オンはコンタクト

休日出勤したある日のこと。

部屋の中に若手の同僚男性の姿があったため、「お疲れ」と声をかけると、見上げた顔が凛々しい。

「あれ?コンタクト?」

彼はメガネ青年なのだ。

「そうです。休みの日はコンタクトです。」

「へえ、何で?俺はオフの日がメガネだよ。」

僕はその日もボロっちいメガネをかけていた。

「だって、仕事パソコンばっかだから、コンタクトだと疲れなくないスか?」

その通りだ。ぐうの音も出ない。君は論理的だ。論理的だがー

今年41歳になる僕の世代は、やっぱりオンがコンタクトレンズだと思う。オンとは、戦う場面のことだ。

別の休日出勤の日に見かけた若い女性の同僚も、いつもは図書館の司書さんのような素朴な服装にメガネなのに、その日はお洒落でコンタクトをしていた。

ひょっとして、若者にとっては、仕事がオフなのではないか。そこは戦う場所ではないのではないか。

我が身を省みる。

僕は、子供の頃から視力が悪かった。遺伝的にも、家族は全員メガネ。

実家で夕飯に呼ばれ、最後のメンバーとしてダイニングのドアを開けた時、祖父母、父母、兄の家族5人全員がメガネをかけていたことに、子供心ながら違和感を覚えたことがある。

そして、僕らの世代は、保育園からファミリーコンピュータの薫陶を受けたデジタルネイティブだ。

小学校1年生の時点で両目は0.8となり、その後もデジタルスキルに磨きをかける代償に、視力はどんどん喪われていった。

小学校4年生になって、母に連れられて町の宝飾店「メルベーユ森」に行き、人生で初めてのメガネを買った。

団塊の世代の僕の母は、戦後民主主義のエキスを全身で浴びて中学校の理科教師となった。

彼女は「人間は死んだら分子と原子になる」と考えている唯物論者。ファッションセンスなど、望むべくもない。

僕に与えられたのは、黒縁の、顔の半分はあるようなメガネだった。

もっとも、1980年代には今のように細いお洒落なメガネなど売っていなかったとは思う。

くるりやアジアンカンフージェネレーションがスターダムに躍り出るのは、90年代の技術革新を待つほかなかった。

家に帰って、一人、その黒縁をかけた瞬間、

(これはヤバイ)

と思った。

お店で試している時は、軽いハイテンション、混乱状態だった。流れ作業のように、あれよあれよと物事は進んだ。

もちろん予兆はあった。

病院の視力検査で瞳孔が開く目薬を射たれ、世界をまともに見られなくなった。僕は、徐々に飼い慣らされていったのだ。

おそるおそる、学校にメガネを持参する。でも、本気ではかけない。鼻にかけてみたり、おでこに乗せてみたり。

バイクの免許が取れないから、自転車のハンドルをチョッパーに代えてみたり、カゴを外してみたりする不良のようなものだ。

付属のメガネ拭きで何度こすってみても、それはダサい真面目メガネだった。

メガネは真面目の象徴。田舎では、真面目とは被虐層のことだ。

メガネの同級生たちは、既に「メガネ」だの「ガリ勉」だのといった小学生らしい安易な呼称でからかわれていた。それで、真っ赤な顔をして反発したり、不貞腐れたような笑みを浮かべてみたり。

その仲間には入りたくなかった。

僕はメガネをしまい込んで、そのまま裸眼で通した。

当然、日常生活には難があった。知らない女の子に元気よく挨拶して怪訝な顔をされたり、友達だと思って「よっ!」と後ろから頭をチョップしたら、別人だったり。

授業についていくために、席替えの際は人の嫌がる前方を志願し、視力のディスアドバンテージをカバーするため、教師の言葉に耳を澄ました。人を歩き方や足音で判別する、探偵のような能力が身についた。

高校卒業まで、何とかそれで乗り切った。

ターニングポイントは大学1年生の時。車の免許を取る必要があった。

いや、別に必要はない。なくても死なない。しかし、地方の民は、車がなければ人権が保障されないのだ。

「今度遊びに行こうよ!」

学部の同級生の女の子たちを遊びに誘った時のことだ。

「えっ?車持ってるの!?」

そのグループの一人、品川さん(仮称)という、出身は宮崎の女の子はそう言った。

品川さんの目はキラキラと輝いていた。悪気のない振舞いほど、人を傷つける。

えっ?車持ってるの!?

えっ?車持ってるの!?

えっ?車持ってるの!?

の…? の…? の…?

「車は…ないわ。近くでカラオケでも。ハハハ。」

僕は力なく笑った。その時の品川さんの困ったような笑顔は忘れた。嫌なことは忘れた。

我々には、憲法で保障されているはずの女遊権、すなわち「女の子と遊ぶ権利」がなかった。

一方、学部の先輩方はこの近代兵器を標準装備しており、石斧や木を削って作った弓矢しか持たぬ我々原始人を尻目に、同級生たちへの狩りを繰り返していた。

くそっ、車さえ、車さえあれば負けぬ。野蛮な侵略者どもには…。

バイトで貯めたお金でコンタクトレンズを買ったのは、大学1年生の冬だった。

遅くね?

いや、その間、高い洋服買ったり、髪染めたりしてみたの。してみたのよね。

ラブロ片町のコンタクトレンズショップ「ハートアップ」に行き、ボシュロムの酸素透過性ハードレンズを買った。

眼球にハードコンタクトする異物。

しかし、俺はこれを乗り越えねばならぬ。これは人権の獲得に向けた闘争。

その日は雪の降る日だった。

コンタクトレンズを着用した僕には、舞い落ちる雪の一粒一粒がくっきりと見えた。

街灯の明かりに照らされた粉雪が、ひらひらと揺れている。

僕は寒さも忘れて、ずっとそれを見ていた。

みんなが見ている世界は、こんなだったのか。

それから免許を取るまでまた1年かかった。初めて実車した時に、その野性的な運転技術を教官にクソミソにこき下ろされた部族の誇り高き戦士は…。

まあいい。自動車学校の話はまた機会を改めたい。

苦節1年、就学期間ギリギリまでかかって取得した念願の運転免許。車は親父のお下がりのトヨタ・マークⅡグランデ2.5、ハイオクタン仕様だ。

別に、モテなかった。

よく考えれば当たり前だ。これが差別問題の要諦。差別解消運動とは、優遇を求めるものではなく、マイナスをゼロにする、イコールフィッティングを目指すものなのだ。

そういうことだ。

僕にとって、コンタクトレンズとは、他人と平等に世の中と渡り合うための武器。

ええと、若者の仕事観の話をしようとしていたのだけれど…そうではないのだ。

今の若い人たちにとっては、メガネとコンタクトは無邪気に使い分けができる、単なる視力矯正具に過ぎない。

幸せなことよの。

君たちは先達の暗闘の歴史を知らぬ。かつて、参政権その他の権利獲得のために命をかけた者もいたのだ。その他の。

視力が悪くて、いいことは何もない。

あるとすれば、メガネを、コンタクトを外した時の、あのぼやけた視界が好きだ。何にもピントが合っていない、あの世界が。

部屋の汚れも風呂の汚れも目に入らないから、気持ちはおおらかになる。人の顔も克明に見えないから、心が綺麗な人はみんな美しい人だ。

それが僕のオフの心。

今日もオンはコンタクトだ。

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