こよみさんは、身体ごと振り向く。

中川龍太郎監督作品「静かな雨」を観終えた。原作は「羊と鋼の森」で有名な宮下奈都による珠玉のデビュー小品だ。

2019年6月5日に初めて告知されてから1年と2ヶ月経った。やっと観ることができて率直に嬉しい。大袈裟だが、この映画を観るまでは死ねないと思っていた。
原作を繰り返し読み、映画が公開されてからはサウンドトラックと予告篇を幾度となく“聴き”、この断片の先にどんなに美しい世界があるのか切望していた。Sars-Cov-2のパンデミックと一身上の都合で、劇場で観ることは叶わなかったが1年の時を経て今観終えた。その過程で親友が先に観て紡いだ言葉とやりとりした記憶は映画と同じくらい美しい想い出になっている。

この映画には、空気の温度がある。

冬の夜の駐車場の空気
朝焼けの冷え切った空気
絶望の雨に降られた凍えるような空気
朝起きた時、部屋に誰かがいるぬくもり

映像のすべてに温度があり、それが移ろいでゆく。

中川監督の前作、「四月の永い夢」は既に何度か観ているがそれとは全く異なっていた。監督はインタビューでカルト映画を目指すと語っていたが、この映画は間違いなく万人受けするものではなく、とてもパーソナルな作品だ。
会ったこともない誰かが創った、観たこともない景色に自分が個人的に体験した空気感や温度を感じたのは今泉力哉監督の「アイネクライネナハトムジーク」以来だ。厳密にいうと、「アイネクライネナハトムジーク」は懐かしさを感じたのであり、「静かな雨」は身体の記憶が鮮明に呼び覚まされたので質が異なる。

劇中繰り返し、モチーフとして語られる記憶。
脳が忘れても身体が覚えている記憶が劇中の重要なモチーフだが、
映画の中に留まらず、受け手である私の身体が過去に感じた空気の温度まで引き出したのは驚嘆に値する。

私にとってのそれは、生まれ育った地でも仕事で働いた地でもなく、大学生の頃に感じた温度だった。マイペースでありながらも真摯なでんでん演じる教授は、恩師を思わせた。

「行さんの眼の色が好きだったんだ。」で提示された言葉のモチーフは、劇中末期に再び奏でられる。これは、音楽でいうところのソナタ形式だ。原作者の宮下奈都は音楽に造詣が深いらしく文章が実に音楽的色彩を帯びていると思うが、それを映像作家として中川龍太郎は応えたのである。

何故、これほど迄に観たがっていたかというと主演の一人、衛藤美彩の大ファンだからである。美しい容姿だけでなく人としての価値観や生き様に惚れ込んでいるからとも言える。ファーストカットでは、あゝ美彩先輩だと思ったが声色を聴くうちにこの人はこよみさんだと感じるようになった。彼女は声色の表現力が多彩である。

劇中酒屋さんに張り付くこよみさんが、行助に声をかけられて振り向くシーンがある。その時彼女は、首を回して顔だけ振り向くのではなく、身体ごと振り向いたのだ。衣装のマフラーのせいかもしれないが、全編を通して所作の上品さがあったように思う。

仲野太賀演じる行助が履いていたニューバランスの靴は、賀喜遥香が「猿に会う」で履いていたのと同じようにみえた。ユキスケは、ともするとアニメの主人公のように何処か軽薄で、受け手の欲望を反映したキャラクターになってもおかしくない背景と立ち位置を持つ人物だ。これだけ、実在感をもって生きた人間として演じきった力量には最大の称賛を送りたい。彼の卓越した演技と誠実さがなければ、この作品はもっと独善的で気持ちの悪い欲望の掃き溜めになっていたかもしれない。

彼の脚を引きずる音が今も聴こえるような気がする。
行助とこよみは、今もこの世界の片隅に生きているのだ。

非常に読みづらい文章になったが、モノローグとして聴いてくださると嬉しい。

未見の読者には、ぜひあなただけのパーソナルな体験を再発見してほしい。

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