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M-1審査員落選の立川志らく発言への批判にみるSNSの疑似平等の功罪【芸能論】


芸能人と一般人はかつて、殿上人と地下人くらいの違いがあった。芸能人はアンタッチャブルな存在だった。
しかしSNSの登場により、一般人は簡単に芸能人にアクセスできるようになり、芸能人側はそのアクセスを認めざるをえなくなった。つまり芸能人と一般人はSNSによって平等になった。
それは疑似の平等でしかない。しかし疑似であっても平等は平等なので、新たな価値を生む力がある。

「M-1審査員を外された奴が黙ってろ」がニュースになる

立川志らくは昨年までM-1の審査員だったが今年は外された。それでも志らくは今年の放送をみたそうで、Xで「私が審査員をしていたら真空ジェシカがファイナルに進めて、令和ロマンが進めなかった」とコメントした。
このコメントに対して一般人がSNSで「昨年まで審査員だった人が、自分が審査員だったら優勝者が変わっていたみたいな発言。審査員降りたことの恨みつらみがこもったコメントに読めた」と批判した。
この、志らくの発言とそれへの批判を、光文社という出版社が芸能ニュースとして伝えた。

https://smart-flash.jp/entame/267059/1/1/

この現象のポイントは、1)SNSでは芸能人と一般人が平等にみえることと、2)疑似平等には芸能ニュースの価値を生む力がある、の2点である。

1)SNSでは芸能人と一般人が平等にみえる

この芸能ニュースの筆者は、志らくに意地悪な視点で原稿を書いている。筆者は要するに「偉そうにしている志らくが、一般人にこんなこといわれてやんの」と言っている。筆者はこの芸能ニュースを使って志らくを攻撃しているのである。
この筆者が巧みなのは、志らくと一般人を同じ土俵に立たせたことだ。筆者は自分と同じくらい志らくを嫌っている者をSNSのなかから探し、この一般人をみつけた。
志らくと一般人が同じ土俵に立ったのは、SNSでは誰もが平等だからだ。

2)疑似平等には芸能ニュースの価値を生む力がある

芸能人が何かをして一般人があれこれいうことは、芸能界を楽しむ方法として珍しいことではない。志らくのコメントに一般人が批判することは、アイドル歌手を一般人が羨望のまなざしでみるのとまったく同じである。
したがって本来は、芸能人がしたことに対して一般人があれこれいうことは、芸能ニュースになる価値はない。
それでも今回、一般人の志らく批判が芸能ニュースとしての価値を持ちえたのは、SNSが疑似の平等をつくったからである。
成功している芸能人のコメントと、名も知れぬ一般人のコメントでは、言葉の重さが違う。ところがこの芸能ニュースの筆者はSNSの平等性を利用して、両者の言葉の重さを同じとみなした。それで「Aのコメントに対するBの批判」という対立軸をつくることに成功し、芸能ニュースとして成立させたのである。
SNSが生み出した疑似平等が、一般人の価値のないコメントに、芸能ニュース上の価値を付与したのである。

芸能ニュースのつくり方を教えている

志らくを批判したこの一般人は、自分のコメントが芸能ニュースに使われるとは思っていなかったろう。志らくを嫌っていたこの人は、志らくを攻撃する芸能ニュースに自分のコメントが引用されて気持ちよくなっているはずだ。
志らくは面白くないだろう。地位のある芸能人であるというプライドが傷ついたはずだ。
そして志らくを嫌っているそのほかの一般人は、この芸能ニュースを痛快に読んだであろう。「偉そうにしている志らくが、一般人にこんなこといわれてやんの」と思いながら。
そして、多くの人々に読まれる記事を書いた点において、この芸能ニュースの筆者は成功した。
この事例は、SNSが生む疑似平等で芸能ニュースをつくるレシピである。



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