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カウンターのトルーマン

およそバーというものは……、と考えてみる。私の中にひとつの言葉が浮かぶ。「普遍」だ。時代が変わり、場所が変わり、人が変わっても、そこに流れる時間は変わらない。そこには人生を豊かにするための酒があり、出会いがあり、会話がある。そしていくつもの物語が生まれて、消えて、また生まれる。
物語の主人公はほかのだれでもない。まぎれもなく「私」なのだ。あなたもその一人、私もその一人。そんな私の物語を少しばかり。

「ええかあ、男にはなあ酒を飲む男と飲まん男がおる」祖父は酔っぱらうと幼い私を膝に抱き上げ、よくそんな世迷い言を口にした。
「飲む男と飲まん男、どっちが偉いなどとはいえんけど、そらあ飲む男の方がおもろい人生やで」
すると祖母がやれやれという顔できまってこう言ったものだ。
「孫を味方にしてまで飲みたいのんどすか、このお人は」
祖父が言い返す。
「酒が無(の)うて、なにが豊かな男の人生」
私はそんな祖父に育てられた。
祖父に手を引かれて、はじめて大衆酒場の暖簾を割ったのが五歳の時。以来その店には五十三年間通いつめ、いまでは私が最古参の常連になっている。
私がはじめてバーのカウンターの前に座ったのは八歳の夏だった。もちろん祖父に手を引かれて、いまでは京都でいちばん古いといわれるバーだった。
カウンターも椅子も高くて、足をぶらぶらさせて、まるでぶら下がるようにしがみついていたのをよく覚えている。いまはもう亡くなったが、苦虫をかみつぶしたような顔をした、見るからに頑固なバーテンダーが、祖父に言った。
「お孫さんですか?」
祖父はお気に入りのパナマ帽を脱ぎ、軽くうなずくとクルクルとそれを丸めるようにたたみ着流しの懐にしまった。
子どもをこんなところに連れてきて、とバーテンダーが怒るのではないかと子ども心にひやひやしていると、彼は私の前に立ち軽く会釈をし、静かに言った。
「いらっしゃいませ。なにを差し上げましょう」
私は咄嗟に「クリームソーダ」と答えていた。するとバーテンダーは小さく笑いながら言った。
「ごめんなさい。アイスクリームを用意していないので、私に任せてくれますか」
祖父の顔を見た。黙って首を立てに振った。もちろん私もそれに習った。
バーテンダーは夏みかんを丸々2個しぼりシェーカーに入れ、ボトルから赤い液体を注ぎ、砂糖を加えて最後に大きな氷を数個入れると蓋をして逆さまに持ち、小気味よい音を立てながらそれを振った。背筋をピンと伸ばし宙空の一点を見つめ息を止めて。
カウンターから首しか出ていない私を気遣ってのことだろう、彼はそれをロックグラスに注いでくれた。グラスに注がれた液体はきれいなオレンジ色をしていた。シェーカーの氷をグラスに移し、ソーダ水を注ぎ、軽くステアし、グラスの縁から赤い液体を静かに注いだ。それはゆっくりグラスの底に降りていった。そうして最後にもう一度ソーダを。私の目の前に赤、オレンジ、透明、きれいに三層に分かれたグラスが差し出された。
「はい、夕焼けソーダでございます」
バーテンダーは半分に切ったストローを刺しながら笑った。それはほんとうに夕焼けの空に見えた。なぜだかわからないが、グラスの中ではじけては消えてゆく小さな泡が、少しだけさみしく思えて祖父を見た。
「どや?」
「うん」
それで会話は終わった。
私と祖父の間に多くの会話はなかった。ただ、いろんなところに手を引かれて行き、同じ場所で同じ時間を過ごすことが多かったせいか、なんとなく祖父の言わんとすることがわかるような気がしていた。
夕焼けソーダは甘くて、酸っぱくて、すこし苦くて、シュワっとして、それまでに経験したことのない味だった。いま思うと、ソーダをテキーラに変えればテキーラサンライズになる。だが、テキーラサンライズが日本でもよく飲まれるようになったのは1972年以降だと聞く。これはその10年前、1962年の話だ。
私が夕焼けソーダに満足し、バーテンダーの動きに見入っていた時だ。開襟シャツ姿の客が入ってきた。やおらカウンターにつくと、かぶっていたパナマ帽を脱ぎカウンターに放り投げるように置いた。
「暑いなあ。ビール!」
男はそう言うと扇を取り出しパタパタと扇ぎはじめた。
祖父が一瞬笑ったように見え、バーテンダーの表情が止まったように見えた。
バーテンダーが言った。
「お客さん、カウンターにお帽子をおかれたら困りますなあ」
男は一瞬意味がわからないという顔でバーテンダーを見た。
「お帽子は後ろの帽子掛けにどうぞ」
男は何だという顔で帽子を取り上げると、空いている横の席に置いた。
「いえ、お客さん。後ろの帽子掛けにお願いします」
バーテンダーがふたたび、言った。
「帰りがけにだれかがまちがいよったらかなんさかいなあ」
男はパナマ帽を頂くように取り上げると、いかにも高級品なのだという満悦な表情でそれを見つめた。
「兄さん、ほんまもんのトルーマンは、ほれ、こうやって仕舞うんやがな」
突然祖父が話に割って入り、懐から折りたたんだパナマ帽を取り出した。私の目には男のそれの方がぴしっとしていて、祖父のそれはよれよれでいかにも安っぽく見えた。男も、なんだそれという目で祖父の帽子を見た。
「これはなあ、日本に原爆落としよったトルーマンがかぶっとったもんと同じもんや。憎たらしいさかいくちゃくちゃに丸めてしまうんや」
祖父はそう言って大きな声で笑い、元の形に戻し頭に乗せた。するとトルーマンは打って変わってきれいな形になり、男のそれの何倍もかっこよく見えた。後で知ったことだが、本物のパナマ帽はクラッシャブルといい、かぶらないときは折りたたんで持ち運びするものらしい。
祖父はその後、そのバーでいくつものことを教えてくれた。
「男の人生は寄り道、回り道がなかったら面白うない」「酒はもらってでも飲め」「文句があったらかかっていけ」「男はむやみやたらに笑うな」。
そうしてその五年後、他界した。
葬式の後、私はトルーマンを探したが終ぞ見つからなかった。
祖父との付き合いは、私が中学校に上がって間もなくまでだった。物心ついてからの、わずかな時間を共有したに過ぎないが、その思い出は強く残っている。
では、父とはどうだったかというと、正直に言うとあまりいい思い出は残っていない。
言い遅れたが私は古くからの指物師(木工職人)の小倅だった。京都で「化工堂」という屋号を名乗り、昔は茶道具でも家元の箱書きをもらうような桐箱、いまなら陶芸家の作品を入れるような桐箱と、高級桐箱一筋に商売を営んできたのだ。祖父はその五代目、父が六代目、まわりの者は当然のことだが、私が七代目を継ぐと思っていた。結局私は跡を継がなかった。父の言葉を借りれば「物書き風情に成り下がった」のだ。そのことで父との間にいろんなことがあり、まともに向き合ってもこなかった。
気がつけば私は58歳、父は86歳になり。家業もとうに店仕舞していた。
「これでいいのだろうか、このままで……」
どうしようもない気分を抱え、いつものカウンターで飲んでいると、コースターの文字に何気なく目がいった。

“Candy is dandy , but Liquor is quicker”

バーテンダーに意味をたずねた。
「簡単に言えば、格好つけずにとりあえず一杯飲んだ方が早く打ち解けられるってことです」
ふと父の顔が浮かんだ。そういえば二人きりで酒を飲みに出かけたことなど、なかったことに気づいた。何度か誘ったことはあったが、その度に断られていたのだ。
「お前と飲んでも酒がまずいだけや。酒に申し訳ない」
そうなると私も二度と誘うものかと意地になる。そんなことの繰り返しだった。
だがその父も数年前に軽い心筋梗塞の発作を起こし、それ以来ぷっつり酒を断っていた。いまさら酒でもないだろうなと思いながら、それでも次に京都に帰ったら電話だけでもしてみようと思った。

100年前から変わらない風景

父の反応は意外なものだった。メシを食いに行こうと誘ったのだが、父は電話の向こうでこう言った。
「酒は飲まんが、行きたいバーがある。連れて行け」
それは、祖父が私を連れて行ったバーだった。父は、名前は聞かされていたが一度も足を踏み入れたことがないと笑った。お前の後塵を拝している、と。
件(くだん)のバーで待っていると、現れた父は祖父のトルーマンをかぶっていた。父は、それを脱ぐと丸めるように折りたたみズボンのポケットに入れようとしたが、代が替わり若くなったバーテンダーが言った。
「すみません。本物のパナマ帽、久しぶりに見ました。カウンターの上に置いていただけませんか」
カウンターの上のトルーマンを見た時、私は祖父が戻ってきたような気がした。父がぼそっと言った。
「俺は親父と一緒にこういうところに来たことがなかった。今日は三代はじめて揃うた日や。こんな日がきてよかった」
酒を断った父には私がレシピを告げ夕焼けソーダを、私はテキーラサンライズをオーダーした。そしてトルーマンの前には祖父が好きだったウイスキーを。
私は危うく大きな忘れ物をしそうだった自分に気づいた。ここまで来るのに何年かかったことだろう。

“Candy is dandy , but Liquor is quicker”

ちょっと格好をつけすぎていたのかもしれないな。

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