見出し画像

私たちは今、「じっとしていて」いいのか  ケダゴロ「세월」

 これまで常に肉体表現の限界に挑む作品を送り出してきた下島礼紗の作品の特徴は、自分が実際に体験していない「事件」を素材とし、そこに肉体の力によって想像の翼を広げてきたことにある。『세월』もまた下島らしい強烈な集団的肉体表現によって、コンテンポラリーダンスシーンだけでなく、あらゆる表現にかかわる者たちの喉元に匕首を突きつける強靱さを持っている。
 下島の優れた作品作りのポイントの一つに、作品と現実の構造を重ね合わせて観客に提示して見せるというスタイルがある。『sky』では、連合赤軍の集団的狂気とダンスカンパニーにおけるそれとが見事に二重写しにされていた。そして今回の作品では、沈みゆく船に流れる「じっとしていてください」というアナウンスと、劇場が開演前に流す「非常時には係員が誘導しますので、お席をお立ちにならないようにお願いいたします」というアナウンスがダブってくる仕掛けになっている。
 劇場という「公共空間」で観劇する私たちには、震災が起きても自分で判断して行動する権利はないのだ。席を立つな、声を出すな、飲食をするなというがんじがらめの制約の中に居続けること。それが現代の観劇体験なのである。
 かつて、こうした劇場のあり方に異を唱える者たちがいた。60年代のアングラ小劇場の担い手たちである。唐十郎と状況劇場の活動初期、彼らは開演前に観客に小石の詰まったビニール袋を一つ100円で売っていた。面白くない役者に投げつけるための石である。実際、テントの中では観客が役者をやじり倒し、小石を投げつけ、それに怒った役者が客席に乗り込んで客を張り倒すなどということが起こっていた。
 同様に、演劇センター68/71黒色テントの津野海太郎は、紀伊國屋ホールでの『阿部定の犬』の上演時に「喫煙劇場」の実現を提唱していた。劇場で芝居を観るときに、煙草も自由に吸えないのはおかしいというのである。今となっては時代錯誤にしか思えない話だが、実際、’70年代前半の池袋演芸場などは畳敷きに火鉢が置かれ、煙草は自由に吸えたし、酒を飲むこともできた。噺家の噺がつまらなければ、横になって寝ることもできた。寄席や芝居小屋は元々世間の常識が通用しない「悪場所」なのである。
 それがいつの間にか劇場はみごとにデオドラントされた「公共空間」として、観客はおとなしく整然と観劇することが当たり前になっている。そうした私たちの感覚に、下島は「本当に、それでいいの?」と疑問符を投げかけてくる。こうしたダブルミーニングを仕掛けるのが下島は絶妙にうまい。
 そうした仕掛けによる緊張と、極限まで肉体と神経を酷使したダンサーたちによって、『세월』は『sky』や『ビコーズカズコーズ』に劣らない緊張感を持った作品に仕上がっていた。それを支えているのは、現在では希少な存在となってしまった感のあるカンパニー制である。ケダゴロの創立メンバーは、下島を中心に堅い結束を保っている。それがあるからこそ、オーディションメンバーが多数を占める作品作りにおいても精神的緊張と統一を保つことができる。今回の作品では中澤亜紀の存在が眩い輝きを放っていた。

 にもかかわらず、にもかかわらず、である。今回の作品にはもう一つ突き抜けてこちら側に迫ってくるものがない。この作品には『sky』や『ビコーズカズコーズ』にあったような作品の核となる象徴的なシーンが欠けているのである。
 たとえば、『sky』のラスト近くで3分間もの長きにわたって続く沈黙のシーン。あんな長さの沈黙シーンを作品の中に仕掛けられる演出家はいない。観客の意識が舞台から離れていってしまうことを恐れるからだ。しかし、『sky』では観客がじっと息を凝らして長い沈黙の時間に付き合うことができた。それを可能にしたのはあの作品が観客に強いる張り詰めた緊張と空間の濃密さゆえである。
 そして、『ビコーズカズコーズ』のラスト近くで、同じく長い沈黙の後に「屋根裏」から切なくも美しい歌声が流れてくるシーン。観客の皮膚から染みとおり、細胞の中にまでじわじわと浸透してくるような象徴的なシーンだが、今回の『세월』にはこうした核心的なシーンがない。何かもう一つこちらの胸に迫ってくるものがないのだ。
 なぜか。
 その答えは、この作品のエピグラムとして韓国の小説家キム・エランの以下のような一文を引いている下島の創作姿勢に潜んでいる。

  「理解」とは、他人の中に入っていってその人の内面に触れ、魂を覗き見ることではなく、その人の外側に立つしかできないことを謙虚に認め、その違いを肌で感じていく課程だったのかもしれない。
     キム・エラン「傾く春、私たちが見たもの」
           『目のくらんだ者たちの国家』
           矢島暁子訳、新泉社、2018年

 今回の作品の評価は、ひとえにこの一文をエピグラムとして引いたことの正否にかかっている。
 正か否か。
 否である。要するに「ケダゴロ(泥、または犬の糞)」を名乗る集団の作家としては、お行儀がよすぎるのだ。
 確かに、「その人の外側に立つしかできないことを謙虚に認め」ることは、コミュニケーションの基本中の基本であり、圧倒的に正しい。しかし、その正しさはそのまま表現者の正しさとなるわけではない。その困難な落差を一番敏感に感じ取り、悩み、苦闘したのはほかならぬ下島自身だろう。下島は当日パンフレットの挨拶文で「こんなに、表現の自由が怖いと思ったことはありませんでした」と正直に創作過程の恐怖を吐露している。
 そうした感性もまた高く評価されるべきである。今、これほどまでに真摯に創作に立ち向かえる作家は希少だからだ。にもかかわらず、いや、だからこそ、下島にはこの恐怖を乗り越え、もう一段高く飛翔することが求められている。なぜなら、それが時代とともに生きる作家の宿命だからだ。

 時代とともに生きる作家は、時に時代を自分の側に呼び寄せる。今回の創作期間の間に、北海道知床沿岸で「KAZU 1」が沈没した事件が起こったのは実に象徴的なことだ。「セウォル号」と「KAZU 1」の「沈没事件」は完全に相似形の「事件」である。
 「セウォル号」は日本で鹿児島と沖縄を結ぶ定期航路に就航していた老朽船を韓国の船会社が買い取り、違法改造を施した船だった。「KAZU 1」もまた瀬戸の内海で観光船として就航していた老朽船を買い取り、そのまま外海を走らせるという無茶な使い方をしていた船だった。両船とも乗組員は全員正規雇用ではなく「セウォル号」の副船長も「KAZU 1」の甲板員も事故の前日に入社したばかりの非正規雇用社員だった。両船とも救命ボートなどが積み込まれておらず、「KAZU 1」には無線すら装備されていなかった。これらの違法な就業状態を現場で確認することもなく、適法として公的機関が開業免許を与えていたというのも共通のことだ。
 この二つの「事件」から共通して浮かび上がるのは、「国家によって見捨てられ、遺棄される国民」の姿である。
 企業は利益を追い求めるために、給与の高い正規雇用者を非正規雇用に置き換え、顧客の安全を二の次にしてまでギリギリまでのコスト削減を図る。公共の安全を管理するはずの官は民と馴れ合い癒着し、違法操業を黙認する。なかなか採算のとれないオンボロ旅客船に修学旅行を斡旋するため、国内の各高校に積極的にフェリーの活用を進めていたのは、ほかならぬ韓国教育省だったのだ。
 セウォル号が沈没した当時の韓国大統領朴槿恵は、こうした官の体質とあり方を「官フィア(官僚マフィア)や公職鉄鉢(公務員は食いっぱぐれないの意)」という言葉を使って批判してその一掃を誓って見せたが、それは「桜を観る会」でただ酒を振る舞い、みずからが会長を務める旅行業界に金を回すために「GO TOトラベル」と称して2兆7000億円もの資金をつぎ込み、その一方で母子家庭への給付金や生活保護費を削減するなどして貧しい国民を次々と切り捨てていく我が国政府のあり方とまったく同じだ。安全をこうした構造の中で脅かされ、命を犠牲にさせられるのは、何も知らずに「大韓民国」、「日本国」という船に乗せられている一般国民なのだ。
 つまり、「セウォル号沈没事件」は、決して下島の言うような「あまりにも大きく立ちはだかる韓国の事件」ではない。「セウォル号沈没事件」は、今となっては私たち日本人も直面している切実極まる「事件」なのである。
 もし、この二つの「事件」の間に相違があるとすれば、韓国では民衆が声を上げて立ち上がり、朴槿恵を弾劾裁判にまで追い込んだのに対し、我が国の国民は「じっとしていてください」というアナウンスにあまりにも無抵抗に従っているということだろう。
 ところが、下島はこの「事件」をあくまで「海の向こうの大事件」として捉えてしまった。この「事件」を自分自身の、私たち自身の切実な問題だという意識を形成できていないのである。
 なぜか。
 それは、下島が日本人の観客の目を意識してこの作品を作っていないからだ。下島の意識は韓国の観客、もっとありていに言えば韓国のダンス界に向いている。
 下島は昨年の韓国国立現代舞踊団における滞在制作において初めて「韓国人という他者」を発見し、そのヒリヒリとするような緊張感の中で韓国人ダンサーとともに作品を作り上げ、大きな成果を上げた。その興奮と「カルチャーショック」が下島の意識を惑わせているのだ。
 下島は当日パンフレットの中に、この作品を作るに当たって計画していた「巨大な水槽を作る」構想を途中で断念し、そのような構想を抱いた自分に「おぞましい憎悪」を感じたと述べている。下島の真摯で誠実な創作態度が窺える。だが、果たしてそれは正しい選択だったのか。私にはそうは思えない。私は「巨大な水槽の中」の中で暴れ、踊り狂うケダゴロが観たかった。しかし、その実現への道はこの作品に『세월』というタイトルを付した瞬間にたち消えてしまった。『세월』というタイトルは、「セウォル号沈没事件」を「あまりにも大きく立ちはだかる韓国の事件」とせずにはおかないからである。ここに今回の作品の致命的な選択ミスがあった。それは下島の意識が韓国という他者に向けられていたために起こった選択ミスである。
 作家は他者に起こった悲劇を、自分自身の悲劇として捉えることができなければならない。それがなされないままに悲劇を描こうとすれば、それはどうしたって彼我の間に立ち塞がる大きな壁に行く手を阻まれることになる。
 下島は「この事件のスペクタクルに無意識の高揚を感じていた」自分の、作家としての欲望に忠実であるべきだったのだ。そして、それを実現させるためには何をなすべきなのかを徹底的に模索すべきだったのである。
 そのためには、下島はこの作品の主要なモチーフが「セウォル号沈没事件」であることを秘すべきだった。それはあくまで作家の胸の奥底に潜む隠されたモチーフとしてこの作品を組み上げるべきだったのだ。そして、もしかしたら観客の中の誰かが、「もしかして、これ、セウォル号沈没事件と何か関係ある?」と気づいたときに、人知れずニヤリとほくそ笑んで見せればいい。作家というものはそのくらいには底意地が悪くていいのである。

 私がここまで執拗に作品のミスを指摘するのは、下島という作家にかける期待がそれほどに大きいからだ。この作品を『세월』というタイトルのまま成長させていくのは難しいかもしれない。だが、この作品は決して「失敗作」ではない。下島の作家としての誠実さを示す優れた作品であると思う。しかし、その誠実さは「ケダゴロ」を名乗る集団を率いる作家に求められているものではない。
 これを作家として成長する大いなる契機とし、さらなる飛躍を期すしだいである。

この記事が気に入ったらサポートをしてみませんか?