求めよ、さらば与えられん

僕が昔いた宗教法人の担当部署には、各種宗教団体から機関誌が送付されてきていた。

「教祖様の教えを守り家内安全」のようなシンプルな教義勉強コーナーもあるし、「何某教会で出会った二人は意気投合し」みたいな「私たち結婚しました」コーナーみたいなのもある。たまに、「この水でガンが治りました」とかもある。

投稿コーナーもよくあるスタイルだ。

ある日、とある宗教団体の機関誌を読んでいると、中学生くらいの女の子の投稿が掲載されていた。

「学校で友達もできずいじめられていましたが、道場に通い出してから、学校でも友達ができていじめられなくなりました」という体験談だった。

そうだな。

その宗教の力はさておいて、この子自身が、他人の声を聞こう、信じようという態度を持ったことが大きいのではないだろうか。

昨年末、少し話題を呼んだnoteがある。

本筋とは少しずれる部分だが、とても腑に落ちた箇所を引用する。

宗教の役割とはなにか。
それは「人間の弱さ」を前提とした社会を創ることにある。
私は、宗教者とは「完成された強い人間」ではなく、「神仏に頼らないと生きていけない人間であることを正直に認めた者」だと考える。

僕は特別の信仰を持っていない。

しかし、信じられる家族や友人がいて、信じられる言葉や音楽がある。

僕がなぜそういった多くの信じられるものに出会えたかと考えれば、自分が弱い人間であることを自覚し、自白し、頼れるものを探してきたからだろう。

人生の中では、歯を食いしばって耐えることもあるだろうし、それは見る者を勇気づける。

だが、弱さを表明することも、同じくらい見る者を励ますものだ。

耳を澄ませば聴こえてくる言葉は多く、助けを求めれば助けてくれる人は多い。

自分が強いか弱いかなど、誰も気にしていない。気にしているのは自分だけなのだ。

僕には個性がない。多くの信じられるものを成分として構成されている。

それは依存なのかもしれないし、ひょっとしたら信仰なのかもしれない。

でも、君にはそんなことはどうだっていいだろう?

求めよ、さらば与えられん。

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