「結果論」と「采配ミス」

 久々の投稿は番外編。
 昨日、5月26日の楽天阪神戦の出来事。このnoteでもちょくちょく取り上げてきた「結果論」という言葉についてだが、今回はそのテーマで脱線して書いていこう。無論、筆者は多少の怒りに任せてこの記事を書いているのだが。。

 同点の8回裏、勝ち越せば即勝ちパターンで逃げ切れるシチュエーション。貧打続きに加えマルテの再びの離脱もあり、打線は湿りっぱなしである。そんななか、一死から長坂がしぶとくヒットで出塁。
 ここで代打北條が告げられる。どうにかつないでほしいと思っていたら、バントの構えを見せた。結局送ってランナー二塁。
 なお、筆者は一死からのバントは終盤だろうと基本的には反対である。そうやって勝っている強いチームをはっきり言って知らない。落合ドラゴンズのように、鉄壁の投手陣にウッズや福留、和田、ブランコ級の強打者が控えてでもいない限り、やるべきではない。
 とはいえ、作戦の一つとして、バントは全くの采配ミスというわけではない。近本の勝負強さに懸けるというのは、わからないのではないのだ。

 問題は、二塁ランナーである。代走が送られない。近本のワンヒットで確実に帰れるように、とは思われなかったのだろうか。(楽天守備陣は確実に返さない努力を当然してくるのだから。)

 そして、恐れていた通りに本塁憤死。

 試合後、ネットは大いに荒れていたが、「結果論」だという意見もなかにはあった。しかし、はっきり言おう。これは結果論ではない。采配ミスだ。

 なぜそういえるのか。それは、送りバントをしてしまっているからだ。

 確実に一点が欲しいとはいえ、アウトを一つ献上してまでバントをしている。近本敬遠の可能性だってあったはずだ。それでも、近本勝負を信じて、送ったのだ。それなのになぜ、得点確率が最高になる策をとらなかったのか。バントという采配と矛盾する采配である。その意味において、これは采配ミスなのだ。

 監督は延長戦を見据えて、と言っていた。結果9回で終わりましたがね。延長戦云々というのは、それこそ「結果論」である。あの場面で最善を尽くせないチームが、なぜ延長戦で勝てると思うのか。植田も熊谷も使わず、坂本という実績のある捕手を使うことなく負けてしまった。

 西川の返球が素晴らしかったからしょうがない。そういう意見もあった。確かに西川の送球が少しでも逸れていれば、余裕でセーフだったかもしれない。しかし、プロ野球なんだから、完璧な返球がくることくらい想定していなさい、という話なのだ。高校野球なら相手の守備をほめておわりでいいが、プロなんだから、それで高い金払って身に来る客を喜ばせるのが仕事なんだから。阪神ファンは楽天選手の好プレーだけを見に来ているんじゃないのよ。(もちろん、西川選手が素晴らしいし、高校野球を低く見ているつもりもない。)

 以前ノートで、プロ野球ファンはたらればを語ることで「負け」という揺るがしがたい現実を受け入れていく、という話をした。しかし、たらればは度を超えると「采配ミス」、「采配批判」となっていく。今回は、その典型であったといえるが、どうしても我慢ならずこのような単発ノート執筆に至ってしまった。しかし、今回の一件は、あまりにも闘う意欲が乏しすぎる、と思わずにいられない。最後の佐藤の三振後のバット投げも、どことなくベンチへのあてつけにみえてしまった。ベンチが闘う意欲を見せないで、どうして選手が闘うことができるか。なんとも残念な一戦だった。

 なお、今回のノートで書いたことは、正確な情報に裏付けられていない可能性があることをお断りする。例えば、仮に、坂本がけがをしていて試合に出られず、長坂を引っ張らざるを得なかったとか、そういう情報が後から出てきたとすれば、この記事の内容は大きく書き換えられる必要がある。その点のレビューを丁寧におこなっていないため、情報の齟齬があった場合は、適宜修正するつもりである。

 今日は佐々木との対戦。直球が打てない現状の阪神打線では、マリンの風を味方につける佐々木のボールは相当苦労するだろう。どうにか意地を、闘う姿勢を、見せてもらいたいものだ。

 

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