見出し画像

ささやかな「世界平和」

「ささやか」

その、四文字がとても、大切だと思った。
「ささやかさ」は遠慮がちな行動なんだ。 

私は「世界平和」と疑うことなく言える人をすごいなーと尊敬する反面、どこかで嘲笑していた。
私にとって「世界平和」は、大きすぎてイメージが追い付かなかったから。

でも、今はもしかしたら出来るかもしれないと思っている。


「手の届く範囲の世界が平和なら、世界が平和なんだ」 


この言葉に出会ってから、私は「世界平和」が身近になり、「ささやかな平和」なら目指せると思ったからだ。 


ニュースに映る世界のどこかの紛争に巻き込まれた家族のドキュメントを見て心痛めても、テレビの隅に表示された時計が目に入った瞬間、「もう、こんな時間か…。お腹空いてきたかも。何、食べようかな…」と、涙した10秒後には今夜の夕飯のことを考えている。 

手の届かない平和は、実感しにくいものだ。 

しかし、その紛争のことが気になって、手を伸ばす人もいる。現地に思いを馳せ、支援金の呼びかけに賛同したり、現地まで行って自分の命を削ってでも、遠く離れた知らない人に手をさしのべたりする人たち。そこに反応して身体が動いてしまう人のは、きっと、その人のDNA、使命感が反応しているのではないかと思う。
例えが軽いが、学校や職場の鉢植えの花が元気がないからと水をあげられる人と目の前で枯れていても気づかない人がいるのと同じこと。気になることは人それぞれ違う。ちなみに私は、植物の声が聞こえず、残念なことになるので、植物のためにも育てないと決めている。

しかし、そこに良し悪しはない。

感情に素直に行動出来る人がいて、それぞれが気になることを行うことが、ささやかでも社会を回し、世界を優しくしてくれているのかもしれない。 

「世界平和のために何をするのか」なんて意識しなくても目の前のモノ、ヒトにしている「ささやかさ」の先に「平和」や「幸せ」の種があるのだと思う。

生まれた環境がどうとか、生きていく中で何を選択するかとか、そこには正解も良し悪しもない。自分がある場所で、ささやかでも行ったこと、「小さくても貢献出来ている」「誰かの役に立っている」実感が生きる喜びになるんだと思う。 

しかし、人によって、「平和」や「幸せ」の基準が違うからややこしい。自分が感じているはずの「平和」や「幸せ」に気づかず、同僚やSNSの中にいる他人と比較してるし、家族や、身近な他人の中に自分を投影する私もいる。
あの人の幸せが私の幸せだって、自分が我慢する中で喜びを見出だすことで今の現状に折り合いをつけたくなる。そうしないと自分を保てない時が私はあった。

そして、自分の「平和」、「幸せ」を見つけようと自分以外と対比する。特にSNSの「いいね」のような評価目に見える反応は分かりやすいから、そこにつながりはを求めてしまう。それが悪いことだとは思ってない。そうすることで他者や世の中の考えていることに気づけて自分を戒められることもあるから。世の中の基準が作られ広がることで、多様性を認めるような文化も一気に進んだ。当たり前だと思っていたことを考え直すためには「基準」は必要だと思う。

その「基準」の一つがお金だ。お金という世界の共通の仕組みがあるから、みんなで良いモノやサービスを作った対価がわかりやすくなった。世の中の共通の「基準」は世界の人々を安心に導いている。
お金で世界中の商品、サービスが選べるようになった。その反面、選ばれない人がいる。お互い選んでもらおうと、次々と「こんなものが欲しい」を作り続ける。その競争は、世の中をどんどん良くしてくれた。現にインターネットのような軍事目的で作られた技術が文明を一気に進めた。(※軍事目的ではなく通信技術の実用化のためにアメリカの国防省が研究したとの話もある)
レーベル平和賞のノーベルはダイナマイトは「永遠に戦争が起きないようにするために、驚異的な抑止力を持った物質か機械を発明したい」「敵と味方が、たった一秒間で、完全に相手を破壊できるような時代が到来すれば……」「すべての文明国は、脅威のあまり戦争を放棄し、軍隊を解散させるだろう」と世界の国に売り込んだがそうはならずにその後悔を込めてノーベル賞を作った。皮肉なことだが、便利さの裏には人間の浅はかな欲がある。

争う、競うという人間の「欲」で世の中の不便が日に日に解消され良くなくっていく。

日常の手間や時間が縮小され、便利になればなるほど、生活の水準は上がっている。家事や事務処理は驚くほど進歩し楽になった。昭和を知る私にとって、今の時代は完全にSFみたいだ。腕時計は電話になり、そこで世界中の人とコミュニケーションを取り、健康管理までしてくれる。 

しかし、そんな文明の利器に取り残される人もいるのも事実で、その人たちをデジタル難民と名付けて、悲観している人もいる。

でも、その人たちが本当に不幸せか?って言ったらそんなことはないのかもしれない。 

「知らない幸せ」

「手間をかけられる幸せ」

それは他には変えられないものだ。
だって、知ってしまった時点でそことの比較になってしまう。「知らぬが仏」は生きる知恵。
知らないって、めちゃくちゃ贅沢なのかもしれない。

そして、知った上で、文明を選ばずに手の届く範囲の知恵で物事を解決していく喜び、材料や道具と対話しながら仕事や家事が出来る人の幸せは、きっと、どこにいても、どんな状態でもささやかな喜びを見いだせる稀有な人なんだろうなって想像する。(山の中の仙人みたいな人をイメージしている)


物質やお金では変えられない
「ささやかな幸せ」 

そこにある「ささやかさ」って、
きっと、世界につながってるって思う。 

「世界平和」は目指さなくてもいい。 

自分の手の届く範囲の「世界平和」を継続していく姿勢が、世の中で言う「世界平和」につながり、身近にしていくのだと思う。

「ささやかさ」は
謙遜してながら、やったことを信じていること。
大きい小さいとかなく、
自分のやっている事を威張らず、
信じられる状態なんだ。

とりとめのない言葉をツラツラと並べてしまったが、これが私の「ささやかな」な喜びである。

この記事が気に入ったらサポートをしてみませんか?