Extra / Ken Ishii
1998年、ということは大学1年の時。兄と二人で「レインボー2000」というレイヴに行った。
あれ、ホントに行ったんやろか。
夢やったんやないやろか。
目玉ゲストはデリック・メイだったらしいが、あまりよく憶えていない。
シャトルバスで霊峰白山の山中に赴き、絶対にこの手のイベントの勝手がよくわかっていない兄に連れられて、おそるおそる会場内を巡った。
当時は真性の合法ドラッグだったRUSHとかマジックマッシュルームとかも普通に売っていたように思う。
カレーかなにかインド料理みたいなものを食べて、一心不乱に身体を揺する兄や同じような人たちに混じり、見よう見まねで踊り明かした。
寒くて、疲れた。
「レインボー2000」というのは1996年に静岡県の日本ランドHOWゆうえんちで第一回が開催された、界隈ではよく知られた伝説のレイヴである。
「2000」という数字には、今となっては「20年くらい前?」という程度の感覚しかないだろうが、当時、世紀末を乗り越えた先の2000という響きは、人類の未来を予感させた。
90年代は後に「テクノ黄金期」と呼ばれ、日本でもアンダーワールド、プロディジー、オービタル、ケミカル・ブラザーズという、いわゆる「四天王」にとどまらず、ソニーから1,500円や2,000円くらいで海外有名レーベルの本物の作品がどんどんリリースされた。
石川県の片田舎の田んぼの中のレンタルCD屋でバイオスフィアのアルバムが売られているなど、あり得ないことである。
僕がテクノに傾倒し出したのは兄の影響で、その兄が影響を受けたのが電気グルーヴである。
「電気グルーヴのオールナイトニッポン」。それがどれほど多くの若者の人生を狂わせたかは既にあらゆる媒体で語り尽くされているので、僕から言うことは何もない。
「テクノは未来の音楽だから」とマイク・ヴァン・ダイクは語っていた。
これだけ電子音が溢れ、コンピュータによる音楽制作が一般化した今日では、この言葉の意味はわかりにくいだろう。
当時、楽譜が読めなくても音楽が作れる。楽器が弾けなくてもDJになれる。これは革命的なことだった。
そして、基本的に言葉を用いないインストゥルメンタルであるという音楽の性質上、一気に世界と繋がることができた。ベルリン、東京、デトロイト、イビザ。
第二回、1997年のレインボー2000は静岡県と石川県の同時開催、つまり我が石川県では初開催となった。
石川県でこのようなレイヴが開催されるなど、本当に考えられないことである。
僕はその年は受験勉強中だったから、さすがに行かなかった。夏は大学受験の天王山とか言うじゃない。知らんけど。
勉強をしながら、FMラジオで中継を聴いていた。
その時に流れてきたのがこのケン・イシイの『Extra』だった。
身震いがした。
何だこのすごい曲は。凄い。スゴい曲だ。
テクノの世界では、音がすべてだ。
名も知れぬアーティストの名も知れぬトラックをDJスキルで巧みに料理して客を踊らせることが、至高のステータスだ。
そんな世界の中では、ケン・イシイは「テクノ屋ケンちゃん」と揶揄する人もいたくらい、テクノアーティストっぽくない「スター」だった。
僕の初めての生テクノ体験もケン・イシイである。
金沢の、音楽ホールではないどこか。
何か美術関係のイベントだっただろうか。
壇上でケン・イシイがプレイし、客は席に座って見るという微妙なシチュエーションだった。
しかし、後ろを向いてレコードを取り出す仕草、取り出したレコードをわざとくるくると回してターンテーブルに乗せる仕草、片耳でモニタリングをしながら行う頭出しの仕草、必要なのかどうかわからないツマミを絶えず調整し続ける仕草、ケン・イシイの所作はいちいちカッコよかった。
レコードを回すこと、それ自体がアーティスティックだった。
僕にとっては、本当に、Extraな存在であったのである。
https://open.spotify.com/track/1eth9TJiZlJmfmeBjazMEF?si=J23InWtOS7yRs9bPLxAqMQ
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