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#18 フリートーク


小川です。

年末年始の独特な雰囲気も最早薄れ、ただ寒いだけの日常が再び始まり、気が緩んだ訳ではありませんが、踊り場に響くラジオ#18は、臨機応変、軽慮浅謀、暗中模索なフリートークとしてお届けします。

今年生まれる子供は皆2022年生まれな筈ですが、2022年生まれなんて超能力の一つや二つ持って生まれてくれないとしっくりこないのだけど、という文句は、一体どこに投書すればいいのでしょうか。

80年代末に生まれた人間にとって、2022年という数字にはSF的な臭いしか感じ取れません。仕事で作成した会議の議事録かなにかのヘッダーに、成年月日としてこの数字を打ち込む度、2022年になっても、人類は宇宙人の繰り出す怪獣への対処にではなく、情報の共有不足やスケジュール見込みの甘さなんかはともかくとしても、共用の冷蔵庫に食品を入れっぱなしで放置する輩だとか、暖房つけっぱなしで帰る輩だとかにに悩んで会議をしているとは思わなんだ、と感慨にふける訳です。

全容のつかみきれないウイルス対策に、企業、自治体、政府までが総出でとりかかっている状況は、十分SF的な事態の筈ですが、いざ、当事者としてその中に身を置いてみると、ただただ気をすり減らすばかりで、サイバーでもスペキュレイティブでも未来っぽくもありません。眼鏡が常時曇りやすいとか、耳の付け根がすれて痛いとか、SFに出てこなかったし。「Dune 砂の惑星」の片方の鼻孔に直接突っ込むタイプの砂防マスクも、実際にやってみたら鼻汁が止まらなくなるに違いありません。去年公開の映画はイマイチでした。

本編後半で少し話題になっている「小汚い近未来像」を発明したのは、1982年公開のリドリー・スコット監督作品「ブレードランナー」ということになっています。
1979年に公開された同監督の「エイリアン」も大傑作ではありますが、あれは宇宙船内の密室的空間でのこと。ブレードランナーはその規模を拡張し、都市空間全体を見事に隙なく近未来的に構築していますが、あの都市の風景を字義通りの「近未来」に位置づけるのは、常に降りしきる酸性雨と「強力わかもと」のネオンサインだというのは言うまでもありません。

制作当時に於いて最もビビットな環境問題だったのは、気候変動、温暖化に先んじて問題視されていた酸性雨であり、また、バブルで高騰した日本の地価総額でアメリカ全土が購入出来てしまう、なんて与太話が話題になっていた時代でもあります。

星間飛行とワープ航法なんて当たり前、多種多様な異星人がカウンターで肩を寄せ合う砂漠の飲み屋でのイザコザは「遠い昔、はるか彼方の銀河系で」の話でしかありませんでしたが、ブレードランナーが提示したのは現在進行系の問題の延長線の先に訪れるであろう「近しい未来」の姿でした。生きてる間に異星人から金返せと脅されることはなくとも、酸性雨を避けながら駆け込んだ屋台の日本人店主に、絶対食べきれないから注文を減らせと説得されることはあるかもな、と当時の観客が思ったかどうかは知りませんけど。

今の所、レプリカントだとか人造人間とお会いできる機会は訪れていませんが、なんといっても2022年、その世界に充満していた未来的なガジェットにまとわりつく「小汚さ」の方だけは、図らずも実現してしまったようです。

スナック菓子の破片を根本に溜め込んだキーボード、髪の毛を巻き込んで動作不良を起こすマウス、煙草の脂で曇ったスケルトンボディの中古のPCケース、スマフォに付着する雑菌の量はトイレの床以上であるなんて知りたくもない無駄知識に至るまで。

一昔前なら国防システムを担える程度の計算能力を持った手のひらサイズの端末を、人のコンプレックスを巧みに狙い撃ちしてくる広告をスキップする為に連打する度、服でぬぐった画面にあざとく増えていく指紋を見るにつけ思うのです。

僕らは、あの頃で映画で夢見られた未来に確実に生きている。