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金さえ払えばそれでいい、のか

同僚の先生がため息をついていた。

ある時の授業の終わりに、学生に、「こういう時は、ありがとうございました、と言ったらいいよ」と教えたんですよ。そしたら次の授業の時にその学生がやってきて、こう言うんですね。「先生、家に帰ってお母さんに聞いたら、授業料を払っているんだからお礼をする必要はない、って言ってました」と。

よくある話ではある。お店で食事をした時に「ごちそうさま」と言うかどうか。電車やバスに乗った時に「ありがとうございました」と言うかどうか。

対価を支払えば商取引は成立し、両者の要求が満足するのだから、双方に感謝を述べるべき理屈は生じない。それがこの学生(の母親)の考え方だ。

他方、こんなことをわざわざテーマにしているのだから、もちろん私は「言う」派である。理由は、一つ、商取引が成立すること自体が奇跡だから、一つ、相手は人間だから、である。説明してみよう。

一、商取引が成立すること自体が奇跡

たとえばあなたがカラヤンの指揮が好きだとして、いくらお金を積んでも、故人であるカラヤンが振るコンサートに行くことはできない。その人と同じ時代に生きているということが、その時点でまず有り難いことなのである。食べ物はどうだろうか。好きだったのに閉店してしまったお店。自分はいつも買っていたのにコンビニから消えてしまったドリンク。私も「びっくりラーメン」の180円ラーメンをもう一度食べたいと思うが、会社が倒産してしまったから二度と叶わない。透明なコーラ『タブクリア』は好きだったが、秒で消えた。食べ物は、それを作る人がいて、あるいは作る工場があって、初めてできる。

現存している商品であっても、小さな村などに行けば、いくらお金を持っていても買える場所がない場合もある。私の出身地、石川県ではバスに乗ったら運転手さんに「ありがとう」と言う習慣があるが、地方は公共交通機関がまさに生命線なので、このような習慣が生まれたのではないだろうか。

お金は物やサービスの対価に過ぎず、それが得られる機会は無制限ではない。供給者と消費者は一対一の関係ではなく、より大きな枠組みの中にいる。その中で一つの商品やサービスに出会えたことは、奇跡と言う他ない。

一、相手は人間である

あなたは何の仕事をしているだろうか。アルバイトでもいい。誰もが望む仕事に就けるわけではないが、多かれ少なかれ希望する分野や職種で働いているのではないだろうか。もらえる給料の額だけが職業選択の基準ではないはずだ。自分が選んだ仕事で、物やサービスの相手方から感謝されることは、自己肯定感や自尊心の充足につながるのではないだろうか。人間は、単に役割を果たすための交換可能な機械ではない。冒頭の学生は、判断の基準を母親に委ねている。母親から「お前は子供だ」としか扱われていないのではないだろうか、という一抹の寂しさを感じるが、それでもなお先生とコミュニケーションを図ろうとしていることは希望にも思える。

作家の鈴木涼美さんが、著書『娼婦の本棚』で、ある友人のエピソードを紹介している。その友人は、経済力のある男性と不倫をしていながら、食事や旅行に必要な費用は自分の分を必ず負担していたという。引用したい。

 ある時そんな話をしてくれた彼女に、相手から金銭的援助の申し入れはなかったのか、あったとしたらなぜそこまで頑なに受け取らないのか、聞いてみたことがあります。確かに彼女自身はお金に困っていたわけでもないし、何か特別お金のかかる趣味があったわけでもないのですが、お金持ちの相手からタクシー代まで拒否する態度は何かしら強い思想に支えられている気がしたからです。
「男はお金と一緒に罪悪感を放棄するから」
 というのが彼女の答えでした。 両者の間にある種の不均衡があるとして、それがどれだけ残酷なことか、お金を払った時点で男は考えるのをやめてしまう。悪い遊びをするのでも、 誰かを裏切るのでも、美味い汁を吸うのでも、男の行動を否定はしないけど、そこに生じる罪悪感を幾ばくかのお金で捨て去らず、ちゃんと罪悪感を抱いて帰っていってほしい、だからそれを誤魔化すお金は一切受け取らない。そう考える彼女は性愛とお金の奇妙な関係を言い当てているように思いました。女の方からしても、お金を受け取ってあげるという行為は、 相手が自分について想像力を持たないことを許す行為だとも思うのです。

これは商取引ではなく男女の人間関係の話で、しかもお金を受け取っていないので、今回のテーマに直接当てはまるとは言えないかもしれない。しかし、我々は様々な背景や事情を持ちながらそれぞれに暮らしている。お金を払うことで、その想像力を放棄してはいないか、相手が一人の人間である、ということは常に忘れてはいけないのではないだろうか。

そして、単純な話を言えば、感謝されると嬉しいからだ。私は大学生の頃、うどん屋でアルバイトをしていたが、お客さんに「ごちそうさま」と言われると、とても嬉しかった。

「私は別に人を喜ばせるために生きていないので」ということであれば、この話はこれで終わってしまうのだが、えーと、気分のいい人がたくさんいる世の中の方が、楽しくないだろうか。


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