月刊読み聞かせくまがい『なんと、私が長嶺です。』2021/5/25配信
■朗読ラジオ劇脚本無料公開
「なんと、私が長嶺です。」作・熊谷拓明
「ふぅ。ふぅ。ふぇーー。暑いー、
ズボンなんて履いてられないな…ちょっと脱いどこ。」
夏の予行演習かのような5月のある日、長嶺いさおは、今日も出勤前の2時間を家で寛ぐ事に人生の7割以上の情熱をかたむけていた。
この日は部屋の窓を開け放ち、風が揺らしているカーテンのゆるゆるとしたダンスを眺めながら、ソファーでお気に入りの豆乳ラテを飲む事を目論んでいた長嶺であるが、その前に床の拭き掃除がしたくなり、昨日まではタオルだった近所の商店街の蕎麦屋の粗品手ぬぐいを雑巾に任命し、後頭部の寝癖を揺らしながらせっせと8畳ほどのリビングの床を行ったり来たりしたわけである。
わざわざ5月の貴重な夏日に、顔も洗わずに床を行ったり来たり。
大汗である。
ズボンを脱いで豆乳ラテの準備に取り掛かる。
「よし!完璧だー。良きバランス。
カーテンも揺れてる。完璧だ。う!あ!んんんん。くそー。」
汗だくのままズボンを脱ぎ、急いで豆乳ラテを作り、そのままソファーに座った長嶺の人型が、汗によってソファーにくっきりと・・・
「あーー。なんで座る前に気が付かないんだ、おいおい、くっきりしてんじゃねーか・・・豆乳ラテ飲んでる場合じゃない。よし。」
長嶺は豆乳ラテをテーブルに置くと、ファブリーズをソファーがビショビショになるまで振りかけ、効率の悪い微熱風しか出なくなったドライヤーでソファーを乾かし始めた。
※鼻歌
「よしこれで大丈夫だ。ふーーー。ふぇーー。暑いー。これはもう、シャワーだな。」
朝起きて、床の拭き掃除をして汗だくになり、豆乳ラテを作り、ソファーを汚して、ファブリーズを振りかけて、ドライヤーをかけて汗だくになり、シャワーを浴びた長嶺に残された出勤前の時間は残り25分になっていた。
「ぐぐ。。。こんな気持ちの良い日に、こんなにカーテンが踊る日に、俺はもうこの家を後にしなくてはならないのか・・・いや、あと25分もあるじゃないか、急げ、急げ、長嶺!着替えて髪を整えて、出かける直前までの準備をして、この豆乳ラ・・・お・・・なんてことだ、そらそうだよな、こんなに長い時間ここにいたんだもんな。」
汗だく長嶺がせっせと作った豆乳ラテは豆乳とコーヒーと氷が溶けた水との綺麗な3層に分かれていた。
その三層豆乳ラテを見てふと長嶺は中学一年の2学期の、学期末テストを思い出すのだった、
テストの問いは、「この地層を見ると、この地は昔海だった事が推測出来ます。その理由を述べよ」というものだった、長嶺は自信満々「この地層には貝が多くみられるから」と回答したのだった。
しかし後日、解答用紙が戻された長嶺に悲劇が起こった、長嶺の解答用紙にはしっかりと、
この地層には「具が多くみられるから」と書いているのだ、あの日の自分を疑った。
そして何度見ても漢字で、「貝」ではなく「具」と書いているのだ。
なぜ一本多く線を引いてしまったんだ。。
しかもその問いの答え合わせの時に、東海林先生が楽しそうに「長嶺、具だくさんだなこの地層は!ははははは。」と楽しそうにクラスメイト全員に報告する始末。
幸い国語のテストではないという理由で点数はもらえた、そしてそれから30年経っても貝と具は書き間違える事はない。おそらくこの先もないであろう。
こうやって人は学んでいくんだ。と三層豆乳ラテを見ながら感慨にふけていると、長嶺が家を出なくてはいけない時間まであと18分である。
「わ!んんー。この豆乳ラテを無駄には出来ない、さぁ急ぐんだ、おれ。」
そういうと今度は異常なスピードで仕立てのいいクリーム色のワイシャツを着て、サスペンダーを肩からぶら下げ、赤い靴下を履いた、靴下は一度右だけが裏返しだったので慌てて履きなおした、グレーの薄手のスラックスを履くと、髪を急いで整えた、急いだわりには程よい8対2の割合で右に髪を流すことが出来た。
もう少しで三層豆乳ラテだ。
そして額には今朝何度目になるだろう・・・光る汗が生まれては長嶺の右目、左目へと容赦なく流れこむ。
しかしもう長嶺は迷わない。どんなに汗が目に入り込もおとも、あの三層豆乳ラテをソファーで飲むのだ。そのことにひたすら集中して無事にソファーに座り、グラスを手にした時、気が付いてしまうのだ。
あまりに急いで支度をしたせいで、下着のパンツが就寝用なのだ・・・このゆとりのあるゆったりパンツでは今日一日気合をいれて働くことが出来ない・・・
「あーーーーーー!ちょっと待ってくれな三層豆乳ラテ!おれ!パンツ着替える!」
そう言うと長嶺は急いで寝室のクローゼットに走った!
「待ってろラテ、待ってろ豆乳」
そう言いながらするっとスラックスを脱ぎ、
クローゼットの扉に手をかけて、ぐいんっと引き開けてパンツの入った棚に手を伸ばそうとした瞬間。
いやそれよりほんの少し先に、自分の開けたクローゼットの扉に左足の小指を強打した、
「ぎぃーーーーー!」
そう叫んで長嶺はクローゼットの中に倒れこんだ、おそらく今シーズンはもう着ないであろう春物のコートや、クリーニングから帰って来たシャツ、しまい込んでいた古いカーテンや、冬物のマフラーや、ダウンや、かけ布団、実家から持ってきてしまった5月人形までが長嶺の元へと降りかかった。
何が起こったのかを整理するまでに、何分かかったのだろう。
しかし足の小指をクローゼットと扉にぶつけて、クローゼットの中に倒れこんだ所に、おそらく今シーズンはもう着ないであろう春物のコートや、クリーニングから帰って来たやシャツ、しまい込んでいた古いカーテンや、冬物のマフラーや、ダウンや、かけ布団、実家から持ってきてしまった5月人形までが降りかかただけではなかったのだ。
クローゼットの中だと思っていた暗闇の外からかすかに路地を走り抜けるトラックの音がする、人が行きかい、時に立ち話をする声が聴こえる。
そのうちクローゼットの中に小銭が投げ込まれる音がして
次の瞬間、長嶺の頭の上から何かが外に流れ出ていく音がした。
「ん。。。へ?」
長嶺の家のテーブルの上には三層豆乳ラテが長嶺を待っている。
今日もまだ。
おわり。
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