正統性は、子どもがわの理屈で紐解くー発達154号から

発達の154号・・・・もう2018年のものだけど、今読んでいて

その中の溝口さんの記事で、考えさせられる言葉が目に飛び込んでくる。

それは、暮らしの正統性という言葉で、簡単に言うと、食べるためという目的の目的のために包丁を使い、野菜の皮を剥くという行為があるということ。

園で行われる行事や文化を学ぶときに、それがイミテーション、つまり必要としての行為でないとあまり意味がない、という趣旨です。

たしかに、ウッディキッズでは(行ったことはないが)、そのひの昼食に必要な食材と調理を自然とこどもたちが参加している(ようだ)。そうでなければお腹が空くし、ならねばならないものとしてある。

しかも誰も強制しない。生活の中に位置付き、そこの中にあるからこそ、自然とやってみたくなる。

すごいなあと一見して思うのだが、では自園ではどうかと視点を変えると、全ての物事をイミテーションから正統性として担保するのはまず無理だろう、という観念に襲われる。

給食や弁当を、明日から自給自足にします、というのはまず無理だし、幼稚園という性格から法令上も無理だ。しかも、園児の人数が多く、食べる食数を確保するのは、まず無理だろう。

でも、もっと違う視点でかんがえてみる。子どもにとっての正統性ーつまり、必要だからやる、あるいはやりたいからやる、という心情にフォーカスしてみる。

大人側の、園側の理屈としては、この行事や文化を体験させたいという正統性…いや理屈性はあるのだが、子どもにとってはどうだろうか。そこに正統性はあるのだろうか。

とも考えてしまう。

もっと、子どもがわの理屈として、やりたいからから、やってみたいからやる、ということにもっとこだわってもいい・・・いや、こだわる必要があるような気がする。

溝口さんの言葉から、そんなことを感じさせられた。

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