麿赤兒の進化と深化 大駱駝艦『脳 〜BRAIN〜』
写真撮影/川島浩之
もの凄い舞台を観た。
麿赤兒の振鋳・演出・美術・鋳態による『脳 ~BRAIN~』である。
麿はこの作品で大駱駝艦50年の歴史の中で獲得した自らの進化と深化をまざまざと私たちに見せつけたのだが、それは前作『はじまり』で既に姿を現してはいた。
麿の前作『はじまり』の舞台評で、私は次のように書いた。
この『はじまり』という作品で、麿はこの五十年間の大駱駝艦公演で一度もやらなかったことを四つもやって見せた。一つは幕開きに麿が板付きで登場すること。二つ目は麿が開演から終演まで舞台に出突っ張りだったこと。三つめは麿が群舞を、しかもユニゾンで踊ること。そして四つ目は麿と艦員が合唱することである。(中略)こんなに突き抜け、解放された麿をこれまで観たことはない。
客席の私を驚嘆させたこれらの要素は今回の舞台でもそのまま踏襲されていたのだが、それだけではない。今回はそこにさらに新しい創作スタイルが加えられていた。
その一つ目はこの作品では各場面が暗転や艦員達の登退場によって区切られていないこと。
本作にも11の場面表題があり、それぞれ「ガラクタ降臨」、「新聞脳」、「戦禍とその後」などと名付けられてはいる。しかし、それらのシーンはシームレスに繋ぎ合わされ、映画で言うワンシーンワンカットの手法で作られていた。これはとてつもなく大きな変化である。
もともと大駱駝艦の作品は、各艦員の手に委ねられた様々な場面が麿赤兒という大きな容れ物の中に乱雑に放り込まれ、その混沌の中から最終的に鍛冶神が姿を現すというような手法が採られていた。それは麿赤兒が提唱する「一人一派」という集団論による大駱駝艦の必然的な創作手法だったのである。
その創作手法が姿を消し、ワンシーンワンカットのようなシームレスな舞台構成が出現したということは、大駱駝艦の集団論が大きな変化を遂げたということである。ただし、それは麿が「一人一派」という考え方を放棄したということを意味するわけではない。それが証拠に村松卓矢や田村一行をはじめとする大駱駝艦の艦員達はそれぞれに自主公演を持ち、独自の作品を作り続けている。では、何が変わったのか。
それは麿が群舞をユニゾンで踊るということに端的に表れている。つまり、現在の麿は艦員たちと対等な、一人の舞踏手としての立ち位置に立っているのである。
麿は今年の9月にベルギーのブリュッセルで、世界的チェリスト、エリック=マリア・クチュリエの生演奏による『Alter Ego』というソロ舞踏作品を作っている。麿赤兒初めてのソロ作品である。これまでも「麿赤兒ソロ公演」と銘打たれた公演がなかったわけではない。しかし、それは麿が一人で舞台に立っていたわけではなく、必ず艦員たちの群舞が伴っていた。それを指摘すると麿は、「あれはオブジェだよ」と嘯いていたものだが、『Alter Ego』は正真正銘のソロ作品で、踊り手としての麿の魅力を存分に味合わせてくれるものだった。
大駱駝艦の艦長は今や艦橋からおり、艦員たちと肩をならべて航海に臨んでいるのである。
二つ目の大きな変化。それは舞台に立っている全員が下半身を白塗りしていないことだ。今回の舞台では、全員が白のタイツを身につけ、それに五本指の白靴下を履いていた。この変化はたぶん舞台美術との関係から必然的に導き出されたものだろう。
今回の舞台美術では、床に巨大な人型の鏡が敷設されている。それに照明が反射することで、妖しくも美しい陰影が生み出されていたのだが、その上をいつもの白塗りで歩くと鏡に白塗りの跡が残り、せっかくの鏡がその効果を失ってしまう。そのために、やむなく選択されたのが白いタイツと靴下だったのだろうと推測するのだが、それが想定以上の大きな効果を上げていたのだ。
通常、大駱駝艦に限らず、舞踏を標榜する踊り手は「ツン」と呼ばれる細い紐状の下着を履き、その上から白塗りをする。「ツン」というのは、「ツンパ」の略で、「パンツ」をひっくり返した芸人用語である。土方巽が「暗黒舞踊(舞踏ではない)」を創始して以来、踊り手達はみなキャバレエのショーダンスで公演資金や生活費を稼ぎ出していた。今も「ツン」を着用するのはその名残りである。しかし、もともとキャバレエという「悪場所」で使われていた「ツン」や、それをその様な芸人用語で呼ぶ習慣は、嫌でも観客をして舞踏から怪しく、危険な見世物の匂いを嗅ぎ取らせずにはおかない。それは土方の「暗黒舞踏」においては極めて効果的であった。土方が観客の喉元に突きつける反近代、反権力の刃は、悪場所の暗がりから突き出されるところに意味があったのだ。
土方の有名なマニュフェストに「舞踏とは必死で突っ立った死体である」というものがある。全身を真っ白に塗り、ユラユラと舞台に立つ土方も姿を思えば、これはいかにも土方らしい詩的な表現に思える。しかし、土方がこのマニフェストを提示して見せた意図はそこにはない。土方の『刑務所へ』というエッセイには、次のような一文がある。
ぼくの舞踊が犯罪や、男色や、祭典や、儀式と基盤を共通していると言い得るのも、それが生産社会に対して、あからさまに無目的を誇示する行為だからである。この意味で素朴な自然との闘い、犯罪や男色をもふくめて人間の自己活動に基礎を置いたぼくの舞踊は、資本主義社会の「労働の疎外」に対する、ひとつの抗議でもあるはずだとぼくは考える。ぼくが犯罪をとくに取り上げる理由も、おそらくここにある。
この文章が発表されたのは六一年、土方三十三歳の時のことだが、この時点で土方は自分の舞踊を「資本主義社会の『労働の疎外』に対する、ひとつの抗議」だと捉えていたのである。
それに続けて土方はこうも書いている。
断頭台に向かって歩かされる死刑囚は、最後まで生に固執しつつ、すでに死んでいる人間である。死と生の強烈なアンタゴニズム(抗争)が、法律の名の下に不当な状態を強いられた、この一人の悲惨な人間のうちに極限化され、凝集的《ぎょうしゅうてき》に表現される。歩いているのではなく、歩かされている人間、生きているのではなく、生かされている人間、死んでいるのではなく、死なされている人間‥‥この完全な受動性には、にもかかわらず、人間的自然の根源的なヴァイタリティが逆説的にあらわれているにちがいない。「今や、断頭台上に立ち手を縛られた罪人は、まだ死んではない。死ぬには、一瞬間が足りないのだ。死を猛烈に意欲するあの生の一瞬間が‥‥」とサルトルも書いている。かかる状態こそ舞踊の原型であり、かかる状態を舞台の上につくり出すことこそ、ぼくの仕事でなければならない。
つまり、土方が『舞踏とは必死で突っ立った死体である』というマニフェストでイメージしている「必死で突っ立った死体」とは、「断頭台に向かって歩かされる死刑囚」のことなのだ。とすれば、土方が生み出した「暗黒舞踏」は必然的に、観客に犯罪的な匂いを感じさせる危険なものでなければならなかったのである。
それは土方と出会った頃の麿にしても同じだった。
麿は土方と出会ったときのことを次のように回想している。
部屋の中をのぞくと、そこにはドテラに身を包んだ異様な風体の男が、火鉢の前にうずくまって餅を焼いていた。その姿に気圧されて立ち尽くしていた私をギロリ睨んだその男は、東北訛りの口調で「餅、食うが?」と言った。いつも空きっ腹を抱えていた私は一も二もなく馳走にあずかったのだが、そんな私に男は突然、「君は盗み癖はあるか?」と聞く。反射的に「はい。あります」と答えると、男は「ふむ」と言ったきり、また餅に視線を戻した。それを見て私は、「ああ、土方巽は私を受け入れてくれたのだ」と思ったのだった。
私流に解釈すれば、土方が麿に「君は盗み癖はあるか?」と聞いたのは、麿に犯罪者としての仲間の匂いを嗅ぎ当てたからだろう。土方は麿に、「お前は市民社会の論理の中で生きていく人間なのか? それとも、その外側に立つ人間なのか?」と聞いたのだ。それに対して麿が明確に「外側です」と答えたから、土方は受け入れたのである。
そのことの当否はさておき、状況劇場という現代の悪場所から離れ、大駱駝艦を創設した頃の麿もまた、反近代、反権力の立ち位置にいた。
麿の父君=大森潤一は戦時中、 第一航空艦隊(一航艦)の副官を務めていた人物である。一航艦というのは、あの真珠湾における奇襲攻撃を成功させた大日本帝国海軍最大、最強の艦隊だ。江田島の海軍兵学校を卒業した大森中佐は、大日本帝国海軍のエリート将校として長門分隊長を務めた後、昭和十九年八月、麿がまだ一歳の時に角田覚治《かくたかくじ》司令長官率いる一航艦の副官として北マリアナ諸島テニアン島で角田中将とともに玉砕している。
その記憶は麿の中に拭いがたい疵として刻みつけられており、それが麿の世界を形作る大きな要素となっている。大駱駝艦の「艦」が土方の使っていた「繙儀大踏鑑《はんぎだいとうかん》」の「鑑」ではなく「艦」であるのはそのためだ。麿は「大日本帝国海軍大森潤一中佐」の記憶を胸に、戦後の「日本国」という幻の海原を「大駱駝艦」という亡霊船の艦長として彷徨い続けていたのである。
しかし、今の麿は完全にその記憶と呪縛から解き放たれたように見える。今の麿はもはや反近代、反権力を敢えて標榜する必要もない。「私は麿赤兒だ」と言えば、それで立派にマニュフェストになるのである。
今回の舞台で下半身の白塗りをやめ、白タイツと靴下を着用したのは舞台美術との相間から偶発的に導き出されたものであったのかもしれないが、艦橋から降り、艦員たちと肩を並べて立つ麿の姿を見ていると、私にはその偶然は麿が必然的に呼び寄せたもののようにしか思えないのである。
白のタイツと靴下を身につけた艦員たちが踊る姿は、見事な美しさを醸し出していた。これまでは、女性陣が舞台で寝転がると嫌でもツンが目につき、作り手の意図とは無関係に悪場所を想起させ、反近代の匂いを嗅ぎ取らずにはいられなかった。ところが、今回の舞台ではそれが見事に消えていた。その代わりに目に飛び込んでくるのは艦員たちの見事に統制された大駱駝艦メソッドである。
舞台前面に座り込んだ麿の頭から伸びた紐状のもの(たぶん、頭から飛び出した脳だろう)を三人の艦員たち(石井エリカ、坂詰健太、荒井啓汰)が持ち、ピョンと跳びはねるシーンがあったが、あの跳び方は見事な舞踏テクニックで、まるで彼ら三人が空中に浮いているように見えたものだ。欧米のダンサーにあの跳び方は出来ない。膝から下を後に跳ね上げるような跳び方は、彼らの想定する「ダンス」の中にはないのである。
また、田村一行がグローブを持って二人の艦員(谷口美咲子、椿野真世)と踊るシーンでの足さばきの見事さ。あれほどに腰を落として踊るのもまた大駱駝艦ならではのテクニックである。
そしてどちらのシーンでも艦員たちの上半身の芯は少しもぶれていない。本当に見事な美しさであった。
麿は土方の影響下から完全に脱し、『天賦典式』という世界に誇れる日本的肉体表現様式を生み出したのである。
出来うることなら、白タイツと靴下というコスチュームがただ一回の偶発的なものに終わるのではなく、新たな大駱駝艦様式となる事を願っている。
山川三太
国際ダンスフェスティバル『踊る。秋田』芸術監督