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命の価値は対等。全員がそれぞれ、自分の命と、幸せを守ってゆく[1]

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こんにちは、藤沢優月(文筆業)です。
副業としてではなく、メインの仕事として20年以上、人生「回復」援助の現場に、毎日毎週立ち続けています。
幼少期に、辛い想いをされた方々の、幸福のお手助けをする仕事です。

本の出版も50冊以上になりましたが、私からすれば、どちらも正規業務。

「本を書く」ことと、「人間の生きる力を、土台から回復する」仕事は、根っこが同じ。

言葉で表現するなら書籍になるし、行動で表現するなら、人生「回復」のワークショップ運営になる。
車輪が2輪あることで、互いに補完し合い、意味が通じる仕事になっています。

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今回は、信念として信じていることを、先に言葉で記しておきたいです。

おおもとの土台が共有できることで、誤解なく、理解できることもある。
言葉って、それを助けるために、あるものだと思うから。


言葉は、人を傷つけるためにあるものではない。
だから、細心の注意を払って、現場のセンシティブな景色を、なんとか表現できたらと思っています。

今回は、その導入。
1回目の説明です。

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タイトルにつけた、「命の価値は対等」。
なんだか、宗教っぽい響きがしますね。


たとえば、私自身は、何の特定の宗教にも入っていない。

けれど、なんとなく「お天道様」みたいな感じの神様は、信じている。

「そんなことするもんじゃない。神様が見てるぞ」
と言う時の、神様のことですね。


そこからひるがえって、人間は、当たり前だけれど、誰一人として「神様」ではない。
当然ながら、他人のことや、他人の命をどうこうすることなんて、できっこない。

誰もが、「自分の命は、自分で守る」。
これに反して、誰か特定の人々が、まるで神様のようにふるまうことは、恐ろしいことだと思う。

そして、この現象……、
「人間が、あたかも神であるかのように、ふるまうこと」
には、名前がついています。


悪名高き、「優生思想」という考え。


きわめて有名な一例を挙げるなら、ヒットラーは、優生思想で有名ですね。

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話は少しだけずれ、日本に、ドイツ人の友人が、遊びに来たことがありました。
一緒に車で、日本を巡っている途中、彼女は、あるものに目を留めます。

「うわ……。これは、落ち着かない」
「これがドイツにあったら、正直、逮捕案件」

それが何かというと、ちょびヒゲの、大きなペイント画。
ドイツでは、ヒットラーを想起させるようなものは、法律により、表現も設置も禁止されている。

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その理由を、個人的に、こんなふうに理解しています。

彼はもちろん、戦争によって、甚大な被害をもたらしました。
ですが、彼の行ったことで、もっとも残虐なことは、「優生思想」による、「人間の処分」であっただろうと思っています。


つまりですが、こういうことだと思います。

ある特定の人々の目から見て、
「この人は有用(だから、生かす)」
「この人は無用(だから、殺す)」


これを実際に、次々に、やってのけていった。
しかも、国家権力という後ろ盾を得て、粛々と行っていったことが、歴史に残っていますね。

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彼は、ユダヤ人を迫害したことで有名ですが、他にも、勝手に決めつけられ、迫害された人たちがいます。
それは、障害を持つなどして、(ある一定の人々から見た時に、勝手に)「無用」とされた人たち。

「ある特定の人々から見て、優秀でない・生産性の低い人は、社会の重荷」

この発想は、恐ろしいです。


なぜなら、この考えの一歩先には、
「重荷な人は、社会にはいらない」
「生産性の低い人たちさえいなくなれば、社会はもっと、素晴らしくなるのに」
こんな発想が、多分、待ち受けている。

これを、「優生思想」というと、著者は理解しています。

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著者は、いわゆる作家なので、率直に「すごいな」に思います。
もちろん、皮肉です。

この世には、自分以外の、幾億種類の人間がいる。
同じ考えの人は一人もいなくて、全員、考えが異なっている。

それなのに、ごくごく一部の考えを基準に、そこでスパッと線引きをして、「優秀」とか「劣等」とか分ける。
すごい発想力だな、と思います。

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この「優生思想」……。ところが、落とし穴がある。

それが何かと言うと、「優生思想」にしたがえば、人は歳をとると、「無用な」人間になってゆく。
つまり、全員がやがて「無用な人間」です。

あるいは、交通事故などで後天的に障害を負うと、たちまち「無用な」人間へと転落。


「優生思想」を掲げる人たちって、そういうことは、考えないのかな。
「これに、自分も含まれるのだよ」と。


著者の知り合いの、障害を持つ方が、おっしゃっていました。

「『優生思想』を掲げる人は、いつだって、自分自身だけは対象外」

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正しいとか間違っているとかいう以前に、私は、そんなギスギスした世界には住みたくない。

……いや。
もっと正確に言えば、本能的に、この考えには拒否感でいっぱい。

著者はいつも、思っています。
「神様が、この世に、この命を誕生させた」
「だから、人間である私が、それに対して、とやかく言うことはできない」


「それは、神様の決めること」

私も、誰しもが、与えられた命に対して、懸命に生きるだけ。

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世界は、きれいごとだけでは立ちゆかなく、非常時や戦時には、弱い立場の人が、真っ先に犠牲になる現実があります。
日本にもかつては、おそらく、「姥捨山」という歴史があった。

でも、ここがポイントで、親を捨てに行った子は、泣く泣く戻ってきた。あるいは、親を取り返しに行った。
あるいは、こっそり隠しておいた。


要するに、「有用か」「無用か」といった基準で、心は、簡単には割り切れない。
そして、私は住むなら、こっちの価値観の世界がいい。

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「誰もが等しく、命を与えられている」
「誰もが等しく、生きる権利を与えられている」
「誰もが、自分の命に、自分で責任を持つ」

「この理由ゆえ、他人の命を、勝手に侵害してはいけない」
「命に対して、誰かが勝手に、順番をつけることもできない」


……まあ、当たりまえですよね。

こんなことは、普通なら、言葉にする必要もないこと。

でも、時に「当たりまえ」が、当たりまえにならないことがある。
だから、重ねて言葉にして、「私はこう考えている」と共有することは、とても大事なこと。

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逆に言えば、この大前提が共有できていないと、話が大変な誤解になる。
だから、このことを前提に、今後の話を進めてゆきたいです。


ひとつの命、一人の方の人生と関わらせていただくこと。
それは、それだけ、重いことだと思っています。

<< 続きます >>

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