらっしゃい」と言った。

「ガンジーさん、こちらは新入社員のW君。W君、こちらは店主のガンジーさん」

ガンジーさんは「よろしく」と言っただけで、料理をつくる手を止めずに、ただWに右目でウインクをした。Wは小さな会釈を返した。

「さあ、座ろう」fがそう言うと、空席の両隣の客が少し詰めてくれた。fは二人にお礼を言った。椅子に座るとfは、「ウオトカをストレート四杯。それと、肉餃子を六人前」とガンジーさんんに注文した。そしてWに向かって「悪いけど、最初はこのオーダーに付き合ってくれ。この店はガンジーさん一人でやっているから、常連の作法としてなるべく迷惑をかけないようにしているんだ。たまに客が二三人しかいないときがあるから、そういうときはメニューを見て注文してくれ。僕はそれでもウオトカと肉餃子だけどね」と言っている間に、ウオトカが入ったストレートグラスが四つ、二人の目の前に並んだ。

fはその内のひとつを取り、一気に飲み干した。「大して働かなくても、仕事が終わって飲むとうまいや」そう言ってから、Wを見てにやにやした。Wも真似て一気飲みした。fは「面白いなあ、君」と言って大声で笑った。

 

19

 

午前零時を回ると、客数が五人にまで減っていた。fは密造酒を飲んでいた。Wはウオトカをビールで割ったものをもらった。

初対面の人間から酒に誘われるのはWにとって新しい風習に違いなかった。新しさはいつでも違和感だった。そして違和感を持つとWは必ず黙った。

相手から会話を引き出せないと悟ったfは、自身のことについて話し始めた。彼は中央に生まれて、中央の外に住所があったのは、海外特派員になった三年間だけという。新聞記者になろうと思ったのは、やはり記者だった父の影響が大きかった。母親は早くに死んでほとんど記憶にない。最大の友人は妻である。

母親が早くに死んだという境遇は、Wも同じであった。Wはその話題に同調する誘惑に駆られた。しかしWは、fのような人間のやり方を知っていた。つまり、自分のプライバシーを暴露することで相手のそれを聞き出す手法である。故郷の貧相な状況と父親の惨めさについて告げてしまうほど、Wはまだ同情を求めてはなかった。

自分の履歴を披露しているのに相手が興味を示さなければ、fはその話題も早々に切り上げなければならなかった。

 

20

 

そしてfは、「P大統領はかなり横着になってきたなあ」と政治の話を始めた。

Wは「来たか」と思った。Wはそれを懸念していた。国立大学の法学部を出て、適当に就職した金属メーカーでの仕事に満足できず新聞社の入社面接に挑み、見事にそのチャンスを活かしきった。したがってその今になって、「政治は詳しくありません」とは言えなかった。

Wはそれほどジャーナリズムにも政治にも興味があったわけではない。だから、三十五年間の野党暮らしですっかりいじけてしまっているのが政党友愛で、右にいてのうのうと政権与党を続けているのが国民統一党であることくらいは知っていた。しかしその程度しか知らなかった。

fは続けた。

「Pの愚策を批判する人は数多くいても、Pを大統領の座から引きずり下ろそうという人は少ない。投票行動だけでPを退場させられるのに、民衆はむしろPに信任の一票を投じてしまう。そのうちPが平等選挙をゆがめる可能性があるというのに、そうなれば貧困層から順に苦しめられるというのに、貧困層こそPや統一党に投票してしまう。何故だと思う」

Wはそれに答えず「失礼」と言って便所に行った。小便を流すといいアイデアが浮かんだ。カウンターに戻ったWは、fに、「fさんは、何故なのか、その理由は分かっているんですか」と逆に尋ねた。

fは「分からん。貧困層の人たちだけじゃない。人間には、自分の首を絞める習性がある。なぜだろう」と言った。それからしばらく独演状態だった。

Wは策略がうまく作用したことを喜んだ。

  

21

 

ガンジーさんがfに話しかけた。

「そうそう、Fがね二時間前までいたんだよ。顔を出さないとならないバーがあるとかで、そこに行ってまた戻ってくるって」

「あっそう」と言って、fは腕時計を見た。午前一時を回っていた。「Fってね、僕の妻」

二人が、彼女が現れるまで145センチで杯を重ねることに決めたのは、FもT新聞社の校閲部員だったからである。新入社員が職場の同僚を一人でも多く知ることの利益は、fもWも認識していた。

「彼女の方が先に校閲にいて、僕が配属になって知り合ったんだ。まあ彼女は社内で有名な人だったから、僕も顔と名前くらいは知ってたけど」fはそう言った。

地下鉄はじきになくなる。Wは、タクシー代金は自腹だろうかそれとも奢ってもらえるのだろうかと心配していた。

 

22

 

初めてFを見たとき、Wは驚いた。fが背が高く端正な顔立ちで声すら涼しげなものだから、その妻という理由だけで美人を期待していただけに。

背は百四十五センチよりまだ低かった。体型は寸胴としか評しようがない。顔には、カエルを潰して接着剤で付けたような鼻と、パイ生地を破れる間際まで薄くしたような目と、人差し指を二本横に並べただけの厚い唇が張り付いていた。しかもその鼻と目と唇の配置には秩序がなかった。化粧も、化粧を知らないWにすら間違っていると分かる間違い方をしていた。桃色を使ってはならないところに桃色を使い、水色を置けば違和感が生じるはずのところに水色を塗っていた。

 ところがFは、その顔になんらの負い目を感じていない様子で「ガンジーさん、戻りましたあ。あら、来てたの」とfに言った。その声すら、話し始めの最初のひと言が濁るという特徴があった。

「こちらは、今日、入社したばかりのWさん。校閲。僕が先生になった」

「あら初めまして、Fです」と、FはWに右手を差し出した。

Wは初対面の人間とする握手が醸し出すわざとらしさが嫌いだった。ところがいまはFの容姿に気を取られ、無意識に自身の右手を差し出してしまった。Fの握り方はとても弱かった。ふわっと握ったかと思うと、すぐに離れた。Wは「この女は酔っていない」と見抜いた。「器用な女だ」これが、WがFに対して抱いた第一印象であった。

 

23

 

午前二時を回った時点で解散した。三人の飲み代はfがもった。三人は一台のタクシーに乗り込み、まずWの家に向かった。アパートの前でタクシーを降りたWは、タクシー代を支払わなかった。

Fはこの日、Wにほとんど関心を示さず、自分の夫とばかり話していた。Wは、これも女の意地悪さなのだろうと推測した。

しかし肉の細胞は、精神とは別にじりじりと動き始めた。Wは女をあまり知らなかった。大学生のときに、同じ大学の二人の女とそれぞれ数回ずつ寝たきりだった。商売女を買う勇気はなかった。それでFとの握手で触れた久し振りの女の肉に興奮していた。

F夫婦はこれから家に帰って交わるに違いないと、Wは思った。そのシーンを想像しながら、Wは二カ月ぶりにマスターベーションをした。出てきた精液はどろっと濃かったが、量は少なかった。

 

24

 

Wは翌朝目覚めてすぐに前の晩の会話を思い出した。Fは小説を書くと言っていた。これまでに三冊出版されたとも。

Wも小説を二年前に完成させていた。題名は「リスのように逃げる」という。誰にも読ませていないが、文芸誌に送ればそれなりの反応があるだろうという自信があった。しかし昨晩はそのことを言わなかった。

Wは「Fの小説を読もう」と思った。すると急に吐き気に襲われた。便所に駆け込んだ。近年まれにみるひどい二日酔いが始まった。

 

25

 

Wはなんとか職場に出てきたものの、胃液を吐くために何度も便所に駆け込まなければならなかった。ただWまだfの指導を受けている段階であり、業務のほとんどはfが片付けていたので支障はなかった。fは「今日はいい、今日はいい」と笑いながら次々と原稿をチェックしていった。二人はこの日も145センチに行った。

そこでWは「実は私も小説を書くんです」と言った。「Fさんの作品名を教えてください」とも。

fは柔和な表情で答えた。「それはFが喜ぶよ。本は買わずともよい。明日、作品を持ってきてあげる。君の作品をFに読ませたらどうだい」

「私の作品はまだ印刷されたことはありません。応募すらしていません。人から意見をいただくようなレベルではないでしょう」

「だからこそだ。いいから明日、最も自信のあるものを一作もってきてごらん」

「まだ一作しか書いていません」

「題名は。テーマは」

「今は勘弁してください。私の小説については、まだ話したくないんです。それよりも、本物の小説家に話を聞きたいのです」

三日後にF夫婦とWの三人の休みが重なる。fはWに、その日に彼らの自宅に来るよう誘った。

 

26

 

F夫妻宅は、あるエリアのマンションにあった。そこは国営開発会社が、森の中心部分の広範囲を切り抜いて、六十軒の戸建てと二十五階のマンションを一棟建てた。だからここの住人は森の人と呼ばれていた。それでいて、中央駅まで徒歩と地下鉄で四十分で通うことができた。

料理と酒はfが用意した。台所と居間を何度も往復する夫をよそに、Fは自分勝手に喋っていた。彼女の同僚の「私よりブス」という女の話題は、fもWも大笑いした。Wは、脚本がよくできている、と思った。

用意したウイスキーを飲み干し、密造酒のデリバリーを頼み、それも空にした。F夫妻の強烈な引き留めにもかかわらず、WはF夫妻宅には泊まらず地下鉄で帰宅した。

 

27

 

Wは、仕事がまったくできなかった。fが、Wにまともに仕事を教えないからである。Wは堪りかねて、「fさん、このままじゃ俺、やばいです」と、期間を空けて二度ほど言ったことがある。ところがfは意に介さない。

「校閲の仕事なんて覚えなくていいんだよ。それより、社会が何を知りたいのか、それだけを気にかけるんだ」

fはこれを、職場で言った。一緒に机を並べて仕事をしている校閲部員の大半は、生涯ここにいなければならない人たちである。fは彼らを馬鹿にしていた。この創造性のない仕事を軽んじていた。校閲にいる人間を、校閲にしかいられない人間とみていた。Fが校閲にいることも不本意な人事異動と感じていた。Fの能力に対する嫉妬と、Fの反抗的な態度への復讐心を持った、幹部社員による嫌がらせに違いないと分析していた。だからfは、Wも当然「早く校閲を出て外勤記者になりたい」と考えている、と考えていた。しかしそれは誤解だった。

粗野な父親に育てられながらも自分の力で国立大学を出て、そうして入った新聞社である。Wの人生は、ここに完成をみていた。Wに野心はなく――というよりT新聞社の入社で野心は達成され、つまり終生校閲係でかまわなかった。

だからWは、校閲の仕事を覚えてきちんとこなしたかった。校閲の人たちとコミュニケーションを取りたかった。校閲の仕事をけなすfのことを、校閲に永住している部員が快く思っているわけがない。校閲部長に一目置かれているfをあからさまには批判しないだけだ。Wは、自分がfの仲間だと思われるのは迷惑だと思った。

しかしWは、どうしても「自分は校閲で十分なんです」とは言えなかった。fに飲みに誘われて断ったことはなかった。校閲の人たちが惨めに見えたからである。fとFという輝かしい社員とともに行動する栄誉を手放すことができなかったのである。

 

28

 

Wが一人で145センチにやってきたのは、「俺が一人で飲んでいるときにfさんが現れたら、fさんはきっと喜ぶだろう」と思ったからである。

 

29

 

Wが一人で145センチで飲んでいるときにfはなかなか現れなかった。そこにFがやってきた。それは「あらW君、お久し振り」と言った。そしてWの右隣の席に座った。

FはWに、「あなたは一人で飲みに出るタイプじゃないと思ってた」と言った。Wは、へへへと照れ笑いをして、瞬時に猛烈に後悔した。「どうリアクションをしていいか分からず、反射的に愛想笑いをしてしまった」と。

Wは態勢を立て直すため、いつもの手段をとった。つまり「なるべく喋らない」である。これはfには効果があった。しかしFには通用しなかった。Fは、Wが会話に消極的になると、Wをおいてガンジーさんと話し始めた。話題はWにはまったく分からない内容だった。ガンジーさんは時折笑っていた。

自分から近づいた人物であっても、その人物がユニークでなければ捨て去る――それがFの行動指針に違いなかった。Wはそれであっけなく降参してしまった。黙り続けることができなくなったのである。「Fさんはどういった分野の小説を書くんですか」と尋ねた。それは唐突で不自然だった。Fは不興の顔を作った。Wは再び強烈な後悔に襲われたが、もう後には引けず、無様なまま進むしかなかった。

「恋愛小説ですか?」

「まさか」Fは小馬鹿にした口調で言った。

そこにガンジーさんがWに助け舟を出した。「そうかなあ。Fの作品は、恋愛ものといってもいいんじゃないか」

「ストーリーを展開するために、恋愛は使うことはある、もちろん」

「そういうのを恋愛小説っていうんだよ」ガンジーさんが言った。

「恋愛小説と呼ばれるのは、どうして嫌なんですか」Wのこの質問は案外成功した。

「私が扱いたいのは政治なのよ」Fが真面目になったのである。「政治を動かす人、政治に翻弄される人、政治が好きな人、政治に興味がない人、私はそういう人たちを描きたいの。

でもそれだけじゃ政治家に毎日接触している政治記者に勝てない。私は、政治というものをもっと鮮明に、もっと読者が興味を持てるように描きたいの。恋愛は、その彩りとして使うだけ」

「でも読者が『この小説のメーンテーマは恋愛で、政治はサブテーマに過ぎない』と感じたらどうですか」とWが聞いた。

「私の小説を読んだことがないのに、よく言うわね」

「俺も小説を書くからです」Wは興奮していた。

「へえ」と驚いたのはガンジーさんであった。

ガンジーさんをこの二人に奪われたのを詰まらなく感じたのか、他の客はしばらくして店を出て行った。さらに三十分ほど経つとガンジーさんも発言を控え食器を洗いはじめた。WもFも、ガンジーさんのその気遣いに気がつかないほど、論議に熱心だった。

Fからは、Wを軽んじる態度が消えていた。それが分かったWは、Fとの会話を「楽しいなあ」と感じた。聞きかじった小説論に、不安定な自説を織り交ぜて話すことも、Wには快感だった。そしてWは変な気分に陥った。Fのその醜い顔が、実に可愛らしく思えてきたのである。

 

30

 

 145センチを出てすぐに、Fはタクシーを拾った。彼女はWにそれに乗るよう言った。

 時間で部屋を貸しているそのホテルの自動ドアは、客が入ったことを従業員に知らせる目的があるかのごとく、ギイギイと大きな音を鳴らした。部屋は一瞬で見渡せた。つまり部屋は狭くそのほとんどをベッドが占めていた。

Fはすぐに服を脱ぎ、裸のままシャワー室に入った。入ったと思ったらすぐにドアから顔だけを出して、「便器はここにしかないけど、二十分くらい大丈夫?」とWに尋ねた。Wは「ええ」と答えた。ドアが閉まりシャワーから湯が出る音がした。

 WはFの服を畳み始めたが、すぐにばかばかしくなって元のくちゃくちゃのままに戻した。そこに部屋の呼び鈴が鳴り、ドアを開けると外国人のじいさんが立っていた。じいさんはWに部屋代を告げた。WはFの財布からその額を若干上回る紙幣を抜き出し、「これでいいから」と言って渡した。

Wは喉が渇いた。それでシャワー室のドアをノックした。

 「どうしたの?」とFはシャワーを止めずに尋ねた。

 「水が飲みたいんです」

 「ここの水なんて飲めないわよ。それよりあなたも服を脱いで入ってきなさいよ」

 服を脱ぎシャワー室に入った。Wは勃起していた。Fは向こうを向いて、両掌を壁につけ、尻を突き出した。Wが右手中指で軽く陰唇を下から上へとなぞると、そこには湯とは明らかに異なる粘度の液体が滲み出ていた。Wがもう一度同じ行為を繰り返すと、Fは小さく喘いだ。それを二十秒も繰り返さないうちに、Fは右手を壁から離し自分の股の下を経由してWのペニスをつかんだ。

 「そういうじらしはいらないから」

 Wはペニスを膣に入れた。

 「久し振りの感触だ」Wは素直な感想を言った。

 「絶対に中で出さないでね」

 Wは腰に力を入れて勢いをつけて突いてみた。Wの期待通り、Fは「ううっ」とうめいた。五分もしないうちにWは「久し振りだからもう出そう」と言った。Fは「まだ駄目」とか「もう少し頑張って」という言葉を、「ううっ」と「ううっ」の間に入れた。

 「もう出ます。抜きますよ」とWが言うと、Fは、「抜かないで。中で出していいから、しばらく突いてっ」と言った。それでWは精液をFの中に撒き散らした。Wは瞬時に性欲が減退していくのを意識した。それでもペニスの硬さが残っているうちは腰を振り続けた。Fはなおも「ううっ」と言っていた。

 Wのペニスが完全にしぼむと、Wの意識とFの希望に関係なく、それはFの膣からぽろりと外れた。Fは呼吸を整えてから「ちょっと早いんじゃない」とWの方に向き直った。

 「久し振りでしたからね。それより中で出しちゃいましたけど」

 「そうよ」と言って、Fはシャワーを最も強い水圧にして、右手で膣を広げその中を洗浄した。何度も指を膣内に突っ込み、中のものを掻き出した。

Wは先にシャワー室を出た。タオルのありかが分からないから、濡れた体のままベッドの上に寝転がって目を瞑った。

 「タオルはここにあるのよ」と、全裸のFはベッドの下部の引き出しからタオルを二本出した。一本を自分の体に巻きつけ、一本をWの体の上に置いた。

「それにしても、あなた下手ねえ」

 セックスに対してそれほどの探究心がないWはFの侮辱にも平気だった。「そうですね。それほど経験はありません」

 「性欲がないの?」

 「ありますよ。でも薄いかな」

 「それは羨ましいわね。私は一日に一度はセックスについて考えるわよ。できれば、毎日でもしたいわ」

 「fさんは大変だ」

 それを聞くやいなや、Fはベッドに横になっているWの上に飛びかかり、着陸するときに右手の拳でWの腹を思い切りパンチした。無防備だったWはその衝撃をもろに受けてむせた。それは冗談ではない力の込め方であった。

 「セックスのことで私をからかわないで。分かった?」Fはそう言って、Wの上に乗っていたタオルをよけてペニスをいじった。すぐに勃起した。

 Wには肛門にペニスを突っ込んだ経験はなかった。しかし案外すんなりと入った。締め付けの強さは、膣とはまったく違っていた。

 ペニスを根元まで入れると、Fは「ううう」とうめいた。それは快感の声ではなく、痛みから出たものらしかった。Wは「抜きますか?」と尋ねた。Fは「アナルはね、最初の我慢が、我慢が、ううう。これさえ乗り越えればね、ふう、ふう、――はい、少しずつ出し入れしてみて、少しずつ」

 Wに突如苛立ちがわきあがった。渾身の力でピストン運動を始めた。Fは「痛い痛い。ゆっくりゆっくり」と叫んだが、Wは構わず腰を振り続けた。Fは「ちょっと、ちょっと、いい加減にしてよっ!」と、うつ伏せの状態で匍匐前進のように抜け出ようとした。Wは両手でFの肩を押さえ、なおも腰を振り続けた。「痛い、痛い。ちょっと、いい加減にしてよ。本当に怒るわよ。お願い」Fは下手に出たり抑圧的な言葉を使ったりしてやめさせようとした。Wは無言でさらに強く突いた。

 そのうち痛みを訴える声が喘ぎ声に変わった。Wが「そろそろ疲れました。抜きますよ」と言うと、Fは「冗談じゃないっ!」と怒鳴った。そしてトーンを落としながら「やっとここまで来たのに。いいから続けなさい!」と指示した。そしてまたすぐに喘いだ。

 肛門の中に精液を放出すると、Fはうつ伏せのまま「ふうう」と深い溜息をついた。Wが立ち上がってシャワー室で顔を洗ってベッドに戻ると、Fは眠ていた。Wもタクシー代がもったいないので、やはりそのまま寝た。

 

31

 

校閲の職場ではfがろくに教えなかったので、Wはひとり立ちをしたときに仕事ができなかった。しかしF夫婦と懇意というだけで校閲内である種の優越した地位を得ていた。

Wは自分の小説「リスのように逃げる」をFに託していた。Fは、「出版社に売り込んでみる」と言った。

 

32


 Fとfが、Wに政治の知識がないことをからかわないのは、Wにはとても良かった。ただ代償はとてつもなく大きいものになった。

 

33

 

 fは言った。

「魚がほしいのに、図鑑を眺めている奴を、君は馬鹿にしないかい? 魚がほしいのに、竿を持たずに海に行く奴を、君は笑わないかい? 魚がほしいのに、竿を磨いて満足している奴を、君は笑わないかい?

政治を知りたいなら、政治の記事を読んでいるだけじゃ駄目だ、政治を語っているだけでもだめだ、政治に参加しているだけでもだめだ。そのすべてをしないと」

fがこういうとき、彼にもWにも大抵は酒が入っていた。もっと酒が入っていたFがそれを受けた。

「政治を知りたい? 馬鹿じゃないの。セックスを知りたいと思っている処女と童貞なんて、一生処女と童貞のままよ。正しい処女と童貞は、セックスをしたがるの。政治をやりたいなら、相談に乗るわ。でも政治を知りたいのなら、新聞社にでも勤めなさい」

Wは、このときの以前にも、そしてこのときから現在まで、一度も政治を知りたいともやりたいとも思ったことはなかった。

 

34

 

Fの政党友愛への入党勧誘は、露骨だった。Wがいつまでも決断しないと、オレンジ色の入党宣誓書をWに渡して、明日までに署名するよう告げた。それでもWは躊躇した。

するとfが出てきた。彼はまず、「Fの勧誘だろうと、性急に答えを出しては駄目だぜ」と、Fの強引さの問題視するようなことを言った。しかしやはりWの説得は進めるのである。

「僕は、全ての小説が政治を舞台にする必要があるとは思わない。でも、知識層に属する作家がつくる物語には、その国のその時代の政治が透けて見えなければならない。そうでなければ彼が書く意味がない。君が恋愛を書きたいというなら、読者に『こういう政治の時代に生きていた人たちだから、こういう恋の結果になったのだ』と考えさせるようなものじゃなきゃ。

どんなに経済がうまくいっている国だって、政治に翻弄されている人々はいる。まして我が国なんて、政治に翻弄されていない人なんて、国民を翻弄している人間だけだよ。知識層に属したまま表現者であろうとするなら、批判精神を持つべきだ。強くていかがわしいものに、絶えず目を向けろ。P大統領と統一党に対する監視は、小説家であろうと新聞記者であろうと怠ってはならない」

 

35

 

Wは政党になんて入りたくなかった。だがFからもfからも呆れられるのが怖かった。しかもFは、Wの小説を出版してくれそうなことを言っていた。Wは入党した。

 

36

 

FとfとWの三人は、三人の休日が同じ日になった平日の朝に、政党友愛の中央第一支部事務所に向かった。事務所に入ると巨漢がいた。fがそれに声をかけた。

「支部長、こちらがW君。うちの社の新人です。W君、こちらが政党友愛中央第一支部の支部長さん」

支部長はにこりともせずWに握手を求めた。その指は一本一本が太くその皮は固かった。しかし彼は、新人党員に、しかも男に関心はない。それでFに声をかける。「やあF、駄目じゃないか、もっと頻繁に顔を出さないと」そして右手でFの肩を抱いた。

「ああ、もう、触らないで」Fはその手を払い除けた。支部長は諦めず、「きょうはゆっくりしていけるんだろ。f君も一緒とは珍しいじゃないか。どうして一人で来ない。二人で天下国家について語ろうぞ」と、今度はFの手を握ってソファまで連れて行った。

fは「呆れるだろ?」という意味の愛想笑いをWに見せた。Wはあまりに唐突な完璧な無視を受け、fに応える余裕がなかった。Wはこの巨人を憎んだ。Wには、「入党してやったのに」という気持ちがあったからである。しかし、fが「さあ、僕たちもソファに座ろう」と促したとき、Wはそれに従った。急に楽な気持ちになったからである。

Wは「この支部長はFと寝たがっている」と見抜いたのである。Wは「俺はFと寝ている」と思った。「自分が軽んじた男が、自分がものにしたい女と関係を持っていることを知ったら――この手の男は、そうした屈辱に弱いはずだ」そう考えたのである。

三人が支部を出て、「さて」と言ったのはFだった。「私とWはこれから出版社回りをするけど、あなたは行かないでしょ」

「『行かないでしょ?』が『来るな』に聞こえたけど?」とfは優しく言った。

「ほぼそれに近いわね。Wを売り込むのに、二人も宣伝マンがいたら編集者が不審に思うから」

「じゃあ、ここで別れよう。僕は本屋に寄って家に帰る」

「夕飯は作らないでいいわ。多分いずれかの出版社の編集者と飲みに行くから」

 

37

 

「支部長って感じ悪いね」

「そう?」

「俺を無視し続けた」

「そうかしら。でも活動家よ、あの人は。平時ではへらへらしているけど、敵が現れると強くなるタイプ」

 

38

 

「リスのように逃げる」は、中央に憧れる地方の男を主人公にした、単純な恋愛小説だった。しかし、田舎者と中央を対比させるテーマは、文壇でなかなか廃れないのだと、Fは言った。

「Fに田舎者といわれても全然悔しくないのはなぜだろう」とWは思った。

 

39

 

Fが向かったのは出版社Z社だった。建物は自社ビルである。二人は最上階の五階の編集部まで階段を使った。エレベーターがないからである。編集部には十の机があったが、本棚が邪魔をして、すぐにはその数を数えることはできない。どの机にも書類が山積みにされていて、それでもスペースが足らず、床とダンボールの中にこぼれていた。人は見当たらない。Wが、コーヒー茶碗が納められている棚を見ると、黒と茶色の汚れがこびりついていた。

Fが大きな声で「編集長」と呼ぶと、奥から返事が聞こえ、男が現れた。編集長は挨拶もせず、FとWを部屋の外に連れ出した。その他の編集者は、応接室で原稿読みや校正をしていた。編集長は彼らを追い出した。

編集長はP大統領批判を始めた。Fも「政府の言論統制の波がT新聞社にも及んでいる」と返した。編集長はそれに一言二言加えた。政治を知らないWは、また例の惨めな気持ちに襲われた。「俺はこいつらの中にいると溺れる」と。

政治論議がひと段落すると、編集長が尋ねた。「で、きょうはなに?」

Fは「リスのように逃げる」を売り込み始めた。「友愛で責任を持って売り出してほしいの」

Wは思い切って口を挟んでみた。「政党友愛とZ社とは、どういう関係にあるんですか」

編集長が説明した。「うちと友愛には資本関係はない。ただ、とても緊密な関係だ。まず政党というものは、とにかく多くの出版物を必要とする。機関紙から、政治家個人のリーフレット。中央で大会を開けばプログラムを会場内だけじゃなく、全国に配送する必要があるから、これらを万枚単位で刷らなければならない。我が国の全ての出版物で、つまり新聞、雑誌、書籍、漫画などの出版物で、一万部を超えるものがいくつあるか知っているかい? たった二パーセントだよ。うちの売り上げの七割が友愛関係だ。いや、友愛様です、ははは。

友愛としてもうちは利用価値がある。うちが一般出版社ということは重要で、うちの雑誌が友愛に友好的な記事を載せたとしても、それは建前上は客観報道ということになる」

編集長は続けた。「いち編集者として、またいち小説家として、それぞれのフィールドでの強みを生かした方法じゃないと、Fと俺が一緒にやる意味がない。それで、純文学の中に政治的メッセージを盛り込ませる手法を編み出したんだ」

小説を使った政党友愛の党勢拡大戦略は、Fと編集長の合同のアイデアであることがWに知れた。Fの小説の出版も、その戦略に則っているという。二人がいま探しているのは、新鮮味だった。これから政治に興味を持ち始める若年層の目線を、自陣営に引き付けるため、若い感性の小説家がほしかった。

「申し訳ない言い方をするとね」Fが口を挟んだ。「作家は若けりゃいいのよ」

「俺はそうは言わない」編集長はWに気遣うように言った。「小説というツールを使う以上、芸術性が全くないものは使えない。とにかくこの『リスのように逃げる』は、じっくり売り出すから期待していてくれ」

Z社を出てすぐにFはタクシーを止めた。Wは「またセックスか」と思った。途中、薬局に寄り、Fがローションを買った。Wは「またアナルか」と思った。

 

40

 

Wが夜勤から自宅に戻って約二時間後の午前五時ごろ、電話が鳴った。出版社Z社の編集長だった。

「いやあ、読んだよ『リス』。重複している表現が多くて読みづらくて、今日になってしまったよ。内容もスカスカだな。Fの話は半分に聞いてたけど、半分どころか、百分の一だな。はっきり言うぞ。

ひ・ど・い。

でもね編集会議の後に友愛の支部長と相談したんだが、君でいくことにした。時間がないからだ。P政権が攻勢を強めている状況と、こちら陣営の準備時間を考えると、他の作家の卵を探している余裕がない。ただその一点で『リス』に決めた。これを友愛のイメージ作品にする。

でもあのままじゃ使えないから、徹底的に直す。覚悟しておけよ。じゃあな。――それとな、留守番電話を買え。何回電話したと思ってるんだ。こっちからの伝言があったら、速やかにコールバックするように。じゃあな」

受話器を置いて二分後に、また電話が鳴った。男の声で、政党友愛中央第一支部の職員と名乗った。Wが自己紹介をしようとすると「そんなのはいいんですよ」と遮った。

「Wさん、困りますよ、何時だと思っているんですか」支部職員は、電話をかけた者が電話をかけた時間にクレームするという理不尽さに気付かないほどいらついていた。「今Z社の編集長からの電話で叩き起こされました。『Wが帰宅しているぞ』と。留守番電話付けてくださいよ。なんべん電話したと思っているんですか」

「はあ」

「はあって。連絡はきちんと取れるようにしといてください」

「どうもすいません」Wはとうとう詫びるしかなかった。

「私の用件はですね、支部長がかんかんに怒ってるんですよ。入党したものの音沙汰がないって。私も相当腹立っていますよ」

「どういうことですか?」

「それはこっちの科白ですよ。どういうことですか」

「いや、ですから」

「はあああ。あなたね、政党活動をなんだと思っているんですか。あなた、新聞記者なんでしょ。しかも国立大学の法学部を出てるんでしょ。私なんてそんな立派な経歴ないですよ。学歴だけじゃない、これまでの職歴だって言いたくない。それほど惨めな私が、それほど立派なあなたに、なんでこんなことを言わなきゃならないんですか」

「なんで俺がそんなことを言われなきゃならないのか」Wはそうは言えなかった。そう言えなければ、その他の言葉はなかった。

「なんで黙るんですか。まったくこれだから高学歴、高収入の新人党員は扱いにくいんだよ。とにかく、今夜は、もう朝だけど、これから活動報告を書いて、午前中に支部長に提出してください」

「活動報告とは?」自分でも馬鹿な質問だと思った。

「活動報告とは、政治活動した内容の報告ですよ。様式はなんでもいい。入党宣誓書を提出した日からきょうまでの党活動を書いて持ってきてください。会社なんてサボってこれをやってくださいよ」

Wは「活動していない場合の活動報告は、どう書いたらいいのですか?」とは聞けなかった。

「まだ黙るう。どうせ『俺は党幹部になるんだ』くらいに思ってるんでしょ。そうやって私たち党職員を馬鹿にしてなよ。でもね、これは私の指示であると同時に、支部長の命令ですからね」

電話が切れて、Wは無意識にボールペンを握った。その手は震えていた。恐怖と不安と焦り、これら三つの不快な感情の源は、「ばれるかもしれない」という思いであった。

 

41

 

Wは、Fとセックスしたことで、fが周囲から受けている待遇とまったく同じものを、自分も当然に受けられると勘違いしていた。「fは優秀な政治記者かもしれない、でも俺は同じ女と寝ているんだから」と。

Fに好意を抱く政党友愛中央第一支部長とZ社編集長は、いずれもまだFとのセックスが成就できていないとみえたので、Wはこの二人を見下していた。

しかしWはいま、支部長と編集長の攻撃にさらされて、ある女とセックスしただけで自動的に自分の格が上がるわけではないことを知った。ましてややっていない政党活動の報告書をでっちあげる能力が自然に沸いてくるわけがなかった。実力以上に見せた虚偽の申請がばれれば、相当の制裁が下される。Wはその制裁に恐怖した。

このぎりぎりの状態で、WはFを思い出した。Fなら支部長の攻撃を和らげる方法を知っているはずだ。午前五時半の電話を取ったのはfだった。

「ああW君、きょうは夜勤かい?」fは眠い声を殺しながらも、いつも通りの親切を示した。

「Fはいますか」

「あれ? そういえばいないなあ。飲みに歩いているのかな。どうしたの? え? 泣いているの?」

Wは震える声で二本の電話の内容を伝えた。

「ああ、そうか。君のデビューが決まったことは聞いていたけど。しかしそれは大変だね。でも、取り敢えずの関門は、政党活動報告だろ。活動を一切していないなら、活動の報告とはならない。反省文を書いて、それを持参するしかない。明日、っていうか、もう今日か。午前中か、随分無茶を言う職員だが、きっと支部長の指示なんだろう。きょうの勤務はなんだい?」

「遅番です」

「なら、反省文を書いて、支部事務所に行って、支部長にそれを読んでもらってから出社することは可能だね」

「はい。できると思います」

「じゃあ早速取り掛かるといいよ」

「反省文なんて、書いたことないです」

「うん、そうだろうね。支部長は君に『党員になるという重大決断をしながら、どうして活動をしないのだ』と問うているんだよ。君だってこの場で『じゃあ、友愛を抜けます』って言わないってことは、友愛人として活動することの意味を分かっているからだろ。だからそれを正直に書けばいい。君は、政党活動はしたい、けど、どうやって参加したらいいのかその取っ掛かりが見つからないままずるずるとサボり続けてしまった。そういうことだろ?」

Wは、この場でこの瞬間に、友愛を抜けたかった。しかし、「その通りです」と答えるしかなかった。

「分かるよ。多分この中央で、君と最も頻繁に飲んでいるのは僕じゃないか」しかし二人が一緒に酒を飲んだ回数は、WとFの性交の回数に及ばない。「君の中央に対するコンプレックスは感じていた。支部長は中央出身者じゃないけど、この中央で本物の政治をやっている猛者だ。君は彼に気後れして、活動に参加させてくれと志願する勇気が出なかったんだろ。それを正直に書くんだ」

「も、もう少し具体的に」Wは握ったままになっていたボールペンで、fの言葉をメモ用紙に書きだした。「どういう文章を作ればいいんですか」

「うーん、それはあまり言いたくないなあ。僕が反省文の文章を考えてしまえば、僕と君とで、支部長と騙すことになる」

「そんなことになるわけないでしょう!」Wは興奮していた。

「じゃあ、ひとつだけヒントをあげよう。いいかいこれは僕が想像した君の心境だ。それが違っていたら、君は僕のヒントを無視して、正直に君の反省の気持ちを書かないと駄目だよ。

『怖かった』と書くのは、どうだろうか。『政治を知らない私が、政治に濃密に参加することが怖かった』。これは君の気持ちに合致しているだろうか」

「はい! まさにその通りです」と言いながら、Wはメモ用紙に「政治を知らない」「濃密」「参加」「怖い」と殴り書きした。

五分もレクチャーを受けると、Wは続きを書けそうな気がした。

「ありがとうございます。では早速書き始めます」

「うん、そうしなよ。僕はきょう休みだから、何かあったら電話をくれていい」

 

42

 

友愛中央第一支部の支部長は、Wから反省文を受け取ると、自分の机からソファに移動した。たった二枚の文書である。支部長はすぐに読み終えて、ある名前を呼んだ。振り向いたのは、Wに電話をかけてきた党職員である。彼はわざとらしいほどの早歩きでソファに駆け寄った。「読んでみろ」支部長は党職員にそう指示して、Wの反省文を渡した。

党職員は、「えー、『反省文 私の政党友愛入党以来、一カ月が過ぎました――』」と音読を始めた。Wは殺意を覚えた。音読を終えた党職員は、「なんだこりゃ」と甲高い声で笑った。支部長は無言だった。党職員はWに向かって尋ねた。「私は活動報告を書いてくれと頼みましたよね。どうして反省文なんですか」

「それは…」

「『それは』じゃなくて、活動報告は書いてこなかったんですか?」

「はい」

「どうして?」

「それは…」

「『それは』じゃないでしょう。理由はひとつでしょう。言って御覧なさい」

「それは…」

「私ね、『それは』で話し始める人ってむかつくんですよ。『それは』なしに言ってみてください」

「ですから…」

「『ですから』も同じでしょうがあ」職員は声を荒げた。「前置きなしには言えないんですか!」

前置きしないでしゃべるのは難しかった。Wは唾を飲み込んでから答えた。「活動報告を書こうにも、まったく活動していないからです」

「はあ? あなたねえ、よくもまあ、しゃあしゃあとそんなことが言えたものだ。私には『だって活動しなかったんだもん、しょうがないよ』って聞こえますよ。開き直るのもいい加減にしろよ。党活動を、政党友愛を馬鹿にしているのか」

Wは支部長を見た。口にくわえた煙草に火をつけているところで、顔は下方を向いていたから、表情は読み取れなかった。

「おい! 私が話してるんだよ! こっちを見ろ!」党職員は大声を出した。Wの反省文をくしゃくしゃに丸め、それをWに投げつけた。Wはそれを拾っていいのかどうか分からず、やはり立ち尽くしていた。

支部長が立ち上がった。支部長はWに近づいたが、それは自分の机に近づいただけであった。彼は机の上の書類を数枚つかんで、そのまま事務所を出てしまった。

これは党職員の想定外だったようで、Wはそのうろたえた表情を見逃さなかった。「この男は大したことはない」急に余裕が生まれた。

党職員は気まずい雰囲気を解消するために、しばらくは説教を続けざるを得なかった。そうしてうやむやのまま、自分の席に就き、「もういいよ。帰りなよ」とWに向かって言った。

 

43

 

Wは政党友愛中央第一支部事務所から直接会社に向かった。職場でFが先にWを見つけて近づいて、「fから聞いた。どうだった、支部長は?」と尋ねた。Wは涙を流してしまった。驚いたFは、Wを隠すように職場の外に連れ出した。会社の近くの肉店に入った。

席についてまだ注文した飲み物がやってこない先から、Wは小さな声で「俺、党を辞めます」と切り出した。

「馬鹿馬鹿しい」

「馬鹿ですから、党の役には立ちません」

「いじけた言い方ね」

「いじけ者だから、党の役には立ちません」

「いい加減にしなさいよ。格好悪い」

「格好悪いから、党の役には――」

「ちょっと、いい加減にして!」

そこにコーヒーとオレンジジュースを持った店員がやってきた。二人とも黙った。店員が立ち去ると、Fは続けた。

「あなたは抜けることなんてできないの。あなたはあの『リスのように逃げる』で新人賞を取るの。友愛とZ社は、その作品とその著者を友愛運動の宣伝に使うの。文化、芸術を使ったプロパガンダ――どう、凄いでしょ。あなたはこの政治運動の象徴になるのよ」

「無理だよ、俺には。分かってるだろ」

「分かっているわよ、そんなの。でもね、あなたに能力があるかどうかなんてどうだっていいのよ」

「君だって小説を書くんだ。君の小説でやったらいいじゃないか」

「あなたも言うようになったわよね。私のじゃ駄目なのよ」

「どうして」

「どうしてもよ」Fはそれで立ち上がった。「党を抜けたいなんて、二度と口にしないでね。愚痴でも駄目。夫と飲んでいるときも駄目。私にも言わないでね。自分の日記にも書いては駄目。心の中から離党の選択肢を消しなさい。――あなたも早く職場に戻りなさい、また『仕事もできないくせに休憩だけは一人前だな』って言われるわよ」

FはWを置いて肉店を出て行った。

 

44

 

Wは忙殺された。

中央第一支部主催の講演会の人集め、地域を巡回する入党勧誘、老人施設での奉仕活動、党ピーアールのビラ作成、ビラ刷り、ビラ配り、他支部事務所の移転の引越し手伝い、党専従職員の子供たちの保育所の臨時休業による見守り代行。

支部長はWを無視し続けていた。さらに、党職員がWを酷使することを陰で推奨していた。それはWにも雰囲気で知れた。しかし、目の前の業務に追われ、反撃の方法を考える余裕がなかった。

Z社内で行われた小説の書き直しは、新聞社での校閲業務の時間と党に捧げている時間以外の全てを使った。編集長は自分とWを、狭い執筆室に入れた。彼は、新たな書き足しと、書き直したところの再度の書き直しと、書き直して一度はオーケーを出した部分の書き直しを、Wに命じた。それが終わって次にWを襲ったのは、新たに書き足したところの書き直しと、再度の書き直しの書き直しと、オーケーが出た部分の書き直しの書き直しだった。

Wのマスターベーションの回数は増え、Z社の便所でもした。絶えず下痢をしていた。胃が痛かった。食べなくなった。体重は中央に来た時点より十キロ減った。膝の関節は絶えずぎしぎしいうようになった。絶えず下を向いて歩くようになった。しかし上空をゆく飛行機の轟音につられて上を向くと、視界に高層ビルが侵入してきた。Wはその屋上から身を投げる姿を想像せずにはいられなかった。

それでも二週間に一度、二時間を作った。それをFとのセックスに使った。

 

45

 

Wが支部事務所に立ち寄ると、支部長しかいなかった。

「誰もいないんですか?」と、Wは答えを期待せずに支部長に向かって言った。自分の机に就いていた支部長は、煙草を持った右手でソファを指さした。Wがソファに座ると、支部長はテーブルを挟んでWの真向かいに座った。支部長は「P政権の欠陥を三つ上げろ」と言った。

「弱者切り捨て、官僚腐敗、強硬外交」Wは既に反射的に回答できていた。

「そのうち、一般党員が取り組める問題はなんだ」

「弱者切捨てです」

これに続く答えは、党員政治家のうち、地方政治家は弱者切り捨てと官僚腐敗に、中央政治家は三案件全てに取り組まなければならない、である。このとき支部長はそれを尋ねなかったが、Wはそれも知っていた。

「そうだ。では弱者とは誰だ」

「低賃金労働者、母子家庭、独居老人、老人世帯、障害者などです」

「貧困の連鎖をなんとか断ち切らなければならないんだよ。貴様、そのためにはどうする」

党綱領には貧困連鎖の対策が五項目掲載されていて、そのうち最も重要なものは弱者層の教育機会を増やすこと、である。Wはそれにも回答できた。

 

46

 

支部長の説教は三時間続き、Wを猛烈に感動させた。

中央第一支部は政党友愛の百四十六支部の頂点に君臨する。大した学歴も大した政治手腕もない彼がそこの支部長に就くことができたのは、この、感情の変化による感情の増幅を人心掌握に応用したからである。

Wはこの二カ月後に、支部長の指示でT新聞社の労組に加入した。T新聞社には、左の友愛系、中道のノンセク系、穏健右派の「自由の塔」系の三つの労組があった。P大統領が事実上のトップとなっている与党国民統一党系の労組はT新聞社にはなかった。友愛系と自由系の勢力は拮抗していた。

労組加入の二週間後、Wは友愛系労組T新聞社支部の青年部長に就任した。支部長とFとfの根回しの結果だった。だからWの仕事はさらに増えたわけである。しかしWは、Fとのセックスの時間と、fを含む政治活動関係者と飲み行く時間は確保した。そのために睡眠時間を削った。

このエネルギーの源は、支部長の説教だった。Wの体重は三カ月で戻った。

 

47

 

「やはりだめだなあ」とZ社の編集長はつぶやいて、執筆室に一人Wを置いて出て行った。編集長は後日、「リスのように逃げる」の書き直しをFに命じた。

それを知ったWは胸をかきむしった。

 

48

 

「なんであんな仕事を引き受けたんだ」WはFを肉店に呼び出して問い詰めた。

「ペイが良かったからよ。原稿料が出たら、おいしいものを食べに行きましょ」

FはWの操縦方法を心得ていた。

 

二十六歳

 

49

 

Fが行っている、Wの小説「リスのように逃げる」の書き直しは、Wのプロデューサーの一人であるFが、当然にやらなければならない作業であった。しかしFにとって楽しいものではなかった。ゴーストライターなんてしたくなかった。

ただ彼女は文学新人賞がほしかった。

「あなたならいつだって獲れる」とか「あなたほどの人はもう新人賞でもないのでしょうね」とか言われることがあった。彼女はそれに対して、「私の実力が新人賞に十分なら寄越せ」と言いたかった。

そうしてとうとう、Fの口から、「この私が、どうして他人の新人賞獲得に手を貸さなければならないのか」という言葉が出た。そのとき目の前にいたのは彼女の夫であった。fは、「うん」と小さくうなずくだけだった。Fはこのときの様子を、Wにベッドの中で話した。そして、「私は夫にみっともないところを見せてしまった」と悔やんだ。

そしてFは、ひとつの目標を立てた。「リスのように逃げる」が発表されたときに、読者に「この作品はFの影響を受けている」という印象を持たせることである。それをやりすぎてZ社編集長から、「君の臭いがきつすぎる」と、書き直しを命じられたこともあったぐらいである。

やりたくない仕事に全力で取り組まなければならない、それは大きなストレスとなった。Fの性欲はストレスの分だけ増した。FはWに、「あなたのために書いているんだから、それに見合った分のセックスをちょうだい」と言った。

 

50

 

新人賞の受賞発表を二カ月後に控え、WとFと編集長はZ社の会議室にいた。この出来レースがほかのマスコミに知られないよう口裏を合わせる打ち合わせである。Wは面白くなかった。Fの書き直しが気に入らなかった。自分が愛玩動物のように扱われていることが不愉快だった。三人の自分に対する口のきき方も癪だった。

編集長が「友愛党員が友愛系出版社の新人賞を獲ったのは偶然だと思わせなければならない。記者会見で堂々と、『僕は作品の質で選ばれました』と答えられなければならない」と言った。

Wは「私は、一人称で『僕』は使いませんよ」と言ってみた。

Fと編集長は顔を見合わせて苦笑した。編集長は「カリカリするな。ほら、F」と財布を取り出して紙幣を何枚か抜いてテーブルの上に置いた。「これでWを飯に連れて行ってくれ」

「あら、いらないわ。そんなものをもらわなくても私たちはご飯を食べて、飲みに行くんだから」

Wは「その後は必ず寝るけどね」と言ってみた。「な、F」とも。

「なによその下卑た冗談は」Fが怒って言った。

「おい小僧、調子に乗るなよ」編集長はWを睨んだ。

編集長はなおもWを睨み続けたが、Wはかまわずテーブルの紙幣を握ってポケットに入れた。Wが会議室を出ると、後ろから慌ててFがついてきた。Fは廊下でWの腕をつかみ「ちょっと待ちなさいよ」と言った。

 

51

 

「どういうつもりよ」FがWの腕をつかんだまま言った。

「つかむなよ」Wは腕を振り回してFの手を振り解いた。

Wは地下鉄に乗った。Fもついてきた。145センチの最寄り駅で降りたとき、FはWに声をかけた。

「ちょっと、まさかガンジーさんのところに行くわけじゃないでしょうね」

「この時間じゃ満席かな」

「そういうことは言ってないでしょう。うちのがいるかもしれないでしょ」

「fさん? どうして? 一緒に飲もうよ」

「ちょっと!」Fは語気を強めた。「いい加減にしなさいよ。なに、興奮しているのよ」

「興奮しているのはそっちじゃないか」

「どうしてそんなに自信を持てるようになったのよ。聞かせてほしいわね」

「自信なんてないよ。中央で誰からも軽んじられる田舎者だよ」

「新人賞が見えてきて、それで自信がついちゃったわけ?」

「だから自信なんてないよ」

145センチが入る雑居ビルに到着した。

「私は入らないわよ」Fはそう言いながら、Wがかまわずビルの中に入ってしまうと、仕方なくそれを追いかけた。

145センチは全席埋まっていた。fはいなかった。ガンジーさんは「ごらんの通り。申し訳ないね」と言った。

タクシーを拾ったのはWだった。WはFを誘わなかった。Fは黙って乗った。Wは二度射精した。Fは数回達した。

 

52

 

WのZ社文学新人賞の受賞の記事は、T新聞社を含む全ての正統派新聞に掲載された。T新聞の見出しはこうだった。

 

本紙記者、Z社文学新人賞

校閲部所属W氏「リスのように逃げる」

若者の痛みを赤裸々に

 

53

 

Wはほとんどの時間をT新聞社の友愛系労組の部屋で過ごすようになった。Wの校閲の仕事は、労組員の誰かが代わった。

だが給料はT新聞社から支給された。労組も友愛も一切支払わなかった。この闇専従も、のちの逮捕容疑のひとつとなる。

 

54

 

「Yという女性が、会社の受付に来ているそうです」T新聞社友愛系労組の事務の女にそう言われたとき、WはYが何者であるかを思い出すことはできなかった。

組合事務所の入った雑居ビルを出て、三十秒で隣のT新聞社のロビーに到着すると、Wは女の後姿でその人と分かった。

 YはWと視線が合うと涙を流した。WはYの肩をポンと一回軽く叩いて、「飯でも食べに行こうか」と言った。Wの懸念は、この現場をFに見られることだった。fに見られても、校閲部員の誰かに見られても嫌だった。Wは地下鉄を一駅乗って、肉店に入った。

 

55

 

Wが性交した人間は三人の女のみである。F以外の二人は、いずれも大学時代に知り合った女であった。そのうちの一人がYである。

Wは地元の国立大に入り、すぐにこの雰囲気には馴染めないと分かった。しばらくすると周囲にも大学に溶け込めない人間がいることが分かった。彼らはグループを形成した。メンバーは地味な分、それだけ一層、性に貪欲だった。Wはメンバーの一つ上の女と初めて性交し、一つ下の女とも関係を持った。年下の方がYである。

 

56

 

十代のころから人の目を引く顔の造作をもっていなかったYは、十数年経っても美しさとは縁遠かった。彼女の肌は白さは、白樺のような鮮やかな白ではなく、クラゲの薄さであった。彼女と会話しようと彼女の顔を見た者は、毛細血管が浮き出ている様を見て目をそらしてしまった。

WはYと寝ても寝なくてもよかった。それでも誘ったのはWからであった。

 

57

 

Yは、Wの住居が地下鉄駅に近いことに驚いた。建物の外観にもう一度驚いた。家の中に入ると、洗面所で「すごい、もしかしてお湯が出るの?」と声を出した。

「そう言えばさ」Wは洗面所に向かって大声を出した。

「呼んだ?」水道を止めてYはわざわざ居間に顔を出した。

「実家に行ったろ、一年くらい前に」

「ああ、ごめんなさい。会ったらすぐに言おうと思っていたけど、言い忘れていたわ。そうなの。実家でお父さんに聞いたの、あなたの勤務先を」

「そう」

「まずかったかしら」

「いや、ただね」

「ただ、なに? 本当にご免なさい」

「謝る必要はないさ。謝る理由はないんだから」

「理由は分からないけど、怒っているから」

「いや、怒ってはいない。でも不機嫌ではある」

「ご免なさい。いきなり実家なんかに行って」

「詳しい理由は話したくないけど、俺、親父のこと嫌いなんだ」

「私知らなかったから」

「だからいいんだ。怒ってはない。シャワーを浴びていいよ」

Yはなかなか濡れなかった。それでWは、右手の人差し指でYの肛門をいじった。Yはそれを強く拒絶した。Yはクンニリングスも許さなかった。フェラチオも拒否した。

「そういうの嫌なの。でもご免なさいね、今日は濡れないみたい。疲れているからだと思う。ものすごくしたいんだけど」

この日は挿入はしなかった。

Yができるだけ長くここに置いてほしいという要望を伝えたのは、それから一週間後であった。Wはいいよと言った。

 

二十七歳

 

58

 

Wは、FにYの存在を隠していた。fにも黙っていた。

 

59

 

P大統領が二年後の大統領選に出馬しないと表明したニュースについて、WはF夫妻に解析を求めた。三人はF夫妻宅にいる。既にアルコールが入っている。Fがまず発言した。

「憲法だって三期までは許しているのよ。まだ若いし。何かやりたいことがあるんでしょうね。その何かは、大統領職にあってはできないと。何でもできる大統領ができないことなんて、悪いことしかないじゃない」

「悪いことは、考えているだろうな」fが言った。「エネルギー会社を国有化して、そのトップに座るんだろう」

「随分具体的な予想ですね」Wが聞いた。

「Pは自由主義国の民間を崇拝しているからね」fが言った。

Fは「民間をそれだけ信頼しておいて、エネルギー会社を国有化するのって、矛盾じゃないの?」と聞いた。

「でもPにとっては矛盾していないんだから滅茶苦茶だよ。ずるい官僚を追い出すときは民間を使って、民間がカネを儲け過ぎると今度は国営方式で民間を駆逐するんだから」

「後任の大統領は誰になるんだろう。Pは後継指名をしますかね」Wが聞いてみた。

「公表するかどうかは分からないけど、新大統領を影で操ることができなければ、退陣する意味はない」

「誰だと思う?」Fが尋ねた。Fはいつも、fの政治予測に相当の信頼を寄せている。

「副首相を五人も置いているんだから、そこから選ぶだろう。筆頭のKが本命で、後は横並びかな。でもMDは若いからどうかなあ」

「唯一の四十代ですからね。世間を驚かせて注目を集めようと思うんなら、あり得るんじゃないですか」こう言ったのはWである。

「あと四人の年齢は?」Fはこの質問をfにしたつもりだった。しかし答えたのはやはりWだった。

「そのほかの副首相は六十代ですね。いや、Kは七十二だ」

「すごいなあ」fが驚いた。「もしかして閣僚の年齢、全て覚えているの?」

fがからかっているのか褒めているのか分からなかったが、Wは「ええ、まあ。最近、人前で話すことが多くなってきましたので」と正直に言ってみた。Wは政党友愛の地方支部の大会で五分程度のスピーチをすることがあった。

「それは大切なことだよ。閣僚の年齢なんてどうでもいいことだけど、だからこそ皆が疎かにしがちだ。多くの人が疎かにする知識を大切にする人は、尊敬を集めるか馬鹿にされるかだ。知識をひけらかすと馬鹿にされ、求められたときにさりげなく差し出すと尊敬される。今の知識の出し方、ものすごく格好良かったよ。な、F」

「ええ、嫉妬しちゃうくらい」Fはにやにやしながら言った。

 

60

 

Wは政治学者に客観情勢を聞こうと考えた。Fや自社の管理職の見解は偏っていると感じていたからである。偏ることに異論はないが、偏りの角度くらいは把握しておきたかったからである。

それで大学や出版社に連絡を取った。Wが素性を名乗っただけで電話を切った者が三人。Wの素性に興味をもった上で接触したくないという人が五人。九人目の学者は、条件付きで了承した。その条件とは、ホテルの一室を確保すること、二人で面談すること、録音をしないこと、記事にしないこと。

「大統領は『青年』を使いますよ。最近、『青年』が大統領の親衛隊を組織したでしょ。『われらの仲間』がそれです。知らなかったんですか、あれ、裏に『青年』がついています。Q湖畔で行われた『われらの仲間』のキャンプ、お宅の新聞でも記事になっていましたよね。参加人数、覚えてます? 一万人ですよ。

彼らは二週間のキャンプ期間中、政治について徹底的に討論しました。各グループにはちゃんとした講師がつきました。講師は地方議員が勤めました。下院議員も十数人いました。MD副首相も視察に訪れました。

『選挙で重要なのは敵が誰であるかを明示すること』

『公約の項目は多すぎてはいけない』

これ、講師の発言ではないですよ。十七歳だけで構成したグループの自由討論で出た意見です。彼らはね、国粋主義者じゃないんです。彼らが望むのは、我が国が国際社会で名誉ある地位を占めることなんです。そのために彼らはP大統領を支持するんです。

このキャンプの参加費、いくらだと思います? 無料です。交通費、宿泊費、食費、全て無料です。料理人の中に大統領公邸のコックもいたという噂です。

この費用は、民間が負担しています。だって一万人の若者が集まるんですよ、民間にとってこんなに安上がりな人材確保はないじゃないですか。こんなに効率的な新人教育はないじゃないですか。まあそうなると、不心得者が出てきましてね、就職に有利になるからと、『われらの仲間』に加盟する人もいます。

Pが彼らに一言ささやいてごらんなさい、政党友愛の幹部や新聞記者の住所ぐらいすぐに割り出しますよ。割り出した住所を一覧にして、仲間にコピーを配布します。一日五百件のいたずら電話や、家の前に糞尿をまかれるなんてのはラッキーな方ですよ。『青年』の攻撃で恐いのは放火です。警察は『青年』の捜査は手を抜きます。政府公認のテロですよ。

しかも証拠が残りません。なぜなら、政府が彼らに指示する必要がないからです。若者の本能は、自分たちの使命をかぎ分けます。彼らは絶えず、Pが何を望んでいるかと考え、これを望んでいるに違いないと確信したらすぐに行動に移します。

お宅の陣営に、これに耐えられる人、います?

友愛、というか、左派は弱いですねえ。友愛の幹部を何人か知っていますがね、彼らは格好ばかりつけてまるで闘争心というものがない。P大統領はね、自分の理想の政治を実現するために命なんか惜しんでいませんよ。強い者が命がけで臨んでいるのに、弱い者に覚悟がない、勝負になりませんよ。

先日、A二世総主教がP大統領を全面的に支持する声明を発表しましたよね。国内の最大宗教の総本山が特定政権を評価するなんて、世界的にも異例中の異例です。これをあなたのところのT新聞は、宗教が政治におもねったと批判しました。それ間違っていますよ。Pに限らず、政治家なんてできれば宗教に触りたくないんですから。宗教側が黙っていれば、政府が宗教に茶々を入れることはまずありえない。

A二世総主教は、歴代の総主教の中でも特に徳の高い方とされています。そういった方がわざわざ政治的な発言をされたのは、宗教界が描くこの国の発展の姿が、Pの政治のそれと一致したからですよ。

友愛の文学戦略、あれは悪くないと思いますよ。でも地味だ。あなたの『リスのように生きる』は読みましたよ。悪くない中身だ。でも、圧倒的に広告が足りない。あの程度の作品を――著者を前に失敬――倒閣運動のシンボルにするなら、それなりの額の予算を投じないと。テレビ番組のプロデューサーを雇ってもいいくらいだ。

どうして私が、敵陣営の君にこんなことを話しているか分かりますか? 血を見たくないからですよ。大統領に逆らって死人を出さないでほしいからです。どうして君たちはP大統領の邪魔をするんですか? 大統領に家族を消されたわけでもあるまいに。君たちマスコミは、むしろ現政権の恩恵を受けていますよね。

まあいい、君たちに何を言っても無駄ですね。でもいいですか、戦場で会ったらこうはいきませんよ。私の戦場は論壇だ。そこであなたが私に歯向かったら、徹底的に潰しにかかりますからね。

それじゃあ、私は失礼します。いや、君はもう少しここにいてください。一緒にいるところを見られたくない。

ところで、あの作品、『リスのように逃げる』ね、本当に君が書いたの? あの文章から想像した人物像と実際の君が、あまりにかけ離れていたから。僕は最初、女性が書いているのかと思いましたよ」

 

61

 

145センチに男が入ってきた。Wがここでまったく知らない顔を見ることは、もう珍しいことになっていた。Wがガンジーさんの顔を見ると、ガンジーさんも「私も知らない」という顔付きをした。カウンター席にいたほかの五人の客も、その男を一瞥しただけだった。

男は密造酒を注文した。ガンジーさんは「そんなものはないな」ととぼけた。Wを含む六人が一斉にガンジーさんの顔を見た。

男は「へっ、摘発しようと思えば昨日でも可能だったんだぞ」と言った。男はそれから客たちの顔を見た。ゆっくり見た。そして視線をガンジーさんに戻して「今だってもちろんできる。でもな、明日以降に延ばすこともできるんだぜ」と言った。

ガンジーさんは男を睨んでいる。Wも五人の客も男を睨んでいる。

「お前は、俺に『ここで酒を飲みたい』と思わせることだけを考えるんだ。そうすれば長く商売ができる」男の顔は、真剣なようにも、笑っているようにも見えた。

ガンジーさんはグラス棚からロックグラス取り出し、密造酒にシロップを混ぜたものを出した。男はそれを一口飲んだ。「へえ、こいつはいいや。この甘みは後から入れたあの瓶の中身かい?」

「アルコールがもったいないからシロップで薄めたんですよ」とガンジーさんが答えると、Wを含めた六人の客は笑った。

男はそれに反応せず、ガンジーさんに話かけた。

「Wって奴はこの中にいるのかい?」

「俺だけど。あんた、警察かい?」Wが答えた。

「ほう、威勢がいいんだな。メモにはあなたは臆病とあったけど」

Wは黙った。

「まあいいや、今日はもう帰る。いい店だから密造酒はしばらくは見逃す。もしほかの警察官がちょっかいを出してきたら俺の名前を出していい、Rっていうんだ」

男は支払いをせず店を出た。

 

62

 

「僕はインポテンツなんだよ。精神病の薬を飲んでいてね、その副作用なんだ」

fの告白は突然だった。Wはただ聞いていた。

「政治系の外勤記者にはやりがいを感じていた。仕事は順調だった。上司の評価も悪くなかった。

僕は政治記者に向いていたんだ。政治家に取り入って、新しい政策を公表に先んじて教えてもらって、それを記事にした。普通はそういう話は、オフレコで聞くんだけど、僕は構わずどんどん字にしていった。それでも不思議と政治家から嫌われなかった。僕はああいうダーティーな人種に好かれる性質なんだね。

次第にそういう好かれ方に飽きたから、今度はばんばん政治家の悪口を書いていった。別に違法じゃない献金なんだけど、ちょっとおかしくないですか?といったようなものだね。そうしたら読者から励ましの手紙や電話がわんさかきた。『こういう政治記事が読みたかった』と。ターゲットは与党も野党もなかった。実力者や、テレビにやたら出ている政治家のことを徹底的に調べた。一日三時間しか寝なくても平気だった。

その結果どうなったと思う? 多くの政治家が僕を恐れた。政治家って、恐れを感じた相手にどう接すると思う? 彼らは、僕を頼みにするようになったんだ。僕はどんどん『頼ってください』といった。その見返りに情報を求めた。当時の僕は、情報のハブ空港だった。情報の伝達経路の中心に、僕はいたんだ。

自慢話はこれくらいにしよう。

そういう絶頂期の中で、僕は精神をいきなり病んだんだ。

神経衰弱って、朝起きられないっていうだろ。あれはね、半分正解で半分は嘘なんだ。政治記者のように高度に訓練されると、どんな状態にあっても朝は必ず起きるんだ。そうしてきちんと通勤の地下鉄に乗る。でもね、そうして一見普通の生活態度を取りながら、きちんと病んでいるんだ。つまり、起きながら起きていないんだよ。通勤電車の中にいても、意識はベッドの中にあるんだよ。そしてどこにいても自殺のことを考えていた。

これは二重苦さ。病んでいる精神がそこにあるのに、寝過ごしたり出社拒否したりしてそれを癒すことができないんだ。

当時のキャップが、今の校閲部長さ。彼に強制的に休みを取らされた。彼が勝手に休暇届を書いて会社に提出したんだ。政治部長にも『fはしばらく原稿を書かない』って報告して。そのときはキャップを筆頭に、僕を含め五人のチームだったんだけど、彼は政治部長に『四人で五人分の原稿を出すから、人員補充は要らない』とまで言ったそうだ。

彼は、僕の病気が治ったらすぐに僕を元のポストに戻れるようにそうしてくれたんだ。僕の後釜を入れてしまったら、僕が復帰したらその後釜を追い出さなければならない。もしくは、僕を追い出さなければならない。彼はそうした事態を避けようとしてくれたんだ。

でもそれは後から知った。当時はこうした親心が分からなくて、僕は、彼は自分の出世のために不出来な後輩を追い出したのだと思った。

でも政治部長が休暇届を受理してしまった。休むよりなかった。

しかしね、このときの二カ月の休暇は、僕の人生の中で最高に幸せな時間となった。今の僕を生かしている原動力とも言える。いつかまたあのときの幸福感を味わえると信じているから、生きるのが楽しいんだ」

 

63

 

fの話のトーンはほとんど興奮していなかった。しかしWにはfの興奮が伝わっていた。fは続けた。

「トイワ島に千五百床もの大きな精神科病院があるんだ。ホテルが林立するリゾート区域からそんなに遠くないところに建っている。病院といっても、まるで高級ホテルの外観さ。ここに向かうバスはリゾート区域を通過するんだけど、それらのどのホテルより立派だった。

千五百のベッド全てから海を見えるようにしたから、薄くて広い巨大な壁のような建物なんだ。オーロラを地の上に建てたような。その建物も、建物を囲む三メートルの塀も、真っ白なんだ。トイワ・ライトと呼ばれるこの地独特の日光をまぶしく反射していた。

僕は大きなバッグを二個抱えて列車とフェリーとバスを乗り継いでたどり着いた。くたくただったけど、目の前に現われた突然の白に襲われたとき、幼いころを思い出したんだ。楽しいことだけで構成された時間を。中央を出てからバスを降りるまで、自殺のことと仕事のことを考えていたんだけど、白い光は、僕の二十歳以降を一掃した。二十歳は、僕がT新聞社に入社し友愛に入党した歳だ。

僕は、ここでの治療は成功するかもしれないと期待した。久しぶりに高揚感みたいなものを味わった。

でもね、これには理屈がないわけじゃない。神経衰弱の治療に日光療法というものがあってね。患者を晴れの昼間は外に出して、曇りや雨の日の昼間は蛍光灯を燦々と照らした部屋に入れるんだ。夜も同じように蛍光灯が照る中で寝かされる。もちろん眠れたもんじゃないから最初は症状が悪化するんだけど、それを乗り越えると、次第に性格が明るくなるそうだ。それくらい、光というものは人に影響するんだね。

もちろんここの治療費は高いよ。患者はまあ、政治家の関係者か、石油会社か船会社の社員だね。マスコミも多かった。

政治家本人? 奴らは大丈夫だよ、脳が病んでいる奴は精神を傷めない。リウマチ患者が癌にかからないのと同じさ。神は滅多に二つの罰を与えない。

建物の中に入ると広いロビーだった。実際には中央ロイヤルホテルのロビーの方が広いんだけど、それより広く感じたなあ。無駄なものがないからだと思う。無駄なものって、精神科病院では全て凶器に化けるから置いてないんだけどね。椅子はすべて籐製だった。軽々持ち上がるから凶器になりやすいけど、あれで殴られてもせいぜい瘤ができるくらいだろ。

スタッフも患者も、白いゆったりした開襟シャツを着て、紺色の綿ズボンをはいている。うん、女も紺のズボンだった。でもそれは後で分かったことで、最初は病衣と医療スタッフの制服が同じだってことが分からなかった。それでカウンターの人間が着ていたから、スタッフの制服だろうと見当を付けたんだ。でも明らかな異常者もその白シャツを着ている。だから、ここの病院のスタッフはほとんど精神病者と変わらないなと思った。

僕が新入りであることは、その白シャツと紺のズボンを着ていないから誰もが分かる。すぐに若い綺麗な女が近寄ってきて、『ようこそ、トイワ島精神クリニックへ』と言うんだ。そうして飲み物を尋ねる。僕はアイスコーヒーを頼んだ。でもここではカフェインは禁じられるという。

僕は突如苛ついた。幼いころの記憶なんて吹き飛んで、また自殺のことを考えた。お前のせいにして死んでやるってね。それで、『じゃあ何があるんだ』ときつく言った。そうしたら『あなたは興奮状態にあるようだから、ヤギの乳はいかがかしら』と言った。

精神病患者に向かって興奮状態にあると指摘することに、僕は益々腹が立った。何も答えないでいた。すると女は、『極度の緊張状態にはマンゴーがいいのよ。マンゴージュースをヤギ乳で割ったものをお持ちします』と言って僕から離れていった。

仕方がないから僕は受付に行った。中央の病院の主治医からもらった紹介状を渡すと、受付の女は紹介状を開封もしないで『飲み物は頼みましたか』と、また飲み物の話をする。僕は『いい加減にしろ!』と怒鳴った。『喉が渇いたら、自分で言う。それまで僕に飲み物のことを尋ねるな!』とさっきより三倍は大きな声で言った。

ロビーのざわめきが一瞬収まった。だけどすぐにまたなんでもなかったかのように会話が始まった。そこに最初の若い女が、大きなグラスに入った薄黄色の飲み物を持ってきた。女はにっこり笑っている。僕に怒鳴られた受付の女もにこにこしている。僕は根負けして、ストローに口を付けた。

すると、これが目が覚めるほど美味しいんだ。地元産の新鮮なマンゴーをたった今絞ったことは、その香りで知れた。ヤギ乳の癖がマイルドになっていて、嫌味じゃない、実にいいアクセントなんだよ。五百ミリリットルはあったと思うけど一気に飲み干した。確かに落ち着いた気分になった。でも実は、飲み物の中に精神安定剤だか鎮静剤だかが入っていたんだ。

ここでの治療は、始終こんな感じだった。安心させておいて、油断しているところに緊張とストレスを与え、その反応を確かめたらすぐに安堵させる。しばらく安静が続いて物足りなくなると、また苛々させてくれる。医者も看護婦も、実に芸が達者で、患者を飽きさせないんだ。

精神病院だからちゃんと隔離病棟もあるんだけど、僕はそこに放り込まれるまでではなかった。退院日に隔離病棟を見学させてもらった。ここもやっぱり高級ホテル然としているのさ。入り口にあるエレベーターのドアのような重厚なドアと、病室の窓の鉄格子と、時折の患者の悲鳴がなければ、そこが重症の精神病患者を閉じ込める部屋とは思えなかった。

二カ月の入院期間中、Fは二回、面会に来てくれた。このときに、インポテンツになったことが分かったんだ。医者に伝えると、薬の影響だと言われた。もうそのころには、自分のあらゆる欠点を主治医に話すことができていた。

そうなんだ、病室でのセックスは禁じられていない。患者同士でも、医師の許可を得て、看護婦の監視下であれば自室でセックスできる。そうそう、医者と看護婦がセックスしているところも目撃しちゃったよ。ははは、空いている病室でやってた。確か、患者と看護婦のセックスも医師は認めていた。ただ医師と患者のセックスだけは禁じていたね。守られていたかどうかはあやしいけどね。

今でも僕は薬を飲んでいる。だからインポテンツのままだよ。でもね、神経衰弱の辛さは、ちょっと経験者以外には分からないよ。

僕の無意識は、自殺したくないと考えている。でもね、脳の回路が少しでも狂うと、自殺をしたくなってしまう。薬は脳の回路を修復する唯一の手段さ。自殺をしないで済むなら、勃起のひとつやふたつはくれてやるよ。自殺をしないで済むなら、外勤記者に戻れなくてもいい。僕に課せられた使命は、校閲係でも十分達成できるからね。

いつかP政権を倒したら、僕はFと一緒にトイワ島に行くんだ。もちろん今度は患者としてじゃない。浜辺に小さな家を建てて、海を見ながら政治コラムを書いて、Fの新作小説を読むんだ。そこが僕の楽園さ。そこに行くまで、僕は死にたくないんだ」

fはようやく黙った。

Wは「その夢は別に羨ましくないな」と思ったが何も言わなかった。

 

64

 

FにZ社の新人賞が与えられた。政党友愛が、純文学戦略を二本柱にしようと決めたのである。Fは受賞を機にT新聞社を辞めた。FはWに、Wも独立して二人で小説家の事務所をつくろうと誘った。Wは断った。その際、小説執筆で得られるであろう生涯年収と、T新聞社の全給金を比較した結果もFに伝えた。FはWを侮辱した。Wは「あなたの夫は会社に残る。あなたは経済的に確保されているじゃないか」と言った。Fは顔をしかめた。翌日が自分の二十八歳の誕生日であることをWは忘れていて、Fといつもの宿にいた。セックスはした。

Wが翌朝自宅に戻るとYは起きていて、彼女は「お誕生日おめでとう」と言った。WとYは、Yが前の晩に用意した豪華な食事を早朝から食べて、その後交わった。

 

二十八歳

 

65

 

WがYと結婚したことがF夫妻に知られ、彼らはWとYを自宅に招いた。結婚祝いのパーティを開いた。四人は夕食とアルコールをともにした。WとYは、苦痛でしかない三時間を過ごした後、F夫妻宅を出た。

Wは、「そうだ、俺、これから会社に寄る」と言った。Yは「そう」と笑わずに言った。

いつもの安宿にはFの方が先に到着していた。Wが「fさんは?」と聞くと、「寝たわ」と返ってきた。

Fは「外で存分に戦うために、家で癒してくれる人を選んだのね」と言った。Wは、FがYについて評すればそのような表現になるだろうと思った。

 

66

 

P大統領が国営放送局のインタビューで、「MD副首相が提言した政策は、かなりの確率で実現されている」とコメントした。他のメディアも大きく報じた。五人の副首相の中で最年少のMDが選ばれたことは、国民にとって驚きのニュースに違いなかった。しかし大半の国民が尊敬するPの決定であれば、じきに違和感は減っていった。そこで政治評論家たちの次の焦点は、PがMDのどこを評価したのか、であった。そのうちの一人はこう述べた。

「MDに、我が国最大の、つまり世界最大のガス会社の社長をやらせたのは、歴代大統領の後継者育成の中で、ユニークであり秀逸でしたね。世界一の政治家になる前に、世界一の企業のトップを経験させるなんて、さすがはP大統領です。国際市場では保護貿易がますます進むでしょう。だが、国際政治の建前は、あくまで自由貿易の推進です。自国の産業、企業を守りつつ、世界のリーダーとして振舞う――政治家の資質だけで乗り切ることは難しいでしょうから」

 

67

 

fが言った。「しかしO代表はいかにも女に人気がない」

Wも政党友愛の代表Oを、あるセミナーで間近で見たことがある。彼は加齢臭を放っていた。狭い肩幅との比較でより大きく見える顔幅、その顔幅との比較ですら大きく見える口、そしてあばたでぼこぼこになった顔の肌。およそその顔にのっているもので、女に好かれる要素は皆無であった。

「わが党員ですら、何人の女性が大統領選でO代表に投票するやら」fはそうつぶやいた。

 

68

 

「やあW」

Wは「やあ、刑事さん」と答えた。

Wに声をかけてきたのは145センチで会った警察官のRである。このときWは地下鉄駅のフォームで列車を待っていた。午後十時半。初対面から二カ月が経っていた。だからRが「まあいいや」と暗い声で言ったのは、Wのその余裕の態度が気に入らないかったからである。

Rは続けて「余裕だね、頽廃芸術家が生意気にも」と言った。

「なんだい、頽廃芸術家って」

「まだ再会する時期じゃなかったようだ。すぐにあんな高級住宅街に居られないようにしてやるからな」

「おい待てよ、密造酒を奢るぜ」Wは酔っていた。145センチを出てきたところだった。

「俺がお前のペースに合わせることはない」

「じゃあ刑事さんのペースで飲もうよ」

「ふん。俺はお前と飲みたいときに飲み、喋りたいときに喋り、聴取したいときに任意同行を求め、手元においておきたいときに逮捕する。すべてはこちらの予定で進む」

列車が入ってきた。Wはそれに乗り込み、プラットフォームに立ったままのRを見た。RもWを見ている。列車はドアを閉め、Rを置いて走り出した。

Wは「けっ」と言いながら、自分の膝が震えていないことに満足した。しかし実態は、酒の力によるものだった。Wは翌日の昼に気が付いた。

「Rは俺を尾行していたんだ」

Wの膝は震えていた。

 

69

 

「二十世紀最大の悪党為政者が行った政策である頽廃芸術駆逐になぞらえるとは、到底許されるものではない。政権転覆をたくらむ輩による、悪意と敵意に満ちた、愛国心をこけにした、極めて悪質なプロパガンダだ。

私に対する敵対心ということは、私を選んだ国民――八割以上の国民に対する攻撃だ。

私は、攻撃にさらされた国民を守らなければならない。私の性格上、守りとは相手の攻撃をはるかに上回る攻撃になるだろう」

名指しこそ避けた――名指しされていたらT新聞は営業停止処分を受けていただろう――が、P大統領が定例のテレビ演説で特定マスコミ社を攻撃するのは異例だった。

T新聞社は、政府が「青少年育成に害を及ぼす図画並びに文章、写真、動画を規制する法律」の制定に向け検討に入ったことを報じた。その解説記事で、この法案を「頽廃芸術駆逐法案」と呼び、ヒットラーの政策にならったと論じた。

 

70

 

その翌日、他紙は、T新聞社による頽廃芸術駆逐法案のスクープは報道法の初の適用事件になるのだろうと報道した。副大統領MDがT新聞社社長に抗議文を送った。T新聞社はスクープから三日後におわび記事を掲載した。

T新聞社の社内では、政治部長と官邸政治部長、校閲部長が更迭された。スクープ記事を取材、執筆した官邸政治部記者を校閲係に、その記事を通した校閲部員を事務部門にそれぞれ異動になった。更迭された三人の部長は一カ月後に依願退職した。他紙もテレビ局も、これらのことをつまびらかに記事にした。

 

71

 

T新聞の発売部数が極端に減ったのは、政府が公官庁で購入している新聞、出版物を、政府批判がより少ないものに変えていったからである。地方の行政部門でも同様の措置が取られた。

新聞の販売収入と広告売上の減少に加え、発行部数によって額が決められている国の補助金が減額され、T新聞社の経営は危機的状況に陥った。T新聞社は海外支局を全て閉鎖した。国内の地方拠点も次々統廃合した。社員の給料は半年で半分になった。

Wは家賃が半分の賃貸住宅に引っ越した。F夫妻も同様だった。

 

72

 

RがまたWの前に現われた。このときWは労働組合事務所から地下鉄駅に向かって歩いているところだった。Wは無視した。

「無視なんてよしなよ。お前は俺には気に入られていた方がいいんだよ。いつ逮捕されるのか分からずびくびくするのって地獄だぜ。逮捕されて当局に一人も知り合いがいないと、辛いぜ。まだ実感がないんだろ? でもな、頽廃芸術法ができたら、じわじわとくるぜ。いつ逮捕されるのか、どれくらい勾留されるのか、実刑になるのか執行猶予が付くのか、出てきたときに仕事はあるのか――全て逮捕者には深刻な問題になる。でもそういう肝心な情報は、T新聞には一行も載っていない。だから政治犯こそ警察と仲良くしないと」

 

73

 

fはT新聞社内の便所で小便をしているときに二人の男に襲われた。事件発生時刻はちょうど午後三時。社屋内には従業員や来客者が二千人以上いた。fは救急車で病院に運ばれた。

三人の警察官がT新聞社にやってきたのは、これもちょうど午後五時だった。彼らは現場検証もほどほどに、会議室を用意するよう、案内役の広報担当者に指示した。専務二人と編集局長の計三人が対応した。警察官は「これは不祥事だぞ」と言い放った。「fは当局でずっとマークしていた。暴漢に襲われたからって被害者面はさせんからな」とも。

fは二日間、意識不明だった。

 

74

 

Wは、fが意識を回復して五番目に会った人間だった。fは陽気に振舞った。「よお、ご覧よこの様を」骨折した場所は包帯で知れた。「これで俺も活動家かな」

fの駄弁が、Wにはいたたまれなかった。

 

75

 

Wの二作目は、「プラセボとトリアージ」といった。二つの単語はいずれも医療用語で、前者は「偽薬」、後者は「患者選別」という意味である。

主人公は社会の中で一定の評価は得ている男だった。彼はその成功にもかかわらず、どうしても自分が偽者であるという感じが抜けない。仕事は増え、しかもクライアントの希望以上に仕上げるため、周囲の評価は上がり収入も増えた。それでも男は自分がいつ世間から排除されるか心配でならない。ついにその兆候が見えはじめた。男は恐怖におののきつつも、その日が来ることを自覚していたから意外に冷静であった――。

出版社Z社編集長は「君がひとりで書いたのか?」と言った。Wは「Fにはもう人をかまっている余裕はない」と憮然に答えた。

すると編集長は「現代の不安をそれなりに描いている」と出版を決めた。

 

76

 

これを快く思わなかったFは、編集長にも夫にもその不満をぶちまけた。

Fはまず、題名がおかしいと言った。「英語の医療用語を使うなんて! 私たちのWはもっと田舎者よ。英語にも医療にも疎い、田舎者よ」

しかし政党友愛は「プラセボとトリアージ」を高く評価した。全国の支部で単行本の販売促進を展開した。それにつられるように「リスのように逃げる」も再び売れるようになった。

 

77

 

Fは「プラセボとトリアージ」を攻撃する論文を執筆し、文芸誌とT新聞社を除く新聞社に、匿名で送った。

「政党友愛の党籍を持ち、反政府勢力の旗手とみなされていたWが突如転向した」と主張。信憑性を高めるため、Wのプライバシーも記述するという凝ったつくりだった。

政府寄りの新聞社が、「Wの同属に違いない小説家」の原稿として、この論文の存在を、文芸欄ではなく社会面で報じた。つまり、いつもの論壇のごたごたとして処理したのではなく、政治的なエピソードとして扱ったのである。

その記事は、Fの論文から「とても『リスのように逃げる』の作者とは思えない出来映えだ。前作のプレッシャーに負けたのか、それとも前作は誰かの力を借りたのか」という部分を引用し、違法性を指摘した。

 

78

 

「前作は誰かの力を借りたのか」

もしその「誰か」がFであることが露見したら、つまり、政党友愛の党籍を持ち、新聞社の社員で、小説家として金銭を得たことがある者が、Wの小説のゴーストライターをつとめていたことが事実なら、報道法に抵触する。

 

79

 

「プラセボとトリアージ」を批判した原稿の著者がFであることは、WはRから聞いた。

 

80

 

WはFの誘いを断った。それでもしつこく誘われると、Wはこう言った。

「『プラセボ』をこき下ろしたのがあんただってことは知ってるんだ。報道法違反だぜ。俺だってやばい。破滅するなら自分で勝手にやってくれ」

「あなたが私を無視し続けるから仕返しをしたまでよ。いいから出てきなさいよ。そしてセックスをしなさい。私は今性欲をコントロールできなくてとても苦しんでいる。私を助けて頂戴」

 

二十九歳

 

81

 

大統領選の二カ月前、与党国民統一党の代表が、最高絶対党首としてP大統領を迎えると発表した。多くの国民が、これまでPが国民統一党の党籍を有していなかったことに驚いた。Pはこう言ってのけた、「この光栄は思いがけないことであった」と。そしてこう続けた。

「私は、私自身の仕事を振り返ってみて、我が国のどの時代のトップよりも国民を愛護的に扱い、官僚に厳しく、政治家を鍛え上げてきた。私の政治はある悪徳な外国から非難を浴びたが、私は『国益が第一』という信念を曲げなかった。私は大統領職を辞すが、私は国民に最も信用されている政党のトップとしてこれからも国民を守っていく」

 

82

 

ある新聞が政治トピックスを記事にした。

 

● P大統領は、大統領選と同時に行われる下院議員選と地方統一選で絶対与党を目指すと宣言した。

● MD副首相が「自分がもし大統領になったら、P大統領を首相に任命する」と表明。さらに、国民統一党入りすると宣言し、「普通の党首(*)」への就任要請があることを明らかにした。

*先に入党したPの地位は「最高絶対党首」

● Pは選挙期間中に政権運営をMDに任せた。国民に絶大な人気を誇るPは全国行脚し、国民統一党をピーアール。

● 穏健右派政党の自由の塔が解党。大半の所属議員、党員は国民統一党に合流。政党友愛への流入はわずかだった。

● 大統領選の得票率は、MD副首相九十五パーセント、K副首相四パーセント、政党友愛O代表二パーセント。MDの大統領就任は半年後と決まる。

● 同時に行われた下院議員選では国民統一党が九十パーセントの議席を確保した。地方統一選で人口三十万人以上の百六十の地方自治体で友愛系首長はゼロになった。

 

Wはこの記事を切り抜いておいた。

 

83

 

「君は、Fの創作エネルギーになっている。僕には与えられないものだ。夫としては、力がみなぎっている妻を持つことは喜びだ。君にだって利益がある。セックスの快感に加えて、作家なんていう人種には、Fの刺激はたまらないだろう。

だから、君とFの不倫で恩恵にあずからないのは君の妻だけだ。これがばれれば、君は妻を失うが大丈夫かい? それよりも…」

「それよりも?」

「実際、君はどうなんだ。Fと寝ることで創作意欲が沸くどころか、創作の邪魔になったりしていないかい?」

Wは、FをWに貸し与えるかのように言うfが癪に障り、「セックスの後は、無性に書きたくなる」と言った。

「それならいい。なにせ君とFはこれからの言論界を牽引する人物だ。『プラセボとトリアージ』、あれは良かったぜ。あれはFの手を借りずに君一人で書き上げたんだろ。文壇も歓迎している」

「そう。――それよりも」Wはfを真似た。

「それよりも?」fもWを真似た。

「あなたには嫉妬はないのかい。俺の中では、Fは俺の女だ」

「流石は文学者だ。怒りの表現がうまい。でも本当の怒りはもっと直情的だ――」と言ってfは、右の拳でWの顔面を殴った。Wは二歩よろめいて、腰を落とした。

「僕は今そんなには怒っていない」fはWに手を差し伸べた。「殴ったものの、実はそれほど激した気持ちはないんだ。『殴ったらどうなるだろう』と思いながら殴った。大丈夫かい?」

Wが握ったfの手は、怒りの雰囲気を微塵も出していなかった。Wはその手を頼りに立ち上がった。

「それでいい。もし君が文学者を気取って僕に殴りかかってきたら白けていたところだ。君みたいな男が妻と寝ることは、僕には悪くない感じなんだ。セックスなんて大した話じゃない」

 

84

 

RがWの自宅前にいた。

「お前、この間の講演会でMDのことを『敵陣営』って言ったろ、あれはまずいぜ。あんなことを平場で言っちゃあ、俺も庇いようがない」

Wは機嫌がよかった。「そんなことよりうちに入らないか。密造酒でよければ振舞うよ」

Rは「それよりも145センチに連れて行ってくれよ。ああいう雰囲気の飲み屋って捜索以外じゃ入らないからな」

「いいんだけど、これから地下鉄に乗るのが面倒だ」

「じゃあタクシーで行こう」

「それは当局持ちか?」

「なんだよ、新聞社の社員がしけたことを言うな。お前が出せ」

「じゃあいいや」

「分かった分かった。俺が持つ」

「帰りもだぞ」

「なんでだよ。――分かったから、帰りも送っていくから」

ガンジーさんは無論不機嫌だった。三人いた他の客に、WとRに聞こえるように「その片方は警察官だよ」と教えた。三人はすぐに勘定を払って出て行った。

「ガンジーさん、申し訳ない」Wは詫びた。

「すまないと言うなら連れて来ないでくれよ」ガンジーさんの荒れた言葉はWには初めてだった。「私はこの人を追い出せないんだからさ」

「とりあえずウイスキーを二杯ください」

「そんな高いものはいらない。密造酒でいいぞ」Rが口を挟んだ。ガンジーさんは二つのショットグラスを用意した。

酔いが回ってきたRは同僚や上司の悪口を言った。警官による汚職もリアルに証言した。Wは「ここでRの機嫌を取ることは不利益ではない」との計算が働いて午前三時まで店にいた。

 

85

 

P大統領はMDの大統領就任式の会場を、国会議事堂の本会議場にすると発表した。就任式の一カ月前に通常国会を強制的に閉会し、翌日から床に固定された椅子と机の撤去が始まった。

fは「政府はいとも簡単に国会を蹂躙できることを知らしめる狙いだよ」と言った。Fは「Pは民主主義を国家の阿片と言った。ならば独裁者は、国家を虐殺する者だ」と言った。Wは何も言わず、ただ「しかしもうT新聞もそのような論調は用いないな」と思った。

 

86

 

Fは友愛運動をますます先鋭化させ、政府批判論者のリーダー的存在になっていた。Fの興奮ぶりは警察当局でも話題になっていて、RはWに、Fと飲む機会をつくってくれと頼んだ。Rは145センチを指定した。

そのときWとRは145センチにいた。Wがガンジーさんに頼むと、ガンジーさんは「W、それだけは駄目だよ」と断った。Rは「うるせえ糞オヤジ、本気で店を潰すぞ」と凄んだ。ガンジーさんは首を左右に何度も振った。Wは店の電話機を貸してくれと頼んだ。

「W、この店と私の生活のために電話を貸さないことはできない。でももしあなたがFに電話をして、Fがこの店に来ると回答して、Fが到着する前にこの男がうちの店を出ていなかったら、明日以降、私はあなたをこの店に入れないよ」

「電話機を貸してくれ」

ガンジーさんは電話機をWに渡した。

一時間後に現われたFは、店の入り口でRの顔を見るなり踝を返して出て行った。Rは「予想外の結果だなあ」と大笑いした。「どうする、糞オヤジ。Fは来るには来たし、その場に俺もいた。でもわずか五秒だ。それでもこいつは出入り禁止かい?」

ガンジーさんは何も答えなかった。

T新聞の部数減はある時点で歯止めがかかり、T新聞社は延命の機会を与えられた。

 

三十歳

 

87

 

左翼思想の芸術家に頽廃芸術家の烙印を押す、「青少年育成に害を及ぼす図画並びに文章、写真、動画を規制する法律」は、一年前に成立したまま施行されていなかった。成立した法律を放置することは、P政権でお馴染みであったから、そのいい加減さがMD新政権に引き継がれていても国民も官僚もマスコミも騒がなかった。ところがなんの前触れもなくこの頽廃芸術駆逐法が施行された。

その一カ月後には一次認定を行う認定委員会が初会合を開いた。国立中央大学芸術学部の教授、小説家、画家、音楽家、テレビ局の芸術番組の制作責任者、新聞の文化欄の記者ら計五十二人からなるこの委員会は、一カ月後に認定者を発表することを決めた。この初会合後に開かれた記者会見で、小さなハプニングがあった。委員の一人がつい「頽廃芸術家は…」と言ってしまったのだ。P前大統領は、T新聞がこの法律を頽廃芸術駆逐法と呼んだとき、猛反発した。政権の建前は、あくまで青少年への悪影響を除去することであり、反政府的な政治思想を持つ芸術家を頽廃芸術家と呼んで駆逐する本音は隠しておきたかったのである。それ以来、たとえ国民生活において頽廃芸術という用語が定着していたとしても、公の場では禁句になっていた。つまり、官僚たちは認定者という用語を用いなければならなかった。だから政府諮問機関委員の口から、しかもマスコミが集まる記者会見において頽廃芸術家という言葉が漏れたとき、ある者は失笑し、ある者は慌てて彼の発言を遮ったのであった。

「老画家」の愛称で親しまれている国民的油絵画家PKがただ一人一次認定された。

政党友愛系出版社のZ社はこの暴挙に抗議するため、自社の会議室で老画家PKの記者会見を開いた。政党友愛もこの会見の共同主催者に名を連ね、党代表Oを出席させた。

老画家PKは口の周りと頬に白髭を豊かに蓄えた好々爺で、Z社社長が会見に先立つ挨拶をしているときもニコニコしていた。続いて政党友愛代表Oが例のだみ声で老画家PKを紹介すると、集まった記者から拍手が起こった。政治的な会見としては異例の光景である。そして老画家PKが語り始めた。

「この老人が世間を騒がせるとは、誠に申し訳ないと思っておりますね。さきほどここに列席している記者の会社名を見せてもらいました。海外のメディアの方が三割以上いますね。こんな形で僕の絵を世界に宣伝できるとは嬉しい限りですね。政府は僕の作品を焼きたいんだか売りたいんだか分からない」

会場から大きな笑いが起きた。

「僕が選ばれることは、政府から告げられる前に、僕に張り付いていた警察官、僕に親しい新聞記者たちから聞いていましたね。彼らによると、頽廃芸術家と認定されるとすぐに逮捕されるということだったが、どうもそうじゃないらしいですね。彼らが間違っていたのか、政府の方針が急遽転換したのか僕は知らないが、まあ牢屋の中よりはやっぱりこうして好きなことを喋っている方がよろしいですね」

老画家PKの話はそれで終わった。司会役のZ社社長が記者の質問を受け付けると言った。全員が挙手をした。Z社社長が指差したひとりがこう尋ねた。

「あなたの作品が政府転覆を誘導する頽廃芸術と認定されたわけですが、そうした政府見解に対する感想を聞かせてください」

この質問を機に、会見の雰囲気が一気に緊迫した。

「芸術と工芸の差はね、従わないか従うかなんだと思っておりますね。誰かの発注を受けて作成し、発注者が満足したら工芸の仕事は完成します。誰にも従わずにものをつくり、そのものに触れた人の心を感動させれば芸術家は満足ですね。

工芸の場合は発注内容に忠実でなければ、せっかく労力を傾けて完成させても買い取ってもらえませんからね。一方で僕がやっている芸術はというと、芸術家の自由な活動によるものなんですね。僕の作品は、僕が勝手に描いたものですね。それを他人に見せたら、『それがほしい』と言われましたね。絵の具代やら僕の時間やらが注ぎ込まれているから、その人にいくばくかのカネを要求したら、そのカネが僕の手元に残って、僕の絵は持ち去られてしまいましたね。

確かに『こういう絵がほしい』と言われることもあります。でも僕は、『ではそのような絵を描きましょう』とは絶対に言わないんですね。僕はこう言うだけですね。『じゃあ次に取り組む作画の労力はあなたに捧げましょう。その代わり、どんな絵ができても所定のカネを置いて絵を持ち帰ってくださいよ』とね。

そうやって描かれた絵は、まあ大抵はその人の望むものではありませんね。予想外の変な絵ができあがっていますね。でもそれが芸術家との契約ですから、注文者は渋々カネを置いて絵を持っていきますね。

だけどですな、僕はPにもMDにも絵を描いてほしいと頼まれたことはないんですね。なのに二人は、僕の絵がけしからんと言うわけです。さてどうしましょうかね。

これがあなたの質問の回答ですが、いかがですかね。納得できないという顔をしていますね。ではもう少し喋っていいですかね。

これまで僕は、僕の絵の売買を隠したことはありません。画廊に行けば購入できます。もう何十年もそういうふうにしています。その間、警察が介入したことは一度もないんですね。つまり僕の絵は、密造酒よりも明らかに公正透明な取り引きで売買されているんです。それが百人にも満たない人間から、しかも彼らは僕の名前くらいは知っていても僕の絵を系統立てて見たことのない人達で、そうした人達から僕の絵が政府転覆を誘導していると言われたからといって。僕はおかしいと思いますね」

それで老画家PKは黙った。

「もっとストレートにお尋ねします」同じ記者である。「あなたは政府転覆の意思がおありなんですか、ないんですか。ないとお答えになるのであれば、ではどうして政府はあなたの絵に反政府思想を読み取ったと考えますか」

「政府に対して批判をしないことはありませんね。なぜならどの時代のどの国のどの政府も、完璧に政治を行えた試しがないからですね。政府は必ず批判されるべきミスを犯す、それが僕の政治観ですね。でも批判することと、政府の転覆を企てることは全然違いますね。狩人は、森の全ての動物を駆逐しようと考えているわけではありませんね。家で料理を作る人が、全員レストランを開くわけではありませんよね。それと同じで、批判家が必ず革命家になる必要はありませんね。

もうひとつの質問はなんでしたっけ。ああ、そう、僕の絵のどの部分が反政府思想なのか、ね。でもそれは分かりません。でもね、もしPとMDが僕の絵を指差して、『ここに反政府の臭いがする』と言ったって、僕は描き直しませんがね」

司会者は「質問はまずはお一人一つとさせていただきます。二回目の質問は全員が一回目の質問を終えてからにしてください」と注意して、次の記者を指した。

指された記者は「例え逮捕されてもですか」と尋ねた。

「逮捕、投獄、拷問、財産没収、国外退去命令――はあ、この老体には辛い想像ですな」

「あなたはこれまでにP前大統領を批判した発言をなさっています」また別の記者である。「そういう人が描く絵は即ち反政府思想を盛り込んだ絵でしょう」

「僕を取り上げたテレビ番組で、僕は散々Pの悪口を述べましたね。Pと僕は同郷でね、故郷の先輩として苦言を呈しましたね」

「ではあなたは、Pの偉大さを絵にしたいと考えたことはあるんですか」さらに別の記者が尋ねた。

「その質問は答えづらいですな。まずPが偉大かどうか。仮に偉大だとしたら、僕は偉大な人物を描くための画家なのかどうか」

「P大統領は偉大であるとお考えですか」次の記者は海外メディアであった。

「あなた方の心の中に『PKに「Pは偉大ではない」と言わせたい』という思惑がある以上、あなた方と僕の議論は永遠に平行線のようですな」

記者から苦笑が漏れた。次に、T新聞社の記者が指された。

「今ここで『MD政権を転覆させようなんて微塵も考えていない』と宣言してください、先生」

会場が静まった。質問した記者が泣いていたからである。

「僕に命乞いをしろと言っているのですか?」

泣いている記者は、泣きながら質問を続けた。

「そうは言っていません。先生、私は中央芸術大で先生の講義を受けたことがあります。先生の技術だけでなく、思想も私の目標になりました。でも私ごときが到底及ばない境地と分かり、絵画の道を断念しました。先生の絵は、三枚持っています。私の宝物です。先生、ぜひこの会見の場を使って、疑いを晴らしてください」

「そうですか、僕の教え子でしたか。でもね君、僕は芸術家でいたいんですね。誰の要望にも応えない作品を描きたいんですね。これはね、全ての芸術家に与えられた機会ではないんです。僕は幸運にも、僕が描きたいものを描いているだけで人々から喜んでもらえる、稀有な芸術家なんですね。芸術家としてこんな幸運な境遇にありながら、芸術を放棄してしまうのはいかにも惜しいじゃありませんか。

僕の個展にはこれまで延べ三十万人が足を運んでいますね。これだけの人の目にさらされるものを作った人は、神に認定された芸術家の一人といってもいいですよね。今この場で『僕は今後、P前大統領とMD大統領のお気に召す絵を描くことを誓います』と宣言することは、神にその認定を取り消してくれと頼むのと同じですね。

神からの認定と、政府からの頽廃芸術家認定があって、僕がどちらに重きを置くと思いますかね。僕は講義中に何度もこういう話をしたと思いますけど、あなたには通じていなかったようですね」

「頽廃芸術家と認定された今も反省することはないと、つまりそういうことですね」しっとりしたムードを別の記者が壊した。

「僕は、僕の絵を見てくれた人が、喜んだり悲しんだり怒ったり、とにかく感情の起伏を起してくれることを願いながら描いていますね。安くはないカネをいただく行為をあえて行いながら平気にいるのも、僕の絵が、僕の絵を購入した人の心を動かしたからであろうと推測できるからです。

もしですよ、僕がこれまで描いてきた絵について反省の言葉を述べたとしたら、僕は僕の絵を買った人たちに謝らなければならない。『僕は嘘であなたの心を乱してしまいました』とね。芸術活動によって人の感情の起伏を起すことってですね、それくらい責任があることなんですよね。あなた方がペンで人を生かしもし、殺しもするのと同じくらい重い力を持っているのですね。

ただこうして世間を騒がせていることについて、次のように謝罪することはできます。

『僕は、絵を売ったカネでパンとワインを買う程度のことなら許されたかもしれない。だけど僕は、絵を売ったカネで無駄に豪華な家を買い、無駄に高価な服を妻に買い与え、無駄に充実した教育を子供たちに施しました。僕は絵を売って僕を富裕にしてしまいました。絵を描くという行為を趣味にとどめておくべきでした』

――まあこんなところでいかがですかね」

質問が途絶えた。司会者が「もうよろしいですか」と促しても発言する者はいなかった。

 

88

 

老画家PK自身が予測したように、頽廃芸術家認定は彼の油絵の相場を跳ね上げた。

 

89

 

半年後、第二次の頽廃芸術家認定が発表された。その五千七百名の中にFとWも加わった。T新聞社はWを解雇した。fは、認定を受けた者を配偶者に持ち、その配偶者が元社員であったことから、減給処分となった。fはその処分を待たず依願退職した。

ただ、老画家PKをはじめ、FとWを含む二次認定芸術家たちもいまだ一人も逮捕されていなかった。

 

90

 

画家を目指して挫折し、建築家を目指して拒絶されたPは、自らを美しいものに対して敏感であると認じていた。政府は「大芸術展」と「頽廃展」を同時に開催した。この頃には政府関係者も平気に頽廃という言葉を用いるようになっていた。

大芸術展はPが正当な芸術と認めた作品を並べたもので、各地の美術館で開いた。この特徴は、聖書の物語を描いたもの、筋肉美を描いた写実的な人物画、家族愛を描いた写実画、農夫を称える写実画、性的な写実画などだった。

一方、頽廃展は、大芸術展を開催している美術館の横にプレハブを建て、惨めな体裁で行った。パンフレットには頽廃芸術の基準が示されていた。

①神の冒涜②白痴③グロテスク④老い⑤歪み⑥抽象⑦性欲⑧同性愛⑨戦争の悲惨さのアピール⑩いわゆる前衛

頽廃展のポスターには、老画家PKの海をピンクにした風景画が使われた。さらに、頽廃芸術家の油絵の横に精神病患者の作品を並べ、その酷似性を強調した。パンフレットには、「この作品の中で精神病を患った、プロの画家でない人物が描いたモノはどれでしょう」とつづってあった。

そして次のPの言葉は、大芸術展と頽廃展に関する印刷物に必ず記載された。

「現実の色彩の持つ秩序に無関心な救い難い芸術家は刑務所行きだ。彼らは意識的に反抗しているのだから。そうでなければ、明らかに眼を患っているに違いない。それは遺伝するものであるから、手術を施さなければならない」

 

91

 

Pの親衛隊的存在である極右「青年」が、頽廃芸術家の自宅に投石したり放火したりした。被害は全国的に拡大した。

 

92

 

WとF夫妻の三人は政党友愛中央第一支部の事務所で支部長と相対し、Wとfを党職員として雇うよう迫った。「党の犠牲となって職を失ったのだから」というのがその要求の正当性の根拠だった。

支部長は、雇うのはfだけだと答えた。

三人は支部事務所を出て肉店に行った。fが、自分が党職員となり、Wに対し経済援助を行うと提案した。Fが反対した「それじゃあWは乞食も同然じゃない」

「もう君はWを翻弄するな」fはFを制した。「W、カネが必要だろ。『カネが必要だ』と言いたまえ」

「カネは必要です」Wはそう言った。

fは「じゃあ、あまりごねていてもこれ以上の成果は得られないと思うが」と言った。それで政党友愛を、特に支部長をこれ以上責めるのはやめようと決まった。

「援助はするが、君は君でわずかな金額でも稼いでおいた方がいい。そうしないと『やっぱり頽廃芸術家はお高くとまっている』と、右からも左からも見られる」fはそう助言した。

翌日Wは、五年ぶりに職業案内所に出向いた。そこでビルの警備の仕事を見つけた。

 

93

 

警備は二人一組で行う。

朝五時に自宅を出て徒歩で集会所に行く。集合は六時まででいいのだが、五時半までに着くと朝食がもらえた。点呼の後、マイクロバスに乗り込む。黒パンと、紙コップに入ったわずかな量のコーンスープはその中で食べる。マイクロバス一台に、多いときで四十人くらいが乗り込み、五台すべてが満員になると出発した。

マイクロバスがひとつの現場に到着すると、運転手が一人の名前を呼ぶ。その者が、バスの中の誰かを適当に一人選び、この二人はペアを組む。そして二人でバスを降りる。この二人組は、運転手に名前を呼ばれた方がこの日のリーダーで、もう一人はリーダーの指示に従わなければならない。

降ろされる現場がスーパーマーケットなら良い一日になる。最も楽な警備だからだ。現場ではペアの人間と別れ、あとは売り場を歩き回っているだけだった。

この日、WとWのリーダーが降ろされたのは、政府系の銀行だった。政府系銀行の警備がハズレと言われているのは、鉛が入って二十キロになる防弾チョッキと、鉛が入って三キロになる防弾ヘルメットを着用し、ライフル銃を持たされるからだ。ライフルは本物だが弾は込められていない。こんな重装備であっても、極右「青年」が尻込みするわけではない。しかも「青年」は警備員の持つライフルに弾が込められていないことを知っている。「青年」たちはまず警備員を襲うのが常だった。

警備に取りかかって二時間もすると、Wは汗だくになった。水分補給はあと二時間待たなければならない。それまでずっと銀行の中と外を歩き続けなければならない。Wの足取りが乱れると、リーダーはWの尻を軽く蹴った。そして「シャキッと歩け、みっともない」と言った。
最初の水分補給まであと十分というとき、背広を着た銀行員が早歩きでWとリーダーのところに近づいてきて、「みっともないからきちんと歩いてください」と叱責した。リーダーは「へへへ、申し訳ありません」と言い、Wは黙っていた。銀行員が立ち去ると、リーダーはWを物陰に連れていき、「お前のせいで叱られたじゃないか」と言って、Wの尻をさっきより強く蹴った。
Wは腹が立って「銀行員はあなたを注意したんだぞ」と言った。リーダーはさらに強く、しかも腹を蹴った。リーダーもこれまで二時間五十分、休みなく歩いていて弱体化していたから、その蹴りは強かったがWにダメージを与えるほどではなかった。Wの腹を蹴った感触が弱かったことは、リーダーを苛つかせた。それでリーダーはWに「お前、休憩なしな」と言った。Wは「水は飲ませろ」と言ったが、リーダーは「飲ませるか」と言った。


94

 

Wは、五十代後半の男から好かれることになった。彼は歯は黄色く濁っていた。そして説教が好きだった。

「大卒ってさ警備の仕事を舐めてるでしょ」黄歯男は特に精神論を好んだ。「どんなに潜在能力があったって、顕在化させなきゃ無だよ。つまりゼロ。分かるか」

Wは黙っているか、黙りつづけたことで睨まれたときは「そうですか」と答えた。

Wは黄歯男から好かれたようで、黄歯男はバスの運転手からリーダーに指名されると必ずWをペアの相手にした。Wはこの男と離れたかったが、Wが乗り込んだマイクロバスに後から入ってくるから避けようがなかった。

それは公営集団住宅団地の警備のときに起きた。集団住宅は十棟あり、二人で五棟ずつ分担した。集団住宅には警備員が必要な事件など起こらないから、清掃も行わなければならなかった。ところが黄歯男が清掃業務をサボったのである。

公営集団住宅団地の管理者が、Wたちが清掃した後に見回ると、綺麗な棟と汚い棟の差は歴然だった。管理者は警備会社に電話をかけた。「二人のうち一人は平均的な仕事をして、一人は完全に放棄した」と。

翌日、警備会社の社員は、この日のWと黄歯男の現場を突き止めて、そこの事務所に電話をかけた。その事務所の人間が黄歯男に「電話がきている」と伝えた。黄歯男が電話に出ると、至急会社に出て来いと言われた。黄歯男はWに「会社から呼び出されたから行ってくる」と言って現場を出て行った。

 

95

 

三時間後に戻ってきた黄歯男は、控え室で休憩していたWに、「やばいよ、お前」と言った。

「何がですか?」

「昨日の集団住宅の清掃さ。あれ、お前、相当いい加減にやったんだな。そのせいで俺が厳しく叱られた」

「俺はちゃんとやりましたよ」

「ちゃんと掃除をしてたら団地の管理者からクレームがくるわけないだろ。ち、掃除の後にきちんとチェックしとけばよかったよ。俺がやった五棟の清掃は十分基準に達していたと言うんだ」

「管理者からのクレームはいつきたんですか。我々が業務を終えても別に検査にこなかったじゃないですか」

「それは俺も言った。俺たちの掃除の後に住民が汚した可能性があるからな。でもな、管理者だって馬鹿じゃない。『清掃後に汚れたことを考えても、綺麗な五棟と物凄く汚い五棟の違いは明白だ』ってさ」

「その五棟って、何番棟なんですか」

「なにおっ。俺が担当した棟が汚れてたって言いたいのか」黄歯男はWの胸倉をつかんだ。

「離してくださいよ」Wは黄歯男の手を払いのけた。手は案外簡単に外れた。

「俺が掃除をサボって、てめえはちゃんと掃除をしたって言うのか」

「あなたがサボったかどうかは知りませんよ。ただ俺はきちんと掃除をしました。犬の糞だか住人の糞だか分からない糞だって拾った。コンドームだって拾った。ゲロだって、俺はすべて捨てた。俺が担当した棟についてクレームを言うなら、どこがどう汚れていたのか説明してもらいたい」

「今さらそんなことできるわけないだろ。クライアントが汚れていたって言えば、社は『申し訳ありませんでした』って言うしかない。料金は返したってよ。その損害はお前の給料から引かれるから」

「あなたは」

「俺がなんだ」

「あなたの給料は引かれないんですか」

「どうして俺が引かれるんだ」

「あなた、俺のせいにしましたね」

「もう一度言ってみろ」黄歯男はまたWの胸倉をつかんだ。

「離せよっ」Wはその手を取り除こうとしたが、今度は外れなかった。

「もう一度言ってみろ。俺がサボったと言ってるんだな」

「離せよっ」Wはもう一度男の手をはたいた。手は外れた。Wは作業着を脱ぎ始めた。

「なにしているんだ」

「会社に行ってくる。あなたの話はおかしい」

「行ってどうするんだよ。お前なりに掃除をしたつもりだろうけど、所詮はアマチュアの掃除だ。プロの俺にはかなわない。向こうだって俺の清掃とお前の清掃の違いぐらい、すぐに分かる。これ以上俺に迷惑をかけると、本当に殴るぞ」

Wは着替えを中断し、控え室を出て非常階段に入った。Wは会社に何を言っても通じないだろうと思った。そして泣いた。

 

96

 

翌朝、Wは仕事を休んで例の公営集団住宅団地に向かった。プレハブの管理事務所に初老の男がいた。Wが事情を話すと、彼がWらが務める警備会社にクレームをした管理者だった。管理者はプレハブの外に出ようと言った。そこから十棟すべてが見渡せた。管理者は汚れていた棟を指差した。

「俺が担当した棟じゃない」

「違うだろうね。あなたはサボる感じの人じゃない」管理者は言った。しかし「だけどそれは証明できないよ」とも加えた。管理者とWは再びプレハブの中に入った。

「どうしてあなたのような人がこんな仕事をしているんだい」管理人が聞いた。二人の会話はとてもゆっくりだった。

Wは溜息をついて、「ありがとう。出会って五分の人にそう言ってもらえたら十分だ。帰るよ」と言った。

「そうかい」

「さようなら」

「チクッたりして悪かったね」

Wは立ち止まった。「お陰で給料を減らされたよ」と笑いながら言った。

「あんただけがかい」

「そうだよ。掃除をサボった男は、俺のせいにして逃れたんだ」

「ここの管理者の仕事はいいよ。俺はあと二年で年金がもらえる。そうしたら辞めるつもりだ。後釜にあなたを推薦しようか」

「ありがとう。でもあと二年もブルーカラーにはいないよ、申し訳ないけど」

「謝ることはない。あてがあるならこんなところにいる必要はないからな。でも本当にこの職場はいいよ。管理人室にずっといるだけだ。俺の前任者は画家だった。勤務中に絵を描いていた。俺はほら」とチェス盤を指差した。「これをしていると、どんな嫌なことだって忘れられる。我が国からは世界チャンピオンが三人も出ている、あんた知ってたかい」

「いいや、知らない。さようなら」

「ああ、さようなら。でもチェスだけやりにきてもいいんだぜ」

「ルールを知らないんだ。さようなら」

「ルールなら俺が教えてあげるよ」

「ありがとう。さようなら」

「ああ、さようなら」

 

97

 

WとYの生活は困窮していた。Fからの仕送りを含めてもT新聞社の給料の七分の一だった。Yがパン屋で働き始めた。当初は販売を担当していたが、すぐに工場に移された。

 

98

 

Wはfに呼ばれて145センチに出向いた。fは「やあ」と言った。Wは「なんですか」と普通を装って言った。Wには、fがいい職の口を紹介してくれるのではないかという期待があった。

「まあ飲むさ」

fの様子は比較的通常のように、Wには思われた。

一時間が経過したころ、fが「どうだい、警備会社は。勤務時間が不規則だから大変だろ」と言った。

「ええ、まあ」

「夜中なんて変な奴と出くわすだろ」

「そういう仕事ですから」

「どうなんだい、」fは本気で心配しているふうに言った。「犯罪に巻き込まれたりしていないかい」

「いっそのこと殺された方がいいやって思うくらい恐い目に遭っていますよ。暴漢に襲われると、二人のうち片方が戦います。他方は警察を呼びに走ります。その役割は交代じゃないんですよ。新入りが戦う役です、先に入社した方が警察を呼びに行く係です。戦う役は、警察が来るまで、殴る回数の方が殴られる回数より多ければ病院に運んでもらえます。殴られる回数の方が殴る回数より多ければ、火葬場のワゴン車が迎えに来ます。もう俺が入社してから二人も強盗に殺されていますよ」

fは真剣に耳を傾けていた。優しいまなざしで。ところがWが「同僚の精神レベルが低いのが参ります」と言った瞬間、fの目の色が変わった。

「それは前の会社と比べるからだよ」

Wの怒りは突如沸点に達した。「T新聞社と警備会社を比べるなだと。ということは、俺には警備会社がお似合いだってか」と思った。「fはこういう常識人なのだ」Wはそうも思った。そうして、非常識人とセックスがしたくなって、「俺、帰ります」と言って立ち上がった。

fは言った。「ああ、そうしな。家に帰って明日に備えるんだ。きちんと仕事をしなよ。カネはまた送るから、少額で申し訳ないけど。いや、ここの払いはいい。いいって。財布をしまえよ。いいから帰りな。気をつけて。あ、それからな、警察の動きに気を付けろよ。やばい行動は厳に慎むんだ。しばらく執筆活動をやめたっていいくらいだ」

Wは公衆電話からF宅に電話をした。

「やあ、F。セックスをしようよ。出てこいよ」

「ああ」Fの声はくぐもっていた。

「寝てたのか」

「そうよ」

「なんだよ。じゃあ出てこいよ。セックスしよう」

「『じゃあ』の使い方がおかしい。眠たい声を出している人には『じゃあおやすみ』でしょ」

「なんだよ、ごちゃごちゃうるさいな。いいから出てきなよ」

「うるさいわね」と言ってFは電話を切った。

Wはまた電話をした。「いい加減にしろよ。自分だってうちに電話をしてくるだろ。隣にYがいたって、夜中だって俺は出てきただろ。俺から誘うことは滅多にないんだ。ものすごくしたいんだ。出てこいよ」

「分かったから性欲むき出しの言葉はやめて。どこ」

「いつもの安宿で」

「分かったわよ」

「何分でくる」

「知らないわよ」

三時間経ってもFは現われなかった。Wは宿の部屋の電話機を使ってF宅に電話した。五十回のコールでようやくFが出た。

「ふわあい」

「おい、寝てたのか。早くこいよ。もう宿の中だ。もう宿泊料金だよ。二時間で出たかったのに」

「ねえ、きょうは勘弁して。fがもう帰ってきているの。もう寝ちゃったけど。私もとにかく眠いのよ。そこでオナニーして自宅に帰って」

今度はWが先に電話を切った。安宿を出ると翌日が祭日なのでタクシーはなかなかつかまらなかった。仕方なくタクシー乗り場の行列に並んだ。

行列は一時間待ってようやく半分になった。ふうと溜息をつくと、誰かがWの肩を叩いた。叩いた主は、Wの後ろの人間に向かって、「悪いなこの連れなんだ」と言って列に割り込んできた。警察官のRだった。

「なんだよ、驚かすなよ」Wは言った。

「どうしてFは現われなかったんだろうな」Rは笑みを浮かべた。

「盗聴までしているのか。もう勘弁してくれよ」

「Fはお前とのセックスに飽きたんだよ」

「俺がしたいんじゃない。Fが求めるんだ。今晩は俺が誘ったけどね」

「セックスなんてしてていいのか。宿代ももったいないし、タクシー代ももったいない。そんなことより『警察の動きに気をつけろよ』」

「警察の動きに気をつけろ」と言ったのはfである。今から三時間ほど前、バーを出ようとしていたWに向かって発せられた言葉である。

「ガンジーに聞いたんだよ。お前とfが何を話していたのか尋ねたんだ」

Wはよろよろと列を離れた。そして弱い足取りで歩き続けた。Rが「おい、どうした」と声をかけても歩き続けた。

「畜生、人間不信に陥るなあ」Wはそう言いながら歩いていた。

Wを追ってきたRは言った。「明日、とりあえず任意同行を求めに自宅に行くわあ」と軽い調子で。「どうしてわざわざ知らせると思う。同僚と賭けをしたのさ。俺は『事前通告しても奴は逃げない』と言った。同僚が『そんな馬鹿な政治犯はいない』って言ったから、じゃあ賭けるかってことになった」

 

99

 

「お前、これ、逮捕じゃないって思っているだろ。でもね任意同行ってね事件化の最終仕上げだから。逮捕したらすぐに起訴したいから、自白調書を今作っちゃうのさ」

Wは警察署の会議室にいた。この日の朝、Rは予言とおりW宅を訪れ、WはRに連れられて警察署に来た。Rは、逮捕でないと取調室は使わない、と説明した。しかしRは、調書を作るわけではなかった。ただだらだらと世間話をしていた。WにはRの、というより警察の意図が分からなかった。Wは四時間ほどで警察署を出された。

 

100

 

十一年前に大統領に就任したとき、Pがまず行ったのは、インフラ会社とエネルギー会社の国有化であった。天然ガス、油田、製油所、発電所、電力販売、パイプライン管理。Pは元警察官僚で、かつての部下をそれらの会社に役員として送り込んだ。

Pは経済的にもこの国を掌握できたと思ったが、そううまくいかなかった。Pが送り込んだかつての部下たちは、天然ガスビジネスも原油ビジネスも、製油方法も発電方法も知らなかったから、国営企業の経営はみるみるうちに悪化した。こうした手法は企業間の競争を生まないから、国営企業は衰退し続けるしかなかった。

この経済運営のほころびは、P政権末期に見え始めた。ところが後任のMD大統領は幸運の持ち主だった。世界的にエネルギー需要が高まり、液化ガスと原油の価格は前年の三倍に跳ね上がった。どんなに非効率な経営でも利益が出た。そこに、優れた技術を持つ海外の企業が参入を申し込んできた。MDはこれを受け入れた。海外企業は経営にも優れ、次々と国営エネルギー会社を建て直していった。また、海外企業は当局に配慮し、国営エネルギー会社のトップの無能力さを指摘することはなかった。MDは、Pのかつての部下たちを潤わせながら、国を富ませることができたのである。

GDP成長率が安定したのを機に、MDは突如、海外企業に対しこれ以上の開発行為を禁じた。その理由は「現在のエネルギー開発の方法は環境に悪影響を及ぼしている」というものだった。海外メディアは、「MDは、『海外企業から技術を吸い取った。後は自国で運営できる』と判断したのだろう」と報じた。これまでの投資をまだ回収し切れていない海外企業の幹部は、政府に直談判した。政府高官は簡単に手の内を見せた。海外企業幹部に対し、エネルギー会社の株を手放すよう求めたのである。政府が、相場を遥かに上回る株の買い取り価格を提示すると、海外企業の選択肢はなくなった。

この一連の流れはテレビ局も新聞社も連日報道した。「政府の勝利」と書き立てた。自国は三流国であると卑下していた多くの国民は溜飲を下げた。「我が国が先進国の大企業を手玉に取った」と。

政府はさらに同盟関係にない国へのエネルギーの出荷を意図的に遅らせた。同盟国に対しても、先進国との取り引きを増やそうとする意思を察知すると、即座に原油輸出を停止した。各国の元首は急遽MDを表敬した。隣国が自国にひれ伏す姿に、国民はさらに沸いた。そしてMD大統領の支持率は、P前大統領のピーク時を超えたのである。

 

101

 

Wはその後も頻繁にRに呼ばれ、警察署に出頭した。このときも既に二タ晩を署内の仮眠所で過ごしている。RはWに、Wの父親の近況を伝えた。それによると、父親は新興宗教に入信し、それであの性格が大層おとなしくなったということだった。

「あの親父が。そんなわけはない」

「俺はかれこれ三回会っているけど、一、二回目と三回目ではまるで別人だった。それでなWよ、どうだ、帰省しないか。親父に会いに行くなら、ここから出してやる。そしてそのまま故郷で暮らすなら、頽廃芸術家の認定を外す。つまり逮捕しない」

「出してやるってなんだ。任意同行で三日も家に帰さないって、これは不当逮捕だ。いくら薄情な政党友愛でも、いい加減抗議行動を展開するぞ。MD肝いりの政策といっても、こんなことが国際社会で許されるはずがない。帰省するか中央にとどまるか、そんなことはあなたには答えない。結局拷問なんてできないじゃないか。当たり前だよ。逮捕もしないで取調べすらできないでいる」

「だから弁護士に会わせるなって言ったんだよ。変な知恵付けられちゃったな。でも、それはお前の悪い癖だよ。他人からもらったものを身に着けて、それが自分の筋肉だと思っちゃう。他人から施されたワインをがぶ飲みして、それが自分の血に流れていると勘違いしちゃう。そうやっておだてられて左翼運動にはまって、せっかく入った一流会社を首になり、警察にマークされているのに、まだそれに気付かないのか」

Wは急に態度をあらため「分かった」と言って、にやりと笑った。

「何が?」Rは不審がった。

「だから帰省するよ。親父に会ってくる。そうして故郷で暮らせるかどうか見てくる」

「なんか気持ち悪いな。でもいいや」

 

102

 

Wは帰省というものを、三回しかしていない。二十五歳のときと、今回の三十歳のときと、そしてこれから三年後に行うことになる三十三歳での帰省と。

二十五の帰省は、中央での成功を見せびらかすためのものだった。

三十三歳の帰省は友人の葬儀に出席するためだった。それ以降は今日まであの漁師町に戻っていない。

今回の三十歳の帰省は三回の中で最も意味があった。中央を出れば逮捕は免れるかもしれなかった。でも中央以外の行き場所は故郷しかなかった。自分はいまさら、父親と同じように腐った酸素を吸い、同じゴミ箱に二酸化炭素を捨てることに耐えられるのか。それを見極めるための帰省だった。

 

103

 

列車が漁村の区域に入ると、製紙工場が排出する甘くて苦い臭いが窓から侵入してきた。記録的な降雪で、急行列車はもう三度も時刻表外の駅に臨時停車した。除雪を待って発車し、しばらくするとまた除雪を待つ、その繰り返しだった。終着駅に到着したのは午後十一時を回っていた。父が小型トラックで駅に迎えにきていた。彼は「ん」と言って、Wが手に持っていた鞄を渡すように促した。喋らないし、いらついてもいない。Rが言う通り、確かに父親は変わった。

家に到着しても父は口をきかなかった。Wは家に入るなり、かつて使っていた部屋に入った。漁具が散乱していた。それでも夜具のスペースは確保されていた。漁具に付着した魚の肉片が放つ腐臭にはそれほど悩まされずすぐに眠れた。

翌朝まだ暗いうちに目覚めたのは、寝返りを打ったときに足が漁具に触れ、それが大きな音を立てて崩れてきたからだった。Wは「逮捕に来た!」と思った。実家にいると分かったとき、次は「黒パンが食べたい」と思った。粗悪な飼料用大麦で作ったあれである。

便所の横の狭い洗面所の、流氷より冷たい水で顔を洗って居間に行くと、テーブルには朝食がのっていた。黒パンと、湯気を上げるトウモロコシのスープと干し魚を焼いたものと、コップに入った流氷よりは冷たくない冷たい水と。既に椅子に座っていた父は、Wが着席すると、Wには何も言わずに十字架を切って祈り始めた。

「お神様、昨晩、五年ぶりに息子が帰ってきました。お神様のお陰で、今朝の食事は息子といただくことができます。昨日の漁も好調でした。これも、お神様のお陰です。今日、私は漁に出ませんが、仲間で海に出る者もあろうと思います。その者たちの安全をお守りください。いつもいつも、お願いばかりで申し訳ありません。しかし私たちは、お神様のお力なしでは、一瞬たりとも生きてゆけません。生きていけたにしても、お神様の愛情が感じられなければ、人生は味気ないものになりましょう。ありがとうございます。あなたの体である黒パンと干し魚と、あなたの血であるお水とスープをこれから息子といただきます」

警察官Rから聞いていなかったら、父のこの祈りにもっと驚いていたことだろう。この新興宗教が地方で勢力を拡大していることは、Wも知っていた。ただ教団は政治に対する関心は薄く、教義は穏便なので、取り締まりの対象にはなっていない。

朝食が終わると父はWに「昼は何をするんだ」と聞いた。何もしないと答えた。父は数分後に家を出ていった。

Wはバックの中から持ってきた本を取り出して読み始めた。著者の思想がきちんと頭に入ってきた。Wは「これは悪くない精神状態だ」と思った。

 

104

 

酒を飲みたくなったのは、その日の午後五時だった。父親はまだ帰宅していなかった。Wは、製紙工場に勤めているMの家に電話をした。MはWの電話と帰省を歓迎してくれた。Wはこれから飲まないかと誘った。

「これからか。えーと、どうしようかな。いや、行こう」

「用事があるならいいぞ」

「そう言うな。家の用事が少しあったんだが、お袋もいるし女房にさせてもいいから」

「そうか、悪いな」

「悪いわけないだろう」

 

105

 

近況報告だけでもお互いに数時間分の話題を持っていたから、居酒屋でMとの会話が途切れることはなかった。だが、Wは最後まで調子が合わないと感じていた。

 

106

 

居酒屋を出てMと別れたWは、一人で別の飲み屋に行った。酔いが進むと激しい怒りに襲われ、さらに飲んだ。

Wはその晩どうやって家に帰ったのか覚えていない。しかし翌朝、Wはきちんと布団の中に収まっていた。居間に行くと、父はもういなかった。黒パンとスープと干し魚と冷たい水が、前日の朝と同じようにテーブルの上に載っていた。ストーブは燃えていた。

Wはこの日も本を読み続けた。十年前に出版された、ベテラン政治評論家の回想録だった。

父が帰ってきて二人で晩飯を食べてからもWは本を読み続けた。眠れず午前二時になった。机の上には、グラスに注がれたウイスキーがある。

Wは本をやめて、Mのことを考えてみた。Mが自分を嫌うことはあり得ない。Mの生活の中で何か嫌なことがあったのだ。「嫌なことなら中央にもある」そう思ってウイスキーを飲んだ。

ウイスキーは父への土産として四本持ってきた。ただ、愛情を表するためのプレゼントではなく、落ちぶれたとはいえ力は残っていることを示す宣伝材料に過ぎなかったので、渡すタイミングが見付からず、自分で飲み始めたのである。

 

107

 

次の日、父はずっと家にいた。作業部屋で破れた網を直していた。Wはそこに行って、「オヤジ――」と呼びかけた。

「なんだ」

「次の列車で帰る」

「そうか。食器は食べ終わったら水につけておいてくれ」

「オヤジ」

「なんだい」

「ウイスキー、置いていこうか」まだ三本半残っていた。

「いらない」

「置いていけば飲むんだろ」

父は答えず作業を再開した。

Wは荷造りをして父に何も言わず家を出た。鉄道駅まで五キロある。バッグの中からウイスキーを一本ずつ取り出して、キャップを外して中身を地面に捨てながら歩いた。空の瓶は道端に捨てた。途中で見知らぬ人がトラックに乗せてくれた。

 

108

 

宗教のお陰で、無意味な男の激しい性格は沈静化したらしかった。そして宗教のせいで、物静かな無意味な男が一人できあがった。Wはそう思った。

Wは故郷を捨てる決心を固めるために故郷にきたが、とうとう故郷を捨てることはできなかった。故郷が先にWを拒絶したからである。振る前に振られてしまったのである。行く先が牢屋であったとしても、故郷に拒絶された以上、Wは中央に戻るしかなかった。

 

109

 

帰りの列車の中のWの頭の中には、もう父もMも雪景色もなかった。ただ中央の刺激を求めていた。警備の仕事は憂鬱だったが、Rの執拗な追求もあったが、頽廃芸術家に対する世間のバッシングも強烈だったが、それでも中央にいる二人の女を求めていた。

 

110

 

帰省先から中央に戻ったWは、すぐにFに電話をした。Fは今度は寝たふりなどせず、しらふで誘いを断った。

WはFに詰め寄った。「どうしたんだ」

「なんかね、飽きちゃったの。あなたは今も以前もつまらない男なんだけど、でも以前はつまらなさから脱しようともがく姿が、いじらしくて、馬鹿らしくて、こしゃくで、まあ見ていて面白かったの。でも今のあなたは、つまらない上に横柄なのよ。『俺は元T新聞社社員だ。だから今よりましな状況を用意しろ』そう言っているでしょ。すっごく不愉快なの」

「けっ。そうかよ。関係を解消したいならそれで構わない。でも今日だけは付き合え。もし断れば、俺は暴れるぞ」

「分かった分かった。でもこれで最後にしてよ」

二人は安宿で最後のセックスをした。そうしてことが終わり二人が服を着たとき、Wは拳でFの頬を殴った。Fはベッドの上に吹き飛んだ。

「俺が捕まるなら、そのときはお前が捕まった後だと、Rが言ってた。お前が俺をここまで引き込んだんだ。俺はつかまってもすぐに出られる。だがお前はしばらく出られない。Rがそう言ってた」

WはFを起こしてもう一度殴ってから安宿を出た。

 

111

 

「いよいよかなあ」WはYに何度も言った。

Yは何度も、「だから、あなたの故郷で暮らしましょう」と言った。

 

112

 

老画家PKの逮捕状が発行されたと、テレビ各局と新聞各紙が報じた。ところが翌日、逮捕されたという報道はなかった。

「恐いよ、俺」Wは自宅で密造酒を飲みながらYに言った。

Yは「あなたの故郷に行きましょう、いますぐ」と言った。

 

113

 

老画家PKが逮捕されたのは、Wが「恐いよ、俺」と言った日の一週間後だった。海外メディアも大きく報じた。取調べで老画家PKは簡単に落ちた。一審裁判で次のように証言した。

「僕の作品は国民の感情を乱したと認めざるを得ない。全国の公立美術館から僕の作品が撤去され燃やされるのは、当然の報いであると受け止め、深く反省している」

異例の早さで下された判決は、懲役五十年、執行猶予五十年だった。老画家PKも検察も控訴しなかった。

 

114

 

老画家PKの国内最後の講演会は、警察当局によって護られていた。頽廃芸術駆逐政策の目玉だった老画家PKの逮捕から五カ月が経っていた。老画家PKを敵視するのは最早、政府側ではなく左派である。会場の入り口にはデモ隊が形成されていた。老画家PKを狡猾なキャラクターに描いた漫画や、転向を非難する文句が書かれたプラカードが掲げられていた。警察官は彼らが武器を所持していないことを確かめるだけで、追い払いはしなかった。

この日の講演会は、逮捕後初の公の場だった。それでも講演会は左派系の芸術団体が開いたものだった。舞台には垂れ幕には「行ってらっしゃいPK――渡航壮行会」と書かれてある。

老画家PKの海外移住は、形式上は老画家PKから政府に申し出たことになっていた。実際は司法取引だった。当局が老画家PKの弁護団に対し、全財産の没収に応じ妻と二人の息子だけを連れて海外移住すれば、判決に執行猶予を付けると持ちかけたのである。

老画家PKの父は商社マンだった。老画家PKが生まれたのはそのときの父の赴任先のS国だった。今回老画家PKが向かう先もS国だったが、それは偶然だった。

老画家PK夫婦は、ほとんど知らない国で、まだ年端のゆかぬ二人の息子を育てる自信がなかった。政府の追跡をかわして命からがら亡命した気骨の画家ならまだしも、政府の追及に屈して転向を公言した「ポンコツ芸術家」の絵が、異国で売れる保証はなかったからである。「ポンコツ芸術家」は、老画家PK自身の言葉である。それで老画家PKは、世界中の大学の美術学部に手紙を送り、自分を教員として採用してくれるよう懇願した。それに唯一応じたのがS国の大学だったのである。

講演会の会場には七百人が入った。七百人全員が共通して、国民的画家として老画家PKを愛しつつ、転向については怒りながら、しかし老画家PKを責めることに躊躇する、という感情を抱いていた。

「僕は、僕のことを愛する人から、『色彩の詩人』『線の魔術師』と言われたものでした。僕はそれを、そう言ってくれる人の愛だとは思わずに、僕への羨望であるととってしまったのですね。そうして僕は頽廃し、『色魔』『一線を外れた画家』へと堕落していったのですね」

講演はこう始まった。この部分だけは、顔を下に向け手元の用紙に視線を落とし、あたかも「政府に無理やり原稿を読まされています」というふうにしたのである。

 

115

 

その原稿は当局との約束だった。それを済ませてしまうと、老画家PKはすぐに、毒をユーモアで隠す例の語り口調に戻った。

「僕は反省の弁を述べにきました。だから僕の講演はこれで終わりです。これからは雑談をしますね。雑談ですから僕以外の人が喋っていい。誰かいますか? いないようですな。ではまず僕が雑談をしましょう」それが講演本番開始の合図であった。

「僕を駆逐した頽廃芸術駆逐政策は、前世紀最大の悪魔が開発したものであることは、海外メディアは既に何度も報じていますな。だが我が国のどのマスコミもそういうふうには教えないですな。それを報じれば『大統領は悪魔だ』と言うことになるからですな」

老画家PKの過激な政府批判はよどみなく続いた。しかし、観客に潜んでいるであろう当局の人間は、話をとめようとしなかった。老画家PKはそのことに触れた。「これだけ辛辣に言っているのに、誰も僕を取り押さえようとしませんな。この後すぐに空港に向かい、もう二度とこの国を惑わさない男に寛容さを見せているのですかな」

突然話がやんだ。二分間の沈黙の後、老画家PKは嗚咽とともに話し始めた。

「ああ嫌だ嫌だ。僕は政治の話なんてしたくないんですよね。でもPは僕を政治的な人間にしましたね。政治的に攻撃されると、被害者も政治的になってしまうんですな。

前世紀最大の悪魔はかつて、画家を目指しました。ところが彼は、二度も美術大学に落ちているんですな。だから僕は思うんです、彼がそこに入学していたら、彼は政治の道を歩まなかったのではないかと。大学が彼を受け入れていれていれば、彼は毒にも薬にもならない絵を社会に供給するだけの人間になっていたのではないか。

では、美術大学の学長が、悪魔を産み出したのか? もちろんそうじゃありませんね。

みなさんにはこう考えていただきたいんです。Pを産んだのは自分かもしれない、と。僕はこの国で最初に『私は絶対にPを産み出してはいない』と主張できる人間になれたんですな。今のところ、Pの横暴の責任を唯一免れる人間です。

みなさんはPを産み出した人間ではありませんか?

わざわざ帝王切開をしてPを取り出したのではありませんか?

Pの生育を手伝った人間ではありませんか?

Pに悪知恵を授けた人間ではありまえせんか?

Pに権力を与えた人間ではありませんか?

みなさんは僕を嫌っていませんか?

僕を僕の国から追い出した人間ではありませんか?

そうした罪を犯しながら、今日のこの席にいるのは、スパイか偽善者ですよ。そこに涙を流している方がいますね。

あなたのその涙はなんの涙ですか?

愛する国を追い出された僕を同情する涙ですか?

僕を追い出したことを後悔する涙ではないのですか?」

老画家PKはここで話をやめ、舞台の袖へと引き下がった。聴衆は拍手をする暇を与えられなかった。しばらくして司会者が舞台に現われ、講演会の終了を告げた。

 

116

 

Wは講演会の準備のボランティアに参加していた。会場にはF夫婦と中央第一支部長がいた。WはFと支部長とは口をきかなかった。fとは少し話した。

 

117

 

Wへの任意同行の要請は頻繁にあった。それに陳腐な印象を持つようになったのは、Wも警察官のRも同じだった。

「小説は書いているんだろ。内容を教えろよ」取調室のRは、退屈そうにボールペンをいじりながらそう言った。

Wは自分の小説の構想について話すのは嫌いではなかった。「癌に興味があってね、これをモチーフにしようと思っている」

「闘病しながら政府に立ち向かう左翼青年の話とか?」

「そんな陳腐な話は書かない。どうしてこの世に癌があるのか知ってるか? 癌という病気を勉強するとな『癌患者とは神に嫌われし者』と定義したくなるぞ。

インフルエンザや肺炎やエイズは、いわば神からの警告だ。神は『油断するな』という思いで菌をばらまいている。だから神はワクチンや抗生物質を開発する能力を人間に与えたんだ。でも癌は違う。そもそも癌とはどういう病気か知っているか」

「教えてみろ」

「正常細胞というのは、予め一定期間が過ぎると死ぬようにプログラミングされているんだ。蛙の尻尾がなくなるのは『不幸にももげた』のではない。尻尾の細胞が死ぬプログラムに則っているだけだ。

だが癌細胞は永遠に増殖し続ける。増えながら正常細胞を殺していく。

そしてここが重要なんだ、いいかい、癌は癌を患った自分が生み出しているんだぞ。あなたが癌にかかったとするだろ。その癌を生み出したのはあなたなんだ」

「警察は癌だと、そう言いたいのか。それならすぐに逮捕だな」

「小説には警察は一切出てこない。変な容疑をかけないでくれよ」

「題名は」

「『予定死』だ」

「けっ、相変わらず気取ったタイトルだな。――だがな、じゃあなんで神は癌を作ったんだ。人間を作った神が、悪さをする人間を懲らしめるためにインフルエンザの菌をまいたのは分かった。人間を皆殺しにするつもりがないからワクチンを開発する能力をお与えくださったのも理解できる。

じゃあなんで癌はあるんだ。癌は人間自身が作るんだろ」

「この小説のテーマは『神は自殺を許容するか』だ。自分で癌を作って死ぬのと、自分でないだ縄で首をくくるのとどう違う?」

Rはそれに答えなかった。Wを睨んだままボールペンをいじっていた。

 

118

 

頽廃芸術家の二次認定者の逮捕が始まり、Fが逮捕された。「逮捕状すら警官は持っていなかった」Fの逮捕から約一時間後、fはWの自宅に来てそう言った。YもWの隣で聞いていた。

 

119

 

Fは警察署の留置場に四十日間拘留された後、送検されて刑務所内の拘置所に移された。しかし拘置所では一泊しただけで釈放された。

政党友愛は、Fが釈放された日の晩、Fの講演をメーンにした緊急集会を開いた。開催はFが提案したのだった。

Wはfにこの集会に参加するよう言われたが、Wは断った。するとfはこう言った。

「もし君が政党友愛と縁を切ろうとすれば、政党友愛は小説家Wを除名した上で、君の裏切りを告発する声明を発表する。政府から頽廃の烙印を押された君は、友愛からもその存在を否定されるんだ。僕たちを裏切るな。友愛だって、衰えたとはいえ全国組織だ。君は真の国民的な小説家にはなれずとも、友愛の関係者の中でなら注目され続けることができる。君の才能の程度からすると、それは贅沢な方なんじゃないかな。君は友愛の中で生きるしかないんだよ。だから集会には来るんだ」

集会には五百人が集まった。逮捕拘留にひるんだ様子を見せないヒロインの登場に、会場は沸いた。後片付けが終わり、fはWを145センチに誘ったが、Wは断った。fは笑ってそれは許した。

 

120

 

Fの裁判が始まる前、当局は別件でFを再逮捕した。今度の容疑は報道法違反だった。FのZ社新人賞受賞は、政党友愛の宣伝活動のためにでっち上げられたもので、その受賞を大きく取り上げたT新聞社もそれを知っていた、とするもの。報道法の規制対象は本来は出版社や新聞社などのマスコミ企業である。政党友愛は、企業の役職者ではないFの逮捕は不当であるとの声明を発表した。

RからW宅に電話がかかってきた。このころの電話はすべてWが出ていた。

「反抗を鎮めるには、希望を断つのが一番効果的なんだ。最初の逮捕後にFを釈放したことで、反抗組織は希望を膨らませた。ところが再逮捕でそれが一気に萎む。Fに鉄の精神があるっていったって、娑婆と牢屋の行ったり来たりじゃたまらないだろう」

「だろうな」Wはそう同調した。

Rは大笑いした。「ははは馬鹿だなお前。なに格好つけているんだよ。次はお前なんだぜ」Rから電話を切った。

 

121

 

Wは警備の仕事中に、過激右派「青年」のメンバーとみられる若者から襲われた。数日後、自宅前でも襲われた。Wは警察署に電話をした。電話に出たRに懇願した。

「『青年』の暴力をやめさせてくれ」

「署にきて被害届けを出してくれ」

「そういうことは言ってない。明日から安全な生活に戻してくれ。あなたならできるんだろ、R」

Rは何も答えず電話を切った。

 

122

 

Fに懲役二十年の実刑判決が下った。二審も三審もF側の主張は棄却され刑が確定した。

 

三十一歳

 

123

 

自宅の呼び鈴が鳴った。午前六時。Wはこの日、警備の仕事が休みだった。居間の食卓に突っ伏して寝ていたからすぐに起きた。Wの休日を把握しているRがわざとこの日を選んだのだと思った。

最初の任意同行のときよりもWは落ちついていた。両の手のひらで顔をごしごしなでてから玄関のドアを開けると、初めて見る男が「Wだな」と言った。「貴様には逮捕状が出ている。それといくつか証拠品を押収する」

この男を含めて五人の男が自宅に入ってきた。Rはいなかった。Wは後ろ手に手錠をかけられ、さっきまで座っていた椅子に座らされた。警察官はもう一つ手錠を使い、Wにかけた手錠とWが座る椅子をつないだ。Wに手錠をかけた警察官も証拠品押収作業に加わった。そこに着替えを済ませたYが現われ、Wの向かいの席に座った。

「Rはどうしたんですか」Wが五人の警察官の誰というわけでもなく尋ねた。誰も返事をしない。「あなたたち五人の中で一番偉い人は誰ですか? 押収したい物品を言っていただければ出します。だからこちらの質問にも答えてください。どうしてRがいないのか。私の担当から外れたのか。それとも異動になったのか」

一人がWの座っている椅子を思い切り蹴飛ばした。椅子と一緒に手錠でつながれたWも倒れた。Yは悲鳴を上げて立ち上がったが、警察官の一人から「座ってろ!」と怒鳴られて再び座った。Wは「Y、大丈夫だ」と言った。警察官は「お前も黙ってろ!」と、硬い皮の靴でWの顔面を蹴り上げた。Wはなおも「おい、誰か起してくれないか」と言った。別の警察官がWの腹を蹴り上げた。

Wが警察官に何度も声をかけるのは、Rの情報を聞きたかったからである。「Rがいればもっと穏便に進むはずなのに」Wはそう考えていた。すると若い警察官が、「ああ、面倒くせえ! なんでこんなちんけな捜査に駆り出されなけりゃならねえんだよ!」と大声を上げ、クローゼットを蹴とばした。大きな穴が開いた。W宅崩壊作戦は彼が最も貢献した。

近隣住民が警察を呼ぶというハプニングが起きたほどの激しい暴動が終結すると、リーダー格の警察官が逮捕状を読み上げた。Wは椅子につながれたまま、つまり寝ころんだまま聞いていた。

 

124

 

警察署に連行されたWは、取調室に入れられた。ところが二人いた警察官は、いずれも部屋の外に出てしまった。Wは手錠と紐で椅子に括り付けられている。

「だからどうして俺が奴の取調べをしなきゃならないんだよ!」Wがいる取調室のドアの向こうから怒声する。声の主はW宅を破壊した若い警察官である。それをなだめ、Wを担当するよう説得する落ち着いた声も耳に入ってきた。

RがWを担当しない理由をWは考えていた。自分の事情をよく知る警察官に取調べを受けた方が罪が軽く済むだろうというWの期待は裏切られた。とうとうこの日はWの担当が決まらなかった。

 

125

 

房は警察署の本館とは別棟にあった。Wは逮捕された当時の姿で、つまり部屋着のまま、別棟に続く渡り廊下を歩かされた。控え室で手錠を外され、裸にされた。ゴム手袋をした警察官によって、猛烈にしみる目薬を差され、猛烈にしみる液体でうがいをさせられ、猛烈にしみる薬をペニスに塗られ、猛烈にしみる薬を肛門の中に注入された。Wの服は全て没収され、黄土色の下着と黄土色の作業着が渡された。

控え室を連れ出され、広い部屋に入った。Wは「センチュリーホテルのプールぐらいあるな」と見積もった。その真ん中に事務机が六つ置かれている以外は伽藍堂である。机には看守が三名いて、そのうちの一人が立ち上がってWたちの方にゆっくり近づいてきた。その空間がホテルのプールと決定的に異なるのは、消毒水に満たされていなことと、床がコンクリートであることと、そして四方が鉄格子に囲まれていることだった。鉄格子の向こうに容疑者たちがいて、彼らは案外静かだった。Wは「圧倒的な清潔」という印象を持った。警察官は、Wを看守に委ねた。

ここまでは、Wに思考の余裕があった。

看守は数十個の鍵の束をがちゃがちゃいわせながら、Wをひとつの房の前に連れて行った。「ここでいいや。明日になったら房が変わるかもしれないけど」看守はそう言いながら、鍵で房の鉄格子の扉を開けた。中には先客が三人いた。

この瞬間、Wの脳内はパニックに陥った。

「ここに入れだと?! 嫌だ、嫌だ、嫌だ!」それは言葉には出なかった。駄々をこねるといった行動に出たわけでもない。だからすんなり鉄格子の扉の向こうに入ったようにも見える。でもこれまでWが味わったことのない完全なパニック状態だった。看守が鉄格子を閉めたときの金属音が、さらにWの脳を襲った。Wは房の中で立っていた。

看守は「飯はどうする?」と聞いた。Wはどうしたらいいのか分からなかった。「一応お前の分も用意してあるけど、お前みたいなタイプは、今晩は食えないぞ」

Wも食べられそうにないと思った。でもその意思を言葉で伝えることができなかった。「捨てるからな」看守がそう言ってもWは黙っていた。看守は「便所に行くとき以外は座ってろ」と言って中央の机に戻っていった。Wはその指示には反応できた。Wは座った。両手で膝を抱え額を膝の上に乗せ、声を出さずに泣いた。そして、隙を見て死のうと決めた。

房内の三人は、看守がいなくなるとすぐに中断していた会話を再開した。しかし誰もWに声をかけなかった。

そこに看守が戻ってきて「ジャージの差し入れが入った。これに着替えて、作業着を返してくれ」と言った。Wは、「差し入れって、妻からですか」と尋ねた。「余計なことは教えられない。でもほかにいるのか?」

拘留者に差し入れした者を明かしてはならないという規則を破って教えてくれた看守の親切が、Wにはとてつもなくありがたく感じた。そして、Yを軽んじていたことへの後悔に強烈に襲われた。着替えをしながら、Wの死への渇望は強まった。「死ねば、Yも多少はましな夫を持ったことになるだろう」と。

 

126

 

翌朝は午前六時に電灯が付いた。Wの同室の三人は寝具を畳み始め、Wも真似た。ほかの房からも片づける音が聞こえた。しかし声はひとつも上がらなかった。寝具が棚に片付くと、三人のうちの長老格が大声で「三〇一号房、朝食準備!」と叫んだ。しばらくすると看守が現れ、鉄格子の扉の下方の小窓から直径三十センチのプラスチックの皿が四枚入ってきた。一番近くにいた者がそれをWら残りの三人に渡した。ほかの房からも「朝食準備!」の声が聞こえた。看守は二十人ほどに増えていた。

皿の上には、白いねちゃねちゃしたものと黄色いねちゃねちゃしたものと青いねちゃねちゃしたものが乗っていた。Wはひと口食べてスプーンを置いた。すると長老格がWの耳元で、「要らねえなら、俺の皿と取り替えろ」とささやいた。Wが無反応を決め込むと、長老格はWの手にあった皿を取り上げ、代わりに舌で嘗め尽くしててらてら光る自分の皿をWに持たせた。「おやじ、ずるいぞ!」と別の者が言った。

Wは昼のねちゃねちゃした給食も同室の別の者にやった。昼食後しばらくすると房から出された。取調室に連れて行かれた。Rがいた。

 

127

 

Wの処女作「リスのように逃げる」の中に、九メートルの巨人が部落のあちこちに自分の糞尿をばらまくシーンがある。糞尿内の細菌は致死率が高い感染症を流行らせた。巨人以外の部落の人間がすべて死滅した。人間たちは巨人の食べ物を作っていた。その人間たちを失ったことで、結局巨人も死んでしまった。

当局はこれを、「我が国が他国に公害を撒き散らしているという、海外の報道に同調するものだ」として頽廃性を認定したのである。

取調室でRは、Wと同じパイプ椅子に座っていた。ざっと逮捕容疑を述べると、「まあ容疑はどうでもいいな」と言った。「お前の勾留は三カ月はくだらないよなあ。だっていいか、最初の二週間はだらだらと雑談で過ごすだろ。次の二週間で押収した証拠品をひとつひとつ吟味していく。いやこれを二週間で終わらせたら時間がもたないな、だから三週間と」Rは週の数を指折り数えている。「次の二週間で証拠品の分類をする。この期間て、お前にはつらいぜ。だって取調べがないんだもん。俺、その作業に張り付くから、ここにこれない。だから君はずっと牢屋の中。次の二週間はその分類が正しいかどうかお前と相談する。お前の話を聞いて、A分類に入れたものを下げたり、B分類以下の証拠品をランクアップさせたり、これもゆっくりやろうな。それから三、四週間かけて調書を作っていこう。どうだ、これで十二週だ。

まあそうだなあ、今日からの一週間以内に、お前は三回悲鳴を上げるよ」

 

128

 

一週間は要らなかった。Wはその夕、ねちゃねちゃしたものがのるプラスチック皿を、奇声を発しながらおやじに投げつけた。おやじは冷静に、同房の二人にWを取り押さえるよう指示した。Wをねじ伏せたところで、おやじは大声で看守を呼んだ。

Wが移された独居房は真っ暗だった。しかしその闇は、光を遮断された部屋に入ったから生まれたのか、瞼が自分の意に反して閉じているからなのか、または殴られた衝撃で視神経が切れたためなのか、Wには分からなかった。どうでもいいという気持ちと、どうか解放してくれという気持ちが二秒ごとに代わる代わるWを襲った。Wは悲鳴を上げた。

 

129

 

Wが閉じ込められた独居房はRの手で開けられた。

「へへへ、何時間経ったと思う?」正解は三十二時間である。

「二年」とWは答えた。

「そんなわけないだろ。ちゃんと答えろ。何時間経った?」

「歯が痛い。頭も割れそうだ」

「だから何時間経ったか、それを当てたら出してやる」

「助けてくれ」

「だから当てたら助けてやる。何時間だ」

「当たるわけない」

「じゃあ前後五時間の誤差なら正解にしてやる。答えろ」

「三日」

「七十二時間?」

「計算できない」

「三日でいいんだな」

「答えた。出してくれ」

「残念でした」と言って、Rはドアを閉めた。Wは叫んだが、その甲斐はなかった。

それから三日経った。Rは独居房のドアを開けて言った。「さあ、お楽しみの取調べをしようぜ」

 

130

 

Rは「俺たちは『リスのように逃げる』がほとんどFの手になることを知っている」と言った。Wは「そうだ」と頷いた。Rはさらに「でもそれだけじゃないだろ」と言った。Wは「それだけじゃない」と言った。

「政党友愛中央第一支部長とZ社編集長、そしてFによって丸め込まれ、自分の作品を好きなように書き直されたんだよな」とRは尋ねた。Wは、「支部長と編集長とFによって俺の作品は書き直された」と答えた。

「完全に書き直されたんだな」

「そうだ。完全にだ」

「はい、よくできました。――じゃあ今日はこれくらいにしようかな。お前まだあの飯を食えないのか?」

「食えない。吐いちゃう」

「痩せたよな。何キロ減った?」

「多分十五キロは」

「多分ってなんだ。毎日計測しているだろ」

「以前の体重を忘れた」

「可哀想になあ。今許されたら何を食べたい?」

「肉餃子」

「買ってきてやろうか、どこに売ってる?」

「145センチ」

「ははは、あれかあ、あんな冷凍ものが食べたいのかあ。いや、確かにうまいよな、冷凍でも、あそこのは。じゃあ代わりに今夜俺が食べてきてやるよ」

Rに課せられた仕事は、政党友愛中央第一支部長と出版社Z社編集長とFにとって不利な証言をWから引き出すこと、だけではなかった。Wが釈放されたのち、Wを警察犬のように操ることができなければならなかった。

警察犬のように。ときに従順に、敵に攻撃的に。

Wの弱点は最早Fではないことを、Rは見抜いていた。そこでRは、過激右派「青年」を使って、自宅にいたYを襲わせた。「青年」の十代後半の五人は家屋内でYを犯してから、裸で気を失っているYを外に連れ出して住宅に火をつけた。Yは三日入院し、警察官に促されて被害届けを出しに警察署にやってきた。

「Yが襲われた」RはWにそう言った。「事件は三日前に起きて、駆けつけた警察官がYを保護した。病院に三泊して、今朝退院して、今署内で別の警察官が事情を聞いている。医者によるとやや興奮状態にあるものの、傷は浅く基本的に健康だ。俺もさっき会ってきた。俺を見て泣き崩れた。それまで涙ひとつ流さず話をしていたらしい。今お前と一番接触している俺を見て緊張の糸が切れたんだろ」

「強姦されたのか。犯されたのか」

「ああ」

「怪我は?」

「深刻なものじゃない」

「深刻かどうか! それは俺が判断する!」

「大声出すなって。かすり傷程度だ」

「何人だ?」

「犯人の人数か? まだ分からん」

「Yはなんと言ってる?」

「Yは四、五人じゃないかって言ってる」

「じゃあ、四、五人なんだろうよ! どうして人数が分からないなんて言ったんだ!」

「だから大声を出すなって。複数人に犯されているところをお前に想像させたくなかったんだ。それと、本当にまだ分からないことが多い」

「妻は聴取が終わったらどこに行く? 自宅に戻さないだろうな。警察が保護するんだろうな」

「自宅には戻れんよ。焼かれた」

「犯人が放火したのか」

「分からん。でも多分そうだろ」

Wは頭を抱えた。そのまま九秒動かず、そうして再び話し始めた。「嘘をつけ。『青年』なんだろ。お前が『青年』を使ってYを襲わせたんだろ。死刑を恐れず放火なんてできるのは『青年』に決まってるじゃないか。お前が奴らにうちの住所を教えたんだろ」

「いいかW、興奮しているいまだから特別に許す。しかしあと三十分経ってもまだ俺のことを犯人扱いしていたら殺すぞ」

「殺してみろ!」

「三十分はいくらでも俺を呪え。三十分後に説明してやる。説明を聞けば、お前がとんでもない思い違いをしていることが分かるはずだ」

「俺は騙されんぞ」

Rは、Wを三本の手錠でパイプ椅子に固定してから、取調室を出て行った。二十九分後のWはおとなしくなっていた。「お願いだ、Yに会わせてくれ」

「俺を信じてきちんと三十分で冷静になってくれたのは嬉しい」RはWの手錠を外してやった。「でもそれが許されないことは分かっているだろ」

「ああR、逆上なんてしない。冷静に頼むんだ。お願いだ。Yは署内にいるんだろ。今晩はどこに泊まるんだ。それは警察が、というよりあなたが安全な場所を探してYに提供してくれるんだろ、それは信じている。だって家が焼かれてカネもないはずだ。それをあなたが助けてくれることは信じている。だからこそ頼む、三分でも一分でもいいから、会わせてくれ。会ったって、こう言うだけだ。『Rの助言を聞いていれば安全だから』と。俺はあなたを信用している。三十分前は本当に申し訳ないことを言った」

「二十九分前だ」

「そうだ二十九分前だ。二十九分前は、本当に申し訳なかった。あなたのような人を疑ったりして。だから頼む、この通りだ、会わせてくれ」

「いいかW、お前は今、この辛さを肌で、肉で、血で、筋肉で、骨で感じなければならない。考えてみろ、お前が逮捕されていなければ、お前はYを襲う暴漢と戦うことだってできたんだぞ。相手は四、五人だから結局はお前は半殺しにされて、Yは犯されていたかもしれない。でもな、二人で病院に行き、二人で警察に助けを求めることができたはずだ。

でも今はそうじゃない。お前はのうのうと飯がまずいだの餃子が食いたいだの言っている。一方のYは地獄の苦しみの中にいる。Yが襲われたのはお前の変な野心のせいなんだぞ」

Wは「頼む、頼む」と小声で繰り返していた。Rは笑いながら取調室を出た。取調室には別の警官がやってきて、Wを房に戻した。

 

131

 

WにYとの面会が許された。YがWに、「改心書」の提出を説得することが条件だった。Wは簡単にそれに応じた。

「俺のことなんかより、お前は大丈夫なのか。大丈夫なわけないことは知っているが、檻の中にいては『大丈夫なのか』と聞くくらいしかできない」

「大丈夫なわけはないわよ。死ななければならないと毎日考えているわ。だけど、あなたがここを出てからあなたと一緒に死んでもいいかなと」Yは笑った。

Wにはそれが嘘の笑いには見えなかった。

 

132

 

改心書を提出してもWは釈放されなかった。取り調べは毎日あった。Rは言った。

「二作目の『プラセボとトリアージ』な、俺、一切読んでないんだけど、あの表題はいいと思った。気取り方にセンスがある。でもFはそのセンスが気に入らなかったようだな。批判記事をT新聞社以外のすべての新聞社と文芸誌に送った。それが新聞社に掲載された。あそこに『「リスのように逃げる」にはゴーストライターがいたのではないか』とあったろ。これは使えると思った。ゴーストライターを使ったことだけでは立件は難しいが、それを隠して読者を欺いて政権転覆を狙ったとなれば、擾乱罪が成立する。

Fは多分、『プラセボとトリアージ』に嫉妬をして、ああいった暴挙に出たんだろう。つまり、お前たちはいつもそうやって仲間内で足の引っ張り合いをしているんだ。『お前たち』って、お前とFだけのことだじゃない。『お前たち左翼』のことだ。

欲望というのは、デーモンだよ。神の世界も、人間世界も、欲望の罪悪は重要視している。過剰に食べると太って癌になって死ぬだろ。食欲に負ける人間を、神は不快に思う。だから醜くした上で殺すんだ。

お前の罪は、格好つけたいという欲望に負けたことだ。大したことなんてできないのに、そもそも大それたことをする気もないのに、勇気も野望も才覚も忍耐力もないのに、なのにおだてられていい気になって、いい加減なことを喋って、それで引き際が分からなくて、ここで引いたら格好悪いと思って、ずるずると格好つけることだけは続けていた。

覚悟がない、ただ単に格好つけたいというだけの欲望はな、過剰な食欲と同じくらい罪が重いぞ。お前は醜い姿を晒され、そうして殺されるんだ、ざまあみろ」

 

133

 

RにはまだWに言うことがあった。

WはT新聞社時代に、実際は組合活動で活動し、会社の仕事をしていなかったにもかかわらず、会社から給料の支給を受けていた。それがいわゆる闇専従に当たると指摘した。「再逮捕になるわあ」

Rは既に給与明細と勤務時間を把握していた。最初の逮捕容疑である「青少年育成に害を及ぼす図画並びに文章、写真、動画を規制する法律」(頽廃芸術駆逐法)違反と、今回の闇専従による横領罪もしくは背任罪と合わせると、懲役二十年は下らない、とRは言った。

Wは「勘弁してほしい」と言って泣いた。

「じゃあ、俺の言うことをきちんと守るかい?」

「ああ。ここから出してくれれば、どんな無理難題だって成し遂げてやる」

「お前にそれほど期待はしていないよ。俺からのお願いなんて簡単だ」

「言ってくれ。なんだってする」

「もうあまり過激にやるな」そう言うと、Rは立ち上がって取調室を出て行った。代わりに入ってきた警察官が、Wを房に戻した。

翌日、起床時刻前の午前五時半、Wの牢の前に看守が現われた。それは「W、釈放だ」と言った。Wはすぐに目覚め、その瞬間起き上がった。同居人たちもこれに気付いたが反応する者はいなかった。看守は鉄格子を開けた。それを見た瞬間、Wは「もうここには戻りたくない。俺は友愛と労組を裏切る」と心に誓った。

警察署の裏口にはYと政党友愛中央第一支部長が立っていた。WはYに「大丈夫か?」と聞いた。Yは笑って「あなたこそ大丈夫?」と尋ねた。三人は支部長の車に乗り込んだ。するとWの心は一気に強気になり、「Rのコントロール下にあるふりをしていれば、最低限の党活動はできる」と思った。

保釈された日の晩、Yとセックスをした。Yは積極的であった。

 

134

 

しかしWの意欲は日に日に弱まった。それは自覚できた。だが、これは転向ではないと、Wは思っていた。

「俺は依然として反政府の立場にいるし、そのことが正しいと知っている。しかし友愛は国家権力に勝てない。俺だってRに負けたばかりだ。だから友愛の仲間に『過激な行動に走ったり、逮捕されたりすることは無駄だ』と誰かが言うことが必要だ。その役目は、かつて過激行動を担っていた自分こそ相応しい」

この言い訳はW自身に十分な説得力を持っていた。

政党友愛も左翼系労働界も、Wが、政党友愛中央第一支部長と出版社Z社編集長そしてFの三人を売ったことを知っていた。Rがリークしていたからである。しかし政党友愛も左翼系労働界も、そのままWを捨てるわけにはいかなかった。彼らには、自分たちが訴追を免れるために、Wを生贄に差し出したという負い目があったからである。つまり彼らは「憎い奴を殺せない」という立場に立たされていた。

Wが党のブレーキ役という立ち位置を望めば、彼らはその席を用意した。「変に高い地位を求められるよりはいい」と判断したからである。Wには、非常勤ながら、政党友愛の特別アドバイザーという役職が与えられた。表向きは無給だったが、政党友愛機関紙への出稿が確約され、原稿料は悪くない額であった。

捜査当局は、Wが政党友愛の職員に復帰することを黙認した。左翼作家が政府の悪口をいいつつも一部政策を評価することは政府の宣伝効果を高めると考えたからである。当局を代表して、RがWにそのことを伝えた。さらにRは、政府の御用学者とWの対談を思いついた。そのアイデアを、Rの上司は承諾した。政党友愛中央第一支部長も、「起死回生のチャンスでもある」と歓迎した。

ただその対談を警察や行政が主催することはできない。Rは新聞協会に打診してみた。新聞協会には、T新聞社を含む正統派四紙と地方紙十五紙が所属していた。新聞協会は快諾した。

学者はWを攻撃せず、こう言った。「頽廃芸術家はこの世に存在すべきではない。だが頽廃というレッテルを張られてエネルギッシュになった作家がたくさんいるのは事実だ。あなたもその一人といっていい。P首相も、MD大統領も、そうした作家を潰すことの損失をそろそろ感じ始めるだろう」

この発言を受けて、各マスコミは独自に取材を進め、「政府が頽廃芸術家認定制度の撤廃を検討し始めた」との見通しを記事にした。

RはWを食事に誘った。Wは礼を言った。Rは「これが権力におもねる蜜の味だぜ」と言った。

 

135

 

Fのいない中央で、Wは精神的に開放された。

気力も知力も充実していた。「中央に来て初めての晴れ間」と感じた。創作意欲も沸いた。作家としての人気は定着してきた。Rとは友人関係になったと感じるようになった。

代償もあった。145センチに出入りできなくなったのである。店のドアを開けるなりガンジーさんは、Wを座らせずに言った。

「君とFと、どちらが好きかといったら、私はFさ。牢屋から出たFと一緒に来るまで、君にはお酒を出さない」

それでもWには小さな代償だった。

どの政権にも欠点はある。その命題に従うなら、ある政権のある欠点を消すために、ある革命者がその政権を転覆しても、その革命者がつくる次の政権は独自の欠点を国民に露にする。同じ結果を導くだけなのに、政権を崩壊させたり新しい政権を作ったりするのは、コストだけかかって儲けがない商売と同じである。その末路は消滅である。それならば現政権の欠点を正せばいいのだ。しかし左翼運動にはまっていた当時、自分はそのことに気がつかなかった。――Wは自身をそう総括した。そして「『Pは許せない』と思わせたのは、Fとfによる罠だった」とも。

しかし政党友愛の関係者として、Wはfと会わないわけにはいかなかった。fはWに、Fは牢屋の中にいても政府批判を繰り返していると言った。Wは冷淡に「そうですか」と言った。fは苦い顔をした

 

三十二歳

 

136

 

WはT新聞社への復職がかなった。Yは、パン屋の重労働から解放されて喜んだ。

平穏な日々。進む蓄財。引越しもかなった。懐かしさを味わいたくて、ただそのためだけに二人で肉店に行くこともあった。

 

三十三歳

 

137

 

Fに面会に行くよう、Rから指示された。fから何度も頼まれても刑務所に赴かなかったが、Rの指示には従った。

刑務所の面会室でFは、Wを侮辱した。Wは何も答えなかった。だがそれは従前のようにFに論破されて窮したのではない。「まだそんなことを言っているのか」と、呆れて言葉が出てこなかったのである。

 

138

 

RはP元大統領への賛辞を惜しまなかった。Wは「そうだな。少なくとも俺は、酒を飲んでいられる」と答えた。

 

139

 

FはWに、手紙を送って寄越すようになった。週に一、二本も来た。こんな内容のこともあった。

 

エネルギー価格が下落し海外企業がそっぽを向けば、国民は一晩で貧困と圧政に苦しめられる。なのに「反逆するのは圧政が始まってからで遅くはない」と言う人がいる。そういう人たちはまた「圧政の兆候が見えたら、次の選挙で国民統一党を下野させればいい」とも言う。

しかし政府はいきなり牙を向かない。圧政を行う者は今の顔のまま、国民を虐げることができる。国民は自分の隣人が不当に虐げられている現場を見ても「隣人にも多少の落ち度があったのだろう」と考えてしまう。「そこまで政府は腐ってはいない」と思ってしまう。そう思いたがるのだ。

連行される隣人は、野次馬の中にいるあなたに「明日は君もこうなる。だから助けて」と叫ぶ。しかしあなたはそれに応えない。そうして誰も反抗しないうちに、圧政が日常になる。「日常」とは「慣れ」に他ならない。

 

 Wは「よくもここまで国民を愚弄できるものだ」と思った。そうして手紙をYに読ませた。Yが読み終えるのを待って、Wは一席ぶった。

「エネルギーの輸出価格が半値に落ちたって、単純に言えば、今の生活水準が半分になるだけじゃないか。今の国民は能力も才能も十分にないのに、ましてや十分な働きもないのに豊な物資に囲まれている。タクシー運転手は一日五時間しか働かないのに、新興団地に住み郊外に菜園を持つ。P大統領以前は、タクシー運転手は一日十二時間働いて子供一人を養うのが精一杯だった。つまりだ、今の政策が失敗しても、せいぜいその時代に戻るだけだ。

我々左翼と呼ばれる者たちは、PやMDが失政したにもかかわらず力を持ち続けたときに立ち上がればいいんだ。ところが現在彼らは失政していない。仮に失政しても、失政後に退任するかもしれない。失敗して退くならいいじゃないか。無闇に政府の転覆を目論んでも、国民の支持は得られない」

Yは「私、あまり政治が得意じゃないから」と言った。Wは苦笑してウイスキーを飲んだ。

 

140

 

Fからの手紙には、必ず「あなたはまた面会に来なければならない」とあった。Wは根負けして再び刑務所の壁を越えた。

Wは以前からFに尋ねたいことがあって、この機会に聞いてみた。すると分厚い透明の強化プラスチックの向こうのFは、あっさりと、Z社編集長と男女の関係だったことを認めた。「それがどうしたの」とも。Wはそれで黙った。Fが続けた。

「あなたの用件が終わったんなら、私の用件を聞いてちょうだい。Rの口車に乗ってはいけない」

Fはいつもの主張を繰り返した。Wは重罪犯罪者から説教されることが腹立たしかった。Wがそれを顔に出すと、Fは口汚く罵った。しかししばらくするとFは突然黙り、そして口調を改めて言った。

「あなたは自分の転向を私のせいにしている。しかもその転向を、Rに正当化してもらって安心している。そんな恥をかいて、よく生きてられるわね。自殺の理由としては十分過ぎる恥ね」

それはWに通じた。

それは失敗したときに生じる感情である。恥の大きさは、失敗前の興奮と失敗後の惨めさの差である。だから失敗前に成功していた人の恥による被害は甚大である。

それは強制力のない死刑宣告であった。その宣告を受けても、老衰か病死まで生き続けることも選択できる。しかし死刑宣告は死刑宣告である。Wは自身の罪を認めていた。それが死刑に値することも知っていた。だからWは、進んで死刑を受けなければならなかった。

WはFから自分の恥の大きさを聞かされて、ならば死んでやろうと思った。でも邪魔が入った。

 

141

 

Wには故郷に唯一の友人がいた。Mといった。Wが刑務所から自宅に戻ると、YからMの家に電話をするよう言われた。Mの妻が電話をしてきたそうである。

Mの妻は、Mが自殺したと知らせた。

Wは一人で故郷に戻り、Mの葬儀に出席した。

 

142

 

Mの死の第一報に接したとき、Wは「自殺を横取りされた」と思った。Mの自殺の後に死ぬことは、Mの真似になってしまう。死んでからも人真似だと笑われたのでは、たまらない。

 

143

 

Mは自殺の七日前、酔って猥褻事件を引き起こしたという。それが表沙汰になることを恐れ自殺をしたと、WはMの妻から聞いた。Mの遺書には、「無罪潔白を示すために強硬手段に出る」とあった。

自殺後、Mにかけられた容疑は不問となった。Wは「恥をかかぬための自殺は、その目的を達成した」と思った。

 

144

 

Mの妻は、生前夫からWが唯一の友人であると聞かされていた。それでWに遺書を見せた。その遺書は誰にも宛てられていなかった。ただ居間のテーブルの上にあったそうだ。Mの妻は「私とあなたに宛てたものだと理解しています」と言った。

 そこにはこうあった。

「俺は買ったロープを首に巻いてみた。巻く前の予想では、ロープの感触はもっと冷たくもっと刺々しいと思っていた。だが実際は、マフラーといってもいいぐらい、俺の体に馴染んだ。

これなら死ねると思った。自殺までの過程で最大の障害物である痛みも、これなら心配ない。

しかし、これでは死ねないとも思った。こんなに優しいロープは、到底生と死を分ける境界線になりえないと思った。

本当に困った。

でもこれを書き終えたらやっぱり死のう。無罪潔白を示すために強硬手段に出る必要がある。」

 これだけである。

Mの妻は、Mが信仰していた宗教に自分も入信したと伝えた。彼女は、「教えにはそれほど賛同できないのですが、Mと同じ墓に入るにはそれしかないから」と言った。

その宗教はWの父も入信していた新興宗教だった。この地方で勢力を伸ばしていた。WはMの妻に、「それであなたが幸せな気持ちになれるならいいんじゃないですか」と言った。

Wは父親とは会わなかった。中央に向かう列車の中で、故郷にはもう二度と戻らないだろうと思った。「父親が死んでも」と。

 

エピローグ

 

145

 

Wは四十歳になり、T新聞社において、前科者としては恵まれた給金で働いていた。Yとの婚姻関係は続き、子供はいなかった。Fはまだ投獄されていたが、もうFがWに手紙を書くことはなかった。Wは政党活動は付き合い程度に続けていた。だからWとfが会うことはあったが言葉を交わすことはなかった。WはたまにMのことを思い出してみるが、なんの感情も沸いてこなかった。

自殺はいかなWでも最良の手段に思える。しかしWが自殺するなら、その動機は恥であった。しかしその恥は公表されずに済んだ。

他人が知らぬ恥は恥ではない

しかし、自殺に値する重大な恥を黙殺できたからといって、それで開放されるWの精神ではなかった。Wの精神を締め付けるのは、それだけではない。Yも、Wを苦しめないわけにはいかなかった。

Wはいまだにそのときの気味悪さを思い出す。生活が落ち着いた四年前のことである。Yが、自分がWを好く理由について、Wに話したいと言った。Yはこう言った。「どうして私があなたを好きなのか、その理由を話したいので時間を取ってほしい」と。

Wは自宅の居間でYを迎えた。

「当初私は、中央での居場所がなかったのであなたのところに転がり込みました。でもすぐにあなたのことを好きになりました。学生時代より好きになりました。

それは、あなたの陰の濃さと私のそれが同じだったからです」

Yはこのように始め、次のように続けた。

 「あなたの体温と私のそれが同じだったからです。あなたが子供は欲しくないと言ったからです。あなたに家族がいなかったからです。あなたが『人間は孤独にならないといけない』と言ったからです。私はそれを、あなたは孤独になりたがっているが、なかなか孤独になれずに苦悶していると理解しました。孤独になる必要を感じながら、孤独になれない可哀想な人。可哀想な私は、可哀想な人を探していました。結婚した当時、あなたの可哀想さと私の可哀想さは同じくらいでした。さして興味のない政治にのめりこみ、Fと寝て、逮捕され、勾留され、牢屋から出てきてまた惨めな小説を書いて、あなたは私よりも可哀想な人になりました。強姦された私より可哀想。私はそういうあなたと一緒にいると心地よいのです。」

 Yの語りはしばらく続いた。それはYにしては長い語りであった。Yは、Wに自殺してほしくなくてこのような語りを始めた。Wは「自殺したら殺すぞ」と言われているように感じて、それが怖くて黙っていた。

 

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