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第1章


一五(いちご)は自分のことを「合理的な男だ」と思っていた。それは仕事の同僚にも言っていた「俺って、合理的すぎるだろ」と。一五には結婚間近まで近づいた女がいたが、その者と別れたときも「あいつは俺の合理性を理解しなかった」と、知り合いに言った。

一五は北海道根室市で生まれて育ち、一時期札幌にいたこともあったが、仕事で根室に戻ってきた。

根室を知らない者に根室を教えるとき、一五は3つの特徴を教えた。

1つ目は、惨めな街である、ということ。活気がない。人口が減り続けている。一五は「根室に残っている者はみんなカスだ」と腐した。カスとクズは、一五の人物評価の基準で、カスは使いものにならない人間、クズは悪い人間という意味であるらしい。

2つ目は、寒さ。冬になると横殴りの雪が降る。気温は氷点下10度を軽く下回る。

3つ目は、汚れた海の街である。根室の海は豊かな漁場になっていて、それはよいことだがそのせいで漁業関係者はカネにまみれている。そして根室の陸から海をみると、ロシアが実効支配している日本固有の領土がみえる。悪いロシア人たちにとって根室の海は、自由に悪いことができる日本への道だ。

「俺は根室で生まれて育ったから、海は汚れの象徴だった。だから東京に行って湘南をみたとき、人々が海岸で嬉々として大騒ぎしていて変な感じがした」一五は根室を知らない人に、根室の海をこのように説明した。


ただ一五は、このことくらいしか、自分や根室について話さなかった。ただそれで十分だった。「俺は合理的だ、根室は嫌な街だ」と言っておけば、それっぽく聞こえるので、なんとなくすべてさらけ出しているようにみえるからだ。

自分を他人にさらけ出さないと、他人から情報を得ることは難しい。しかし自分ことを教えすぎると危険が及ぶ。それで、実際はさらけ出していないのに、さらけ出しているようにみせるテクニックが必要だった。それが「俺は合理的だ、根室は嫌な街だ」と言うことだった。

自分のことについてリアルな感じを出すことができれば、こちらから明かす情報が少量でも、相手は自分を評価してくれる。相手に評価されれば、提供してもらえる情報量が増える。

一五は自分を情報屋と認じていた。


3年前、一五は職場の同僚の男を裏切った。一五は、指定暴力団皐月会根室支部の支部長、金子から、ある男の身柄を差し出せといわれた。ある男が、職場の同僚の男である。

一五は金子に、ある男が何をしたのか、と尋ねた。

金子は、ある男が皐月会のカネを盗んだと答えた。

一五は、いくら盗まれたのか、と聞いた。

金子は、ある男を殺すには十分な額だ、と答えた。

一五は、カネは戻ってきたのか、と質問した。

金子は、答えない、といった。

一五は、自分がある男を金子に差し出したときに得られる報酬を尋ねた。

金子は、ヤクザに貸しをつくること以上の報酬があるか、と答えた。

一五は、ある男を酒と薬で意識を失わせて、自分の車のトランクに入れて皐月会根室支部事務所に行った。

一五はそこで金子に、ある男の意識をこのまま戻さず殺すなら引き渡すといった。

金子は、そうする、といった。

一五はある男をトランクから出して、事務所の出入り口の扉の前に置いて去った。

金子は組員に、寝転がっているある男を事務所のなかに入れて、地下室に連れていくよう指示した。金子は地下室で組員に、ある男の耳を切り落とすよう指示した。組員はそれに従った。それである男の意識が戻った。

金子は、札幌にいる皐月会会長、道元から、ある男の手と足の指計20本を札幌の皐月会本部に冷凍便で送るよう指示されていた。それで金子は組員に、ある男から20本の指を切り離して並べるよう指示した。幸いにも右手の親指と人差し指と中指が切り離された時点で、ある男は意識を失うことができた。

20本の指はビニール袋に入れられて、さらに小さな木の箱のなかに入れられた。金子は組員に、ある男を殺せといって、自分の拳銃を渡した。組員は金子の拳銃の弾を、ある男のこめかみに一発、心臓に一発打ち込んだ。

金子は組員に、組員をあと2人、この地下室に連れてくるよう指示した。金子は3人の組員のうちの1人に、木の箱を梱包したうえで冷凍便で本部に送るよう指示した。残りの2人には、ある男の遺体を20分割にして、20個のピースを20枚のビニールに入れて、その20個を漁師のBに渡すよう指示した。Bは金子のかつての部下で、その後堅気になって漁師になっていた。Bは金子から、死体を漁船に載せてロシア主張領海のギリギリまで行って海底に沈める仕事を請け負っていた。金子はさらに、冷凍便の手配を指示した組員に、ある男の20個のピースが地下室から出たら、床をなめれるくらい綺麗にしておくよう指示した。

一五は次の日以降何も知らないふりをして、職場の同僚とともにある男の捜索に参加した。それから3年が経ったが、ある男は「今」までみつかっていない。


第2章


根室は「今」、ある年の5月のある日の午前6時20分だった。外務省北海道警備根室本部、通称マル警の警備一課長、一五重雄(いちご・しげお、51歳)は、10分前に自宅の賃貸マンションを出て、徒歩で指定暴力団皐月会根室支部の事務所に向かっている。5月の根室はまだ十分冬で、一五は早歩きをすれば体が温まると思っているので速足だった。

一五がこの日のこの時間にヤクザの組事務所に向かっているのは、普段は皐月会の本部がある札幌にいる、その会長、道元(どうげん、72歳)が根室支部を訪れるという情報を入手したからである。密猟の花咲ガニ漁の様子をみにくる、ということらしかった。

札幌と根室は400kmも離れていて、ミュンヘンとウィーンよりは遠いが、ワルシャワとベルリンよりは近い。だから道元が根室支部に来ることは滅多になく、一五にはそうそう巡ってこない好機であった。


一五に道元の根室入りを教えたのは、皐月会根室支部の支部長、金子であった。

一五は5日前に、皐月会根室支部の組員、竹野を、根室港で捕まえた。案の定シャブを所持していた。一五は竹野に、逮捕しない代わりに有益情報を3回提供しろと持ち掛けた。

竹野は、支部長に聞かないとわからないと答えた。

それで一五は竹野の首根っこをつかんで皐月会根室支部に行き、支部長の金子に会った。金子は、有益情報を3回提供する条件を飲んだ。道元がこの日に根室入りする情報は3回のうちの1回目というわけである。


午前6時35分、一五は3階建ての古いビルの皐月会根室支部事務所に到着した。なかに入ると、事前の約束とおり竹野が「マル警がなんだあ」と怒鳴った。マル警は、一五が属する外務省北海道警備根室本部の俗称である。

一五も約束とおり「うるせえな」と言って、竹野の頬をビンタしてから、大声で「金子はいるか」と言った。金子も約束とおり2階から降りてきて、「なんですか、こんな時間に」と小芝居をうつ。

皐月会根室支部の組員はこの2人の他に4人いたが、一五と竹野と金子の小芝居を見抜ける者はいなかった。

「金子、今日、道元が来るんだろ」

「会長が? 根室に?」金子はとぼける。

「とぼけるな。こっちは道元が現れるまでここに居てもいいんだぞ。でも迷惑だろ。俺もこんな汚いトコにいたくないし。道元が来る時間をいえば、今は帰ってやる」

「会長になんの用か」

「用件は道元に直接いう。いいから時間をいえ」

「会長が俺に、到着時間をいうわけがないだろう。到着する20分前に『20分後に到着する』っていう電話が入るだけだ」

「じゃあ、その電話が入ったら俺に電話をしろ」

「来たからといって、会長が会うかどうかわからねえからな。とにかく帰れ」

「誰が電話をしてくれるんだ。お前か」

「俺がするか、竹野にでも電話をさせる」

「よし」と言って、一五は竹野の目の前まで近づき、右手で竹野の左の耳を引っ張って「道元から『20分後に到着する』って電話が入ったら、10秒以内に俺に電話をするんだぞ」と言った。

竹野は自分の手で一五の右手を払いながら、「うるせえ」と言った。


一五は皐月会根室支部のビルを出て、15分ほど歩いてセイコーマート平内店に入り、カップのホットコーヒーと北海道新聞を買ってイートインスペースに陣取った。コーヒーを一口飲んで新聞紙をめくった。そして「相変わらず読むところがねえな」と小声で独り言をしてから、またカップを取った。すると指が黒くなっていた。新聞のインクが付着したのである。一五を舌打ちして席を立ち、トイレに行った。


個室に入り、ジャケットをめくってホルダーからオートマチックの拳銃を取り出した。そして、ダーティ・ハリーに憧れている俺は、本当はリボルバーが好きなんだけどな、と思った。

一五が今日、好きではないオートマチックの拳銃を用意したのは、道元を射殺したあと、銃撃戦になる可能性があったからである。

拳銃をホルダーに戻してトイレを出た一五は、イートインスペースの席に戻り、新聞をゴミ箱に捨てて、あんパンと牛乳の小パックを買い足した。そしてまたイートインスペースの席に座り、あんパンの包装を破いてから、牛乳パックを開けて中身をコーヒーのカップに注いだ。


それから2時間が経った。コンビニの若いバイトが、店長に「あの客」と言っているのが一五に聞こえた。店長は小声で「いいから気にするな」とだけ言った。

店長でオーナーの八女村壮一(やめむら・そういち、51歳)は、一五の中学時代の同級生であった。だから八女村は、一五が北海道警備根室本部の警備一課長であることを知っているし、関わらないほうがよいことも知っていた。

一五はそのうち、両手で頬杖をつきながら眠ってしまった。眼鏡はつけたままだった。


目覚めたのは午前9時13分で、スマホが鳴った。一五が出ると、竹野は「20分後」とだけ言って電話を切った。一五は眼鏡を外し、両の手の平で顔全体を13回こすってから立ち上がった。そして眼鏡をつけてコンビニを出た。


一五は午前9時27分に皐月会根室支部事務所が見える場所に到着した。3人の組員がビルの入口付近に立っている。そのうちの1人は竹野だった。竹野は一五を確認したが、すぐに視線を反らした。他の2人は一五に気づいていない。

午後9時30分ちょうど、一五の視界に、黒いレクサスLSと白いトヨタ・ランドクルーザーが入ってきた。事務所前の3人の組員もそれを確認し、竹野でない1人がビルのなかに入っていった。すぐに金子が、3人の組員を連れて現れた。

レクサスLSとランクルが事務所の前で停まったときには、根室支部の6人全員が出迎えていた。

ランクルから4人が降り、レクサスLSから2人が降りてきた。レクサスLSのなかにいるであろう道元はまだ降りてこない。ランクルの4人のうちの1人がレクサスLSの左うしろのドアを開けたタイミングを見計らって、一五は走りだした。右手に拳銃を握りながら。


一五は、レクサスLSから左足を地面に降ろしたばかりの道元の心臓に1発、眉間付近に2発、弾を撃ち込んだ。レクサスLSのドアを開けた者が崩れ落ちようとする道元を支えた。

道元と、それを支える札幌本部の組員はもちろんのこと、その他の11人もすぐには反応できなかった。しかしその6秒あとに、組員の1人が反応した。その者は拳銃を出した。

一五は拳銃を持った者に自分の拳銃を向けて「おら、撃てよ」と言った。拳銃を持った者は一五に向かって発砲し、弾は一五の右肩に入り、そして抜けた。一五は自分の拳銃を落としてしまった。そして一五はその場から駆け出した。

銃声はそれ以上鳴らなかった。それは金子が「あいつはマル警だ。いつでも捕まえる。それより会長を病院に連れて行くぞ」と言ったからである。一五にもそれが聞こえた。


一五は金子に、道元を射殺すると言っていなかった。だから一五は、なぜ金子が自分を助けたのかわからなかった。一五は走りながら、金子に借りをつくってしまった、と思った。そんなことを考えているうちに、先ほどのセイコーマートに着いた。

一五が店内に入ると、レジ前にいた中年の女が、一五の夥しい流血を見て「うわわわ」と言った。一五は「八女村」と怒鳴った。八女村はレジの奥の部屋から出てきた。一五は「八女村、お前は救急車を呼んでくれ」と言った。八女村は電話をかけるために奥の部屋に戻っていった。


一五は左手で、ジャケットの左の裏ポケットからスマホを取り出そうとしたが、うまくいかない。それでレジ前に行って体を奥に押し出して「おいバイト、ここからスマホを取ってくれ」と言った。

バイトは迷惑そうに自分の右手を一五のジャケットの裏に突っ込み、スマホをつかんで引き出して一五に渡した。

一五はイートインスペースに陣取り、外務省北海道警備根室本部警備一課に電話をした。

電話に出た部下の高桑浩二(たかくわ・こうじ、31歳)に、一五は早口で、次のような指示を出した。

「道元を殺った。死亡は確認していないが、死んでいるはずだ」

死という刺激的な言葉に、先ほど「うわわわ」と言った中年の女はまた「うわわわ」と言った。一五は「うるせえ」と言ってから、高桑への指示を続けた。一五は興奮していた。そしてその興奮が、肩から流れる血を多くしているように感じられた。

「道元の遺体は組員が市立病院に運んでいると思われる。本隊を2つにわけて、皐月会と市立病院に送れ。マル警だけじゃ足りないから、道警にも応援要請を。

相手は、死んだ道元を除いて計12人。内訳は、根室支部が金子を含む6人、札幌本部が6人。いいか、札幌本部の6人は、死んだ道元を含んでいないからな。

多くは拳銃を携行している模様。俺が確認したのは1人が持つ1丁のみだが。

よし、まずはここまでのことを指示しろ。電話は切るな」

電話の向こうの高桑は、一五の指示をそのまま事務所にいる連中に伝えている。

「一五さん、道警への応援要請を含めて指示を終えました。次は」

「よし。お前はセイコーマート平内店に来てくれ。今俺がいるところだ。肩を撃たれた。救急車は呼んだ。俺はそれに乗って北見に行く。北見に行く理由はあとで話すから、今すぐ出ろ。車に乗ったら、かけ直せ。切るぞ」

北海道北見市は、根室から200km離れていて、その距離は北京市から天津市くらいである。5分後、一五のスマホが鳴った。高桑からである。

「一五さん、今そっちに向かっています、運転中です」

「お前1人か」

「まずかったすか」

「いや、それでいい。救急車は到着していて、今、応急処置を受けている。お前が到着したら、北見の病院に行く」

「市立病院だと、連中がいるからですよね。でも中標津ぐらいでよくないですか」

北海道中標津町なら、根室から80kmの距離にあるので2時間かからない。

「俺もそう思ったが、安全マージンを大きく取りたいから北見に行く」

「わかりました。俺は」

「お前はその車で、救急車のあとをついてこい」

「一緒に北見まで行けばいいわけですね。部長にはなんと」

「まだ報告していないのか」

「はい。部長には、『一五さんから、本隊を組事務所と市立病院に送れと指示されたので、そのとおり手配した、道警にも応援要請した』と伝えただけです」

「とりあえずそれでいい」

「じゃあ電話切ります」

「おう」

一五はイートインスペースで救急隊員の治療を受けている。店内には店長の八女村とバイトと客が2人いて、無言で治療の様子を見ている。

救急隊員の1人が無線で一五の搬送先を探している。一五はその者に「無線はヤクザに傍受されるから使うな」と指示した。救急隊員は「出動中で自前の携帯を使うことは禁じられているんでね」と不服そうに言った。一五は「じゃあ店の電話を使え」と返した。そして八女村に「八女村、救急隊に電話を貸してやってくれ」と言った。

しばらくして救急隊員が一五の前に現れて、「本当に北見でいいんですよね。3時間はかかりますよ」と言った。一五は、3時間くらいなら止血をして痛み止めを飲めばもつ、と答えた。


一五は3時間後に、北海道立北見病院の外科病棟の個室のベッドの上に寝ることができた。そばには部下の高桑がいる。

それから1時間経ったころに、外務省北海道警備根室本部の警備部長、加納滋(かのう・しげる、59歳)が一五の病室に入ってきた。

加納は病室に入るなり、一五と打ち合わせをしていた高桑をにらんで、「お前出ろ」と命じた。

すると一五は、「いいんです。こいつにはあと片づけをさせるので。あとから説明するは面倒なので、聞かせます」

加納は、にらんだ顔をしたまま一五の視線に合わせた。一五には、加納のにらみが「『グループ』のことを高桑に話しているのか」といっていることがわかったから、「高桑には話しています」と言った。

「グループ」とは、マル警の職員たちでつくる汚職グループである。

加納はにらんだ顔をしたまま「なぜ話した」と言った。

一五は「あと片づけをさせるためです」と返した。

「あと片づけはお前の仕事だろうが」

「部長が荒らしたあとのあと片づけは私がやります。私が荒らしたあとのあと片づけは、高桑がやります」

「『グループ』に入れるなら、俺の許可が必要だろうが。なぜお前の独断で決めた」

「部長が許可することがわかっていたからですね」

加納は黙って一五の顔をみて、そして、久しぶりに高桑をみてこう言った。「お前出ろ」

高桑が病室を出たのを確認してから加納は、「よくやったな。お疲れさん」と言った。

「道元の死は」

「市立病院の医者が確認した」

「『グループ』の長には」

「ああ、俺から報告した。一五がやったと報告した」

「ありがとうございます」

「それで」加納は話しを変えた。「高桑にはどこまで話したんだ」と、一五がどの程度「グループ」について高桑に説明したのか尋ねた。

「一応全部」

「お前なあ。それは『グループ』への裏切り行為だぞ。だから俺はお前を殺してもいいんだぞ。ちょうど変な事件を起こしてくれたしな」

加納は、道元殺害事件の捜索のどさくさのなかで犯人の一五を殺しても、もみ消すことは十分可能であると踏んだ。

「道元は本当に死んだんですよね」

「死んだ」

「じゃあ懸賞金が私に入ります。その一部を部長にあげますので、俺を殺さないでください。それと『グループ』の長に、高桑の入会の許可をもらってください」

一五は「グループ」の長が誰なのか知らなかった。そして、加納が「グループ」の長を知っているかどうかも知らなかったが、一応そのようにいってみた。

「お前から指示されるのは気に食わんな」

「でも部長も、道元殺しに貢献したことにして欲しいでしょ。なら、高桑を『グループ』に入れるしかない」

加納は、さっきより強く一五をにらんで「気に食わんな」と言った。


外務省の地域限定組織である北海道警備根室本部は、通称マル警という。

マル警と北海道警察(道警)は共同で、道元に1,000万円の懸賞金をかけていた。当初は、懸賞金を得ることができるのは民間人だけだったが、なかなか道元の身柄を確保できなかったので、マル警と道警は方針を変え、それぞれの職員が道元の身柄を拘束したときも懸賞金が出るようにした。

道元の身柄確保は、生死を問わないことになっていた。

だから一五が道元を殺害すれば、それはマル警の手柄になる。それで一五は加納に、道元殺害プロジェクトに加納も最初から加わっていたことにしてやる代わりに、あと処理に協力して欲しいと願い出ているのである。


一五は「高桑を呼んでください」と加納に頼んだ。

加納は人から指示されることが大嫌いだった。特に年下の者や自分が下にみている者からの指示は。それでまた「気に食わんな」と言いながら、病室のドアを開けて「高桑、入れ」と言った。

一五は加納と高桑に、一五が正当防衛で道元を殺した、というストーリーにすることを提案した。一五はその詳細を2人に聞かせた。

加納はその内容を確認する目的で高桑に、「おい、一五の今の説明を繰り返してみろ」と命じた。

高桑は話し始めた。

「一五さんは、道元の車から50メートル離れた場所にいた。一五さんは、道元が車から降りてきたのを確認してから――」

加納が「道元が乗っていた車は」と高桑に質問した。

高桑は「レクサスです」と答えた。

「車種は」

「LSです」

「色は」

「黒です」

「聞かれないでも、そう話せ」

「はい、申し訳ありません」そう詫びてから、高桑は話を続けた。

「一五さんは--」

「さんは取れ」

「申し訳ありません、ではあらためて。

一五はオートマチックの拳銃を右手に持って駆け寄り、道元の右腕を取った。このときはまだ発砲せず。しかし組員の1人が拳銃を抜いた。拳銃の種類は不明。一五はそれをみて、自分の拳銃の銃口を道元のこめかみに当てて『動けば道元を撃つ』と言った。

組員はそれを無視して、一五に向けて発砲、一五は右肩を負傷。そのはずみで、一五の右手の指が拳銃のトリガーに触れてしまい、発砲。道元の頭に命中。

その後一五は、右手では自分の拳銃を保持できなくなり、拳銃を落としてしまう。それで現場から離脱」

加納は「一五、これでいいんだな」と言った。

一五は「ただ、私は計3発撃っています。最初に心臓に1発、次に眉間に2発」と答えた。

「それじゃあ、話が合わないじゃないか」

「ですので組の者が、私が立ち去ったあと、私が落とした拳銃を使って、道元の心臓と眉間を撃った――とすることになりますね」

「お前は、『自分は1発撃っただけで残りの2発は知らん』で通すんだな」

「そうです」

「そうなると、その場にいた皐月会の全員が、道元殺しに加担したことになるぞ。皐月会は何人いたんだ」

「道元を入れて13人です。内訳は、札幌本部が道元を含めて7人、根室支部が金子を含めて6人です」

「そうなると、お前が道元を撃って逃走したあと、残りの12人が相談して『いい機会だから道元を確実に殺しちまおう』と決めたことになるぞ。それは不自然だ。

本当に道元を殺したい奴がいたとしても、道元が倒れている状況で、まだ死んでいるかどうかもわからない状況で、全員が『道元を殺しちまおう』で一致するか。しないだろ」

「一致させる必要はないのでは」高桑が口を挟んだ。

加納は「お前は黙ってろ」と高桑に言った。

一五は高桑に「なぜ一致させる必要はないんだ」と尋ねた。

「組員の1人をマル警の犬だったことにして、そいつが懸賞金欲しさに道元にとどめを刺した、でいいんじゃないですか」

一五は「それでいいですよね、部長」と加納に尋ねた。加納は舌打ちをした。

一五は加納に「12人は全員拘束できたんですか」と尋ねた。

加納は「道警が拘束した。うちが捕まえた者も、道警に引き渡している。取り調べはマル警がすることになっている。で、12人のなかで誰をマル警の犬にするんだ」と言った。

一五は間髪入れずに「竹野にします」と答えた。

「根室支部の者か。俺は知らん」

「根室支部の若い衆の1人です。金子を慕っていますが、頭が悪いからミスばかりしています」

「馬鹿ならいいが。そいつに道元を殺す動機はあるのか」

「組を抜けたがっていました」

「だから竹野はマル警に丸め込まれて、道元を撃ったと。わかった。それで俺の取り分はどうなる。それを決めたら俺は根室に戻る」

「懸賞金の1割では」

「少ないな」

「1.3では」

「130万か。ケチだな」

「あと片づけにはカネがかかりますんで」

「あと片づけはこいつがするんだろ」

「高桑には懸賞金のカネは渡しません。給料分の仕事をしているだけですから。でも、他の奴にもあと片づけをさせるんで、カネが要るんです」

高桑は何も言わなかった。高桑は表情も変えなかった。それで加納は、高桑が無報酬に不満を持っているのかどうか計りかねた。

それで加納と高桑は、一五の病室を出て病院を出た。

駐車場に行く途中で、加納は高桑に「『グループ』のことが漏れたら、お前が漏らしたかどうかに関係なく、お前を殺すからな」と言った。高桑は何も言わなかった。そして2人は、それぞれ自分が運転してきた車で根室に帰っていった。


第3章


高桑は馬鹿だと、一五は思っていた。

高桑は青森県のリンゴ農家の家の出で、小さいころから「こんな貧乏くさい家は嫌だ」と思っていた。それで農家を継がなくてよい方法を考えて、北海道函館市にある偏差値が高い私立高校に進んだ。

進学に必要なカネは、高桑自身が用意した。

高桑が中学3年生のとき、父親に函館の高校に進学したいといったら、父親は私立高に入れるカネはないといった。

そういうだろうと思っていた高桑は、父親に「じゃあ、俺が返済する形で学資ローンを組んでくれ」と要求した。父親は中学3年生の息子が学資ローンを知っていることに驚いたがそれは隠して、近所の信用金庫で学資ローンを組んだ。

高桑は高校が用意した寮に入った。


高桑は田舎者だったから、最初は進学高の授業についていけなかった。しかしリンゴの木の栽培を手伝っていたから、状況が悪いときでもペースを緩めず作業をすることに慣れていたし、そして、そうしていれば必ず好転することも知っていた。それで高校1年の最後の定期試験で学年1位を獲得した。

ところが、その実績と、複数の教師から現役で東大に合格できるといわれたことで安心してしまい、それまで抑圧されていた性欲が爆発した。


同級生の最も地味で最もモテない女にしつこくアプローチをして、ラブホテルに誘い込むことに成功して初めて性交をした。女もそれが初めてだった。そして高桑同様に女もそれでセックスに開眼した。ただ高校生の2人には十分なカネがなかったから、性交をする場所は専ら、人がいなくなった公園のトイレだった。

高桑と女は3日に1回は会って性交していたが、高桑はそれでも足りなかった。女は母子家庭で、母1人子1人だった。それで高桑は、女に、母親を紹介して欲しいと頼み、3人でファミレスで食事をした。高桑はそこで母親に気に入られそうな話をした。

父親は身長190cm、体重110kgの熊みたいな男で、独裁国家の元首みたいな思想を持ち、その熊元首から支配されていた自分はリンゴ農家で強制労働をさせられていた、と。

そのような生活が嫌で中学生のときに脱走を図ったが、みつかってそのたびに父親から腕や肋骨を折られた、と。

高桑が最後に「地獄から抜け出すには勉強しかなかったんです」と言うと、高桑の女もその母親も泣いた。


後日、高桑が、女がいないときに女の家に行くと、そこは函館市内の市営団地で、母親がいてそれと性交をした。母親は高桑に、娘ともしているのかと尋ねた。高桑は、もちろんしていると答えた。

「私たちのことを娘にいわないでね」と母親は言った。

「いわないから、もっとセックスを教えて欲しい」と高桑は答えた。

セックス漬けになった高桑の高校での成績は落ち切った。それでも地頭がよかったから、3年の夏から猛勉強を初めて、北海道小樽市にある小樽商科大学に入った。このときも学資ローンを借りた。


大学を卒業した高桑は北海道庁に入庁し、しばらくして外務省が北海道警備根室本部の職員を募集していたことからそれに応募して合格して転職した。

外務省に入省した高桑は、東京・霞が関の外務省本省で1年間、新人研修を受けたあと、根室に配属され、一五の部下になった。


一五はそれまでしばらく1人で行動していた。一五の上司の加納は、一五だけ1人で動かすわけにいかないから、パートナーを一五につけたが、一五はそのたびにパートナーに意地悪をしてその者たちのメンタルを壊していった。

加納が一五に「どういう人間なら受け入れるのか」と尋ねたところ、一五が「馬鹿ならよい」と答えたので、加納は、入ってきたばかりの高桑を一五に預けたのである。


一五はすぐに、高桑の性欲の強さを見抜いた。それで一五は、皐月会根室支部支部長の金子に売春婦を斡旋するよう頼んだ。一五はその売春婦を高桑にあてがった。一五は高桑に「俺の指示は厳しいが、従順に従っていればこういうよいことが定期的に巡ってくる」と言った。

高桑は「へへへ」と笑った。


一五と高桑のペアが結成されてから1年が経過したとき、一五は高桑に、借金を減らしてやると持ちかけた。高桑は私立高校の学費と高校時代の生活費と国立大学の学費と大学時代の生活費をほとんどすべて学資ローンで賄ったから、それはまだ500万円以上残っていて、高桑は一五にそのことをたびたび愚痴っていた。

一五は高桑を根室信用金庫の本店に連れていき、理事長、本田智之(ほんだ・ともゆき、67歳)に会わせた。理事長は一五をみて「お久しぶりです」と言って、頭を深々と下げた。

一五は理事長に、高桑の学資ローンの借り換えを依頼した。つまり、根室信用金庫が高桑に、学資ローンの残高と同じ額のカネを超低利率で貸し、高桑はそのカネで学資ローンを完済する。高桑は根室信用金庫に返済を続けるが、利率が下がっているので返済総額は減る。

理事長は笑顔を絶やさず「当庫で最も低い利率を適用しましょう。この面談のあと支店長に指示しておきますので、明日にでも支店に行ってください」と言った。

一五はさらに「借金の額も減らしてくれないか」と言った。

理事長は「現残高が500万円くらいとおっしゃいましたよね、どうでしょう、200万円までなら圧縮できますが」とすぐに答えた。

一五は高桑に「お前の借金を500万円から200万円に減らして、その200万円もほとんど無利子にしてくれるとさ、それでいいか」と聞いた。

高桑は一五と理事長に「そんなことができるんですか」と言った。

理事長は「一五さんの依頼ですからね。でも高桑さん、他言無用でお願いしますよ」と言った。

高桑は「なぜそんな優遇を出せるんですか」と、やはり一五と理事長の両方に尋ねた。

一五は理事長に向かって「どうぞ説明してやってください」と言った。本田に、これまでの経緯を話せというのである。

本田は笑顔のまま、次のように話した。


「私の娘が中学生のときレイプされました。子宮が壊されて、子供が産めない体になりました。

犯行がわかってから数時間しか経っていないのに、警察より先に、一五さんがうちに来ました。私と妻は、警察にどうやって通報したらよいのか悩んでいるところでした。

一五さんはうちの呼び鈴を鳴らして、インターフォン越しに、事件の捜査をしている者だから家のなかに入れろといいます。しかし警察ではないといいます。私は、娘がそういうことになっているわけですし、しかも誰だか知らない人なので帰ってくれと怒鳴りました。

それまで私は一五さんをまったく知りませんでした。

すると一五さんは、警察を呼ぶな、自分1人で犯人を捕まえて、私たちに差し出すといいました。差し出すときに犯人を半殺し状態にしておくから自由に殺していい、といいました。

それで私は一五さんを家のなかに入れて、話を聞くことにしました。妻も同席しました。娘は自分の部屋にいました。

一五さんは、レイプ事件があったことを、地元のヤクザから聞いたといいました。そして、娘を診察してくれるクリニックを、札幌で手配してくれるといってくれました。根室や釧路の病院には連れて行きづらいだろうから、と。

私たち夫婦もそこを懸念していました。一五さんは私たちの目の前で、携帯で札幌のクリニックを予約してくれました。


私は一五さんに、なんでそこまでしてくれるのかと尋ねました。報酬はいくらか、と尋ねました。一五さんは、今はカネは要らないが、いつか必要になるから、そのときくれればよいといいました。私たち夫婦はそれで全然かまわないといいました。


それで一五さんは、札幌のクリニックの名前と電話番号を書いたメモを私に教えて、帰っていきました。翌日の朝一番の列車で、妻が娘を連れて札幌に行きました。しばらく札幌のホテルに滞在することになりました。そのほうが、私1人で動きやすかったのもあります。


1週間後に一五さんに呼ばれて、根室港のある倉庫に行きました。私1人で行きました。

倉庫のなかに一五さんが立っていて、その足元に人が寝転がっていました。男です。一五さんは、そいつが犯人だといいました。一五さんにいためつけられていたので、うめいています。

私は一五さんに、その男と話してよいか尋ねました。一五さんがよいというので、その男に、お前が娘をレイプしたのかと尋ねました。男はうめくように、そうだと答えました。

一五さんは私に包丁を渡して、好きなだけ刺してよいといいました。私はその包丁を受け取って、男の腹を一突きしました。ゆっくりとこう、じわじわと刃を押し込んでいきました。男はうめきましたが、すでに一五さんから相当痛めつけられていたので、私の包丁の一刺しを、それほど大きなダメージに感じていない様子でした。


一五さんは、目をくりぬいたり、耳や鼻を削ぎ落してもよいといいましたが、それはできませんでした。さすがにそこまで残忍になれませんでした。ただ後悔したくなかったので、私は一五さんに、娘の分と妻の分としてあと2回、男の腹を刺していいかと聞きました。一五さんは笑って、いいよといいました。私は2回刺して、包丁を男の体から離しました。

私の体が止まると一五さんは、それでいいのかといいました。私はお礼をいって、包丁を一五さんに返そうとしました。一五さんは笑って、そんなベトベトの包丁は要らないといいました。私も、そうですねと笑っていって、包丁を地面に放りました。

私と一五さんで、男の息が止まるのを待ちました。

一五さんは、これからその男を、根室ミートの工場で処理するといいました。根室ミートは食肉加工場を持っています。そして根室ミートの社長は私の高校時代の友人でした。親友です。


一五さんは、私と根室ミートの社長の関係を突き止めて、男の処理を事前に依頼していたのです。一五さんは私に、もう帰っていいといいました。それで私は帰宅しました。

ですので、これから話すことは、後日一五さんから聞いたものです。


一五さんはそのあと、犯人の男を切り刻み、それをビニール袋に入れて根室ミートの社長に渡したそうです。80kgのビニール袋を受け取った根室ミートの社長は、夜中、自分の食肉加工場に忍び込み、機械を動かして犯人をミンチにしました。根室ミートの社長は元は食肉職人だったので、証拠を残さず処理したといいます」


「その後理事長は、根室ミートの社長と会ったんですか」と高桑が尋ねた。

「会いましたよ。でもお互いに知らん顔です。根室ミートの社長も、一五さんに借りがあったんじゃないですかね」

本田が一五のほうを向くと、一五は「ふふ」と笑った。

「一五さんは今日まで、報酬を要求しませんでした。死体処理の報告をしてもらって以来、会ってもいません。だから今日は、久しぶりの面会になります。

だから、あなたの借金を減らせば、一五さんにお礼ができると思っています。もちろん、たかだか300万ぽっちでお礼ができると思っていません。

ですので一五さん、また何か困ったことがありましたら、遠慮なく指示してください。私も、妻も、娘も、どんな難題にも応えますから」

一五は何も答えなかった。代わりに高桑が「娘さんは今どうしているんですか」と尋ねた。

「事件後に札幌に行って、しばらくそこに住んで、そこからシンガポールに行きました。今もそこにいます。私がシンガポールにマンションを買って、そこに住まわせています。

妻も今はシンガポールにいます。私もあと数年で引退なので、そっちに行くつもりです」

「信金の理事長でシンガポールのマンションが買えるんですか」

今度は本田が「ふふ」と笑った。


高桑は、本来は馬鹿な男ではないが、一五の前では馬鹿だった。馬鹿だから、一五から女をあてがわれ、借金も減らしてもらった。


高桑は今、根室市内の居酒屋で一五と飲んでいる。

「一五さんはなぜ残酷になることができるんですか」

「高桑、残酷な人間なんてのはいないんだよ。サイコパスって言葉が流行っているが、そういうくくりは正しくない。残酷な人間とかサイコパスでくくると、ピアノがうまい人や足が速い人みたいになって、特別な人っぽくみえちゃうだろ。でも残酷な行為を取れる人間は特別じゃない。

サイコパスって呼ばれる奴らと普通の人間の差は、ほんのわずかだ。その差は、人を傷めつけるときに躊躇するか、躊躇しないかだ。バンジージャンプですぐに飛べる奴と、びくびくしながら時間をかけて飛び込む奴の差でしかない」

この日の一五は饒舌だった。

「躊躇とは、行動に移すまでの間だ。だから、人を傷つけようと思って、人を傷つけるまでの時間の長さが人によって異なるだけだ。

サイコパスと呼ばれる人間は、この時間がすごく短い。『殺そう』『殺した』、こんな感じだ。

普通の殺人犯は、『殺そう』『殺そう』『殺そうかな』『殺した』こんな感じだ。


ヤクザは常に、躊躇しないようにする訓練を受けている。人っていうのは本能的に人を殺すことを嫌がるからだ。牛肉は好きだが、牛を殺すことは嫌いだろ。人は賢いから、人や牛を殺しちゃいけないものって認識しているんだよ。

でもそれじゃあ、ヤクザは食っていけない。だからヤクザの先輩は、ヤクザの後輩が馬鹿な言動をしたら、瞬時に殴るようにしている。

『馬鹿な言動をみる』『殴る』これがヤクザの仕来たりだ。

でも俺たち公務員は『馬鹿な言動をみる』『様子をみる』『また馬鹿な言動をみる』『注意するが直らない』『でも殴らない』って感じで行動するだろ。だから俺たちはいつもヤクザにかなわない。

お前も、躊躇しない訓練をしろ。『なんだこいつ』と思ったら、拳をそいつの顔に入れているぐらいになれ。『なんだこいつ』『殴る』だ。『なんだこいつ』『殴っていいよね』『俺、殴っていいよね』『殴る』じゃ遅い。

殴ることに躊躇していると、殴られる。拳銃の戦いで躊躇していると、撃たれる。つまり躊躇は死を意味する」


高桑は、根室信用金庫の理事長、本田智之と面談したあと、本田の娘のレイプ事件について調べた。殺されてミンチになった犯人の男は、本田の娘の事件前、北海道警察根室署に身柄を確保されていて。その身柄確保には、一五が貢献していた。しかし根室署は、証拠不十分として逮捕しなかった。

高桑は、それで一五が、犯人に本田の娘を襲わせて、本田に犯人を殺させたのではないか、と想像した。

高桑は一五に時間をつくってもらってこの説を披露した。一五は「そうだ」と言った。

「なぜそんなことをしたんですか」

「あの男を苦しめて死なすためだ」

「犯人のことではなく、本田とその娘を苦しめたことですよ。一五さんが犯人を殺して、海に捨てて花咲ガニの餌にすれば済む話じゃないですか」

「カネ持ちにもしっかり自分の手を汚す形で、平和の維持に協力してもらわなければならないからだ」

「じゃあ1万歩譲って、一五さんがカネ持ちの本田を罰するのは仕方がないとしましょう。でも娘まで犠牲にする必要はないでしょう。娘さんは子宮が壊されたんですよね。そのトラウマは一生消えないでしょう」

「父親にレイプされる女の子の大半は、貧乏の家の子だ。だからたまにカネ持ちから娘の被害者が出ても、俺はなんとも思わん。

それに本田の娘は事件後に、札幌のクリニックで手当てを受けて、そのあとシンガポールのマンションに脱出できた。

貧乏人の娘がレイプされても、そんな豪華な逃げ場所は用意されていない。何回も何回もレイプされ続ける。そして堕ちて風俗嬢になったり、シャブ漬けになったりする」

「一五さんに本田と娘を罰する権利があるんですか」

「ある。俺は結婚もしないし子供も持たない。これは俺が自分に与えた罰だ。家族を持たない味気のない人生を送る罰と、DNAを残さない無意味な人生を送る罰だ。

自分に2つも罰を与えてから正義の行動に出る奴なんて、そうそういない。


俺は人をいためつけたり人を殺したりすることを楽しんでいる。そういう楽しみを体験したい。悪人になって善人をいためつけてもその楽しみを体験できるが、それは正義に反する。だから俺は公務員になって、正義のポジションで悪人をいためつけて楽しんでいる。


俺は用意周到だ。もし俺が妻と子供を持っていたら、俺が悪い奴らを懲らしめたら、悪い奴らは俺の妻と子供を襲う。俺はそういう弱みを持たないようにしている。ここまで準備して正義のゴミ掃除をしている人間を、俺はまだみたことがない」

「だから一五さんは偉いと。一五さんだから、本田の娘を子供が産めない体にしてもよいと」

「そういうことだ」

「一五さんは神なんですかね」

「そういう馬鹿な質問をするのは、神を知らないからだ。正義を貫くことは、神の仕事じゃない。

正義を貫くっていうのは、つまるところゴミ掃除だ。正義は残念ながら、正義単体では存在しえない。正義は、悪を駆逐して初めて正義になる。悪が正義をつくっているんだ。

裁判官と検察官をみろ。司法試験に合格したうえに国家公務員の試験に合格したエリートなのに、毎日悪人と会わなきゃならない。それは、神がゴミ掃除をしないからだ。ゴミ掃除は簡単な仕事じゃない。だから社会はその厄介な仕事を、飛び切り優秀なエリートに任せるんだ。

でも俺が裁判官にならなくてよかったよ。俺が裁判官になったら、万引きでも死刑判決を出していたろうな」一五は冗談を言ったつもりだったが、別に笑わなかった。

高桑は「よくわかりませんね」と不満そうだった。

一五は「だからお前は馬鹿なんだよ」と言った。


第4章


北見で一五を見舞った加納は、根室に戻って皐月会の12人の取り調べを指揮した。

12人の身柄は北海道警察根室署内にあったが、捜査はマル警が行うことになっていたからである。


12人は当初、同じことをいった。つまり事実をいった。つまり、一五が突然現れ、道元に3発放ち、札幌本部の組員1人がそれに応戦して一五の右肩を撃ち、一五が逃走した、と。根室署の鑑識も、その証言を裏づける報告をしていた。

加納は高桑に、根室支部長の金子と根室支部組員の竹野の2人の取り調べを担当させた。加納の部下の1人が加納に、31歳と若い高桑に殺人事件の重要参考人を2人も担当させるのは無謀だと進言したが、加納は単純な事件だから高桑に経験させると答えた。

加納と高桑は、一五が描いたストーリーを元に、以下のようなシナリオを立てた。


●竹野は組を抜けたがっていた

●金子は、竹野の脱会を認めようとしていたが、札幌本部から止められた

●竹野は、道元確保に懸賞金がかけられたことを知り、一五に接触した

●一五は竹野に、マル警の通信員になれば、道元を確保したときの懸賞金が竹野に入るようにしてやるともちかけ、竹野は了承した

●一五は竹野に、道元確保は生死を問わないと伝えていた

●竹野が道元が根室入りする日時を一五に教えた

●竹野は、道元が一五に撃たれたとき、ここでとどめを刺せば道元の死をもって道元を確保したことになると考え、一五が落とした拳銃を拾って道元に2発撃ち込んだ

●金子に「竹野が組を抜けるためにマル警の犬になることは十分ありうることで、懸賞金欲しさに道元を撃つことも十分起こりうる」と証言させる

●竹野に、道元殺しを自白させる


金子と竹野の身柄も道警根室署にあったが、加納が道警に掛け合ってこの2人だけマル警に移送した。

高桑は取り調べのなかで、竹野に、刑期10年、懸賞金1,000万円で、マル警のストーリーとおりの証言をしろといった。竹野は、自分の親分である金子が了承すればそれでよいと答えた。

高桑は金子に、竹野を差し出せばそれですべて丸く収めると提案した。金子はすぐにそれに応じた。高桑が拍子抜けするほど、金子は簡単に竹野犯人説を支持した。

高桑がこの様子を一五と加納に報告すると、両人とも金子の意図を計りかねた。ただ、金子の証言がないと一五のストーリーが完成しないので、金子の真意を探る作業は後回しにすることにした。


残りの10人の組員は、つまり札幌支部の6人と根室支部の4人は、竹野犯人説に猛反発した。この10人もマル警の別の職員が取り調べをしていたが、その場所は北海道警察根室署の取調室だったから、道警の刑事たちにもすぐにそのことが知れた。

道警の刑事たちも、「竹野が道元にとどめを刺すわけがない」「組員たちの『一五が3発撃って道元を殺した』とする証言には信憑性がある」という見解で一致していた。

そして10人を取り調べしたマル警の職員も、「グループ」の一員ではないので一五・加納・高桑プランを知っているわけではなく、竹野犯人説に違和感を持っていた。


道警の刑事とマル警の職員を鎮めたのは、外務省北海道警備根室本部の本部長の柏博(かしわ・ひろし、40歳)だった。柏はマル警のトップであり、加納の直属の上司になる。ただ「グループ」については知らない。

その柏が、嘘で塗り固められていて、中学生でも嘘であることがわかる竹野犯人説を支持したのは、加納の働きかけがあったからである。

加納は柏に、1)成功したら柏の功績にする、2)失敗したら加納が全責任を負う--の2つを条件に、マル警職員と道警刑事に竹野犯人説を飲ませるよう依頼した。


柏は外務省のキャリアで、根室に来るまで、東京とニューヨークにしか住んだことがなかった。だから根室のことはおろか北海道のことにも興味がなかった。

東大法学部卒の柏が、上司から日本の僻地の根室への勤務を打診されてそれを承諾したのは、北方領土関連で1つでも実績をあげれば、出世スゴロクの駒を2つ前に進めることができるからである。

皐月会の勢力が落ちるプロジェクトを指揮したことは、北方領土関連の実績になる。


根室専門の機関であるマル警が、札幌に本部がある指定暴力団皐月会の撲滅に加担するのは、皐月会が根室で大きな勢力を持っていたからである。

霞が関の外務省本省には、暴力団が根室で暗躍していることは北方領土問題解決の支障になるという、漠然とした考えがあった。ただそれはあくまで漠然としていて、外務省本省も柏と同じように根室のことにまったく興味がなかった。

それでも外務省が根室にこだわるのは、北海道選出の与党政治家に恩を売るには、根室問題や北方領土問題に常に1枚噛んでおく必要があったからである。

北海道は東京から遠く、根室はさらに霞が関から遠かったから、外務省本省の連中は、つまり外務大臣と外務事務次官も含めて、根室でトラブルがあってそれをマル警が鎮めれば、そのトラブルがどのような種類のものでもそれは北方領土問題の解決に貢献したとみなした。

だから外務省の傍流である一五の暴走と加納の戦略は、外務省の本流である柏にとって都合がよかった。


ただ柏は用心深かったので、毒饅頭を食らうなら解毒剤を手のなかに持っていたかった。それで柏は加納に「なぜ一五を救って、竹野を犯人に仕立てると、マル警の功績になるんですか」と尋ねた。

加納は「まず、一五の犯行が露呈すれば、あなたの次の勤務先は霞が関ではなく、アフリカの名も知らぬ国だ。だから、一五を犯人にするのは、あなたの得にならない。

そして竹野が犯人になれば、マル警は道警に先んじて道元を確保したことになる。懸賞金は一五が得るから、マル警の実績は外務省の記録簿に記載される。当然、その指揮官も記録される。つまりあなただ」と答えた。

「そんなにうまくいきますかね。道警は面白くないはずです。マル警が手柄を独り占めすれば、道警は一五の犯行の証拠を集めるはずだ。皐月会も道警のほうに乗るでしょう。

マル警が一五の犯行を組織的に隠蔽したことがバレたら、私はアフリカにすら行けない」

「だからこそ、これが失敗したら私が全責任を負うといっているんです」

「あなたがトンズラしない保証はあるんですか」

「これが失敗したら、あなたは、私のせいだというでしょう。仮に私が、すべて柏本部長に報告していましたと証言しても、本省はあなたを信じるでしょう。少なくとも、あなたを信じることにするでしょう。私も一五も単なる地方採用ですからね、本省は簡単に私たちを切り捨てます」

「加納さんのメリットは」

「私のメリットとは」

「一五は懸賞金を得る。あなたはその分け前をもらうんですか」

柏は「グループ」の存在を知らない。

「私のメリットがそれほど重要ですかね」

「重要ですよ。あなたの利益がみえないと、なぜあなたがリスクを犯すのか理解できない。理解できないことは、僕を不安にさせる」

「私は北海道生まれの北海道育ちで、北海道を愛しています。この地から暴力団が消えることは私のメリットです」

「あなたは生まれも育ちも札幌で、北大理学部数学科を出ている。そして外務省には、北海道採用枠で入っている」柏は東大卒のキャリアらしく、自分の暗記力をひけらかすのが好きだ。「だから北海道を愛している、というのはわかるが、だからといってリスクを負って暴力団と戦って、死ぬかもしれないのに、まあ死なないにしても少なくともキャリアは失うかもしれないのに、それでも北海道を守るって、どう考えても不自然ですよね」

「ではこれならどうですか。霞が関に帰るあなたに花を持たせれば、あなたは本省に私のことをよくいってくれるから、私は安泰だ。私は北海道でノホホンと暮らせる。

北海道民は貧乏で臆病ですからね。東京の有力者に媚を売ることは珍しいことではない。北海道民は、沖縄県民ほどつらい過去は持っていないから、沖縄県民のように東京の人や政府と戦うことはしない」

「なるほど、それは辻褄が合いますね。わかりました。道警の本部長は私の大学時代の先輩ですから、こちらは抑えましょう。本省の人間にもうまく報告しておきます。

ですが、マル警内部では、私は人望がない。だからが、マル警はあなたにまとめてもらわなければならない。それはできますか」

「できます」と加納は答えた。


加納はマル警の警備部長で、組織図としては総務部長に次ぐナンバー3だが、総務部長も外務省本省から来た腰かけなので、実質的には警備部長が本部長に次ぐナンバー2である。本部長の柏は飾りのナンバー1だから、本質的には加納がマル警を牛耳っている。


加納は、柏が「私はマル警内で人望がない」と告白したことに驚いた。自分の弱さを隠さないエリートは強い。加納は「下層におりてきて、自分の能力のなさをさらす度胸は大したものだ。柏は面倒だな」と思った。

加納はさらに「そろそろ一五を戻そう」と思った。一五は北見の病院を退院していたが、そのままビジネスホテルにとどまらせた。もう2週間になる。

一五は加納から連絡があるまで北見を動かないつもりでいた。だから一五から加納に、そろそろ根室に戻ってよいか、と打診することはなかった。

加納は「俺が連絡するまで、黙って北見に居続けるなんて、どこまで慎重な男なんだ」と感心した。北見も根室に負けないくらい錆びれた街を持ち、そして北見もやはり海を持っていたがそれはオホーツク海で、根室の海と同じくらい寂しかった。だから一五が飽きずに北見にとどまり続けるのは、加納には意外だったのである。


第5章


北海道警察根室署は、マル警の要請にしたがった。つまり一五のシナリオを飲んだ。柏が、自身の大学の先輩である北海道警察の本部長に根回しをして、その本部長が根室署の署長に「マル警の柏君とよく話し合うように」と指示したのである。

道警根室署の署長は記者会見で、次のように発表した。


●外務省北海道警備根室本部の職員、一五が5月3日午前9時半ごろ、指定暴力団皐月会根室支部付近で、このときちょうど札幌から根室に到着した同会会長、道元を逮捕しようとしたところ、同会組員がこれに反抗し拳銃で同職員を撃ち、同職員は右肩を負傷した

●道元には、道警とマル警が共同で1,000万円の懸賞金をかけていた

●一五は応戦しようと自身の拳銃を取り出し発砲、弾は道元に命中した

●ただこの時点では、道元への致命傷にはならなかった

●一五は、銃弾を1発発射したあと、右肩を負傷していたこともあり拳銃を地面に落としてしまい、それを拾わずに現場を離脱した

●一五はコンビニに駆け込み、救急車と応援を呼び、自身は救急車で北見に行った

●一五が遠方の北見の病院を選んだのは、根室市内や近隣の病院にかかれば、皐月会の報復に遭うと考えたため

●一五が応援を呼んだのは、自身が所属する外務省北海道警備根室本部で、同本部はさらに道警根室署に通報した

●道元の皐月会根室支部訪問には、同会の札幌本部の組員も同行していた。根室支部の人員は支部長の金子を含む6人、札幌本部の人員は道元を含む7人。道元以外の12人の組員は、同会トップが負傷したことでパニック状態に陥った

●このパニックに乗じて、同会根室支部組員の竹野が、一五の拳銃を拾い上げて道元に向けて2発発射

●道元の死は、間もなく現場に駆けつけた道警根室署刑事によって確認された

●外務省北海道警備根室本部と道警根室署の合同捜査によって、間もなく組員12人全員を逮捕。逮捕容疑は全員、銃刀法違反(拳銃所持)の疑いとした

●取り調べで、竹野が犯行を自供。竹野を道元殺害容疑で再逮捕

●竹野が属す皐月会根室支部の会長、金子も道元の殺人幇助容疑で再逮捕した。これは竹野の犯行に関与している可能性が高いため

●一五に発砲した同会札幌本部組員1人も、一五への殺人未遂容疑で再逮捕

●残りの皐月会根室支部の組員4人と札幌本部の組員5人の計9人は間もなく釈放した

●拳銃などの武器は、一五に発砲した組員が所持しているものしかみつからなかった。根室支部内でも拳銃などの武器はみつかっていない


皐月会のナンバー2で、副会長の創元(そうげん、70歳)は、釈放された9人全員と面談したりZOOMを使ってネット面談したりして、自ら証言を集めた。

ただ、道警に拘束されている金子、竹野、札幌本部の1人の組員には、創元はコンタクトを取れなかった。

創元は道元の実弟であり、札幌にいる。


9人全員が創元に、道元を殺したのはマル警の一五で、一五が道元に3発発射したといった。そして9人全員が、根室支部の竹野には道元を殺す度量も動機もなく、道警根室署の発表は嘘であるといった。

ただ9人全員が、なぜ竹野が犯行を自供して、なぜ根室支部長の金子が竹野に罪を負わせようとしているのかわからない、といった。


創元は、札幌にある北海道警察本部組織犯罪対策局の刑事、山口文雄(やまぐち・ふみお、45歳)を、札幌市中央区の本部事務所に呼び出した。山口は創元の子飼の刑事だった。

子飼とはつまり、創元は山口に小遣いを渡したり、女をあてがったり、山口が実績をあげなければならないときは組員を検挙させたりしていた。その代り山口は、創元に捜査情報を提供したり、大きなしのぎを無視したりした。


創元は、山口を自分の部屋に招き入れ、なぜ道警根室署と皐月会根室支部が結託して、道元殺しを皐月会根室支部の組員になすりつけたのか尋ねた。

山口は「率直にいう。嘘はいわない。今話せる情報は2つだけ。1つ、情報は少ない。1つ、マル警が動いているようだ。これだけだ」と言った。

創元は「話せない情報は」と尋ねた。

「『話せる情報』と言ったが、これは、情報を豊富に持っているが提供できるのは2つだけだ、という意味ではない。2つしか持っていない」

「マル警が、なぜ」

「道元には1,000万円の懸賞金がかけられていて、その費用は道警とマル警で折半することになっている。だからマル警も道元に興味を持っていたということだ。それ以上のことは知らないから帰るぞ」

「山口さん、もう少し教えてくださいよ」

「教えることはない」と言って立ち上がろうとする山口を、彼の背後にいた組員が彼の両肩をつかんでソファに押しつけた。山口はその勢いでソファに再び腰をつけたものの、その反動を利用してまた立ち上がり、自分の肩をつかんだ組員を殴った。そして「ふざけるな」と言った。さらに、創元をみて「じゃあな」と言って部屋を出ようとした。

創元は「情報が入ったら教えてください」と、山口の背中に声をかけた。山口は振り向かず、ただ右手を小さく上げた。創元はそれで、山口が協力を約束したと理解した。


山口も、道警根室署がなぜ無茶な行動に出たのか不思議だった。なぜなら道警では、道元に懸賞金をかけたものの、道元をそのまま生かさず殺さず野放しにする方針が固まっていたからである。しかもこの方針は、道警本部長が、組織犯罪対策局の局長と、根室署署長と、その他の皐月会支部がある土地の警察署署長に伝えていた。


山口は歩きながら「根室署の署長の性質から考えても、本部長や組織犯罪対策局の意向を無視するわけがない。そうなるとマル警の暴走か」と考えた。

気がついたら、道警本部の建物に到着していた。山口は建物のなかに入って組織犯罪対策局の自分の席に戻った。メモがあり「山口へ、局長に電話を」と書いてあった。

山口の直属の上司は課長なので、局長から電話連絡を要請されることは珍しいし、仮に局長が山口に用事があれば、山口の携帯を鳴らすはずだった。

山口は隣の席の同僚に「このメモ、お前か」と尋ねた。同僚は「いや、局長の秘書がさっき置いていった」と答えた。

山口は内線電話で局長の秘書に電話をした。秘書は「局長がお呼びです。今から来られますか」と言った。山口は「はい、今すぐ」と答えて席を立った。


道警本部組織犯罪対策局局長、田辺良太(たなべ・りょうた、58歳)は個室を持っていた。そこに入ってきた山口をみるなり田辺は、「お前、創元にどこまで話をした」と尋ねた。

山口は「どこでそれを。今、皐月会の事務所から帰ってきたばかりですが」と尋ね返した。

「質問に質問で答えるな」

「あ、はい。申し訳ありません。創元にはほとんど何も話していません。そもそも何も知りませんので」

「まあいい、先にお前の質問に答えてやる。創元は俺のところにも電話してきた。なぜ道元を殺したマル警職員を逮捕しないのか、なぜ道元殺しを根室支部のせいにするのか、と。

俺は知らんといって、知り合いの刑事に聞けといった。

創元は、子飼の刑事を呼びつけて質問したが、そいつも知らないと答えたそうだ。

創元に、子飼の刑事の名前を聞いたが、答えなかった。それで創元の電話を切ったあと課長に電話をしたら、創元の担当は君だと聞いた。だから子飼の刑事は君だとわかった。--これで、お前の質問の答えになったな。

創元に呼ばれたんだろ。お前は創元に何を話した」

「ありがとうございます。創元から電話があったのは1時間くらい前のことです。本人から直接電話があって、事務所に来いと。

事務所では、局長と同じことを聞かれました。なぜ根室署と皐月会根室支部が結託したのか、なぜ道警は、道元殺しを根室支部におっつけたのか、と聞かれました。

私はマル警が動いているからだろうと答えました。道元の懸賞金は、マル警と道警の予算から出ているので、道元殺しにマル警が絡んでくるのは不思議はない、と伝えました。

ただ私も、マル警と根室署が結託したかどうかは知らないので、そこは創元にも知らないと伝えました」

「それで創元は何といった」

「新しい情報が入ったら教えろと」

「そうか、わかった。それでよい。そうしたら、創元に新しい情報を伝えてこい。組織犯罪対策局は、根室署の発表を支持していると伝えろ」

「復唱します。マル警職員は道元を撃ちはしたが致命傷ではなく、道元を殺したのは皐月会根室支部の組員である。組織犯罪対策局と根室署は、その方向で捜査を進めている。そのように創元に伝えます」

「それでよい」

「伝えるのはわかりましたが、それは本当なんですか」

「お前、俺の本心を聞こうとしているのか」

「あ、はい、申し訳ありません。局長の本心というより、局の捜査方針をおうかがいいたしたく」

「それは課長経由で聞いたほうがいいだろ。でもまあ、このあと課長を呼び出して捜査方針を伝えるつもりだから、先にお前に教えてやる。

お前が言ったとおり、組織犯罪対策局は根室署と合同で捜査をする。そして、道元殺しは主犯竹野、共犯金子で送検する。最初に道元を撃ったマル警職員は正当防衛として不問。懸賞金も、そのマル警職員が受け取る。手柄はマル警にくれてやることにした。そして創元にはこれを持っていけ」と言って、田辺はUSBメモリを山口に渡した。

「そのなかに竹野と金子の証言の音源が入っている。竹野は組を抜けたがっていて、親分の金子はそれも仕方がないと思っていたが、道元から組員の脱退を許すなといわれて、この問題は棚上げになった。

そのうちに竹野が、道元に懸賞金がかかっていることを知り、道元の首を道警に差し出せば、カネも入るし組も抜けられると考えた。それで、マル警職員が道元を撃って負傷させたのに乗じて、竹野はマル警職員の拳銃を拾って道元にとどめを刺した。金子は子分の竹野がかわいいから、すべてを自供した。

音源に入っている内容は、まあ大体そんな内容だ」

「それは本当なのですか。また、質問をして申し訳ないのですが」

「本当、事実、本質、実際、公式見解と、まあ呼び方はいろいろあるが、俺は決定事項って言葉が好きだな」

「はあ」

「ただ困るのは、現場にいたその他の10人の組員だ。もう釈放されたんだろ」

「10人のうち9人は釈放されましたが、うち1人はマル警職員を撃った容疑で勾留されています」

「そうか、1人はうちがまだ拘束しているのか。こいつらは創元に『道警の決定事項は嘘だ』というだろう。創元も、道警の決定事項に不服だろう。それをどうするかだ」

「どうするのですか。また質問を、申し訳ありません」

「まあ、あとはマル警がなんとかするだろう。マル警は、道内では小さい所帯だが、腐っても外務省の一機関なんだし、北方領土の守護神様だ。

だからお前から創元にいっておけ。道警の決定事項を受け入れず事を構えるつもりなら、くれぐれもその矛先はマル警に向けろ、と。道警に火の粉を飛ばすなと。他に質問は」

「ありません。創元には、マル警と事を構えろ、道警はこの件に噛んでいない、と伝えます」そう言って山口は、田辺の部屋を出た。

山口は道警本部の建物を出て、携帯で創元の携帯に電話をした。

「新情報が入った」

「早いですね」

「今からそちらに行く」

「ぜひお願いします」


第6章


北海道警察本部組織犯罪対策局の刑事、山口文雄は、皐月会根室支部の組員である竹野と同支部長の金子の供述の音源が入ったUSBメモリを、皐月会副会長の創元に渡した。

その音源では、竹野が道元殺害を自供していた。金子は、自分が竹野の道元殺しを助けたと証言していた。

それを聞いた創元は、竹野と金子は嘘をついていると判断した。マル警職員の一五重雄が道元に3発を撃ち込んで殺害したのに、その罪を竹野と金子に被せた、と理解した。もしくは、竹野と金子がマル警と取引をして、竹野と金子が進んで罪を被った、と理解した。


創元は皐月会の幹部会を開き、この見解を披露した。幹部はそれで納得した。そしてこの席で皐月会は正式に、外務省北海道警備根室本部に対して報復戦争を仕掛けることを決めた。

この幹部会のあと、創元は山口に電話をして、道警には手を出さない代わりに、道警は見て見ぬふりをしろと伝えた。

山口は、上司に伝えると答えた。


山口は大型闘争に発展すると予測したが、事態は簡単に収束した。


皐月会の動きを察知した「グループ」のメンバーが、創元に手打ちを持ちかけたのである。「グループ」とは、マル警の職員たちでつくる汚職グループである。

「グループ」の長は「グループ」の幹部であるマル警警備部長の加納滋に、事態の収拾を命じた。加納は根室から札幌に出向き、中央区の皐月会本部事務所に到着した。加納が乗っていた車は、一五のパートナーの高桑浩二が運転していた。


創元は組員たちに、マル警と全面戦争になると伝えていたので、突然マル警職員が目の前に現れて、蜂の巣を突いたような騒ぎになった。

加納と高桑は、組員たちによって身柄を拘束され、事務所の地下倉庫に入れられた。マル警職員を2人とらえた情報は瞬く間に全道の皐月会支部に伝わり、2時間もしないうちに近隣の支部の組員まで本部事務所に集まってきた。それに驚いた近隣住民が110番通報したことで大量の警察官が動員され現場は一時騒然となった。


創元は側近に、警察隊に騒動を起こしたことを詫びて、引き取らせろと命じた。創元はさらに、騒動は、組員どうしの小さなイザコザが拡大してしまったことにして、加納たちがやってきたことは警察隊には伝えるなといった。支部の組員たちも帰した。


このようなドタバタがあったので、創元と加納の会談が始まったのは午後7時ごろになっていた。加納の運転手を務めた高桑は、そのまま地下倉庫に監禁されていた。

2人の会談は、故・道元が使っていた会長室で行なわれた。ナンバー2の創元はまだ会長に就任していなかったから、普段はその部屋を使っていなかった。

加納は会長室の床に正座をさせられた。ソファに座った創元の背後には、5人の側近がいた。


創元は加納に「ようやく落ち着いたんでね、用件を聞こうか」と言った。

加納は「手打ちにする条件を聞きたい」と答えた。

「一五の身柄を寄越せ。一五を受け取ったら、お前は腹を切れ。それでチャラだ」

「それでは、1対2になるから不公平だ」

「1対2とは、会長の死が1で、一五の死が1で、お前の死が1ということか」

「そうだろ」

「そうじゃないだろ。会長の死は重いから3だ。一五の死が1で、お前の死が1。3対2だから、うちが1つ損をする。それは貸しにしておいてやる。これが手打ちの条件だ」

「それはお前の見積もりだろ。政府はそんな計算はしない。道元の死は1だ。1の分だけなら、政府も何か手当てしよう。何が欲しい」

「それじゃあ一五と1,000万円でどうだ」

「一五は渡せない。1,000万円って懸賞金のことか。政府が道元の首にかけたカネを、ヤクザに渡せるわけがないだろう。両方とも渡せない。他のものをいえ」

「交渉にならないな」

「根室の権益はどうだ。道警がお前らに渡している権益なんかよりはるかに多くの権益を、政府は皐月会に提供する」

根室の権益とは、要するに密漁の権利だった。外務省はロシアルートを持っていたから、タラバガニでもウニでもサケでも、いくらでも横流しすることができた。

「それはいいね。じゃあ1,000万円は要らない。でも一五は譲れないな。差し出せ」

「私もああいう厄介者は切りたいんだが」

「それじゃあ、いいじゃないか」

「最後まで聞け。一五は、外務省のなかでは道元の首を獲った英雄だ」

「だからこそ、そいつを寄越せといっている」

「だから最後まで聞けって。ヤクザを退治した外務省のヒーローがヤクザに殺されたら、政府は本気で皐月会を潰すぞ。お前たちとつながっている道警の刑事も炙り出して検挙する。道警がクリーンになったら、お前らはもう道警に助けてもらえない。

道内の他の組にも、東北の組にも、関東の組にも、皐月会を支援したら皐月会と同じ目に遭わせると伝える。だから皐月会は孤立する。そうなれば皐月会は弱体化するから、マル警だけでお前らを潰せるようになる。

これは共存共栄の反対の状況だ。では共存共栄とはどのような状態か。

私と一五を見逃せば、お前たちは根室の権益を手に入れて、お前たちのビジネスは確実に拡大する。どうさ、おいしい取引だと思うが」

「それは賢い人間の見積もりだな。でもヤクザはそういう計算はしない」

「本当か。ヤクザはもっとシビアにカネ計算をすると思っていたが」

「カネの面は辻褄が合う。でも我々はメンツを重んじる。会長が殺されて、お前らを1人も殺さないんじゃあメンツを保てない。そこはカネじゃない」

「じゃあ1人殺せ。俺と一緒に拘束した、俺の部下をやる」

「下の奴か。奴は一五ではないだろ」

「高桑浩二といって、一五のパートナーだ。一五は高桑をかわいがっている」

「高桑君ね、知っているよ。金子と竹野の取り調べをした若い刑事だ」

「高桑もマル警だから外務省の職員だ。刑事じゃない」

創元は「ああそうね、刑事じゃない。高桑君は、金子と竹野をだまして、2人に謀反を起こさせた張本人だ。わかった、高桑君は今いただく」と言ってから、背後にいる側近に「高桑は地下倉庫か。じゃあ、箱のなかに入れておけ」と命じた。命じられた側近は会長室を出ていった。

創元は続ける。「高桑君の遺体は出さないよ」

「それでいい。ただなるべく苦しめないでやってくれ」

「約束はできないが、善処はしよう」

加納はどうしても、高桑を「グループ」から追い出したかった。高桑が実力をつければ、彼を子分にしている一五の勢力が増す。そうなると相対的に、加納の「グループ」内の地位が低下してしまう。

創元は続ける。「それと、うちで金子と竹野を処分するが、見逃してもらいたい」

「ヤクザ内の抗争は道警の仕事だ。道警と交渉しろ」

「そうはいかない。道警は、この案件はすべてマル警のせいだといっている。金子と竹野の処分も、この案件に含まれるからな」

「わかった。どこでやるんだ」

「2人が刑務所に入ったら、なかの囚人にやらせる」

「古参の囚人が、新人囚人の金子と竹野を殺すのか。刑務所は法務省の管轄だから、法務省にも筋をとおさなければならなくなる。そこまで隠蔽することはできないな」

「まあそこらへんは心配しないでよい」

「心配するよ。刑務所のなかで金子と竹野を殺すのは駄目だ」

「金子と竹野が喧嘩をして、殺し合ってしまったっていうのなら大丈夫だろ。竹野が会長を殺したことになっているんだから、金子は竹野を罰しなければならない。竹野はそれに対抗しなければならない」

「まあ、それでうまくやってくれ。そうだ、竹野と金子と一緒に、一五を撃った組員も処分してくれ。3人を同じ刑務所に入れるように手配する」

「そこまで指示されるいわれはないな」


加納が皐月会本部事務所を出るとき、高桑の悲鳴と思われる声を聞いた。ただ、地下倉庫にいるせいで、その声はかすかだった。

加納は車のなかから高桑の私物を取り出して、皐月会の組員に渡して「お前らが今拷問している、うちの職員の私物だ。死体と一緒に焼いてくれ」と言った。

加納は車を出して、皐月会本部事務所から1kmほど離れた場所で停めた。携帯を取り出して、一五の携帯にかけた。

「やっぱり高桑を差し出さなきゃ収まらなかったよ」加納がそう言うと一五は「そうですか」と言って電話を切った。


加納は創元に、根室に本格的に進出するときは、必ず一報を入れろといった。創元はその約束を律儀に守った。それが運の尽きだった。

マル警は、加納をリーダーに一五を副リーダーにしたプロジェクトチームをつくった。皐月会が根室に本格的に進出してきたタイミングで一網打尽にする作戦である。本格進出とは、札幌の武器を大量に根室に移すことを意味していた。


創元は約束とおり加納に、根室に本格進出するころが決まった、と伝えた。加納は一五に、大量の武器が根室に入るタイミングとその輸送ルートを探らせた。

一五はロシアルートを使って、6月のある日の午前2時に、皐月会が手配した漁船が2隻根室港に着岸して武器を陸揚げするとの情報を得た。皐月会はロシア人を使って、魚介類の密漁と密輸ビジネスをしていた。

加納は根室港深夜2時作戦と名づけた。

皐月会の約30人の組員が、根室港の岸壁につけた漁船から武器を陸に降ろしているところを、根室港深夜2時作戦のメンバーがサーチライトで照らした。そして拡声器で「外務省だ、武器を捨てて手を挙げて腹ばいに寝ろ」と怒鳴った。

瞬時に罠と知った創元は「終わりだ」と覚悟した。それで組員に、武器で攻撃しろと命じた。


一五は事前に、外務省北海道警備根室本部本部長の柏博に、外務省ルートで自衛隊のスナイパーを2人調達しておいたほうがよい、と助言していた。柏はそれに従った。

スナイパーは見事に創元の脳を撃ち抜いた。一五がスナイパーに、創元を教えた。スナイパーたちはさらに、一五の指示で皐月会の上級幹部を2人射殺した。

2人の自衛官は仕事を終えるとすぐに現場を立ち去った。大量の武器の押収と、約30人の組員の逮捕と、暴力団幹部殺害は、すべてマル警の功績となった。


一方の道警は、皐月会の根室本格進出の動きはもちろんのこと、マル警の動きすら検知できていなかった。だから道警が初めて根室港の大騒動を知ったのは、銃声を聞いた漁師たちからの110番通報だった。


その110番通報からしばらくして、道警根室署の刑事が根室署署長に、根室港深夜2時作戦が始まってすぐに終結したことを報告した。根室署署長はその刑事に「いつ知ったんだ」と聞いた。刑事は「私も今です」と答えた。

根室署署長はブルブル震える手で携帯を持ち、道警本部組織犯罪対策局局長の田辺良太の携帯に電話をした。根室署署長は、刑事から聞いた話をすべて田辺に伝えた。つまり20秒で終わった。

田辺は「そんな報告、受領できるか馬鹿野郎」と署長を怒鳴りつけて電話を切った。


田辺がこの時点で根室署署長の報告を拒否したのは、根室署からの報告が遅れたことにしたかったからである。根室署のミスがいくつも重なったことで道警がマル警に遅れをとったことにすれば、田辺には傷がつかないし、道警本部長を守ることもできる。


ただ田辺も情報は必要だった。それで田辺は、根室署長に「馬鹿野郎」と怒鳴ったあとすぐに組織犯罪対策局の3人の課長に電話をかけた。しかし、3人ともこのことを知らなかった。田辺は刑事の山口文雄にも電話をした。山口も知らないといった。

田辺は次に、マル警本部長の柏博に電話をした。

柏は「部下たちの暴走です」と言った。

田辺は「ふざけるな、この野郎。お前が知らないわけがないだろう」と怒鳴った。

「もちろん報告は受けていましたよ。根室港で皐月組の武器を押収するって」

「お前に報告したのは加納か、一五か」

「そんなことまでいえませんよ」

「いえ」

「一五ですよ。一五の口ぶりから、2、3人のヤクザから2、3丁の拳銃を押収するくらいだろうと思いました。それがこんなことになるとは」

「創元が射殺されたらしい」

「流れ弾に当たっただけでしょ。運よく」

「それが公式見解か。俺は、一流のスナイパーでなければ暗闇のなかで創元の脳天をぶち抜くことなんてできない、と報告を受けているぞ。殺し屋まで雇ったのか」

「私は部下から、流れ弾だと聞いています」

「お前は今、どこにいる」

「自宅ですよ」

「アホか」と言ってから、田辺は電話を切った。


これで一連の騒動は終結した。


外務省北海道警備根室本部(マル警)警備一課長の一五重雄は、次の人事で警備部長に昇格した。

警備部長の加納滋は、マル警本部長に昇格した。本部長は外務省本省のキャリアのポジションだったので、北海道枠で採用されたノンキャリの加納の本部長昇格は快挙となった。

マル警本部長の柏博は、本人の希望とおり外務省本省に異動になった。級は2つ上がった。


マル警職員だった高桑浩二の遺体はみつからなかったが、加納の働きかけによって殉職扱いとなり、遺族の妻に多くの退職金と年金が支給されることになった。

週刊誌が「外務省職員、謎の失踪」というテーマで報じたが、加納は柏に、週刊誌が騒いでいるだけなら放置しておいてよい、NHKや日本経済新聞などの本格マスコミが後追いを始めたら対策を講じなければならないが、本格マスコミは恐らく扱わないだろうから無視していればよい、とアドバイスした。それは柏にとって都合のよい内容だったので、柏はそれに従った。


北海道警察本部組織犯罪対策局局長の田辺良太は、定年を待たずに依願退職をして、家族とともに北海道を出て本州のどこかで農業をすることになった。

組織犯罪対策局の刑事、山口文雄は、次の人事で道内の地方の署に移った。

金子と竹野と、一五に発砲した組員は、収容先の刑務所で暴動が起きた際に何者かに刃物で刺されて死亡した。その暴動ではその他に20人が死傷した。


第7章


外務省北海道警備根室本部(マル警)の警備一課長から警備部長に昇格した一五重雄と、警備部長からマル警のトップである本部長に上り詰めた加納滋は、自分たちの仕事が好きだった。

2人がこの仕事を愛していたのは、2人ともに野心があったからである。その野心は同じで、外務省本省に口出しさせないことと、根室と北海道の問題は根室と北海道の人間で解決すること、である。

本業に精を出して成果を上げれば、外務省本省は加納にも一五にも口出ししない。なぜならそもそも本省のキャリアたちは、根室のことを暗黒の土地のように感じていたからである。「根室のことなんて北海道採用のノンキャリアが処理すればよい」というのが霞が関の本音である。


マル警は、霞が関にも、北海道にも、北海道警察にも、加納にも一五にも都合がよい組織だった。

外務省と海上保安庁と北海道警察は、北方領土の不良のロシア人たちが、根室や知床などの沿岸地域に不法上陸することに手を焼いていた。それで官邸と与党が主導して、外務省に北海道警備根室本部、通称、マル警を設置した。マル警なら、外交判断を下しながら、そして安全保障への影響を考慮に入れながら、悪いロシア人を駆逐できる。

マル警にはだから、警察権と武器が与えられた。


根室とその周辺は国内唯一の本土の国境紛争地だから、マル警は外務省のなかでも特別な機関となった。それでマル警本部長には、外務省本省のキャリアが就任した。しかし、マル警の仕事の多くはハードでダーティなものだったし、根室の冬は極寒で根室の街は日本一寂れていたので、キャリアはおろかノンキャリでも東京者は長続きしなかった。

それで外務省は、本部長の部下には、つまりマル警の実働部隊にはタフな人間をそろえる必要があると考え、北海道採用枠を設けて北海道民を採用することにした。格下とはいえ国家公務員の外務省職員になれることから、多くの優秀な道民が採用試験に挑戦した。一五も加納もそれに含まれる。


加納が、外務省本省のキャリアの椅子であったマル警本部長に就いたのは、だから北海道採用組にとって万歳三唱に値する出来事だった。本省に口出しさせないことは、マル警のほとんどの職員が望んでいたことだった。それで加納も一五も、多くのマル警職員からヒーローのように扱われた。ある中堅職員は、若手職員に「加納さんと一五さんは特別だから、その仕事ぶりをよくみておけよ」と言った。


加納と一五のハードでダーティな仕事へのニーズは日に日に高まっていた。北方領土には、中国のマフィアと北朝鮮の工作員が進出していた。中国マフィアと北朝鮮工作員は、不良のロシア人よりはるかに悪人だった。

不良のロシア人たちはせいぜい、自分たちが獲った高級海産物を日本に密輸出しようとしたり、日本の漁船をライフルで威嚇したり、日本の漁船が合法的に獲った魚を横取りしたり、こっそり根室に上陸して日本の酒と女を買ったりするくらいだったが、中国マフィアと北朝鮮工作員はもっと自国を背負っていた。

中国マフィアは、北方領土からロシア漁船をチャーターして根室に上陸して、札幌に入ってITや機械のエンジニアたちをヘッドハンティングした。北朝鮮工作員は、同じ要領で札幌に入って、若者に麻薬を売って外貨を稼いだ。


政府は、紛争に発展することを覚悟して根室に自衛隊を送るか、それともだましだまし現状を維持するか、の選択を迫られ、後者を選んだ。だましだましとは、マル警を使うことだった。マル警は、自衛隊と北海道警察の中間に位置する暴力を持っていた。


それでも当時のマル警は、せいぜい不良ロシア人をお仕置きすることくらいしかできなかった。それで政府と外務省は、マル警の戦闘力を強化することにした。外務省が本省のキャリアを腰掛でマル警の本部長に据えることをやめて、生え抜きの加納をそこに置いたのはそのためである。一五の傍若無人の振る舞いを不問に付すどころか出世させたのはそのためである。

外務省本省が加納と一五を高く評価したのは、この2人には、殺傷能力が高い武器を使うガッツがあったからだった。外務省本省のなかには、自衛隊と海上保安庁は、悪人外国人に甘いという不満が根強くあった。


外務省本省は政治力を使ってマル警の予算と権限を強化したから、その結果、加納と一五の発言力と権限が強まった。

北海道警察根室署は事実上、マル警の傘下に入った。もちろん組織機構上は、根室署は札幌の道警本部の指揮下にあったが、根室署署長に就任する者は道警本部長から「向こうに行ったら、まずマル警に挨拶に行くように」と言われた。なぜなら、道警本部長に就任する者は警察庁長官から「マル警のコントロールを頼む」と言われていたからである。

さらに海上保安庁は、北海道の海を統括する第一管区海上保安本部を、小樽から根室に移した。これもマル警に協力させるためだった。


そして、これらの組織を束ねる必要があったから、外務省は加納を特別国家公務員に認定した。特別国家公務員は、能力と実績が特に優れたノンキャリアを、上級キャリア並みに扱う仕組みである。

外務省の職員たちは、学歴と受けた入省試験の種類によって、上級キャリアと一般キャリアと一般ノンキャリアと地方ノンキャリアにわけられる。これは刺青のようなもので、キャリアがどれだけ無能でも怠け者でも実績をあげていなくてもノンキャリアに転落することがないように、どれだけ能力があって死ぬほど残業を重ねて実績をあげてもノンキャリアはキャリアにあがれなかった。だから特別国家公務員は例外中の例外で、10年に1人発生するかどうかだった。


偉くなった加納が最初に取り組んだことは、北海道選出の与党衆議院議員に働きかけて、マル警の予算を増やすことだった。外務省本省もマル警を手厚く扱っていたが、加納はさらに予算の増額を求めた。これは、加納と一五が高笑いするほどうまくいった。

さらにマル警が保有する武器を更新して増やした。これには、マル警の職員が喚起した。マル警職員のなかには、わざわざ根室署の刑事や海上保安官に、新しい武器をみせびらかす者もいた。これにはさすがに根室署署長と第一管区海上保安本部本部長が、加納に苦情を申し入れた。しかし加納は聞くだけ聞いて無視した。我が世の春を謳歌するために。


そして加納と一五は、不良ロシア人と中国マフィアと北朝鮮工作員を次々摘発していった。加納が本部長になってから、つまり、一五が警備部長になってから、最低でも毎年3人は確保した。それまで1人でも逮捕できれば全国ニュースになっていたので、年3人の確保は大手柄といえる。


一五は、使いやすくなったマル警のカネを使って、独自に懸賞金制度をつくった。一五は通信員たちに「ロシア人か中国人か朝鮮人をみつけたら、俺の携帯に連絡しろ。俺がロシア人か中国人か朝鮮人を確認したら、1万円やる」と言った。通信員は、漁協にも居酒屋にも根室市役所内にもコンビニにも町内会婦人部にもいた。


一五は、不良ロシア人と中国マフィアと北朝鮮工作員が根室市内や北海道内で日本人を傷つけたら私刑を下した。一五は、そういう悪い奴を確保しても逮捕せず、道警根室署に引き渡すこともなく、送検することもなく、加納と相談して処分を決めた。加納は必ず「いつものでいいぞ」と言うだけだった。

ロシア政府も中国政府も北朝鮮政府も、不良ロシア人や中国マフィアや北朝鮮工作員が自国に戻らなかったり行方不明になったりしても、日本政府に苦情を申し立てなかった。つまり、日本政府の公式記録にもロシア政府の公式記録にも中国政府の公式記録にも北朝鮮政府の公式記録にも、一五による私刑は存在しなかった。


そして一五の見立てでは、不良ロシア人と中国マフィアと北朝鮮工作員で、日本人を傷つけない者はいなかった。だから、一五が根室で発見したロシア人と中国人と北朝鮮人は、必ず一五によって私刑に処された。一五は不良ロシア人と中国マフィアと北朝鮮工作員の遺体を細かく刻み、根室の漁師に頼んでタラバガニとアブラガニと花咲ガニのエサにしてもらった。つまり海洋投棄した。その海域で獲れるタラバガニとアブラガニと花咲ガニは脂がのってうまいと評判になった。


第8章


一五の父親は東京で生まれて育ち、東京大学文科一類に入って法学部に移行して、そこを卒業して当時の通商産業省にキャリア採用された。


ここでは一五の父親をAと呼ぶことにする。


Aは課長に昇格したときに通産大臣の汚職に協力した容疑がかけられて、国会とマスコミに厳しく追求されて退職に追い込まれた。

通産省の元の上司の働きかけで、Aは民間企業に再就職できたが、今度は自ら能動的に犯罪に関与した。インサイダー情報による株取引に手を出して逮捕され、有罪判決を受けた。執行猶予はついたが、Aは自殺をしようと思い東京から根室に行った。


東京からほとんど出たことがないAは、根室はおろか北海道にも行ったことがなかったし興味もなかったが、根室には沈んだ雰囲気があると知り、死に場所にはよいと思った。

しかし死にきれなかった。

根室滞在が1週間になったとき、Aはこの間ずっと泊まっていた民宿の主から「あなた死ににきたんだろ」と言われた。Aは「そうだ」と言った。そして涙がこぼれて止まらなくなった。

Aは民宿の主に、これまでの経緯をすべて話した。民宿の主は「その経歴なら俺でも死にたくなる」と言った。

民宿の主はAに、名前も経歴もすべて変えて人生をやり直せと提案した。Aはそんなことができるのか、と尋ねた。

主はAにちょっと待って欲しいといって、このとき午前11時だったが、主は、根室市の職員である自分の息子に電話をかけ「今からうちに来れるか」と尋ねた。息子は用件も聞かずに「じゃあ10分後にでも」と答えた。

主の息子が民宿に来た。民宿の主が息子に、この人の名前と経歴を変える方法はないかと尋ねると、息子は「ある」と答えた。

Aが根室市役所で、住民票と本籍地を根室に移す手続きをすれば、民宿の主の息子が、Aの住民票のデータと戸籍のデータを書き換える。東京都はデータ・インフラが整っているから、東京から根室への転出転入だとごまかすことができない。そこで大震災などで行政機関のデータが失われたことがある市町村から根室市に移ってきたことにする、といった。

Aは、そんなことをして発覚したら、息子に迷惑がかかるだろうといった。民宿の主は「根室はそういう場所だ」と言った。息子は、自分に迷惑がかかるかどうかということに無関心なようで、実務的な話を進めた。「ただし名前と経歴が変わるから、大学の卒業証明書は使えなくなる。東大卒の経歴がなくなるが、それで大丈夫か」と言った。Aはそれでよいといった。


Aは、新しい苗字を一五とした。珍しい名前のほうが、どこか遠く離れたところの出身の人っぽくなり、根室の人たちから詮索されづらくなる、と民宿の主がアドバイスしたからである。

新しい名前と新しい本籍地を手に入れたAは、生活保護を受けて市営住宅に入った。それで新しい住所も手に入れることができた。

Aはハローワークの紹介で、根室市内に本社がある住宅メーカーの採用面接を受けた。履歴書の学歴欄には福島県のどこかの高校の名称を書いた。採用面接をした住宅メーカーの社長はAに、高校の卒業証明書を要求しなかった。これで生活保護は終了した。

住宅メーカーでAは経理を任され、そのうち営業も兼務することになった。

Aは、住宅メーカーのパートの女と結婚した。Aは女に、自分の親は両方とも死んでいて、兄弟姉妹はなく、親戚づきあいもまったくないから、自分は天涯孤独だといった。

それで一五重雄が生まれた。


一五は根室で生まれ、中学の成績がずば抜けて優れていたので、両親は一五に札幌の進学高校を受験するようすすめた。一五は札幌南高校に入学した。

一五は高校でボクシング部に入った。進学校の格闘技など遊戯程度だろうと高をくくっていたが、入部初日の新人歓迎スパーリングで鼻血を噴出して意識を失った。

意識が戻ったとき一五は、人の意識を失わせることの延長線上に殺しがあると悟った。人を殺してみたいと思った一五は、ボクシングなら相手を殺しても罪に問われないことを知った。そして、アニメ版のあしたのジョーをみて、相手に最も強いダメージを与える方法がカウンターであることも知った。

部活の顧問は一五に、もっとジャブで牽制しろとか、小まめに当ててダメージを与えろと指導したが、一五はカウンターの一発狙いだった。だから、ぼろ負けするか、ノックアウト勝ちをするかの荒い成績だった。部活の顧問は大会ごとに、一五の一発にかけてレギュラーにしたり、一五の無謀さに呆れてレギュラーから外したりした。


そして事故のような事件、あるいは事件のような事故が起きた。

一五はボクシング大会に出て、相手を倒した。そして死んだ。医者は硬膜下出血が原因だといった。

警察官もそれを信じた。その警察官は「スポーツで選手が亡くなることはありうる」と、一五を慰めた。死んだ高校生が属していた部活の顧問は、一五に「君のせいではないからね」と言った。一五の部活の顧問に至っては、一五がボクシングをやめてしまうことを危惧し、一五に「ボクシングを続けることが、亡くなった高校生を悼むことにつながる」と言った。

ただ死んだ高校生の父親だけは、彼の葬式に出席した一五に向かって「殺人者は帰れ」と叫んだ。それでようやく一五は満足した。

なぜなら、一五は、カウンターのタイミングで右ストレートを相手の顔に入れたとき「殺せる」と思ったからだった。そして「殺せる」と思った瞬間に「今、力を抜けば殺さないで済む」と思った。しかし一五は、そのあとさらに「殺そう」と決めて、力をさらに右の拳にこめた。一五は、自分の右腕が30cmくらい伸びたように感じた。そして相手の顔は、一五の拳が30cm動く分の時間ずっと一五の力を受け続けた。

一五は、死んだ高校生の父親から「殺人者」と呼ばれたとき、それを称号と感じた。それで満足したのである。「俺は拳で殺せる力を持っている」と。


一五はさらに「俺は相手をまったく憎いと思っていなかった」と考えた。ボクシングの試合という設定がなかったら、一五があの高校生に指一本触れることはなかったろう。そして、拳をあの高校生の顔に入れた瞬間「殺すこともできるし、殺さないこともできる」と思い、殺すほうを選んだのである。それで「殺すほうを選んだ自分は、暴力の存在する領域から出ることはできない」と悟った。


暴力の存在領域に足を踏み入れたら、犯罪者になるか、犯罪者を捕まえるかしかない。それで一五は、ボクシング部をやめた。高校2年の春のことだった。

猛勉強を始めるためだった。


一五は、世の中に存在する、悪さをしている同年代の者たちをみて、効率が悪いと思った。悪いことをしてヤクザになっても、上の者に締めつけられるだけである。それなら勉強をして公務員になって、上の者から締めつけられたほうがよい。

ヤクザは常に警察などの公的暴力機関から監視されるし、牢屋に入るリスクも高い。しかし公務員になれば、ノーリスクでヤクザのような振る舞いができる。

しかしそれは浅はかな考えだった。悪い者が浅はかな考えのすえにヤクザになるくらい、浅はかだった。しかし当時はそのことに気がつかなかった。

それで一五は猛勉強した。それで現役で北海道大学法学部に入学した。


北大に合格した一五は根室から札幌に移り、学生寮に入った。

入学して間もなく、父親が根室からやってきた。父親はこのとき、自分の経歴をすべて一五に語った。一五は「なるほど、東大卒の血が流れているから俺は勉強ができたのか」と言った。

父親は一五に、今度根室に帰ったら、例の民宿に行き、その主とその息子に挨拶するようにといった。一五は、挨拶は早いほうがよいから、父親と一緒に根室に戻り、そのまま民宿に行こうといった。父親はそれでよいといった。


4人での面談は30分ほどで済んだ。一五は、民宿の主とその息子をよい人であると思った。別れ際、民宿の主は「私も息子も、お父さんと君のことは誰にもいわない」と、一五に言った。一五は黙っていた。父親が「ありがとうございます」と言った。


一五が札幌に戻った翌日、両親が死んだ。自動車事故だった。父親が運転をして、母親が助手席に乗っていた。だから一五はまた根室に戻らなければならなかった。

警察は父親の運転ミスが原因であるとした。しかし一五は、札幌での会話と民宿でのやり取りを何度も反芻して、父親は自殺を図ったと結論づけた。そして母親の性格からして、もし父親が自殺の企図をほのめかしたら止めるはずなので、父親は母親に黙って母親を道連れにしたのだろうと思った。

高校生で人殺しを体験していた一五は、父親が自殺したことと母親が殺害されたことに淡白でいられた。民宿の主とその息子は、一五の両親の葬式に来なかった。一五は「あの2人は絶対に父親のことは喋らないつもりだ」と思った。


大学生活のモラトリアムに襲われた一五は、自分は将来、自殺するのだろうと思った。そして、死ぬ前に何かやろうと思った。「不良やヤクザは悪いことの延長に死がある。でも自分は、勉強をして、公的暴力権を持つ公務員になり、その先に死を置こう」と思った。

人を殺すことは、一五にとってこのうえない魅力だった。ヤクザになっても人を殺せるが、暴力権を持つ公務員でも人を殺せる。ならば、より効率的に、かつ、よりシステマチックに殺せる公務員のほうがよいと思った。

大学を卒業した一五は、公的な暴力権を求めて北海道警察に入職した。警察学校でのしごきや、初任地での先輩からのいじめは、一五には大歓迎だった。殴られるほど、理不尽な指示を受けるほど、殺人能力と残忍な感情が高まることを実感できたからだった。


北海道警察に入職してしばらく経って、一五は外務省への出向が命じられた。そのときはまだマル警ができてなくて、外務省の単なる出先機関が根室にあって、そこに赴任した。日本の極寒の北国の東端にある根室への赴任は、外務省の普通の職員は忌み嫌う場所だったが、一五は根室出身だったからアレルギーはなかった。

根室の出先機関はしばらくして北海道警備根室本部、つまりマル警になった。マル警の初代の本部長は一五に、道警からの出向を解消して、外務省に転籍しないかと打診した。つまり、北海道警察を辞めて外務省の正式な職員になれというのである。マル警のほうが断然過激だったから、一五はその申し出をありがたく受けた。

外務省は一応、一五に入省試験を課した。それで一応、一五は国家公務員試験に受かって外務省に入省したことになった。


第9章


マル警こと外務省北海道警備根室本部が、根室港で皐月会と銃撃戦を繰り広げた根室港深夜2時作戦から8カ月後。マル警の警備部長、一五重雄は、同本部長の個室のドアをノックした。個室の主である加納滋は「入れ」と言った。そして一五の顔をみて「なんだ」と加えた。

一五は「ちょっといいですかね」と言った。

加納は顔を再び書類に落として「だから、なんだ」と言った。

「高桑の件ですが」

加納は顔を上げず「高桑がどうした」と言った。

「やっぱりオトシマエはつけなければならないと思いましてね」


一五は皐月組の組長道元を殺した。それでも一五が皐月会の仕返しを受けずのうのうと生きているのは、加納が皐月組ナンバー2の創元に話をつけて、高桑を生贄として差し出す代わりに、一五を見逃すことを認めさせたからである。高桑の遺体は出ていないが、殺されたのは確実であり、法律上もそう処理した。

ところがマル警は、皐月会との手打ちを裏切って根室港深夜2時作戦を敢行。創元以下主な幹部を射殺ないし引退に追い込んだ。それで皐月会は壊滅的な打撃を受けた。


かつて皐月会は札幌を本拠地にして根室にも大きな勢力を持っていたが、根室港深夜2時作戦のあとは、皐月会の札幌のシマは、北海道警察本部の組織犯罪対策局が、同局がグリップできる他の組に継がせた。

皐月会の根室のシマは、皐月会の残党が引き続き仕切ることになったが、実際はマル警の汚職グループである「グループ」が管理することになった。ただ「グループ」が表に立つことはできないので、「グループ」幹部である加納がその役割を担った。


だから加納は今、皐月会の根室の残党たちに上納金を納めさせていた。ただ残党とはいえ、「グループ」から根室と北方領土の海産物を密漁、密輸する権利を与えられていたので、そして根室の海産物は種類が豊富でどれも東京などで高値で取引されるものなので、その売上高は根室経済圏で断トツの額になり、その利益率は驚異的な値となっていた。だから加納が受け取る上納金も相当な金額になっていて、「グループ」の予算は大分潤っていた。


「オトシマエをつけるということは、事件を蒸し返すってことか。それは迷惑だ。やめろ」加納はようやくペンを置き、顔を一五に向けた。加納は、せっかく密漁密輸事業が軌道にのり始めていたので、事を荒立てたくなかった。

「それでも目覚めが悪いんでね」

「俺の迷惑を顧みず、か」

「加納さんには迷惑はかからないでしょう」

「俺はそうは思わん。じゃあ仮に俺の迷惑にならないとしよう。仮に、俺がお前に許可を出したとしよう。誰に何をすると、お前のオトシマエは成立するんだ」

「少なくとも高桑と道元と創元と金子と竹野が死んでいるわけですからね。それなりのものが必要でしょう」

「それなりのものってなんだよ。そうだ、それより1,000万円は振り込まれたか」

道元には1,000万円の懸賞金がかけられていて、公式見解は皐月会の組員が道元を殺したことになっているが、実際は一五が道元を殺していたし、仮に組員が道元を殺したにしてもその切っ掛けをつくったのは一五なので、一五がそれを得る権利を獲得した。

「給料口座に入っていましたよ」

「じゃあ俺に130万円を寄越せ。そういう約束だろ」

一五は無茶な方法で道元を殺し、その無茶をなかったことにするために加納に後処理を頼んだ。一五はその手間賃として、130万円を加納に支払うと約束していた。一五は130万円を封筒に入れてジャケットの内ポケットに忍ばせていた。だからそれを抜き出して加納に渡した。

加納は封筒のなかを少しのぞいて、「ご苦労さん」と言ってから、封筒のまま自分のジャケットの内ポケットに差した。

「それで誰を殺すつもりなんだ。根室の皐月会には手を出すなよ、貴重な労働力なんだから」

「誰も殺しませんよ、悪いのは俺なんですから。指をつめて、今の皐月会のトップに詫びを入れたいんですが」

「なんだそういうことか。皐月会様にお詫び申し上げたいと。皐月会に許してもらわないと、いつ狙われるかわからないから、和解したいと。そういうことか」

「そうです」

「でも皐月会のトップって誰なんだ。根室の奴らは、一応は皐月会を名乗っているが、実質的に『グループ』がシノギを仕切っているからな。札幌にも皐月会の残党はいるだろうが、全員他の組に移籍しているぞ。皐月会の看板を持っている者となると」

「道元に息子がいるはずです」

「よく知っているな」加納は感心した。


道元の息子、服部真一(はっとり・しんいち、42歳)はカタギだった。しかし父親の道元と叔父の創元が、マル警の陰謀によって殺害されたことで、ヤクザに身を落として復讐の機会を狙っている。

一五は、このことを知っているのは自分だけだと思った。加納も、一五はこのことを知らないと思っていた。2人はマル警のトップと実質的なナンバー2だが、お互いに独自の調査でこのことを知った。

服部は札幌の隣の市の江別市に潜伏していた。


「でも服部君はまだ修行の身だぞ。どこかの組の下っ端だ。まあ、血筋はいいわけで、いずれはのし上がってくるかもしれんが、それにしても奴がお前の指を受け取ってもなあ」

「加納さんは、俺が服部にやられちゃえばいいって思っているんでしょ」

「お前、それはいいっこなしだろ。お前だって、俺の寝首を掻こうしてるだろ」

「とにかく、皐月会の残党でも、服部真一でもいいので、しっかり話をつけて、俺を襲わない保証を得たいんです」

「それなら残りの870万円を服部君にプレゼントして、お前はマル警を辞めて石垣島とか小笠原とか台湾とかに雲隠れすればいいんじゃないか」

「それをしたくないから、力を貸して欲しいんです」

「お、お、お、ようやくいったか。俺の力が必要だと。お前は今、俺に頭を下げているんだな」加納は一五に頼られて喜んだ。

「それでもいいです」

「わかった。お前にそこまで頼られたら、俺もやる気が湧く。早速、服部のアポを取ろう。それでお前は、服部の目の前で指をつめるんだな」

「指ぐらいでよければ何本でも」

「それで十分だよ。服部はまだ若いから、マル警の幹部にそこまでされたらさすがにビビるだろう。残党たちも、死んだ親分の息子がマル警と手打ちをすれば、それに従わないわけはない。いいんじゃないか、それで」

「それではよろしくお願いします」一五はそう言って本部長の部屋を出ようとした。

「でもお前――」一五の背中に向かって加納が話しかける。「――なぜそうまでして、根室にとどまる。マル警にとどまる」

「根室が好きで、マル警の仕事が好きだからですよ。加納さんと同じく」

「なるほどね」

一五はそれで部屋を出た。


一五は、加納が服部の存在を把握していることに驚いていた。それは、あまりに不自然だったからである。加納に、根室港深夜2時作戦後の皐月会の成り行きを探る動機はないはずだった。

一五にはその動機があった。道元と創元の信奉者からの報復を恐れていた一五は、道元と創元の身辺を調査しないと心配で仕方なかった。だから一五は、手間とカネをかけて調査をして、服部を知りえた。

動機がないのに加納はなぜ道元と創元の周辺を洗ったのか。一五でさえ探偵のような者を使ってようやく服部を発見したわけだから、加納も相当念入りに調べたはずだ。しかも、一五に悟られないように。


一五は仮説を立てた。「加納は、道元と創元の恨みを晴らす者を探していたのではないか」と。道元と創元の親族で、一五に報復できそうな者を探していたいのではないか。

もしそうなら、一五と加納が服部と面談したら、加納が一五を裏切って、服部に一五を渡すかもしれない。

服部が一五を殺せば、その界隈で名前を売ることができる。服部は道元の息子だし若いから、皐月会の残党から同会の再興を託されるかもしれない。


加納が服部に恩を売っておけば、加納は、力をつけた服部の後見人になることができる。服部がいる江別は札幌に近いので、加納が支援をすれば、服部の勢力を拡大させることができる。加納はやすやすと札幌の市場を手に入れることができる。

札幌のシマは今、道警がグリップしているヤクザが仕切っているが、そこにマル警または「グループ」が割って入ることができる。

「加納が服部を探した動機はこれだ」と、一五は結論づけた。ただ、考えはそこで尽きてしまい、一五は「どうするか」と思った。

次のアクションは何をすべきかと考えて、一五は今一度、服部を確認しておきたいと思った。加納が服部にコンタクトをとる前に。


服部は、札幌市の隣の市の江別市で小さな中古車店を営んでいた。そこに男の若い従業員が2人いたが、いずれもヤクザ者だった。

一五は今、こちらからは中古車店をよく確認できて、中古車店からはこちらが確認しにくい場所に車を停めて、店の様子を観察している。

今は午前10時ごろで、加納にオトシマエの話をしにいった2日後で、根室からここまで車で4時間かかった。マル警では、捜査は原則、2人で動くことになっていたが、高桑を見殺しにした一五を組みたい職員などおらず、加納は一五の単独行動を許していた。


中古車店の駐車場には7台の中古車が並んでいるが、どれも塗装がはげたりタイヤがパンクしていたりと、売るつもりがないことは明らかだった。中古車店はダミーで、服部の隠れ家になっているのだろう。

正午ごろ、中古車店の店舗としているプレハブから1人の男が出てきて、車に乗ってどこかに出かけた。30分ほどで戻ってきたとき、男はビニール袋をぶら下げていた。弁当のようだ。ビニール袋の膨らみ具合からして、3人分と考えてよさそうだ。

プレハブの裏には整備工場らしき建物があった。

そのうち一五は、車のなかで眠ってしまった。一五は居眠りの癖があった。そして数時間が経過して、車の窓をドンドン叩かれて目覚めた。一五の車は、服部と2人の組員に囲まれていた。一五は深いため息をついてから、運転席側のドアの窓を開け「なんだよ」と言った。

服部は「一五だろ。降りてこい」と言った。

「なぜバレた」と思いながら一五は、車の窓を閉めてエンジンをかけた。2人の組員は、手に持っていた鉄パイプとトンカチで一五の車を何度も叩いた。一五はバックで急発進した。2人の組員が大声で何か言っていたが、服部も含めて車を追ってくることはなかった。


逃げ帰るしかないと思った一五はそのまま車を走らせて根室に向かった。高速道路にのってしばらくすると、携帯が鳴った。加納からだった。笑っていた。

「わはは、お前、服部に返り討ちに遭ったんだって」

「車がボコボコですよ」

「さっき服部に電話をしたら、今度会ったら殺すといっていたぞ」

「それで」

「お前今、どこだ」

「車のなかです。根室に向かっているところです」

「そうか、じゃあそのままUターンして、今日は札幌に泊まれ」

「なぜです」

「明日か明後日、服部と会う。服部が会ってもよいといった」

「そうですか。じゃあ、加納さんが札幌に来ると」

「面談場所は札幌になるか江別になるかわからないが。だから俺もこれから札幌に行く」江別は札幌で車で30分くらいの場所にある。「俺はJRで行くがな」


一五は少し安心した。加納がJRで札幌に来るということは、帰りは一五の車に乗ろうとしていると考えられる。つまり、今の加納には、一五を服部に渡す考えはないということになる。しかし必ずしもそうとは限らなかった。加納は根室から4時間も車を運転したくないだけかもしれない。

「では私は札幌に入ります。加納さんが札幌に着くのは夜中ですね」

「札幌に着いたら連絡する」

電話が切れてから、一五は最も近いインターチェンジで降りて、すぐに高速にのりなおして札幌に向かった。札幌市内に入ってからホームセンターに行き、斧を買った。そして札幌中心部から少し離れた小さなビジネスホテルにチェックインして、ベッドの上に寝そべった。

23時ごろ、加納から電話があった。「今札幌駅に着いたが、打ち合わせは明日の朝にしよう。疲れた」と言って電話が切れた。


加納はよいホテルに泊まっていた。一五は加納から朝食に誘われ、そのホテルに行った。朝食はビュッフェ方式で、加納は3枚の皿にたんまり料理を盛っていた。一五はコーヒーだけを頼んだ。

「お前も食え。料金は払ってやるから」

「いえ、ここにくる途中、コンビニで食ったんで」

「なんだよ。じゃあコーヒーも飲むなよ。コーヒーを飲んだら1食分のカネを取られるんだぞ」

一五は笑いもしなかった。

「よく食いますね」暇な一五は加納の食べっぷりをそう評した。

「貧乏性だよ。こういうホテルに泊まると、元を取らないと気が済まないからな」

一五はまた、笑わなかった。

打ち合わせは加納の部屋ですることにした。

一五は「考えを変えました。指だけだとインパクトがないから、腕を差し出すことにします」と言った。

「腕を切り落として、服部にくれてやるっていうのか」加納は一五の提案が冗談なのか本気なのかわからなかった。

「昨日、斧を買ったので、服部の前でこれを切り落としてください」と言って、一五は左手で右腕を撫でた。

「まあ、何を差し出すかはおいといて、服部との面談は今日の夕方か夜だ。時間はこのあと奴から電話がくる。場所は、江別の奴の中古車店だ。江別まで1時間をみとけばいいかな。指定された時間の1時間前に、お前の車で江別に行こう。車をボコボコにされたといっていたが、それは服部にやられたのか」

「いえ、服部の中古車店にはどこかの組員と思われるヤクザ者が2人いて、そいつらにやられました。昨日、服部の店を張っていたんですが、車のなかで居眠りしていたら3人に囲まれて」

「3人て、服部と組員2人だな」

「そうです。なぜか服部は俺のことを知っていた。服部が俺を挑発している間、ヤクザ2人が車を叩きました」

「車は壊れていないのか」

「見た目が悪いだけですね。走行や安全性は問題ありません」

「警察に目をつけられないか。江別に行く途中でパトカーに停められたら面倒だぞ」

「そこまでの傷ではありません。不幸なボロ車って感じです」

「じゃあ車はそれでいいな。それで、腕を差し出すって、本気か。しかも右手をか。お前、右利きだろ」

「そうですよ。最初は、服部の目の前で指を落とせば、とりあえず形になると思いましたが、どうもそんなもんじゃ解決しませんね」

「俺もそう思っていた。服部はまともでしっかりしていて、腹も座っている」

「それに人望もある。2人の子分の忠誠心は本物ですね」

「それでなんだ、俺が斧で、お前の右腕を切断するのか。こう振りかぶって、ドンってか」加納は空中で架空の斧を持ち、振りかぶっておろすジェスチャーをした。

「お願いします」

「なるほどねえ、まあ、そこまでやればオトシマエになるだろうな。そのあとはどうするんだ」

「北大病院に行きます。すでに予約してあるんで」

「北大病院って、北海道大学の医学部の病院か。知り合いでもいるのか」

「まあ」

「いやいやいや、お前、本当に俺に、お前の右腕を切り落とせといっているのか」

「はい」

「いやあ、マジか。そこまでやる必要あるか。服部だって、こっちが探したから動いただけであって、こっちが放っておけばマル警相手に戦争を起こしたりしないだろ。今のまま、だましだましやっていけばいいじゃないか」

「いや、昨日あらためて服部をみて、こりゃあ無理だなと思いましたね。俺もだましだましいけるかもしれないと期待していましたが、あれは面倒な奴だ。逃げても捕まる。しかも相当偉くなるでしょうね。

奴が力を持ったときに捕まったら、片腕だけでは済まないでしょう。謝るなら、相手が期待している謝罪の2倍謝ります。奴が俺の指を期待しているなら、俺は腕を差し出します」

「奴がお前の指を欲しがっているかどうかわからんだろう。でもだからって腕はやりすぎだって。それならカネを差し出したほうがいいだろ。懸賞金に色をつけて1,000万でも1,500万でも渡せよ」

「じゃあ、加納さんも手伝ってくださいよ。500万上乗せしてください。俺が1,500万つくるから、合わせて2,000万にして服部に渡しましょう」

「おう、そうしよう」

「冗談ですよ。加納さんていい人ですね」

「いや冗談でなく、そうしようって」

「いや、冗談です。俺は自分のものを獲られるのが死ぬほど嫌なんですよね。道元殺しは俺の手柄で、懸賞金はその報酬だ。俺は政府の命令と『グループ』の指示を使命とみなして、それを実行して成功して懸賞金を得た。金子を裏切って、高桑を生贄にしてようやく獲得したカネです。その他の貯金も、マル警で命を削って、倫理を捨てて得たカネです。それを服部ごときに渡したくない」

「でも腕を渡すなら同じじゃねえか」

「腕は俺が自主的に差し出す。服部も、まさか腕を差し出されるとは思っていない。加納さんも想像していなかったくらいですからね。

それに腕を獲られても、服部からはそれ以上のものを取り返す。だから腕は投資です」

「よくわからん理屈だな。斧は買ったんだろ。みせてくれ」

「車に積んであるので、取ってきます」


一五は加納の部屋を出て、ホテルの駐車場に行き、自分の車のトランクから斧を取り出した。そのままそれを持ってホテルのなかに入れないから、何か隠すのにいいものはないかと探したら、傘があった。傘のなかに斧を入れてホテルのなかに入って、加納の部屋に戻ってきた。

加納は斧を手に取って、刃についている厚手のカバーを外した。「こらまた、よく切れそうな斧だな」

一五は段取りを説明した。

「俺が服部に、机を用意させます。俺は右腕をこうのせます」一五はベッドのすぐ脇に座り、ベッドを机に見立てて右腕をのせた。「加納さんは、ここを狙ってください」一五は左手で、右手の手首とひじの中間地点を指した。

「ちょっと待て、やってみよう」そう言いながら加納は、刃に、先ほど取り外したカバーを取りつけてから、ゆっくりと振りかぶって、ゆっくりと振り下ろして、刃のカバーを一五が指さした位置に当てた。「こんな感じか。ひじの下を狙えばいいんだな。もっと手首に近いほうがいいんじゃないか」

「ひじから先が少しでもあれば、いい義手があるらしいので。でも、差し出す腕が短いと、服部が満足しないかもしれないから、やっぱりここらへんでお願いします」

打ち合わせはそれで終わった。2人は集合時間までわかれることになった。一五は、また斧を傘のなかに隠して部屋を出た。そして車に乗って、とりあえず走った。一五はすでに自分が泊まったホテルをチェックアウトしていた。


午後6時ごろ、加納が一五に電話をして、「9時に江別の中古車店だ。8時にホテルの下に来てくれ」と言った。

中古車店に向かう車のなかで、加納は喋らなかった。一五は「こういうときに何もいわない加納は、やはり付き合いやすい」と思った。

札幌市内の道路は空いていて、江別市の道路はもっと空いていたから、20分前には中古車店がみえる場所に着いた。一五はそこで車を停めた。一五が居眠りをしているところを、服部と組員2人襲われた場所である。

加納は「そうだな。ちょっと遅く行って、イライラさせるか」と言った。

一五はシートを倒して、目をつむった。加納は「寝るなよ」と言ったが、一五は何も言わなかった。エンジンは切らなかった。

加納が「9時10分だ」と言った。一五はシートを起こして車を走らせて、20秒で中古車店に着いた。

すぐに2人の子分が出てきた。加納は何も持たずに車を出た。拳銃はシートの下に隠してあった。一五は斧を持って車を出た。

子分の1人が一五に「それはなんだ」と聞いた。一五は「お前らをやる武器だよ」と言って、斧を子分に渡した。

「なめんなよ、この野郎」

「いいからそれを服部に渡してこい」

もう1人の子分は、加納のボディチェックをしている。それが終わると、その者は一五もボディチェックした。

斧を持った子分が先導し、加納、一五、ボディチェックをした子分と、4人が一列になって歩き始めた。先頭の子分は、店舗のプレハブに入らず整備工場に入った。

整備工場の床はむき出しの土だった。棚やら機械やらが散乱していたが、それらは壁のほうに追いやられて、広い空間ができていた。その中央に服部がパイプ椅子に腰かけて座っていた。一五は笑いそうになった「ドラマかよ」と。一五が加納をみると、加納もこちらをみていて、2人はアイコンタクトで「ドラマかよ」と思った。

ただ服部のほうはいたって真剣で、斧を持っている子分に低い声で「それはなんだ」と尋ねた。 

「こいつが持っていたもので、服部さんに渡せと」子分はそう答えた。

服部は斧を受け取って、刃についていたカバーを取り外して「なんだこれは」と一五に尋ねた。

「斧だよ」

「これで俺たちをやろうと」

「違うよ。俺の腕を落とすために持ってきた」

「わははは。おいおい、ずいぶん準備がいいな。でも俺はお前の腕なんかいらないよ。カネを寄越せ」

「いくら欲しいんだ」

「1億」

「アホか」

「なんだと」子分が勢いよく怒鳴った。

「1億よこせ。そうしたら手打ちにしてやる」

「1億なんてあるか。バーカ」

「じゃあ、この斧で殺す」

「なあ、服部よ、そう格好つけるなよ。道元も創元もいないんだぞ。しかも、お前は、カタギからヤクザになったばかりだ。いくら血統がよくても、札幌の組はどこも相手にしてくれないだろ。だからこんなボロ屋に、馬鹿2人飼ってるんだろ」

「なんだとこら」子分がまた、怒鳴った。

ここで加納がようやく口を出した。「雑魚は黙ってろ、な」と。


一五は続ける。「お前は元サラリーマンだから、損得勘定ができる。その馬鹿どもにはできないことだ」今度はどちらの子分も何もいわなかった。「お前が俺を殺すことは、損しかない。マル警と道警の両方を敵に回すことになるからな。今度こそ皐月組は消滅するぞ、跡形もなく、木っ端微塵だ。

お前も元サラリーマンなら、取引の相場を考えろ。俺の命が1億なわけがないだろ」

「じゃあ、2,000万寄越せ。親父にかかってた懸賞金はお前がもらったんだろ。その2倍を支払え。相場だろ」

「あのカネは俺の勲章だ。俺は日本政府と北海道庁から道元殺しを命じられて、その使命を果たして懸賞金を得た。日本国民と北海道民の税金でつくられたそのキレイなカネを、お前みたいなクズに渡せるか」


服部は当初、落ち着きがなかった。誰もいない整備工場にパイプ椅子を置き、そこに座って一五たちを待つ演出は、いかにも落ち着いていない証拠だった。そのわざとらしい演出と1億円を要求する幼稚さをすぐに一五と加納に見透かされた服部は、あせった。

落ち着いていない気持ちにさらにあせりが加わったことで、服部は「しまった、飲まれている」と思った。

しかし服部には天性の残酷さと、地頭のよさがあった。服部の残忍性ははっきりと「一五の腕が落とされるところをみてみたい」といっていた。そして回転の速い彼の脳は、一五を殺してマル警と道警が本気になったら、自分は1週間と持たないだろうことを、服部に教えていた。

この冷静な分析ができたとき、服部はようやく落ち着きを取り戻した。それでこういうことができた。「国民と道民の税金がキレイなカネなんですかね」と。

一五も加納も、服部が本調子を取り戻したことを知った。


加納が再び口を開いた。「服部、どうするんだよ。カネは、一五も俺も1円も払わない。だからお前が、一五の腕を要らないっていうなら、俺たちは帰るまでだ」

「帰ってもいいよ」服部は余裕の笑顔を浮かべながら言った。「俺がお前たちを呼んだわけじゃない。お前たちが俺を探して、俺に会いにきたんだ、わざわざ根室から。俺はお前たちに用はない。用があるのはお前たちだ」

一五がその会話を引き取る。「俺の利き腕は右手だ。これから俺の腕を、加納が落とす。お前はその腕を受け取れ。マル警の部長の腕を獲れば、お前は札幌で堂々とデビューできる。

腕が切れたら、加納が救急車を呼ぶ。病院の医師は、なぜ腕を切断したのかと尋ねる。俺も加納も、俺が自動車の整備を手伝ったせいで、動いているエンジンのなかに腕を突っ込んで切断したと証言する。俺も加納も外務省の人間だ、高級公務員が病院でそう証言すればそれが通るから、ここに警察が来ることはない。

おい2人、その机をここに持ってこい。服部は、その斧を加納に渡せ。もう処刑を始めよう」一五は一気にまくし立てた。


2人の子分は服部の顔をみた。服部は「机を運べ」と言った。壁のほうに追いやられた古くて汚い事務机が整備工場の中央に置かれた。一五が子分の1人に「椅子を寄越せ」と言った。その者は今度は服部の顔をみずに、パイプ椅子を広げて事務机の前に置いた。そこに一五が座った。

加納が「おい服部、斧を寄越せ」と服部に言った。

服部は「いや、俺が切る」と答えた。

加納は「駄目だ。俺にやらせないなら、帰る」と言った。

服部は斧を加納に渡した。

加納は斧を手に取った。刃はすでにむき出しになっている。一五は右腕だけを事務机の上に置いて、そのときを待っている。

「じゃあいきますよ」と言いながら加納は斧を振りかぶり、躊躇なくそれを一五の右腕に下ろした。

一五は「わあっ」と声にしてから、頭を机の上に打ちつけた。もう一度打ちつけた。もう一度打ちつけてから、立ち上がって「ああ、いてえいてえ」と言いながら、机の周りをぐるぐる歩き始めた。

一五の体に残っている右腕からは血が吹いていて、整備工場にまき散らした。一五の体から切り離された右腕は、静かに机の上にとどまっていた。

加納は斧を手に持ったまま、「いち、に、さん」と頭のなかで数えた。そして「はち、きゅう、じゅう」と数え終えたとき、靴を脱いでなかに入れていた針金を取り出して、一五を抱きかかえて椅子に強制的に座らせて、針金で右腕の切断面の10cm上をぐるぐる巻きにして止血した。

服部はそれを黙ってみていた。


止血を終えた加納は、自分の携帯を出した。服部が「救急車を呼ぶな」と怒鳴ったが、加納は「さっき説明したろうが」と怒鳴り返した。服部は「でも駄目だ」と言ったが、加納は無視して119番通報した。

加納は電話口の消防署の職員が「火事ですか、救急ですか」と言うのを遮って、「いいから質問するな。こちらは捜査当局だ。全部いう。

救急車を、江別市旭町3の2の中古車店シャレードに。51歳男性が右腕を切断してしまった。事故だ。男性の名前は、いちご・しげお、珍しい苗字だが、数字の一と数字の五でいちご、しげおは、重いに雄。

この男は自動車の整備中に動いているエンジンに腕を突っ込んで手首の上で切断した。右腕。切断は私も確認している。切断して落ちた腕の部分は粉々で、エンジン内に飛び散っている。

本人は意識がある。命に別状なし。止血もした。止血は、針金で傷口の少し上をぐるぐる巻きにしている。出血は大体止まっている」

電話口の職員は「今救急車を手配しました。誰か建物の外に出て、道路で救急車を誘導できますか」と言った。

加納は「ありがとう。あとは救急隊員とやる」と言って電話を切った。

一五は息を切らせながら服部に「これでチャラだぞ」と言った。

服部は、「こちらは道元と創元を亡くし、組をなくし、そちらは部下1人とこいつの腕だけだ。到底チャラにならない」と笑って言った。そして「懸賞金を寄越せ。それでチャラにする」と言った。

一五は言った。「カネをあきらめるなら、これは事故にする。もしあきらめないなら、お前に切られたと、救急隊員にいう。すぐに警察がここにきて、調べるぞ。

散々血をまいたから、警察が来る前にすべてをふき取ることはできない。1滴でも俺の血液が検出されれば、ここが処刑現場と認定される」

服部は「うるせえな」と言ってから立ち上がり、鉄製タンクを取り上げてなかの液体を地面にまいた。ガソリンであることは臭いで知れた。加納は服部に襲いかかろうとしたが、子分2人に取り押さえられた。

一五は「俺を殺さないのは、お前もチャラにしたいからだろ」と言った。

服部は「1,000万を寄越せ」と言った。

加納は「救急車がくるぞ。はっとりぃ、決めろ、手打ちにしろ、チャラにしろ。マル警もこれでお前に手を出さない。道警もこちらで抑える。道警にいって、札幌にお前のシマを確保させる。決めろ」と言った。

服部は「お前は、オヤジと手を組むといってオヤジを殺した。そんな奴のいうことなんて聞けない」と冷静に言いながらガソリンをまき終えた。そして「1,000万寄越せ」と繰り返した。

一五は「俺は、ある大病院にコネがある。俺のいうことを聞く医者がいる。そいつの弱みを握っている。そいつから、モルヒネと注射器を入手して、お前に格安で売る。これで手を打て」と言った。

これには加納が思わず「なんだそれ」と言ってしまった。加納は、一五の大病院のコネクションを知らなかった。

服部は棚まで速足で歩いていき、工具箱のなかから拳銃を取り出して、一五の右膝に銃口を向けた。そして「膝を撃つ。これでチャラにする。病院のモルヒネと注射器もつけろよ」と言った。

一五は「弾の跡はごまかせないぞ。医者は必ず警察に通報するから、事件化してお前は終わりだ。俺たちは警察とグルだから、俺たちは無罪放免だ」と言った。

服部は2秒考えて、拳銃を工具箱に戻した。救急車のサイレンが聞こえてきた。服部は子分の1人の名前を呼んで「救急隊を呼んでこい」と指示した。

加納は「服部、一五の腕を隠せ。消防には、腕は木っ端微塵になったと話した」と服部に言った。服部はもう1人の子分に指示した。子分は一五の腕を拾って、そこらへんに落ちていたビニールや布でぐるぐる巻きにした。


一五と加納が救急車に乗り込むと、服部たち3人はプレハブに入ってしまった。

一五は救急隊員に、北海道大学医学部附属病院に行くようにいった。そして「北大病院に知り合いの医師がいて、119番したあとに連絡して了解してもらった。先生の名前は外科の高見先生」とつけ加えた。

救急隊員が北大病院に電話をすると、しばらくして高見という医師が一五を受け入れるといっている、という回答を得た。それで救急車が走り出した。


救急車のなかで加納は一五に「お前、よく喋れるな」と言った。一五は何もいわなかった。

一五は加納と落ち合う前にドラッグストアで痛み止め薬の瓶を買い、その半分を飲んでいたから痛みはかなり弱まっていた。一五は、このトリックは、加納に黙っておこうと思った。なぜなら、加納が一五のことを、腕を麻酔なしで切られてもその痛みに耐えられる人間、と認識すれば、加納は一五に不気味さを感じるはずだ。

人は、不気味な相手を前にするとひるむ。もし加納と対峙しなければならくなったとき、加納がひるんでいれば、一五は戦いを有利に展開できる。


第10章


一五は負けた。


右腕の大部分を失くした一五は、北海道大学医学部附属病院の手術室で、外科医、高見武雄(たかみ・たけお、51歳)の手術を受け、切断面は縫合された。

外科病棟の個室のベッドで眠っていたら、高見が刑事を4人連れて入ってきた。刑事は一五に逮捕容疑を伝え、一五に左手に手錠をかけて、もう1つの輪をベッドの金具にかけた。

刑事は「加納はどこにいる」と言ったが、加納はすぐに一五の病室に入ってきた。コーヒーを片手に持っていた。加納にも手錠がかけられた。加納は2人の刑事に連れられて個室を出た。残り2人の刑事は個室にとどまった。高見も個室を出て行った。

一五の知り合いである北大病院の外科医、高見は、一五の要望を受け事故として扱ったが、看護師が高見に黙って警察に通報したのである。


外科医の高見は、北大医学部外科研究室の医局長という役職を持っていた。

高見は北大医学部出身で、一五とは同期だった。一五は法学部だった。学部が異なる2人が懇意になったのは同じ学生寮に住んでいたからである。

そのころから高見は、少女の裸の写真でマスターベーションをしていた。そしてそれを一五やその他の者に隠すことはなかった。当時はまだ、小児性愛者はロリコンと呼ばれていて、性癖の1つとして許容されていたからである。


社会人になって2人は疎遠になったが、一五は、高見が北大医学部の外科研究室の医局長に就任したことを知り、高見に「久しぶりに飲まないか」と誘った。高見は「医者以外と飲むのは久しぶりだから嬉しい」と言って、それに応じた。2人は、すすきのの古い焼鳥屋に行った。

酔った高見は、小児性愛者であることの肩身の狭さを一五に愚痴った。「小さな女の子を性の対象にすることは、これはもう病気だ。病気なら治療してもらいたい」と。

一五は高見に、少女と呼ばれる年齢の女を抱いたことがあるのか、と聞いた。高見は、ないと答えた。「そこはわきまえている。だから、最低でも20歳の女としかやらない」と。高見には妻と娘が2人いた。

それで一五は「ここらの風俗か」と聞いた。高見は「まあそうだ」と言った。一五は、高見が嘘をいっているとわかった。「どこかで少女を調達している」と思った。

それで一五は、10代前半の女ならカネ次第で用意できると持ちかけた。高見は「いくらか」と言ってから、「いや、いい。どうせやばいルートなんだろ」と言った。

「もちろんやばいルートだ。危険を冒さず少女は抱けない。それはお前も知ってるだろ。やばいルートから少女を買って、痛い目をみたんだろ」

「その質問には答えないが、俺はそのルートに進まない。今のポジションを獲得するのにどれだけの犠牲を払ってきたか」

「犠牲を払って高いポジションを獲得したからこそのご褒美なんじゃないか」

「そうなんだ。なぜ日本では、合法的に好きなセックスができないんだ」

「好きなセックスができる国なんてあるのか」

「知らん。とにかく俺は、ポルシェを買うわけでもなく、女を囲うわけでもなく、高級レストランには行くが好きで行っているわけではない。こういう汚い焼鳥屋のほうが好きだ。

俺は人の命を救うことしかやっていない。何のご褒美もない。月に1回とはいわないが、せめて半年に一度くらいは、やりたい女とやりたい」

「車は何に乗っているんだ」

「クラウンだ」

「十分だろ」

「それにアルファードもある。キャンプ用に」

「ははは、十分すぎるだろう。むしろ強欲だ」

「でも両方ともトヨタだ」

「トヨタに乗っていれば庶民ってか。

とにかく俺はやばいルートを持っている。下は12歳まで調達できる。カネはかかるが、まあそれは安全料と思うしかないな」

「なぜカネを払えば安全になるんだ」

「やばいルートの奴らにとって、相場より高いカネで女を買う奴は上客だ。上客は常に守られる」

「俺に少女をあてがうと、お前にも分け前が入るのか」

「俺は外務省の職員だ」

「それがなんだ。俺も国家公務員だ。正確には独立行政法人職員だが」

「俺は外務省の情報屋だ。やばいルートとつながりを持って、そこから情報を得て、北方領土奪還の策を練る外務省の偉い人や政治家にその情報を提供する。俺はそうやって出世したり権力を得たりする。

だから俺は、やばい奴らが持っている情報が欲しい。

やばい奴らにお前みたいな上客を紹介すれば、情報をもらえる。だから俺は、やばい奴らにもお前にもカネは請求しない」

「それでいくらなんだ」

「100万」

「だと思ったよ。それは無理だ」

「じゃあ仕方がないな。あの世界にバーゲンはないからな」

「100万を払えば、情報漏洩を心配せず、安心して抱けるのか。何時間だ。女は選べるのか。年齢は指定できるのか」

「あの世界に入るチケット代は50万だ。それを担当者に渡せば、お前は知りたいことのすべてを担当者から直接聞くことができる。それに納得したら、さらに50万を支払え。そうすれば幼い女の子が、お前が取ったホテルの部屋にやってくる」

「入会金が50万で、1回ごとに50万ってことか」

「まあ大体そんなところだが、やばい世界のシステムなんてあってないようなものだ」

「あいまいなシステムは恐いな。ずるずるカネづるにされるんじゃないか」

「女を1人抱くのに50万を支払うのは十分カネづるだ。奴らはカネのために動くから、カネを支払っているうちは安全だ」

「なるほどね。お前の知り合いでなければ、やばい世界にも入れないってことか」

「そういうことだ。すすきの風俗街の真ん中で『100万払うから少女を抱かせろ』と叫んでも、紹介しましょうなんていう人間は現れない」

高見は一五に100万円を支払い、一五はその全額をヤクザに支払い、高見向けの少女の調達を依頼した。高見は13歳の売春婦を抱くことができた。

高見は半年に一度のペースで、一五に少女の調達を求めた。一五は一度も断らず少女を供給し続けた。


だから高見は、電子カルテの一五の欄に、自動車の整備中に事故が発生して右腕が切断された、と記載した。

ところが電子カルテの内容を確認した看護師が、高見に、一五の腕の切り口は明らかに刃物によるもので、自動車のエンジンに巻き込まれたらあのような綺麗な切り口にならないはずだ、といった。「それに、自動車のエンジンに腕を巻き込まれるって、どういう状態ですか。エンジンのどこに腕を突っ込めば、腕が真っ二つに切れるっていうんですか」とも言った。

高見は「この患者は知っている。根室にいる、外務省の役人だ。外務省といっても、悪い奴らと戦う仕事で、敵はヤクザとかロシア人とかだ。面倒な奴だ。だから当人が『エンジンに巻き込まれた』と言っているなら、そうしておいたほうがよい」と、看護師の説得を試みた。

この看護師は、北大医学部卒の北大医学部外科研究室の医局長が、看護師の助言に従うわけがないことを知っていた。それでこの看護師は「わかりました」とだけ言って引き下がったふりをして、控室に行って自分のスマホを取り、女子トイレの個室から警察に通報した。


これで一五と加納は、北海道警察北署の刑事に逮捕された。刑事はさらに救急隊から情報を得て、服部と2人の子分も逮捕した。

一五は北大病院から、同じ札幌市内の警察病院に移送され、再び手錠で左手とベッドをつながれた。


服部と2人の子分は、加納が一五の腕を切断したと証言したが、北署の刑事は、一五と加納の証言を正とすることにした。つまり、服部が父親道元の敵討ちをするために一五の腕を切断した、という証言をベースにして事件の流れを組み立てていった。

服部の中古車店の整備工場から一五の腕がみつかった。凶器の斧には、加納と一五と服部と子分の指紋が付着していた。


北署の刑事は、北署署長に、加納と一五を釈放してよいか、と尋ねた。北署署長は、本部長に聞いてみると答えた。

道警本部長は北署署長に、電話口に加納を出せといった。

道警本部長は、電話に出た加納に、一五を処分したいと打診した。加納は道警本部長に、外務省と警察庁には話を通しているのかと尋ねた。道警本部長は「無論だ」と言った。

道警本部長は加納に、一五を刑務所に25年入れておける容疑を考えろといった。「ただし、外国人関連以外、北方領土関連以外でだ。事を荒立てない、無難なものを考えてくれ」とつけ加えた。

加納は「それは簡単なことだが、俺にそんな態度でいいのか」と言った。

道警本部長は「お前こそ俺にそんな態度でいいのか。外務省から連絡があったか。ないだろ。切られたんだよ、お前」と言った。加納は黙った。

北署は加納を釈放した。しかし一五は釈放せず、別件で逮捕した。


警察病院の入院ベッドで横になっていた一五は、刑事から加納が釈放されたことを聞いて、大体のことを理解した。刑事は一五に、犯罪リストを渡した。売春斡旋、麻薬取引、拳銃の不法所持など、当たり障りがないものの確実に刑期が長くなる犯罪が並んでいた。

一五は「これを全部被れと」と刑事に言った。

刑事は「全部でなくてよい。確実に実刑をくらうことができて、裁判が短期で終わるくらい確かな明白な証拠が残っているものを挙げてくれ」と言った。

「じゃあ、売春斡旋で」

「それじゃあ足らん。刑期が25年くらいになるやつを頼む」

「あっそ。じゃあ、結局全部じゃないか。それより手錠をなんとかならないか。寝返りが打てん」

「明日朝、弁護士がくる。そいつがストーリーをお前に伝える。そのストーリーは道警が納得済だ。

もしお前が検察の取り調べでそのストーリーを覆したら、25年の刑務所生活はつらく苦しいものになる。ホモのヤクザに毎日カマを掘られて、奴らのチンコをお前の口で洗ってやらなければならない。殴られて肋骨が折れても、頭蓋骨が陥没しても、まともな医療は受けられない。

しかしお前が検察官の前でも裁判官の前でもストーリーに沿って回答すれば、25年の刑は意外に楽なものになる。知能犯の房に入れてやるし、毎日テレビと新聞をみることができるし、老人の囚人の介護ボランティアをさせてやる。模範囚になれば、パソコンも使わせてやる。曝露本を書くことができるぞ」刑事はそう言って帰っていった。


一五は負けた。

刑務所に収監される前、一五は1回だけ加納と話す機会があった。その時間は数分しかなかったから、一五は質問を1つにした。

「『グループ』は本当に存在するのか」

加納はこう答えた。「『グループ』は想像上の存在だと思っているのか」

「違うのか」

「じゃあ1つだけ教えてやる。金子は『グループ』のメンバーだった」

金子は、皐月会根室支部の支部長だった男で、一五が道元を殺害するのをサポートした。その後、刑務所に収監され、囚人の暴動騒ぎのなかで殺害された。


一五は刑務所のなかで、「俺の敗因は常識だ」と思った。外科医の武見が一五の悪事を隠蔽したのを暴露した看護師は常識の感覚を持っていた。道警本部長も常識を知っていた。加納も結局は常識人だった。一五の父親も常識人だったから東大を出て官僚になり、自分も常識人だったから北大を出て道警に入って、さらに外務省に入った。

ではなぜ一五の敗因は常識だったのか。一五は「結局俺は、常識人だったんだ」と思った。


常識人が非常識な行動を取っても、必ずどこかで失敗する。そこに無理が生じるからだ。

服部は一五と同じタイミングで刑務所に収監された。しかし服部のほうが一五より先に刑務所を出るはずである。

「俺は服部みたいなクズにすら負けた」と、一五は思った。

「服部は真性のクズだから、クズどもの世界でうまく立ち回ることができる。自分は常識があるから、クズたちの世界では浮いた存在になって、だから駆逐されやすい」

一五の考えは、まだ進んだ。

「25年後には、マル警の職員も道警の刑事も全員引退しているし、死んでいるかもしれないし介護施設に入っているかもしれない。25年後に刑務所を出た80歳近い俺が復讐を始めたところで、やれるのは1人だろう。加納と同士討ちできればよいほうだ。

常識世界で生きる常識人は強い。非常識世界で生きる非常識人も強い。常識人が非常識世界で生きようとすると弱い」と思った。

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