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幻想鉄道奇譚 #1

 落ち込んでいるときには、スプーン五杯分の砂糖を紅茶にいれる。

 この日の午後、カフェの窓際にいたエイダンは一週間ぶりにそうした。ウエイターが運んできたハーブティーに、スプーン山盛りの砂糖を落としていると、それを見ていた父親が眉根を寄せた。

「いれすぎじゃないか」

「うん。でも、ちょっと得した気分になれるだろ? 砂糖は買うと高いけど、ここなら何杯いれても紅茶分しかとられないからね」

 カップを持って、口に運ぶ。せっかくのハーブティーは、砂糖の味に邪魔をされてただひたすらに甘かった。でも、それでいいのだ。この落ち込みからいっときでも抜けだせるのなら、口いっぱいに砂糖を頬張りたいほどの心境なのだから。

 窓を向いた父親は、賑やかなサウスシティに目を細めた。日傘をさした貴婦人や紳士を尻目に、人の背丈ほどもある車輪を動かす自転車乗りが悠々といき交っている。華やかな喧騒のなか、新聞を読みあげて売り歩いている少年の声が、店内にも聞こえてきた。

 内務大臣の言葉がのってるよ! 現代の急速な文明発展にともない、その恐れから理性をうしなって生存本能の牙をむいている者たちがいる。世紀末を迎えたわが国としては、この忌むべき〈殺人黄金時代〉に終止符をうたねばならない。本能が勝りし者たちを再教育する制度を見直し、治安の向上をいま一度ここで約束するってさ! 続きは買ってからのお楽しみ!

「あれは今朝の新聞じゃないか」

 父親が言う。エイダンは苦笑した。

「どこかで拾ったのを売って、小銭にしてるんだ」

 やれやれと嘆息した父親は、視線を遠くする。通りの先には五階建ての百貨店がそびえ立ち、薄曇りの空を飛行船がゆったりと流れるように泳いでいた。

「……なんにせよ、ずいぶん騒がしい時代になったものだ。ときどき馬車が走っているのを見ると、安心するよ」

「そうだね」

 なんとなく押し黙ると、大きな歯車をそなえたオートマチックピアノの演奏がよく聴こえた。聞き覚えのあるメロディだが、歌詞も曲名も思い出せない。すると、歌を口ずさむ数人の女性の声がどこからか聞こえてきた。

 私をどこか遠くに 連れていって

 あなたの唇が 秘めやかな詩をとなえたら

 私はもう あなたのとりこ

「昔流行った曲だよね。列車の歌じゃなかったかな」

 さして興味なさそうに、父親はうなずいた。伴奏者がいないのに鍵盤が動いているため、けげんそうに眉をひそめる。

「あれも電気とかいうもので動いているのか」

「ううん、違うよ。あれは誰かが歯車を巻いて動かしてるんだ」

 エイダンがそう言ったとたん、懐かしい曲はゆっくりとテンポを落としていき、やがてぴたりとやんだ。と、ピアノに近づいたウエイターが、すまし顔で大きなバーをぐるぐると巻きはじめる。

「ほら、あんなふうにするんだ。大きなオルゴールみたいなものだよ」

 そうエイダンが答えた直後、

「エイダン。あと一年の学費はだしてやれないんだ。すまない」

 父親がとうとつに告げた。会話の流れからするとどうしたっておかしいのだが、そんなふうにきりだすことしかできなかった父親の内心を思うと、哀しくてたまらなくなる。たったこれだけのことを告げるために精一杯にめかしこんで、地方の田舎まちからわざわざきてくれたのだ。エイダンはほとほと自分が情けなくなって、視線を落とした。

「いいんだ。わかってるよ、父さん。……手紙でもよかったのに」

「お前にとっては将来を左右する大事なことだ。手紙などではすませられないさ」

 古ぼけたチャコールグレーのジャケットは、肘当てと肩のあたりがほつれている。高額な学費や仕送りを捻出してくれた家族を思うと、エイダンはやりきれない気持ちでいっぱいになった。

 期待されていた。その期待のすべてを、自分はきれいに裏切ったのだ。

 目に涙があふれそうになって、軽く唇を噛んだ。そんな努力もむなしく、丸眼鏡の黒縁にしょっぱい滴がたまっていく。

「……卒業できなくてごめんよ、父さん。母さんにも姉さんにも、なんて言ったらいいか……」

「お前は誰よりも真面目に学んでいたと、スエッドソン教授から手紙が届いていた」

 初耳だった。驚いたエイダンは、指先で涙を拭いながら目を丸くした。

「お前はよくやっていたと、書いてあった。あと一年あればおそらく卒業できるだろう、とも。だが、その留年分の学費がな、私たちにはもうどうしたって用意できないのだよ」

 いいんだ、もう充分だと、エイダンは思う。自分にできる限界を越えてまで、やるだけのことはやったのだ。その結果が、思い出したくもない卒業試験の失敗というだけのこと。

 すべてを有した天才との、圧倒的な力の差。その差を目の当たりにして絶望したあのとき、頭のなかが真っ白になってエイダンは立ちすくんだ。そして、そんな彼に追いつくためには、自分に足りないものが多すぎると悟ってしまった。どんなに想像力があったとしても、現実化できる力がなければ意味がない。それはあと一年学んだとしても、とうてい身につけられるものではないこともわかってしまったのだ。

 あの日、あの一瞬で。

「わかってるよ、父さん。いいんだ。いままで本当にありがとう。考えていたんだけれどね、しばらくこっちで仕事を探そうかと思っているんだ」

「そうか。それはいいことだ」

「うん。もしも見つからなかったら、帰って農場を手伝うからね」

「ああ。お前の思うようにしなさい」

「学費は返すよ。一生かかっても、絶対に返すから」

 このときはじめて、父親は表情をやわらげた。

「その気持だけ受け取っておくさ。この四年間、私たちはお前に夢を見させてもらった。その夢の代金としては、まあ妥当だろう」

 家が一軒建つほどのお金を溝に捨てたというのに、父親はエイダンをいっさい責めなかった。そのことがやるせなくて、うつむいたエイダンはとうとう泣いてしまった。

「エイダン。これからは技能の時代だ。学のない私にだって、そのくらいのことはわかる。だからこそ、お前がエーテル修復師になりたいと言ったとき、私は反対しなかったのだ」

 しかるべき芸術大学を卒業したのち、エーテル修復師としての国家資格試験に合格すれば、グレートランド王国刻印が金糸で刺繍された純白の手袋――ホワイト・グローブが与えられる。そうなるための針の穴ほどの狭き門を通ることができたなら、名誉と栄誉をほしいままにした貴族のような生活が待っていた。

「グローブをつけたからといって、誰でもエーテルを集められるわけではない。でも、お前にはその才能があった。せっかく神がお前に与え給うたその才能をのばしてやりたいとも思ったし、お前には私とは違う人生を歩んでほしかったのだ。いまもその気持ちに変わりはない。もっとも、お前が心から農場をやりたいと言うのなら、もちろん素直に嬉しいがね」

 嗚咽をこらえたエイダンは、肩を震わせながら訊ねた。

「……父さんは、自分の人生を後悔してるの」

 父親は目を細めて笑んだ。

「いいや。たしかに、遠い昔には都会に憧れた。だが、いまは家族と過ごす静かな生活に幸せを感じる。しかしな、エイダン。それは私のような年齢の者の特権だ。お前のような若者にはまだ早い」

 いっそのこと、口汚く罵ってくれたら気楽だった。そうすればなにもかもを、自分の血筋や環境のせいにして、現実から逃れることができただろうから。気弱で泣き虫で、いつもおよび腰で、なんの才能もない平凡な人間だという残酷な終幕から、目をそむけ続けることができただろうから。

 ぐずぐずと涙をぬぐう息子に、父親は優しく言った。

「冷めてしまうぞ。紅茶が砂糖水に成り下がる前に、早く飲みなさい」

 エイダンはうっかり笑ってしまった。砂糖水か。たしかに。

「……ねえ、父さん。昨日からやってるサーカスがあるから、一緒にどう? せっかくきたんだもの」

「そうしたいが、実はフェアリー・ルーの出産が近づいていてな。いつ産まれるともしれないから、夕方の便で帰るつもりなのだよ」

「えっ? さっき着いたばかりなのに?」

 父親は肩をすくめて見せる。フェアリー・ルーという名だが、もちろん妖精ではない。妖精のように愛らしい牝馬ということで、エイダンの姉が名付けたのだ。

「……そっか。それじゃ、しかたないね」

 ああ、と父親は気まずそうに笑む。

「というのは表向きで、私は時代おくれの人間だと自負しているからな。工場だらけで騒がしいうえに、わけのわからない電気やら機械やらがのさばっている都会は、どうにも落ち着かん。蒸気機関車にもいまだに慣れないが、文句を言ってもいられまい。それをフェアリー・ルーのせいにして、早く帰ろうという魂胆だ。お前と一緒にサーカスを楽しめる余裕が、ここにいる私には微塵もないことをわかっておくれ。お前の顔を見られて安心したから、さっさとおいとまするさ」

 エイダンは笑った。それにつられたように、父親も微笑んだ。

「いつでも帰ってきなさい、エイダン。だが、それは〝いま〟じゃない」

 そう言って帽子をかぶると、窓の外に視線を向けた。エイダンは砂糖水に成り下がった紅茶を、最後まで飲み干した。

 いっきに。自分のささくれだった気持ちを、身体の奥底に流し込むようないきおいで。

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