見出し画像

 

1:暴力カモメの話


僕は、自殺をするなら、この港と決めていた。釧路港だ。北海道の一番東の港より、少し西にある。時期は二月の下旬。

ここには、アムール川の流氷は届かない。でも、釧路の冬は、海の水ぐらい平気に凍らせる。死ぬには、その氷を破る必要がある。生半可な飛び込みでは、打ち破れない。それが釧路港の価値だ。つまり、氷の下に入りさえすれば、自殺は成功するのだ。この車ごと飛び込めば、成功する。

もちろん、首吊りも考えた。これが一番確実な方法であると、自殺の教科書にも書いてある。「だから、一番人気だ」とも。それが気に入らなかった。自殺ぐらい、オリジナルでありたい。そう。僕はそれくらい陳腐な人生を送ってきた。最期ぐらい僕らしさを強調したい。


僕がカモメに襲われたのは、こうしてぐずぐずしていたからだ。何も死ぬのが怖くなってアクセルが踏めなかったわけではない。こんな吹雪の日に、救急隊を出動させるのがどうしても申し訳ないと思って躊躇してしまったのだ。僕が乗った車がダイブするところを誰も見なければ、少なくとも、僕を救出するために誰かが慌ててこの海に潜る必要はない。僕がダイブして二時間以上経過していれば、確かに車を引き揚げるために誰かが氷の下に入る必要はあるが、万全の準備を整えることができる、何しろその車の運転手は確実に死んでいるんだから。だから、あそこにいる漁師がいなくなるまで、飛び込むのを遠慮していたのだ。ところが、その漁師がいなくなったら、今度は海上保安庁の人間が視野に入ってきた。彼は巡視船の外観を入念にチェックしていた。

海上保安庁の人は当分そこにいると思ったので、僕はあきらめて、車のシートを倒して目をつむった。


カモメは、その隙をついてきた。車の運転席のドアが突如開いて、僕が「誰だ」と怒鳴る間もなくストレートパンチが飛んできた。そのカモメは、体長が一メートル五〇センチぐらいあった。僕の左頬にめり込んだのは、カモメの右羽だった。カモメは器用に羽の先をくるりと巻いて、握り拳を作っていた。



カモメの暴力はそれで終わらなかった。よろけた僕の胸ぐらを左羽でつかみ、僕の顔を起こしてから、もう一度右ストレートを放った。僕はかろうじて手で顔を防御できた。しかしカモメには仲間がいて、そいつは助手席のドアを開けて車の中に侵入し、僕の脇腹を殴った。

僕はあそこにいる海上保安庁の人間に助けを求めようとした。ところが腹の一撃がきいていて、声が声にならなかった。嘴でつつかれもした。何発殴られ、何回つつかれたのか覚えていない。でも少なくとも十二発は殴られ、九回はつつかれた。それで気を失った。


目覚めたのは、あまりに寒かったからである。僕は慌てて運転席と助手席のドアを閉め、そしてエンジンをかけ、暖房を最も強くかけた。がたがた震えていた。僕の車は小型車だから、暖房のききが遅い。だから最初は、送風口から出てくる強い風が吹雪のようだった。

それでもじっと我慢すると、今度は痛みに襲われた。暖かくなったせいで神経が機能し始めたのだ。ルームミラーで自分の顔を見た。青たんができていた。これは数時間で五倍に膨らむだろう。室内は白い羽だらけだった。小さな羽は、僕が着ていたダウンジャンパーの中身だ。大きな羽は、カモメのものだ。腕といわず、胸といわず、体のいたるところに、嘴と足の爪が作ったひっかき傷が残っていた。とてもいたい。触りたくない。

僕は、これは誰かの助けが必要だ、と思った。ところが、巡視船の周囲にも、漁船の甲板にも、人はいなかった。

僕は、今だ、とも思った。つまり、ギアを入れてアクセルを踏めば、死ねる、と。でも、もし遺体が引き揚げられたとき、警察官は僕の体の傷を見て、事件化してしまうのではないかとも思った。それは大変迷惑だった。僕は警察が嫌いだ。彼らには、僕の死体を見たら、すぐに自殺と判断して放っておいてもらいたいのだ。

仕切り直しをするしかない。


そうと決まれば、まずは体のチェックだ。次の自殺のために、体は資本だ。骨は折れていない。出血も大したことないことはないが、それでも、だらだら垂れている、というほどではない。移動はできる。この場所を離れよう。というのも、通常サイズのカモメは、相変わらずそこらを飛来していて、それが視野に入るたびに、びくっとなってしまうから。

車を走らせた。どこへ向かおう。病院に行く気はない。堅気の人間には会いたくない。ただ、無性に酒は飲みたい。それで末広に向かった。

末広は釧路の代表的な繁華街で、凍りついた道を慎重に走っても、釧路港から十分もいらない。行き先は、145センチしかない。ガンジーさんなら、このカモメに関する情報を持っているかもしれない。あの人は、釧路のことなら大抵のことは知っているから。

145センチは、末広にある、カウンター席が八席しかない居酒屋である。ガンジーさんは、145センチのマスターの名前。彼の身長が、店名の由来だ。


2:エロいオオサンショウウオと潜水カメラマンが飲んでいた

 

運が悪いことに、145センチには先客がいた。しかも二人も。いや、正確には一匹と一人。しかも、僕はそのどちらも嫌いだ。一匹の方は、エロいオオサンショウウオで、人間の方は潜水カメラマンである。

二人の方でも、僕を嫌っている。だから、僕が店に入ったとき、二人は僕を一瞬だけ見て、すぐに視線を戻した。ガンジーさんは、彼らと僕の仲の悪さを知っているので、僕を彼らから最も離れた席、といっても五席しか離れていないが――に座るよう案内した。

「えらい傷だね」

「ちょっと」

ガンジーさんは使い捨てのおしぼりを三本、封を開けて渡してくれた。僕はそれを受け取って、ふき取れるところはふき取った。

「まだいるかい?」

「いえ、もう大分いいです」

「お酒、飲める?」

「はい。燗酒をください」

「そうだね」


エロいオオサンショウウオと潜水カメラマンは、ガンジーさんと僕のやりとりを、見ないようにしながら、注意深く観察している。こいつらはそういう性格なのだ。

エロいオオサンショウウオの真っ黒の体は、一メートルしかない。大きな尻尾を、でろんと椅子の下に垂らし、それでバランスを取って、短い後ろ足でも椅子から落ちないようにしていた。前足を、あたかも腕組みしているかのように重ねてカウンターの上に置き、その上に、その面積のほとんどを口が占める頭を乗せている。


一方の潜水カメラマンは、いつものように、潜水メガネをかけ、シュノーケルを加えている。そして、やはりいつものように大きな一眼レフのカメラを持ち歩いている。カメラは、わざわざカウンターに置いている。カメラも、エロいオオサンショウウオの頭も、同じような大きさで、同じような黒色である。僕は「でも、バットで叩き潰すと、片方からは、どろどろしたものが出てきて、他方からは、金属片とプラスチック片が出てくるんだろうな」と想像したら、少しすっきりした。

エロいサンショウウオは「おい、どうしたんだ」と僕に質問した。

「別に」僕は奴の顔を見ずに答えた。僕には、こんな奴から傷の心配を受けたくなかった。

「別にってことないだろ、相棒が心配しているんだ」潜水カメラマンが茶々を入れる。「もっと愛想のある返事をしろ」

「けっ」

「この野郎。もっと痛い目に遭わせてやろうか」と潜水カメラマンがすごむ。

そこにガンジーさんが「よしなよ」と制止ながら、僕に徳利と猪口を渡した。

するとエロいオオサンショウウオが「どうせ暴力カモメにやられたんだろ」と言った。


僕は驚いた。エロいサンショウウオが、釧路市内の暴力事件に大抵暴力カモメが絡んでいることは常識である、といったように言ったからである。僕が一瞬言葉に詰まると、今度はガンジーさんが、「本当かい」と言った。

僕は「ガンジーさんは、あの巨大カモメのことを知っているんですか?」と尋ねた。

潜水カメラマンが「なんだお前、暴力カモメのことを知らずに港をうろついていたのか。馬鹿だなあ」と笑った。エロいオオサンショウウオも一緒に笑った。

僕は腹を立てようと思ったが、立たなかった。なぜならガンジーさんが「あなた、暴力カモメのことを知らずに、港にいたのかい」と、潜水カメラマンと同じことを言ったからである。

「知りませんでした」

「そうかい。それじゃあ、そのような結果になるわけだ」ガンジーさんはそう言ったきり、口を閉ざしてしまった。エロいオオサンショウウオと潜水カメラマンも、今度は何も言わなかった。


僕はあのカモメのことをもっと知りたかった。でも、「そんなことも知らないのか」ということがまだまだ出てきそうで、そうなったらまたこの一匹と一人から、「そんなことも知らないのか」と笑われそうで、それが嫌だから黙っていた。

幸運なことに、それから十分ほどして一匹と一人は飲み代を払って145センチを出て行った。僕は「ガンジーさん、あのカモメについてもっと教えてください」と言った。

ところが、「それよりあなた、釧路港で何をしていたんだい」ガンジーさんは逆に僕に質問をした。


3:少しだけ大きいが、やっぱり小さな看護婦


しかし、ガンジーさんは、それ以上は、僕が釧路港で何をしようとしていたかは聞かず、そして、この日はこれで店を閉めるという。

僕は、「僕がカモメにやられたからですか。それは申し訳ないです。僕はもう帰りますから」と言うが、ガンジーさんは「まあ、とにかく今日は店じまいします」と言った。


二人で店を出た。僕はぼろぼろのダウンジャンパーは車の中に置いてきたから、とても寒かった。145センチに向かうときは、暖かい場所を求めて歩いていたから耐えられたが、これからどこに行くのか分からないいまは、極寒に死にそうだった。ガンジーさんが店のドアの鍵をかけたとき、女が一人やってきて、「あれ、きょうはおしまいですか」と聞いた。

ガンジーさんは「そう。店を閉めて、君の家に行くところなんだ」と言った。

女は短い髪をしていた。彼女の背は、百七十四センチの僕よりははるかに小さいが、背の低いガンジーさんよりは、やや高かった。細身で、そして、美人といえなくもない。年齢は、三十五歳にも見えるが、多分それは小さいからだ。小さい人は若く見える。だから僕は、彼女は四十代後半だろうと見積もった。

「私の家に、そちらの怪我人を連れて?」と女が言った。

「そう。怪我をしているから、君の家さ」とガンジーさんが答えた。

「おかしいでしょ。怪我をしている人は、普通病院に連れて行くでしょ」

「もう遅いから」

「救急センターがあるでしょ。それに私は暖かいお酒が飲みたいの。145センチがやってないなら、別の店に行くだけ」

「救急センターには、この人は行けない」

「え。あ。あっそう。暴力カモメ?」

「そういうこと。とにかく、あのタクシーに乗ろう。寒い」

ここでタクシーに乗っては、僕は翌日また、車を拾いにここに戻ってこなければならない。それで僕は、「僕は車で来ていますから、それで行きましょう」と言った。

「あなた、飲んでないんですか?」女が尋ねる。

僕は「大丈夫です、運転できます。飲んだといっても、少しだけですから」と答えた。ガンジーさんは考え込んでから、「幸子さんが運転してくださいよ」と女に頼んだ。女は、幸子さん、というらしい。


幸子さんは腕組みをして考えてから、「仕方ないですね、暴力カモメがらみだし」と言った。

僕は、あのカモメのことになると、なぜか話がスムーズに進むことに違和感を覚えた。ガンジーさんも、エロいオオサンショウウオも潜水カメラマンも、そして幸子さんも、あのカモメのことを暴力カモメという一般名詞で呼び、一見、恐れているような素振りは見せる。でも、ゴジラやハブを怖がる感じとも違う。カメムシや水道管のヘドロを嫌悪するのとも違う。例えるならそう、メロンパンの幽霊に脅かされたかのようだ。メロンパンはメロンパンだが、でもそれは幽霊である。恐いことは恐い。でも、幽霊ではあるが、やっぱりメロンパン独特の滑稽さはある。メロンパンの幽霊が目の前に現れたら、リアクションの取り方に悩むだろう。こんな感じだ。

暗い道に突然現れて、「俺はメロンパンだ。どうして、ほんの少しでもいいから、果汁か果肉を加えてくれなかったんだ。亀甲模様を入れただけで『はいメロンです』って言えって、これまでどれほど恥ずかしい思いをしてきたか」と言われたら、二十秒ぐらいは驚くだろう。

でも、幽霊の正体がメロンパンだと分かるにつれて恐れが和らぎ、そこに気味悪さとおかしみのミックスソースがかけられたような心境になるだろう。それはとても複雑な気持ちに違いない。あのカモメにかかわる者たちは、それに似た複雑な感じを持っている。

というようなことを考えながら、僕はガンジーさんと幸子さんを連れて、車を置いた有料駐車場に向かった。小屋で料金を支払ったのは、ガンジーさんだった。「もうこれ以上暴力カモメの登場を知らせるのも厄介だから」とのことだった。つまり、有料駐車場の従業員も、僕の怪我を見たら、きっと暴力カモメにやられたと見抜くからだった。


運転席に幸子さん、助手席にガンジーさん、僕は後部座席に座らされた。これもガンジーさんが僕に、「できれば寝転がっていて、横を走る車に気付かれないように」と言ったからである。十分に冷えた室内の、さらに強い冷たさを感じさせるシートに触れる面積は、少ないほどましだったから、横になんてなりたくなかった。でもこのころには僕も、暴力カモメに殴られたことをこれ以上誰にも知られたくないと思うようになっていた。それで指示通り横になった。後部座席には、一時間前に放り投げた、中身の羽の大半が零れ落ちたダウンジャンパーがあった。そんなジャンパーでも下に敷くと寒さが和らぐような気がした。

前席では、ガンジーさんと幸子さんが会話を始めた。幸子さんが僕に関する情報を求め、ガンジーさんがそれを与えていることは分かった。また、幸子さんは僕が暴力カモメに殴られたときの様子を尋ねたが、そもそも僕がガンジーさんに詳しくは話していないから、ガンジーさんはうまく答えられないようだった。彼らの方で僕に直接聞かなかったし、だから僕も聞こえないふりをしていた。

幸子さんの自宅にはすぐに着いた。北海道教育大学釧路校の近隣に林立する安アパートのひとつがそれだった。それで僕は、幸子さんはこの大学の講師かなにかなんだろうと推測した。幸子さんの部屋は二階で、外階段の鉄は錆がこびりついていて、それを踏む音が響くので、三人はそろそろと昇った。


4:手の平サイズの熊に襲われた話


幸子さんの部屋は、一目で見渡せた。シンク、冷蔵庫、食卓テーブル、向かい合わせに置いてある二脚の椅子、食器入れ。そして次の部屋の存在を知らせる、閉じられた襖。その襖の奥から「誰か他の人もいるの?」という子供の声がした。

「俺と、俺の友人が来ている」とガンジーさんがそれに答えた。

「ガンジーさん? 久しぶり」子供は安心したようだった。

幸子さんは「さあ、まずは怪我の手当てをしよう」と言い、襖を開けた。電灯をつけると、そこは白い診察室だった。奥にガラス窓。その手前のベッドには、切り傷を二十個以上顔につけた子供が、布団をかけて寝ていて、顔だけこちらを見ている。子供の性別はこのときは分からなかった。白い棚があり、中に並ぶのは医薬品や医療器具だ。そして子供が寝ているベッドとは別に、病院の外来診察室にある簡素な処置ベッドがあり、そこには白いタオルと無機質な枕が置いてある。その横に丸椅子がある。

「服を脱いで、そこに横になって」と、幸子さんは、僕を処置ベッドに促して、自分は丸椅子に座った。

ところどころ穴が開いたシャツを脱ぎ、それよりは少ない数の穴が開いたティシャツを脱ぎ、それと同じ数の傷を持った上半身をさらけ出してから、僕は処置ベッドに仰向けに寝た。


ガンジーさんは白い棚を勝手に開けて、幸子さんが必要とするであろう治療器具を取り出した。ベッドの子供が「その人も暴力カモメにやられたの?」と聞いた。

幸子さんが「そう」と答えた。

子供は少し起き上がって、「え、こんな感じの人が死のうとしたの?」と言った。

幸子さんは丸椅子から立ち上がり、子供に近付いて、右手で子供の頭をなでながら、「起き上がらないでね」と言った寝かせた。

僕は何も言えないでいた。ただ、幸子さんの顔をガンジーさんの顔を交互に見た。幸子さんは初めて笑った。ガンジーさんはどんな表情も作らなかった。

丸椅子に再び腰を下ろした幸子さんは、「暴力カモメはあそこで自殺しようとする人を説教するの。暴力を使って、自殺を阻止するの」と僕に説明した。

僕は上体を起こし、処置ベッドから降りて、ティシャツとシャツを拾った。ガンジーさんが「どこに行く」と強く言った。幸子さんも「ちょっとお」と迷惑そうな声を出した。

「ありがとうございました」と僕は言った。「もう帰ります。車の鍵を返してください」

「いや、そうはいかない」ガンジーさんが強く言った。「早く横になりなよ。治療をしよう」

僕はガンジーさんと言い争いたくなかった。それで別の理由を考えた。自殺未遂がばれて逃げ出すんじゃないんですよ、というメッセージを盛り込んだ、無理やりこじつけた理由を。

「きちんとした治療を受けるために帰るんです。このまま救急センターに行きますから。本当にご心配ありがとう。車の鍵を返してください」

「その傷で、衣類もぼろぼろで、アルコールも入っていて、それで救急センターの医師が『はい大変でしたね、薬を塗りましょうね』なんて言うと思うのかい」ガンジーさんはいつもの柔和な語調に戻っていた。「治療より先に警察の事情聴取が始まるよ」


それでも僕はこの場を逃げたかった。僕の自殺未遂を知っている人たちの顔なんて見ていたくなかった。それで照れ笑いを作って「いやあ、ここまで助けてもらって言いにくいんですが、そちらの方に治してもらうよりは、医療機関にかかりたいんですよ」と言った。

幸子さんは僕を見ているが、僕は幸子さんを見ていなかった。

「この人は看護師だよ。だから安心していいです」ガンジーさんがそう言うと、幸子さんはにこりと笑った。僕は困った。それで本当のことを言うことにした。

「じゃあ言います。ここ、なんか変ですよ。これだけ治療道具がそろっていて、ほとんどクリニックじゃないですか。どう見たって看護師の部屋じゃないでしょう」

ガンジーさんは「そう、幸子さんの看護師としての仕事はカモフラージュです。本当は特殊な医者です」と言った。


僕は今度は、本当に本心から、この場所が嫌だから、ここにいたくないと思った。僕は特殊な医者に診てもらいたくない。日本国政府が発行した医師免許を持つ、普通の医者に診てもらいたかった。

ガンジーさんは僕の心を読んだかのように、「普通の医者では、今回のあなたの怪我は治せない。説教動物にやられた人は、釧路では幸子さんしか診ることができない」と言った。

その言い方は、妙に説得力を持っていた。というより、僕はこれまで、いつもガンジーさんに説得されてきた。僕に降りかかる世の中の理不尽を解決して欲しくて、それで145センチに通っていた。ガンジーさんは必ず僕に解決策をくれた。

それでも今回は、ガンジーさんに解決を求めず、釧路港に行き、死のうと思った。自殺の原因について、解決しようとは思わなかったからだ。

でも、暴力カモメに殴られたことについては、確かに解決を求めている。

僕はこのとき気が付いた。エロいオオサンショウウオと潜水カメラマンも、暴力カモメの、自殺を食い止めるという使命を知っていた。ということは、あいつらにも僕の自殺の企図が知られたのだ。思わず「ああ、畜生」と声に出してしまった。

それは変な言葉であった。

ガンジーさんが「普通の医者では、あなたの怪我は治せない。説教動物にやられた人は、釧路では幸子さんしか診ることができない」と言い、その次に僕が、しばらく沈黙した後で「ああ、畜生」と言った。それは会話になっていない。その違和感は、どこか愉快だった。それでまず、子供が笑った。次に幸子さんが笑った。そして僕が笑い、僕の笑顔に安心したように、最後にガンジーさんが笑った。


僕は処置ベッドに腰掛けて、そして元の通り仰向けに寝た。そして、「説教動物ってなんですか? 暴力カモメもその一味ですか。その子も説教動物にやられたんですか」と尋ねた。

幸子さんが解説してくれた。「この子は私の子供なの。手の平サイズの熊にやられたの。この子、ご飯も食べずにお菓子ばかり食べていたから、虫歯ができて。歯医者に連れて行ったんだけど、診察室で待っているときに、私がトイレに行っている隙に逃げ出したの。その足で友達の家に行き、友達と釧路湿原に逃げ込んだの。そこで熊に出くわして、顔を三十カ所も噛まれたの」

「熊に三十カ所も噛まれてこの程度の傷で済んだんですか?」僕は驚いた。

「違うの、その熊は、手の平サイズの熊なの。これくらい」幸子さんは右手で熊の大きさを示した。

僕はサイズについては云々しないことに決め、質問を続けた。「手の平サイズの熊は、その子に『歯の治療をしろ』と説教をしたんですか?」

「そうなんです。手の平サイズの熊は、親の言うことをきかない子供を許さないんです。それが虫歯の治療だろうと、算数の勉強だろうと、手の平サイズの熊にとっては、親の言うことは絶対なんです」


5:たくらむカラス


僕は幸子さんの特殊なクリニックに三日入院し、そして無事退院した。

幸子さんの子供は小学三年生で、まだしばらく安静が必要とのことだった。ただ、その子は、学校で強制的にやらされるアイススケートの授業が嫌いだから、それで満足だった。子供にアイススケートを覚えさせることは、彼女も賛成していた。しかし彼女は、傷を負っている子供にまでさせることではないと考えていたので、だから子供がいくらアイススケートをサボっても、手の平サイズの熊が襲ってくる心配はなかった。

二人は、母子ひとりずつの母子家庭だった。幸子さんは、北海道教育大学釧路校の近くにある、市立釧路総合病院に勤めている。もちろん、特殊な医師としてではなく、普通の看護師として。


正味四日ぶりに自宅に戻ると、居間のソファに――居間といっても台所と併用だし、ソファといっても粗大ごみ置き場から拾ってきたものだが、そこにカラスが座っていた。

カラスが座っている姿ほど、滑稽な様子も少ない。エロいオオサンショウウオが、145センチのカウンターで格好つけているのと同じぐらい滑稽だ。

カラスに尻があるのかどうか僕は知らないが、でも、もし尻を持っているならそこにあるのだろうなという部位をソファの座面に接地させている。また、僕は、カラスに背中があるのかどうか知らないが、でも、もし背中があるならそこなんだろうなという部位を、ソファの背もたれに接触させている。二本の足は短いから、あたかも、胴体に爪楊枝を刺したかのように、ぴょんと突き出している。なのに無理やり足を組もうとするから、大きくバランスを崩す。格好を付けて、両の羽を腕組みのように組むが、羽が邪魔をして浅くしか組めない。だから体のバランスが崩れるたびに腕組みのように組んだ羽を広げなければならず、それもまた間抜けていた。


いずれにしても迷惑だった。僕はいま閉めた玄関のドアを開けて、カラスに出ていくよう促した。しかしカラスは僕を睨んだままだ。僕はソファの横を通り、ガラス窓を開けた。それでもカラスは動く様子を見せない。

玄関のドアから、ガラス窓に向かって冷風が通過する。僕は何をおいても、家に入ったらまずストーブを点火させるつもりだった。でも、カラスに暖かさという安らぎを与えたくない。続いて、ガラス窓から、玄関のドアに向かって冷風が通過した。僕は身震いした。それでもカラスは動かない。

僕は仕方なく部屋の中を見渡した。都合よく、掃除機が出しっぱなしだった。本体から筒状の棒を抜いて、ソファに向かった。カラスの目の前に立ち、棒を振り上げた。


するとカラスが「取り引きをしよう」と言った。

僕は構わず棒を振り下ろした。カラスは慌てず、ひらりと飛び上がり、それをよけた。棒は力強くソファを叩いた。僕は何度も棒を振った。カラスは部屋中を飛び回り、僕の攻撃をかわし続けた。僕のストレスは一打ごとに増えていったので、その勢いで十三打目で棒が割れてしまった。十四打目はしばらくないだろうと踏んだカラスは、ふわりとソファの上に飛び降り、再び滑稽な姿で座った。

「暴力カモメを退治してやる。そうすれば、君は自殺を完遂できるだろ。その代り一つ頼みがある。交換条件は、その一つだけだ。そしてそれが、取り引きの全体像になる」カラスは余裕綽々にそう言った。

暴力カモメがいては、未来永劫、釧路港での自殺は成功しない。だから僕は、交換条件に興味を持った。

「それはなんだ」

「カネを貸して欲しい」

「返せるのか」

「返せないし、返す必要もないだろう」

確かに。死ぬならカネは要らぬ。このカラス、賢い。

「いくら必要なんだ」

「二百万もあれば」

「そんなにはない」

「じゃあありったけ」

「カラスがカネで何を買うんだ」

「弟子屈町の猟友会のハンターを雇うんだ。それで暴力カモメも、普通のカモメも駆逐する」

「猟友会が釧路港でライフルを撃てるわけないだろう」このカラス、やっぱりバカだ。

「撃てるかどうか、それは君には関係ないだろ。カネを寄越すのか、寄越さないのか」

「カラスごときにカネを渡すくらいなら、棺桶に入れてもらって、一緒に焼いてもらった方がましだ」

「きょうは引き上げる。でも、これは、俺たちにとって本気の戦争なんだ。暴力カモメの被害者を集めて、あいつらを制圧するんだ。あんたもきっと、俺たちの仲間になるさ」


カラスはそれで帰った。すぐに暖房を点けた。暖房機の真ん前にいなくても大丈夫なくらい部屋が温まってから、僕はウイスキーを飲み始めた。水も氷も炭酸も加えず、一杯、二杯、三杯。そしてタクシーを呼んだ。ガンジーさんに確かめたいことがある。


6:紳士カモメを紹介される


「今日は車じゃないだろうね」ガンジーさんは僕を見てそう言った。

店には他の客はいなかった。「あの人にまた怒られたくないから、ちゃんとタクシーで来ました」

「あの人って?」

「特殊な治療ができる市立病院の看護婦さん」

「ああ、幸子君ね」

「へえ、幸子さんっていうんですか」

「何飲む」

「そうですね、ではウイスキーを」

「何で割る?」

「そうですね、ではロックでください」


ガンジーさんが酒を用意している間、僕はカラスから取り引きをもちかけられたことについて話そうかどうか迷っていた。でも、どうもガンジーさんは暴力カモメを悪く思っていない様子だ。それに僕はまだ自殺を断念したわけではない。そうであれば、カラスによる暴力カモメの駆逐は、いずれ必要になるかもしれない。また、僕がカラスとの取り引きを完全に断っていないことがガンジーさんに知れたら、ガンジーさんから軽蔑されるのではないかとも心配した。それで、「ガンジーさん、暴力カモメについて詳しく教えてください」と言った。

「それより怪我の具合は? 治ったようにも見えるけど」ガンジーさんは僕にウイスキーと氷が入ったグラスを渡しながらそう言った。

「あれから三日もお世話になりました。幸子さんの治療のおかげでまったく元通りです。まだ傷跡は残っていますが、痛みはありません。かさぶたがむければそれでおしまいです」

「それは良かった」

「それで、暴力カモメについてですが」

「うん。でも、私はいまだにあなたが暴力カモメについて知らなかったとは思わなかったよ。釧路に来たのは――」

「二年前です」僕は二年前に、札幌で失業し、知人を頼って釧路にきた。知人は僕に、僕の満足には遠く及ばないものの、フェアな仕事と給金を用意してくれた。

「二年もいれば、必ずどこかで暴力カモメを目にしそうなものだけど。MOOに入ったことはありますか」

MOOはそれで「ムー」と読ませている。釧路港に流れる釧路川の岸壁にある商業施設だ。MOOには無料の休憩所があり、そこから水の風景を楽しめる。

「MOOには入ったことはありますが、そこから見えるのは、通常のカモメだけです」

「本当にそうかな」ガンジーさんがにやりと笑った。

ガンジーさんは、それは僕の遠近感の錯覚ではないかと言う。つまり、暴力カモメの巨体を見ても、「そんなに大きなカモメがいるはずがない」という先入観から、脳が無意識に大きさ測定の補正を行い、実際の距離より近くにあると感じることで納得してしまったのではないか、と。それはそうかもしれない。

「でも、あれだけ大きなカモメなら、騒ぎになるでしょう。マスコミとか」

「うん、言いたいことは分かるよ。でも、ほら、ここは釧路だから」

二年間住んだだけでは、暴力カモメの存在を認知することはできない。でも二年も住んでいると、「ここは釧路だから」のニュアンスは理解できる。釧路では、絶えず、なんか変なことが起きる。ような気がする。これは肌感覚の問題だ。

釧路で何が起こっても、釧路市民は動じない、というわけではない。つまり、いくら釧路でも、ゴジラが現れたら、さすがに市民は逃げ惑う。でも釧路であれば、オオサンショウウオが居酒屋でエロ話をしていても、事実として飲み込むことができる。潜水メガネとシュノーケルを身に付けて、大きくて黒い一眼レフカメラをぶら下げている男が繁華街をうろうろしていても、「まあ釧路だしな」で済むのだ。

だから僕も「なるほど」と言うしかなかった。

「ちょっと待ってて」とガンジーさんが言った。携帯電話を取り出して電話をかけた。相手が出ると、いまから145センチに来られないかと尋ねた。ガンジーさんは電話を切ると、「いまから紳士カモメが来るから、彼から説明させよう」と言った。


7:紳士カモメの長い話

 

紳士カモメが店に現れたとき、市立病院の看護婦の幸子さんも連れていた。僕は思わず「この二人は付き合っているのか?」と思った。

紳士カモメは紳士的に僕に握手を求めた。僕はガンジーさんの顔を見た。ガンジーさんはにこりと笑って軽くうなずいた。それで僕は、紳士カモメの右羽の先端を、つまり彼にとっての右手を握った。すると紳士カモメは「この度の仲間の暴力につきまして、深くお詫びします」と言いい、深々と頭を下げた。

ガンジーさんが幸子さんに「幸子君も一緒でしたか」と言った。

「紳士カモメに、一緒に来てくれって言われて」

紳士カモメは椅子に座りながら、「私一人で現れたら、被害者様が驚くのではないかと思ったんです」と言った。

確かにそうだった。紳士カモメの外観は、体の大きさも、くちばしの尖り具合も、羽の形状も、暴力カモメと見分けがつかない。ガンジーさんから事前に「いまから来るのは、暴力カモメじゃなくて紳士カモメだから安心して」と注意されていても、きっと驚いていただろう。でも、すぐ後ろに幸子さんを確認できたので、僕に恐怖は湧かなかった。

幸子さんはビールを、紳士カモメはウイスキーのロックを注文した。幸子さんが「このメンバーなら、乾杯できますか?」と僕に聞いた。僕はグラスを持ち上げた。三人で乾杯して、ガンジーさんが二人にお通しを出して、二人がそれを一口つまんでから、紳士カモメが話し始めた。


それによると、暴力カモメは釧路市内に十五羽いるそうだ。最初に暴力カモメが現れたのは十年ほど前だが、半年前までは二羽しかいなかった。この半年で急増し、今後も増える可能性がある。

「私たちカモメは、海の風物詩でした。出しゃばらず、優幸子に飛ぶ。画になります。歌にもなりました。だから私たちが漁師から魚を失敬しても、彼らはカラスを追っ払うようには、私たちを攻撃しませんでした」

ところが十年前、ある事件が起こる。大量のイワシを積んだトラックが、道路で横転した。現場は釧路港から二十キロ以上離れた内陸だった。完全にカモメの生活圏外だった。だから現場に集まったのはカラスの大群だった。間もなくそこに、駆除者が現れた。駆除者は、最初は丈夫な網でカラスを捕まえては、頭を棍棒で叩いて殺していた。しかしカラスは次から次へと数を増やしていった。業を煮やした駆除者は、自宅に戻って散弾銃を持ってきた。それを遠慮なく撃ち込み、カラスはさすがにいなくなった。現場には、それでも大量に残ったイワシと、五十羽ほどのカラスの死骸と、そして一羽のカモメの死骸があった。

死んだのは、この後しばらくして初代暴力カモメへと変貌を遂げるカモメの母カモメだった。

母カモメが死んだ当初、市内のカモメ世論は彼女に批判的だった。そもそもなぜそんな海から遠く離れた場所に出向いたのか。その上、カラスに混ざってイワシをあさるなんて、下品極まりない。漁師たちも、カモメ世論に同調した。


釧路ではこれまで、カモメの葬儀は漁師が執り行ってきた。もちろん人間の葬儀よりは劣るが、それでも猫や犬のペット葬儀よりは華やかな内容だった。しかしこの母カモメの葬儀は、とても質素なものになった。葬儀に参列したのも、子供カモメ一羽と、リーダー的存在の紳士カモメと、母親カモメをよく知る漁師二名だけだった。

葬儀が終わると、子供カモメは孤独になった。子供カモメの生活は荒れた。食料を自力で捕獲するには幼すぎたため、そのほとんどをゴミステーションに頼らざるを得なかった。しかしゴミステーションには先客がいる。カラスだ。子供カモメが敵う相手ではない。仮に、もし対等に喧嘩できたとしても、カラスとゴミの争奪戦を展開すれば、カモメ仲間から母親と同じ誹りを受けるのは避けられない。「ゴミあさりカモメ」「カラスカモメ」と。それで子供カモメは、夜中にそっとゴミステーションに訪れた。でもそこは、既にカラスが大方食べ尽くしていた。残っているもので、多少でも栄養素が含まれているものといえば、酔っ払いのゲロぐらいだった。子供カモメはそれを食べるしかなかった。

子供カモメの生活は、すっかり夜型になった。昼間は寝ている。周囲のカモメは、そんな子供カモメを怠惰と非難した。石を投げつけるカモメもあった。紳士カモメは定期的に子供カモメに面会したが、会うたびに子供カモメの性格が閉ざされているのが分かった。しまいには紳士カモメに悪口を言うようになってしまった。手に余るようになると、紳士カモメの訪問も減っていき、ついにはまったく行かなくなってしまった。


「その点については、私は責任を痛感しています」紳士カモメはウイスキーを一口飲んでから、ため息と一緒にその言葉を漏らした。幸子さんが、紳士カモメの肩、――多分そこが紳士カモメの肩だと僕が思った部位を優しくさすると、紳士カモメは話を続けた。


子供カモメは、順調に成長し、大人の体格になった。そして、昼の釧路港に現れるようになった。もう夜中のゴミステーションをあさらなくてもよくなったからだ。しかし誰もかつての子供カモメに近づこうとしなかった。すっかり暴力カモメになっていたからである。

暴力カモメは、カモメ連合と釧路市漁業協同組合の間で交わされた協定を平気に破った。漁船の貯蔵庫から魚を盗んだり、大漁旗に器用に糞を付けたり、漁師の飼い猫を襲ったりした。怒った漁師たちは、カモメ全体に意地悪になった。市場に出せない雑魚や小さい魚は、ゴミ箱とは別の場所に、半日限定で野ざらしで置いてくれていた。カモメたちの餌になればとの配慮だった。それをやめた上に、ゴミ箱の防御も強化した。電線を巻き付け、電気を流した。腹を空かせた子供のカモメがゴミ箱に近づいてしまい、電気ショックで死ぬという事故も起きた。空気銃を使って船上からカモメ撃ちに興じる漁師も現れた。致命傷を受け死んだカモメは月に二羽三羽では済まなかった。

しまいには、カモメ鍋なるものが流行した。漁師は、撃ち落としたカモメをさばいて、鍋で白菜と一緒に茹でて、ポン酢で食べた。


紳士カモメは漁協の組合長に面会を申し込んだ。組合長は会うには会ってくれたが、「カモメへの対応まで漁師たちに指示することはできないよ」とそっけなかった。紳士カモメはこの組合長を好いていた。だから、暴力カモメの暴挙があったにせよ、どうして急に組合長までもが冷たい態度をとるのか不思議だった。

「組合長、私のことまで疑っているんですか」

「君のことは疑ったりはしないよ。君はカモメの中のカモメだ。紳士カモメだ。その評価は、いまも変わっていない」

「でも、これまでの組合長であれば、子供のカモメが漁師さんに迷惑をかけたときでも、笑って許してくれていました」

「あの暴力カモメは子供ではないだろう。彼からは敵意を感じる。釧路港の秩序を乱す、悪魔だ」

紳士カモメはショックを受けた。そんなに強い言葉を組合長から聞いたことがなかったからである。しかもその言葉は、自分の仲間に向けられている。

「悪魔、ですか」

「君も気を付けた方がいい。暴力カモメをかばったりしたら、漁師の標的になるぞ」

「組合長も私を攻撃するんですか」

「…」

「もし私が暴力カモメを擁護したら、組合長も私を殺すんですね」

「…分からん」

紳士カモメは、組合長は直接、暴力カモメの被害を受けたのだ、ということに気が付いた。「組合長、暴力カモメに何をされたんですか」

「俺のクラウンは黒だったんだ。それがある日、真っ白になっていた。そう、カモメの糞さ。最初は糞とは分からなかった。ペンキのようだった。それくらい完璧に、ボディ全体に白い糞が敷き詰められていた。ひと晩でだぞ。あれだけ大量の糞だ、一羽だけじゃ無理だ。暴力カモメには仲間がいるんだ。君が仲間だとは思っておらん。でも、君が、君の仲間だと思っているカモメの中に、既に暴力カモメの仲間になっているカモメがいるはずだ。

――すまんが、もう帰ってくれないか。こうして君と会っていることを漁師たちに知られたら、次の会長選に影響してしまうよ」

会長は応接室の窓を開けた。そして、紳士カモメにそこから飛び立つよう言った。


紳士カモメは次に、暴力カモメのねぐらに向かった。

「よー紳士カモメ。お前がうちに来るなんて何年ぶりだ」

「何年も経ってないだろ。せいぜい二カ月ぐらいだろ」

「まあなんでもいいや。一杯やってくか」

「それより飲みに出ないか」

暴力カモメはそれに応じた。二羽は145センチに向かった。


ここまで話した紳士カモメは、自分のロック・ウイスキーを一口飲んだ。それでガンジーさんが口を開いた。ガンジーさんはもちろんこのときのことを覚えていたから「そっか、あのときはそういう事情を抱えていたのか」と言った。

紳士カモメはガンジーさんに「あの時は、きちんと説明できずに申し訳ありませんでした。暴力カモメの機嫌を損ねないようにと、それだけに集中していたので」と詫びた。

ガンジーさんは「いいんだよ、そのための居酒屋なんだから」と慰めた。

紳士カモメは幸子さんの顔を見た。そして「私の話、長いですね」と照れ笑いをした。

幸子さんは「事情をきちんと把握しておきたいので、もっと話が聞きたいです」と言った。

紳士カモメは次に僕を見た。そして「退屈だと思いますが、どうか聞いていただきたいのです」と懇願するように言った。

僕は「僕は釧路に来て間もないんです。釧路港について知りたいし、カモメについても知りたい――というより、いまは知らなければならないとすら感じています。すべてを教えてください」と言った。

紳士カモメは「ありがとうございます」と言って、また話し始めた。

この記事が参加している募集

#創作大賞2024

書いてみる

締切:

この記事が気に入ったらサポートをしてみませんか?