こいつは高校野球好き ー僕の自動車学校ー

「ほらー、また落ちたー。」

「遠く見て。遠く。」

「あー、また落ちたー。」

男は執拗にダメ出しを続けてくる。

不愉快である。

初めて会ったオッサンに、なぜこれほどまでに罵倒されなくてはならないのか。

僕は苛立ちながら、それでも真面目にやっていた。汗をタラタラと流しながら、真面目にやっていたのだ。

それは大学2年生の、ある初夏の日。自動車学校の初めての実技教習でのことだった。

これまでは楽勝だった。

「理由もなく悲しくなることがある。」

「時々死にたいと思うことがある。」

入校間もない頃に受けたチェックテストは、こんなん免許取りに来た人間が選ぶわけないやろ、と思う愚問ばかり。

続いて始まった学科教習は、僕のような受験秀才の得意とするところだ。ただ憶えればよい。そして、自動車学校で求められているのは、とにかく「調子に乗らないこと」だ。

手元の押しボタンで質問に答える。

「事故現場ではタバコを吸ってはいけない。」

「視界の悪い場所では、仮に同乗者に勧められても、追い越しをしてはいけない。」

「追い越しを繰り返しても、目的地への到着時間はさほど変わらない。」

質問内容を吟味する必要はない。選択肢の中から軽率な臭いがするものをデリートしていく。一番誠実な選択肢を選べばよい。

ひっかけに来ているようなら、一番意外性のある選択肢が正解だ。「この中で一人だけ50代がいます」と写真が並んでいる場合、一番若そうな人が正解となる。

若干苦戦したのはシミュレータである。シミュレータとは仮想運転機のこと。運転席を模した筐体に座り、モニターの映像を見ながら運転操作を練習するものだ。これが随分とプリミティブな代物だった。

この年表を参照しても、1999年当時のシミュレータはごく初期の段階にあったと言えよう。

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三菱プレシジョン株式会社ホームページより)

90年代にゲームセンターで大ヒットした『バーチャレーシング』というゲームがある。

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当時若者たちが熱中したこのゲームのリアリティも、もちろん現実には程遠いものではあった。

しかし、件のシミュレータはこれに遠く及ばぬ、およそバーチャル感に乏しい逸品であった。

「ドン!!」(前の車が急停止したので衝突する)

教官「どうして止まらなかったの?タクシーだよこの車。上にランプ付いてるでしょ?」

いやいやいや。タクシーに見えないだろ。

「ドン!!」(脇道から飛び出してきた人をはねる)

教官「よく見てないと。停まってる車の間から人が出てくる場合があるって習ったでしょ?」

いやいやいや。見えないだろ、この画質で。

それに相手は僕が来るのを待ち構えていて、ここぞと飛び込んでくるわけだよね?もはや自爆テロだよね?文明の衝突は避けられないよね?

一筋縄ではいかないシミュレータであったが、しかしそこは幼少よりファミリーコンピュータで鍛えた圧倒的なゲームセンスで乗り切った。デジタルネイティブの本領発揮だ。

いよいよ実技教習。遊びは終わった。

予約を取り、狼たちが集うサーキットに向かう。排気ガスの香りがしている。

そこには僕の相棒として、実に中年らしい中年男性が待っていた。名前は憶えていないが、吉田吉男のような量産型ザクである。

「あ、どうも、よろしくお願いします…。」

僕は軽く会釈をした。騎士道精神だ。

返事をしたのかしなかったのか。男は極めて事務的に車に乗り込んだ。

そこからが冒頭の罵詈雑言だ。

迷走、路肩に転落、エンスト、迷走、路肩に転落、迷走、エンスト、エンスト、路肩に。

難しいのだ、マニュアル車は。俺はオートマじゃない。It's not automatic.

オートマ限定など、免許ではない。

例えば一本道で君の後ろからゴロゴロと巨大な岩石が転がってきたとしよう。

君は大切な人の手を取って逃げる。恋人でも、家族でもいい。別に犬でも猫でもいい。

岩石は段々とスピードを上げて迫ってくる。もう体力も限界だ。

そんな時、目の前に一台の車があった。よかった。こいつでブッ飛ばせば、逃げられる。

いざ車に乗り込んでみると、しかしこれがマニュアル車だった。

あー、俺の免許、オートマ限定やった。

ここでジ・エンドである。お前の人生。

だから日本のインディ・ジョーンズ、ランボー怒りのアフガンはマニュアル免許を取らなくてはならない。

耐えろ。耐えるのだ。この野性が近代文明にフィットするまで。「今に見ておれ」の精神だ。

エンストの沈黙。吉田吉男の溜息。

それから一か月、自動車学校に行かなかった。

部族の誇り高き戦士は尊厳を選んだのだ。

ああ、世界は平和だなあ。蝶よ花よ。風よ水よ人よ。愛よ愛よ。

「最近、会いませんねっ。」

ふいに声をかけられたのは、大学のキャンパスでのことだ。

そういうあなたは橋村さん(仮称)。自動車学校で知り合った、学部の一個下の女の子。ということは今年40歳になるのか。

まあいい。

橋村さんは不思議な子だった。ファッションはクールなストリート系だが、話す時はいつもほっこりニコニコと菩薩のように微笑んでいた。

キャンパスで一緒にいる仲間はどう見てもウェーイ系。僕はそういう手合いは苦手なので、遠くから挨拶すると、橋村さんは一人トコトコと話しに来るのだった。

「いや、なんかめんどくさくって。」

「ええーっ、行きましょうよおー。」

「また行くよ。うん。また行く。」

約束してしまった。守らねばならない。部族の誇りにかけて。

そうだ。自動車学校の教官も、僕のような才気溢れる若者が調子に乗らないよう、心を鬼にしてあのような態度を取っているのだ。仕事だからね。彼も大変だ。それに教官は彼だけではない。もう少し優しい人もいるだろう。よし行こう。また行こう。

一か月後、二度目の実技教習で僕を待っていたのは、またも吉田吉男also known asミスター融通無碍だった。

この間、ただサボっていたのに腕が上達するわけがない。

またも迷走、路肩に転落、エンスト、迷走、路肩に転落、迷走、エンスト、エンスト、路肩に。

もうダメだ。世界は残酷だ。神はいないのか。

「小松高校惜しかったねえ。」

吉田は唐突に高校野球の話をした。季節は既に真夏を迎えていた。

(こいつは高校野球好き…!)

僕はほとんど野球に興味はないが、この年は母校が珍しく甲子園出場を果たした年であった。1回戦で隣県富山の新湊高校と当たるという残念なカードで、しかも先行してからの逆転負けという寂しい結果ではあったが。

「母校なんですよ!甲子園まで見に行きました!」

それから会話が盛り上がり、彼は上機嫌になった。すると僕の緊張もほぐれ運転もうまくできた。

以降、僕は高校野球を欠かさずチェックし、教習で彼に当たる時はさりげなく話題を出して機嫌を取った。彼との関係はみるみる改善していった。

ただ、仮免許試験の際、前の車に続いて一旦停止を無視して検定中止になった時は苦言を呈された。

「どうして止まらなかったの?人がいたら大怪我してたよ?」

「いえ、前の車が行ったので…。」

「前の車が行ったら行っちゃうの?」

出たよ、大人の得意な「山田が死んだらお前も死ぬんか?」論法。

別に山田が死んでも俺は死なねえよ。山田もやってるのにどうして俺だけ怒られるんだっていう、アンフェアへの異議申立てをしてるのよ。

仮免は二度目で合格した。その後路上教習に進んでも彼が担当になることが多く、終盤にはすっかり兄貴のような存在になっていた。

「まだ早いよ。」

僕は曲がるべき交差点に差しかかる100メートル以上前でウインカーに手をかける癖があった。野良で生きていた時の警戒心が残っているのだ。

どん臭い僕であったが、彼が隣にいると非常に頼もしく、苦節1年、修学期間ギリギリまでかかって卒業することができた。

今思えば、彼は僕の緊張をほぐすために申込書か何かで母校をチェックした上で高校野球の話題を振ってきたのだろうか。まさかね。

おかげさまで今でも無事故無違反のゴールド免許。両足を骨折して車を廃車にするアクシデントはあったが、あれは時速100キロでブレーキを踏まずにガードレールに突っ込んだだけ。単なる自損事故。駐車場で擦るやつのすごいバージョンだ。

3か月の入院中、警官が3回ほど事情聴取に来たが「現場にブレーキ痕がないので何キロ出てたかわからんのですわ」と悔しがっていた。あの、せいぜい60キロかなと…。

吉田吉男は高校野球好きだったので、僕はこれを巧みに利用した。大学の授業でも、学力が及ばない場合は積極的に教官と仲良くなって当落線上スレスレで単位を取っていった。こういうやり口は「コネ作戦」だと言われ、一部の友人に非難された。

しかし、実力がない人間は、機嫌よく、明るくやるくらいしか能がないではないか。許してくれよ、そのくらい。

さて、自動車学校の思い出はこれで終わりだ。橋村さんは何の伏線もなくさっさと卒業した。なんというムダな長文だったのか。

最後に一つだけレクチャーをしよう。

車の免許は、自動車学校に行かなくても取れる。

知っていただろうか?

僕は大人になるまで知らなかった。東京に来て出会った同僚がその経験者だった。

「お金もったいなかったけん。」

実家がアパートだという彼は、そう言った。自動車学校を卒業していれば、実技試験を免除されるが、要するに本番で合格すればいいだけ。彼は友達に車を借りて練習し、無事試験をパスした。

これだけ憶えていただければ、あとはこの運転免許の話から得るものはない。

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